表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銃のある風景  作者: MENSA
1/6

第一章

第一章

 

     1

 

 残りの寿命があとわずかだと訴えんばかりに、ただでさえ発光の弱い蛍光灯が具合の悪い点灯をつづけていた。草臥れのすすんだ、グリス油くさい室内。田舎の零細工場というのは、いつだって必死さが表れたように煤けた風景が拡がっている。

「おい、今日は、何時まで残っていくつもりなんだ?」

 入口から社長が怒鳴りつけるように言う。足立則昭。小春の実の叔父だ。東京生まれでもないのに、江戸っ子のような強い口調と、勝ち気な態度でいつも高圧的に接してくる。

それは外向きでも同じだったから、わずかに六名しかいない従業員の内の営業担当である、大黒にはいつも打ち合わせという場面で助けられていた。

「あと、二時間ぐらい待って下さい」と、小春は言って、パソコン画面をにらんだまま、考え込んだ。「いえ、ちょっと待って下さい。二時間じゃつかないかもしれません」

「そんなに長くいてもらっても困る」と、やっかむように彼は言った。「電気代だって馬鹿にならねえんだよ。終わるときはさっと、終わる。そういうつもりでいてくれねえと、こっちは困るんだ」

 ぶつくさ言いながら、彼はシャッターを半分下ろして、去っていった。邪慳な印象ばかりがあるのは、これまでにねぎらう言葉など発したことがないことからもよく分かることである。彼は、人付き合いという面では、決して妥協を許すようなことはしない男なのだ。

 小春はモニター画面に再び食い入る。小さな機械部品の3Dソリッドモデル図面。受注品である印刷図面から、小春が立体的に起こしたものだ。機能的な線が奥行のある絵図の中で立体模型をかたどっている。突起部分につながるくびれの調整について、いま最終調整に入っていたのだったが、この詰めの作業がくせものだった。

 熱溶解積層方式3Dプリンター、Mars LT38-5000/3J――

 この機器が一介の零細企業でしかない、足立金属に導入されたのは、いまから三年前のことだ。これまでは圧延された金属板金から規定の形に剪断するシャーリング業を中心に工場は回転していたが、お得意先の建材用向けの受注低調を受け、新たな実入りを確保できる分野を開拓しなければいけなくなった。行き詰まった則昭がいつもの営業先に相談したところ、3Dプリンターが熱烈に紹介され、買わざるを得ない流れとなってしまった。

 機器自体は、七十万弱とそう値は張らないことから、いわゆる設備投資は痛手ではなかったが、しかし当初は使い道がまるで分からず、ほとんど収入の足しにはならなかった。 が、利便性に優れているそれが、工場の新たな展望に一役を買わないはずがなかった。やがて機械部品が作り出され、それでもって単一製品による大量生産に乗り出すこととなる。地味ながらも、すぐさま軌道に乗った。そして、3Dプリンターによる多角的な事業展開が、今後の生き残り策の最重要テーマとのし上がることとなった。

 しかしながら、足立金属には3Dモデラーがいなかった。受注先から見返り付きで受けたデータを元に成型するやり口は、単独でやるよりも、随分と割を食うために、展開を拡げていくのに限界があった。

 そこで当時、大学生であった小春に白羽の矢が立つこととなる。

 小春は、工学部に出入りする、工業デザイナー志望だった。四回生で、東京のエレクトロニクス系企業を中心に就職活動をしている真っ最中だったため、叔父からの要請は、妙な縁を感じさせるものがあった。応じるまでには時間が掛かったが、最終的には納得して入社を決めた。

 承諾にあたって、懸念点がないわけではなかった。則昭は、いってみれば気むずかし屋だ。だから、上手くやっていけないかもしれないという不和の問題が第一にあった。それに会社は企業区分でいう、最下層に位置づけられる零細企業だ。将来性の問題ということもあった。

 しかし、それにしても3Dプリンターを導入したという事実は大きかった。旧来の路線から脱し、新しい展開に挑んでいこうとする則昭の意気は、小春にとっても同調できる、未来志向というべきものを含んでいる。

 ――この工場には、跡取りがいねえからよ。お前さんが有能なら、くれてやってもいい。

 承諾についての話し合いがあったその日、則昭はそうとまで口にした。これが最終的に決定打になったのは、いうまでもない。工場という財産を自分のものにできるという欲得が働いたのではない。則昭の自分に対する期待と、新しい事業展開への覚悟を悟ったからだった。こうまで言われては、自分も力になってやるという気持ちが湧いてこないはずがなかった。決めたら、そちらの道にとことん突き進んでやろうという心構えになった。

 勤めてから二年と、三ヶ月。

 仕事のサイクルを把握し、いまはもう、自分の仕事だけに専念すればそれでいいというだけの、気楽な立ち位置となっていた。もちろん、専門の3Dモデリングについては、解決できない問題が山とあったのだが、それでも精神的に苦痛というものは一切ない環境にいた。

 従業員との付き合いも、悪くはなかった。ほとんどが、お嬢さん、と親しみのある呼び掛けで語りかけてくる。当初は、名前で呼んで欲しいという要請をしていたのだったが、どれほど注意したところで、その流れを変えることはできなかった。とくに、鵜飼という背の高い、やせっぽちな男からは、お嬢さんという呼称がお気に入りにされていた。女気のない、孤独そうな老年の男だ。事実、私生活でも独り身でいる。日常の楽しみさえとくにこれといってなさそうな彼との付き合いのためにも、小春はその呼称を甘んじて受け容れるしかなかった。

 空欄に座標を示す数字を入力し直し、コンストラクト・ボタンを押す。すると、ワークスペース内のソリッドが規定の形を表示してくれるどころか、エラーを起こしたようにタッチしていないはずの造形部分まで崩れてしまった。ロフト機能でつなぎ合わしたソリッドに、追加のスケッチが干渉してしまったようだ。

「もうっ、どうしてこうなったりするのよ」

 思わず、誰もいない空間で、吐き捨ててしまう。

 この作業が終わらないことには、帰れない。それだけに、決着が先延ばしにされたこの結果に、落胆と苛立ちを禁じ得なかった。

 いちからやり直さなければいけない、と編集ツールを再度操作したところで、過去のデータに同じようなものがあったはずだと、そちらを参照にしたくなった。すぐさま履歴をさらい、同じ条件の造形データをマウス一つで探していく。半年分の履歴はものの五分で消化。類似のデータはあったが、射出素材が違うため、参考にはならなかった。

 こうなったら、もっと前のものから、見つけてやるわ。

 勢い込んで、保存用のUSBスティックを取りだし、一本ずつ精査していく。その途中、見なれないデータファイルが混じり込んでいるのを一覧から発見した。すぐさまクリックして、それをモニターに映す。

 思わず、ぎょっとした。

 灰色のポリゴンがワークスペース内で形作っているのは、拳銃だった。スライドからトリガー、グリップの滑り止め加工までしっかり造形された、稠密なソリッドモデル。おそらく、強度のある樹脂で製造すれば、しっかりと発射できるものが出来あがるにちがいなかった。いや、中身まで精巧かどうかまでは分からない。いろいろ加工しなければ、銃はそのままでは使えないのかもしれない。そのあたりの事情について、小春にはよく分からなかった。とにかく、過去のデータストックの中に、この銃のデータが混じっていたということが問題であった。

 どうして、これが入っていたの?

 遊びで制作したにしても、作り込みが本格的すぎる。使用目的でデータを作製したと見なさざるを得ない出来であるのは、3Dモデリング業に従事する小春にははっきりと分かる内容であった。

 まさか、販売目的の密造?

 よからぬ予感が過ぎったその時、後ろに人影があるのに気付いて飛び上がりそうなほどに驚いた。

「きゃあ!」

 小春は、身を縮めて短く叫んだ。が、相手は襲い掛かってくるでもない。おそるおそる振り返ると、そこに立っているのは、足立金属のいち従業員である、細貝だった。釣り目の、小春とそう年の差が変わらない若手の男である。ただでさえ無愛想な顔なのに、笑うという感情が顔から抜け落ちているため、つんけんとした印象ばかりが彼にはあるのだった。

「お嬢、何やっているんですか?」彼は短く言った。

「なんでもないですよ……」と、呼吸を整えながら小春は言った。「そんなことより、驚かさないで下さいよ」

「すいませんね」と、彼はとくに謝意を示すわけでもなく、平板に言った。「……社長が、怒っていましたよ。いい加減にしろ、といっておけ、とね」

 ふと、モニターに見られてはならないものが映っていると思いだして慌てて振り返ったのだったが、そこには待ち受け画面が映し出されているだけであった。ショートカットキーで画面を切り替えられるのは、当たり前のように分かっていた。ほとんど反射的に、指が動き、画面を隠すことに成功したようだ。我ながら感心する咄嗟の行動である。

「社長の命にそむくと、いろいろと毒ですよ」と、細貝が目を細めて言う。「もう少し、立場を理解した方がいいのかもしれませんねえ」

「分かりました……気をつけます」

 立ち上がって、彼にぺこりと頭を下げると、彼は納得したようにうなずいて、怪しく微笑んでから去っていった。

 その後、一人取り残されて、一気に虚無が広がった。

 どうしたものかしらと考えつつ、小春はぼんやりと物思いに耽った。

 心臓は、まだいやな具合に騒ぎ立てていた。抑えようとしても、なかなか抑制できない。 銃を見てしまったのだ。一般人の所持など認められないそれは、人殺しの道具というものでしかなかった。それが、データの中に混じり込んでいた。やはり、これは怖ろしいことだった。

 わたしは、あのデータを見なかった。一度も触れることはなかった……。

 いつもの平穏な日常を意識すると、現実逃避の念がふつふつと沸いてくるのを感じた。 何が自分をそうさせたのだろう。魔が差したかのように、次にはほとんど無意識にながらデータを削除してしまっていた。どうやら思い浮かべた念は、単なる願望というだけに留まらなかったようだ。普段から、幸福を意識して過ごしているからだろう。そして、自分がやってしまったことを理解するなり、小春は急に怖い思いに駆られた。

 掛かってきた罪悪感からか、今度は頭痛に苛まれることとなった。それは、思考のすべてを差し止めるほどの強烈な痛みだった。あえなく机に突っ伏し、小春はじっと養生することを余儀なくされた。思っていたよりも、心に掛かった負担が大きかったのかもしれなかった。考えてみれば、銃のデータが存在するというだけで犯罪に抵触することなのだった。平生な精神でいられるはずがない。

 一先ず薬を飲んで見た。が、いつまで休んでも、一向に効き目が下りてこない。ずんずんと頭の奥が痛み続ける。

 その内、投げやりな感情が胸に満ちてくるのを感じ取った。

 すべては明日解決すればいい……消極的な考えが起こったのはほとんど自然のうちに、だった。

 結局、その日は残業を片付けることもしないままに、のろのろと家路に就くこととなった。頭痛は、いつまでも小春の頭にしがみついたまま、離れてくれなかった。

 

     2

 

 金沢市内の特に古い木造住宅が建ち並ぶエリアに、その屋敷はひっそりと佇んでいた。

 六畳間の部屋が三部屋ひと続きに並んだ内の、縁側に面した居間であった。敷居の上に手を掛けるような格好で、壮年の女がうつぶせに倒れている。通報を受けて、石川県警察本部から急遽駆けつけた門脇俊介は、いましがた死体下の血の広がり具合を検分していた。どうやら、大量の血は左肺下部あたりから溢れ出たもののようだ。一方で、背中側には、血痕は認められなかった。

「刺創でなければ、これはなんだ?」

「どうやら、凶器はこれのようです」と、近くに立っていた、背の高い男が答えた。同僚の新開だ。ともに捜査一課、強行犯係に所属している。

 彼が示したのは、実に奇妙極まったものだった。本物の銃に見るような威圧感とは無縁な、プラスティック製の銃であった。どうみても、玩具にしか見えない。

 手製銃(ジツプ・ガン)にしたって殺傷能力をしのばせた兵器としての威圧があるというのに、今回のこれは、まるでそれとは無縁なものだ。正直なところ、鼻で笑ってやりたい安っぽい仕様であった。

 が、よく観察すると、銃口の内側が溶けかかっていることが分かった。これは、内部で火薬が爆発した痕跡に違いなかった。見かけの安っぽさとは裏腹に、危険な代物であると、遅れて悟ることとなった。

「これはもしや、3Dプリンターから、作り出した銃か?」

「そうじゃないか、と思われます」

 それが落ちているのは、縁側と居間を仕切る障子のすぐ傍だった。倒れている女から、一メートルと少々、離れた位置。撃たれた箇所からしても明らかだったが、自殺ではないことは、状況的に明らかであった。

 門脇は鑑識の許可を得てから、すぐさま手袋を装着した手で銃を取り上げ、感触を確かめに掛かった。予想以上に軽かった。排莢口と呼ばれる、銃筒の上部付近に目立った破損が認められた。発射の際の衝撃に耐えられなかった結果だ。罅は、銃筒を支えるフレーム下まで及んでいる。それでも全体の形が維持されているところからして、もし撃とうと思えば、あと一回ぐらいはできるように思われた。

 しっかり検分した後、新開に手渡した。

「やっかいな、事件になりそうだな」と、門脇は死体を見つめながら言った。「3Dプリント銃での殺人は、きっと、これが全国初だろう」

 汎用性が高いだけに、悪用される可能性が高いのは、これまでにも本部内で協議されてきたことだ。さらには、どれほどの精度の銃ができるのかという調査目的で、警視庁が立ち上げた合同チームが3Dプリント銃を単独で制作し、実験してきた履歴があった。そのとき作り出されたものは、すべて殺傷能力があり、強度の面でも一部を除き、基準をクリアしていた。ただ、そのままでは使用できないために、やはり専門技術と知識を持っている人間が仕上げなければいけないという、付加条件がつくこととなった。

「なぜ、今回、このように銃が使用されなければいけなかったのでしょうか?」と、新開が死体を見つめながらぽつりと言う。

「銃を使用した理由ははっきりとしている」と、門脇は何食わぬ顔で言う。「ナイフなどの刃を使ったやり口よりもあっさりと済むからだ」

「思い切りの良さからして、ヤクザとかがやったとか思ったんですが、そうではないんでしょうか……?」

 うつぶせに倒れた婦人の顔を、改めて門脇は眺めやる。年齢は、四十五歳前後。化粧気は薄いのに、凛とした印象があることから、顔立ちの引き締まった美人といってよかった。常に自分の内面を磨くことを怠らないタイプの女性のように思える。

「ヤクザというような臭いはしないな」と、門脇は言った。「むしろ、一般人がやったという傾向が強くあるように思える。あっさり済んだ手口だったというのは、ある種の抵抗とためらいがあったということの裏返しなんだ。だからこそ、素人くさい臭いがここにはあるんだよ」

「抵抗とためらいがあったというのは、つまり、どういうことなのでしょうか?」と、考えもなしに新開は問うてくる。

「分かるだろう?」と、門脇は顔を一度仰向けた。「殺しにきたのではなく、消しにきたということだ。その人物からしてみれば、彼女は消えてもらわなければいけない存在だった。

これは見境のない、強欲を満たすための殺人だ。ところが、いざ殺人行為に踏み切るとなれば抵抗がある。そこで銃にたよる形を取った――そういうことだ」

「なるほど、殺人実行の実感が薄い手口を選んでいるとおっしゃっているのですね」新開はうなずきながら言った。「それで、その強欲の中身についてなんですが、これについては……?」

「それは、分からん。これから調べなくてはならない課題だろう」と、門脇は難なく、彼の問いをかわす。「まず、彼女が殺されることで、もっとも恩恵を受ける人物……そいつを探し出さなければいけない。たぶん、いやでも浮上するはずだろう。金銭、財産的な恩恵、立場的な恩恵……。突き詰めればきりがない。それで出てこないはずがないとは、思えんが」

 ふと、門脇は死体があるすぐ傍の畳縁の窪みに、粉まじりの欠片があるのに気付いた。茶色っぽい、金平糖大のものだ。よく見ると、窪みの中にまだ、いくつかの欠片が引っ込んでいるのが分かった。

「これは、なんだ……?」

「なんか、蝋っぽいですね」と、新開が白手袋の上から指ですくい上げて言う。窪みを上から下まで目で追ってあたりを調べはじめた。「どうやら、それがあるのはそこだけみたいですね」

「かなり細かい粉末まである。一応、写真を取って、遺留資料として回収しなければいけない」

 鑑識の人間を呼び、門脇たちはそうした資料を残さず袋詰めする作業に明け暮れた。刷毛を使用する、かなり神経の細やかな手作業となった。こうしたことは苦手な方であったが、門脇としても発見者の手前、手伝わないわけにはいかなかった。

 一段落ついたところで、けたたましいバイクのエンジン音が近づいてくるのを聞いた。どうやら、近くに止まったようだ。会話が阻まれるほどのアイドリング音が続く。開け放しの障子戸から排気くさい臭いがただよいだしたところで、エンジンが切られた。

「誰か、きたみたいだな」

「息子あたりではないでしょうか」

「ほう、息子がいたんだな。呼び出したのか、職場から」

「いえ、働いていないようですよ。一日中、遊んで歩くというような生活を送っていると、うかがっています」

 縁側からちらっとだけ、バイクから降りたばかりの青年の姿が見えた。鮮やかな金髪に、ガラの悪そうな棘と骸骨プリント生地のTシャツ。首から腰許までに、特定のロックに傾倒した銀細工のアクセサリーをいくつもぶら下げている。しかし青臭さのある男で、チンピラやヤンキーに見るような強面の気配はどこにもなかった。悪に憧れつつも、悪になりきれない青年といったところだ。

 担当の刑事の引率で、中に引き連れられ、彼は惨状を目のあたりにすることとなる。

一瞬目が点になったが、彼の精神まで恐怖に浸されるわけではなかった。瞬きを繰り返すなり、元の気性を取り返した。お仕着せとして彼の精神を案じる声が担当の刑事から掛けられたが、それは必要のないものでしかなかった。       

「お母さんで間違いないだろうか」と、門脇が青年に近付いて言った。

「ああ、間違いない」

 彼は、平常に応じていた。あんたは誰? というような、問いを顔で示している。

「名前は?」

「え?」

「お前さんの名前だよ」

 彼は、ああ、と言ってから、言葉を紡いだ。

「丸藤……丸藤隼斗だよ」

「隼斗くんだね」と、門脇は言う。「お母さんは、ご覧のように大変なことになった。これから我らの本格的な捜査が始まる。君にも、全面協力してもらいたいんだ。もっとも、いま抱えているだろういたましいまでの傷心の気持ちには、配慮しなければいけないところなんだがね」

「おれは……」と、彼は言って、生唾を飲んだ。「大丈夫だよ。協力できるさ。こんなことで、気持ちが小さくなるような男じゃねえ」

「ずいぶんとタフだね」と、門脇は平たく言った。「現場に立ち入った人間はたいてい、そんな反応はしないよ。みんな、泣き喚く、暴れる、ショックで倒れる……そんな具合さ。君は、そんなことはしない男なんだね」

「…………」

「もしや、君は、平素からお母さんを憎んでいたとか、そういうことがあったりしないだろうね。いや、失敬。こんなことを訊くのは、あれだ。それこそがこちらの仕事であるということと、君の態度があまりにもあっさりとし過ぎてね、その事について疑わなければいけないからだよ」

「おれと、母さんは、仲が良くなかったよ……」と、彼はうつぶせに倒れている母の姿をぼんやり見つめながら言った。「それこそ破綻レベルではないが、刑事さんが言うように、憎んでいたのかもしれん……しかし、そういうのは、ここでは相応しくないはずだ。本当のことを言った途端、おれが、疑われることになっちまうだろう……?」

 それから彼ははっとしたように顔を上げて、門脇に突っ掛かるように言った。

「まさか、おれがやったとか、そんなことを次に言い出したりしないよな? これは、単なる形式的な質疑応答ってやつだろ?」

「そう受け取ってもらってけっこうだ」と、門脇は言った。「現時点で君が疑わしいという証拠などは、これといってないからね」

「だったら、その目」と、彼は鋭い声を上げる。「よしてくれよ。完全に疑いが入った目だ。おれは、そういうの分かるんだよ。いつもなにかあれば真っ先に疑われる人生だったからよ。というより、この格好で、判断してもらっては困る。これは、おれのスタイルだ。ただそれだけのことだ」

「君のスタイルは、認めるよ」と、門脇は答える。「そのことで、君を疑ったりはしない。もし、私の目に疑いの色があるというのだったら、それは、君の勘違いというようなものでしかない」

 が、彼はその一言を信用するどころか、むしろ激憤が駆り立てられたように、掴みかかってきた。周囲にいた刑事たちが、彼を押さえこみに掛かる。

「おい、本当のことを言えよ!」と、彼はもみくちゃにされながら声を上げる。「本当は、疑っているんだろ? おれのことを軽蔑した目で見るやつは、だいたい同じ態度を取るから分かっているんだよ。この状況を作ったのはお前だ、そう言いたいんだろ?」

 彼の暴れようは、実に切実さがあった。しかし、刑事たちがそんな彼の抗いに怯むはずもなかった。四肢を駆使した抵抗の動きが次々に封じ込められ、とうとう自由なところがなくなってしまった。

 完全制圧。刑事たちの、怒号だけが続いている。

 押さえこんでいる一人から、門脇に去就を求める目顔が寄越された。門脇はうなずいて返した。

「連れていってくれ。丁重に扱う具合で、だ」と、彼に対して言った。

 隼斗を取り囲む刑事たちは、やがて門脇の前から消えた。それでも、隼斗からの抗議の声だけは単発で響いていた。どれだけ離れても、騒々しい男だ。この分だと、近所の心証もかなり悪いはずだった。 

「どうですかね、彼」と、新開が耳打ちするような距離に迫って問うた。

「ご覧の通りだ」と、門脇は答えた。「一癖も二癖もありそうな、男だ。叩けば、何が出てくるか分からない」

「それでは、あの男が犯人である……という可能性も?」

「そこらあたりは、見ていくまでは何も言うべきではない」と、門脇はあくまで冷静に答える。「とりあえず、材料をそろえなければいけない。話はそれからだよ。現時点で言えるのは、可能性はあるということぐらいか」

 また、廊下の向こうから隼斗の抗議が聞こえた。今度は、ずいぶんと遠くからの声だ。興奮状態のまま、パトカーに乗せられるのかもしれなかった。

「それにしても暑いな」と、門脇は、襟元をくつろげながら言った。

 肌にからみつくような、蒸し暑さだった。自覚は薄かったが、背中は大量に汗を掻いているのかもしれなかった。

「まったくです」と、新開は相槌を打つ。「しかし、この暑さは、まだまだ続くようですよ。一週間は連続して……という、天気になるのかもしれません。予報では、そのように伝えていたはずです」

「うんざりだよ」と、門脇は言って、腕裾をまくった。「暑い日々が続くと、頭の方がまわらなくなってくるからな」

 もう一度屈み込んで、何となしに横たわったままの婦人の死体を見やる。生臭い血の臭いに引かれたのか、蠅が一匹、無軌道に舞っていた。

 沈黙にくれたままの、表情。

 そこはかとない寂しさを湛えているように感じられ、門脇は次第にいたたまれない気持ちになった。

 

     3

 

「あれだけ、口を酸っぱくして言っただろうが」

 出社するなり則昭の罵声が飛んできた。理由は、工場内の電気を消し忘れたことによるものだ。そこは完全に失念していたので、小春としても言い返す言葉がなかった。その後もいやみたらしく続いた叱責に、粛々と聞き入った。どんどん、自分が小さくなっていくようだった。

「社長、もう、そこらへんで勘弁して下さいよ」と、少しして止めに入ったのは、鵜飼だった。作業帽をぎゅっと握りしめ、彼の思いの深さをそこに示していた。

「こいつにはこれぐらい言わんと駄目なんだよ」と、則昭は睨みの目を鵜飼に差し向ける。「節電徹底――これは、ずっと守られているうちの方針だ。お前にもそれが分かっているだろう?」

「お嬢さんは、毎日頑張っています。その姿を見ていますから、わたしにもそのことがよく分かります」と、鵜飼はおどおどした口調で言う。「おそらく、会社一筋の一念でいらっしゃられるはずです。今回のことは、そうした思いが行き過ぎた結果の気の緩みから生まれたもののはずでしょう……」

「なんで会社一筋の精神を持った人間が、気が緩んだ結果、うちの方針を破ることになるんだ。方針を守ってこそ、うちの人間だろうが!」

 鵜飼の顔色が悪くなった。おどおどした動きが、顕著になる。

「努力をお認め下さい……と申し上げたのです。お嬢さんは、ここ数日、頑張りすぎなぐらい、仕事に打ち込んでいます。ですから……」

 膠着は、長らく続いた。

 見ていて息苦しいような、やり取りであった。

 根が折れたのか、けっ、と則昭は吐き捨て、小言めいた悪態をついてから小春の前から消えていった。

 工場前には、則昭と鵜飼が取り残された。

 小春が鵜飼を見ると、なんとなく目が合った。彼は決まり悪そうに、にこっと微笑んだ。

「お嬢さん……社長は、いつもあんな感じですから、お気になさらずに……」

「…………」

 返す言葉に窮して、不意に黙り込んでしまった。ありがとう、と言えばいいのだろうか。叱られたことを止めてもらっただけに、なんだかそれは場違いな言葉のように思われて仕方がない。電気を消さなかったことの非は、自分にあるのだ。

「自分、仕事に戻ります。それじゃ……」

 のそのそとした、ロバのような足取りで、彼は工場へと歩んでいった。中途半端に開いた入口シャッター前にまで進んだところで、「あの」と、小春は声を掛けた。

 彼は、返事もなく振り返っていた。気の弱そうな草食系の目が、小春をぼんやりと捉えている。

 小春は、吐き出すべき言葉が喉元につかえていた。

 それとは、銃のソリッドモデル・データのことだ。なぜ、そうした恐ろしいものが、この零細工場の過去データストック・ストレージに保管されてあったのか。そのことの答えが知りたかった。鵜飼ならば、気兼ねなく聞けそうだったが、実際口にして問う段階にくると、なんだか怯みが大きくなるのだった。

「お嬢さん……?」

 鵜飼は手の中に、作業帽をぎゅっと握りしめていた。くしゃくしゃになった帽子。いつも癖のようにそうしているため、中のゴムが完全に緩んでしまっている。買い換えた回数が全従業員中最も多いと、彼はいつかに自嘲げに語っていた。自ら切り出せる話題が少ないだけに、その話は、何度か繰り返し聞かされていた。

「いえ、……なんでもないです」

 彼の、もの憂そうな目がじっと寄越される。

「お嬢さん……、いいんですか?」

「うん」と、小春は顔を上げて勢いよく答えた。「引き留めて、ごめんなさい。たいしたことじゃなかったんです」

「…………」

 彼は、もどかしそうに小春をながめた後、すごすごと工場内へと入っていった。すでに、他の作業員の点検作業がはじまっていた。自分の担当分が遅れると、全員に迷惑が及ぶため、遅れを取ることはゆるされなかった。

 鵜飼は、工場内ずっと向こうに佇む、自動ガス型切断機に取りかかった。アイトレーサータイプの切断機で、圧延の板金を、曲線を含むさまざまな形に剪断可能であった。ときには、熟練の職人技が必要なので、その機械は、鵜飼にしか動かせない事情があった。

 けっきょく、何も言い出せなかった。

 小春は鵜飼の作業ぶりを遠巻きにながら眺めつつ、ため息を吐いた。いや、こういうことは則昭に直截問うべきことだったのかもしれない。昨晩は、何度も彼に向けて問いかける言葉の数々を頭に浮かべたものだった。どうしても、高圧的な問いになってしまうのは、頑固な彼がおいそれと口を割らないであろうことが、容易く見込まれるからだ。

 しかし、そうした言葉も、いまとなってはただの妄想の範疇に終わることとなった。

 聞けない……。

 あまりに、自分がぶつかっていく問題が大きすぎるように感じられていた。下手をすると、社長逮捕に加え、工場閉鎖というような、最悪の事態まで引き起こしかねない。ここにいる人間たちには、おそらく罪はないはずだ。だから、こうした結果を招くような行為だけは、避けたい気持ちが強くあった。

「なにやら、お悩みの様子ですね」と、背後から声が掛かった。

 振り返ると、緩めのスラックスに縞シャツといった私服姿の男が立っていた。彼は、去年、足立金属を定年退職した、三木という男であった。小春とは実務一年と、短いつきあいであったが、入社前からちょくちょくお世話になっていた男だったので、気心の知れた間柄となっていた。

「三木さん……!」

 思わず呼び掛けるその声に、熱がこもったのはどうしてだろうか。

「お久しぶりですね」と、彼は小春の前に立ち塞がって言った。懐から封筒を抜き出して、小春に差し出してきた。「これ、新たに見つけました、営業先です」

「あ、すいません……社長さんに後でお渡しておきます」

 定年が過ぎても、三木は足立金属のために、一肌脱いでくれる仕事を進んでやってもらっていた。一応、契約社員という形で雇用されてはいるのだったが、小春にとっては今でもベテラン職人という顔が大きくあった。謝礼が少ない分、社員のパーティーに招待するなど、また別の見返りを彼は受け取っていた。

「と、そんな悩み深そうな顔をした、お嬢さんの顔は初めて見ましたよ」と、彼は小春を凝視しつつ言った。「なにか、あったんですか?」

「いえ、その……」

 言葉につまった。

 従業員たちは、機械を動かすのに懸命で、まるでこちらを気に掛けようとする素振りも見せない。彼に話すならいまなのかもしれない。が、やはりリスクを考えると、どうもうまく気が乗ってくれないのだった。

「お嬢さん」と、彼は優しげな手つきで、小春の背に手を当てた。「勤務してから、二年と少しぐらいでしょう? いまぐらいですよ。仕事に対して、倦怠期に入るのは。ですから、そういうのを、ため込むのは良くないですよ」

「いえ、そういうのじゃないんです」

 小春が答えるなり、彼は怪訝そうな面持ちになった。

「というと?」

「いえ……本当に、たいしたことではないことですので……」

「わたしは、嘘を言っている人がどういう顔をするのか、良く知っているんだよ」と、彼は鋭い目つきを差し向けてくる。「いまのお嬢さんなんかは、まさにそんな感じだね。嘘をついている。それも、かなり深刻なことを何とかしなければいけない……というような具合に追いつめられているところから発されている嘘だ」

 三木の目と見つめ合った。

 押されるような、そんな迫力のあるものが感じられた。かなり分は悪かった。

「ここじゃ……言えません」と、小春はうつむいて言った。

 すると、「こっちにきて」と、三木に連れ出されて、裏口のほうに出ていった。近くにプレハブの納屋があり、そこには非常時に出動する機材がいくつも収められていた。

「さあ、ここなら誰もいない。話せるはずだよ」

 三木の顔は、真剣そのものだった。彼自身神経質に尖った気持ちを抑えるためなのか、特徴的にうねった髪を何度も手で梳いていた。

 状況的には、充分だった。

 しかし、やはり心の中には、保身の念が強く存在していた。

「話せないのかい?」と、三木から催促される。接近した分だけ、彼から香る整髪料の臭いが濃くなっている。

 小春はこの時、足下をなんとなく見つめていた。

「過去のデータをあさっていたんです」と、ぼんやりと気味に口を切る。「……そこで、見なれないデータを見つけたんです」

「そのデータというのは……?」

 ずい、と彼の顔がさしせまる。何だか、問い詰められているような気持ちだった。小春は考えを巡らして、

「取引記録にはないデータです……」

 と、答えた。そして少ししてから、「それは、3Dプリンターのデータです」と付け加えた。

「そういうことか」と、彼は背筋を真っ直ぐに立てた。「なるほど、君はこう言いたいわけだ。会社の取引とは関係ない工業製品を作って、私腹を肥やすそのために勝手に売り出している社員がいる、と――」

 その導きは、誤ったものだった。しかし、小春としては彼がそれで納得してもらう方がありがたかった。銃の話題を切り出すのは、やはり危険な行為といえた。だから、あえてうなずきを示した。

「そういうことです、勝手に売り出したかもしれない人がいるんです」

「そのデータはいつのもの?」

 表示されたデータ情報には、日付が記録されてあった。小春はそれを思い出しに掛かった。

「一年と少しぐらい……前ですね」

「あれは、樹脂を溶かして成型するプリンターだ。だから、今日までばれていないということを考えれば、成型分の樹脂については個人で用意したってことになるか。いや、もっと単純なところに、問題があったよ。それとは、3Dモデリングをする技術を持った人間が、君しかいないという点だ」

「そうなんですよね……」と、小春は顎に手を当てて言う。「わたし自身が作ったものではないとなれば、外部から持ち込んだデータとしかいいようがありませんよね。それは、分かっているんですけれど、そうしたデータを持ち込める人って、限られていますよね?」

「社長しかいないな」

 彼ははっきりとした口調で応えた。

 その回答は、小春にも当然だと思う。3Dモデリングによる製品データは、それだけで商品になり得る、値打ちのあるものだ。簡単に手に入れられるものではない上に、仕入れ先がかなり限定されていた。そうした情報先に伝手がある人物について言えば、まず社長の則昭が筆頭にあげられるのはいうまでもなかった。

「でも、社長は、……ちがうと思うんです」

「どうしてそう言うんだい?」

 彼は柔和な顔つきになっていた。小春としても、打ち明けやすい気分になった。

「そういうことをする人じゃないというのが第一ですが、社長さんがこんなことをしても、とくに意味がないように思えるんです」

 小春は説明しながら後ろ暗い気持ちに囚われていった。急に、自信が無くなったのだ。 本当に、則昭はそうしたことに手を出さない人間だろうか。

 もし、出していたとしたら、密造に手をつけていたということになり、単数の販売では済まないことになってくるのかもしれない。その時は、多くの仲間と通じ、癒着の程が深くなっていることが予想される。これは考えるほどに具合が悪くなってくることだった。

「お嬢さん?」と、三木が肩を掴んでくる。「顔色が良くない。大丈夫でしょうか?」

「ええ……、問題ないです」

 つとめて明るく応じたが、彼には通じないことでしかなかった。

「余計なことは考えなくていい」と、彼は言った。「暗いことを考えると、どうしても取り留めのない妄想に膨らんでいくもの。そういうのは、たいていが杞憂で終わることが多いんだ。もっと社長さんのこと、信じてみてもいい。わたしとしても、足立社長はこすっからい真似をするようなそんな人じゃないと思っているよ」

 彼からの笑顔を受けて、幾分、気持ちが軽くなり、長い息が洩れた。

「困ったことがあれば、相談に乗るさ」と、彼は溌剌と言う。「社長には本当にお世話になったし、いまもお世話になっているから、頭が上がらない存在だけれども、でも問題があるとなれば、話は別。この工場にとって、一番良い方法を、外野的な視点で提供しなければいけない。わたしは、そういう立場にあるんだと、自分について、いつもそう自覚しているつもりだ」

「三木さん、ありがとうございます」と、一度小春は礼を告げてから言った。「本当に困った時、相談しようかと思います。お預かりしています携帯番号に掛けてもいいんですよね?」

「もちろんだとも」と、彼は気持ちよく言って、スラックスのポケットから古い機種の携帯を取りだした。「番号は変わっていないんだ。いつでも応じれると思うよ。……なんだか、燃え上がってきたよ。というより、わたしは足立金属にもっと献身的に尽くしたいと思っていたところなんだ」

「三木さんのことは、従業員の皆さんも合わせてみんな信用しています。これまでだって、何度も助けてもらっていて、それこそ申し訳ないと思っているぐらいです」

 彼は笑って、手を大いに振った。

「申し訳ないだなんてとんでもない」と、彼は言う。「むしろ、やらせてもらって済まないという気分だよ。定年になってもね、やっぱり働きたい気持ちがあるんだ。それを持続させてくれるのが、足立金属さ。夢も希望もすべてここにおいてきたままだ。……いや、家にいたら、かみさんに尻を蹴飛ばされるから、こっちにちょくちょく逃げてきているというのもあるんだけれどもね」

 彼は二人のうちにあった暗い雰囲気をすべて消し飛ばすような勢いで笑った。小春も気持ちが大きくなって、追従笑いを少しだけ洩らした。それでも内心にはまだ固い気持ちが残っていた。

「おっと」と、彼は腕時計を気にして、素に返った。「孫の送迎があるのを忘れていたよ。幼稚園に通わせているんだよ。けっこう近くにあるから、また寄るかもしれない。社長によろしく言っといて」

 三木は颯爽と立ち去っていった。

 工場手前に停まっていたメタリックグレイのセルシオがゆっくりと発進していく。その姿を見送った後、小春の胸にまた、妙なざわめきが起こった。得られた安心感は、その場しのぎのものでしかなかった。

 3Dプリンターで制作された銃の問題。それが、まだ一ミリも解決していない。三木にも本当のことが言えなかったあたり、これは自分で解消するしかない問題なのだろうと、実感を伴った自覚がわいてきた。

 しかしながらその自覚を打ち崩すように、その日の午後五時過ぎ頃、小春は3Dプリンターから制作された銃でもって、殺人事件が起こったとするニュースを知ることとなったのである。

 事件現場は、足立金属のある場所から、二キロほど西に向かっていった同じ金沢市内であった。

 

 

 被害に遭った婦人の身元照会がただちに進められ、大半が割れた。

 丸藤佐貴子――

 昭和四十四年生まれの、四十四歳だ。生まれも育ちも石川県金沢市となっているあたり、金沢気質を受け継いだ婦人といってよかった。交際関係が洗われる敷鑑捜査を中心に、捜査チームが編制された。門脇もその一員に組み入れられた。相棒は、金沢西署から急遽召集された野武という男である。

「どうだね、少しは落ちついたのだろうか?」

 門脇が問いながら対面席に腰かける。隼斗は、気怠そうな動きで首を揉んだ後、軽くうなずきを示した。

「さっきは、すこし冷静ってやつを失っていたと思う」

 なんだか、しんみりとした色が顔中に浮かんでいるようであった。反省しているというのは、本当のことでいいようだ。

「まあ、お母さんがああなってしまったんだ。それを目の辺りにして、平常心ではいられない。……と、これからいろいろと聞きたいことがあるんだが、大丈夫なのだろうか?」

 彼は門脇からよこされている目をしっかり受けとめた後、無言でうなずいた。静かな空間に、眩しいぐらいの日射が入り込んでいた。野武が察しよく動いて、ブラインドを次々に掛けていった。

「君は、お母さんのことを憎んでいると口にした」と、門脇は彼の顔色をうかがいつつ言った。「君に疑いが掛かっているわけではないが、そんなことを述べた以上は、その内訳を話さなくてはならないというのは、君にも分かっているはずだ。……話してくれるね?」

 彼は机の一点を見つめる形でうつむいた。

 黙り込んだまま、二分が過ぎる。野武は、彼の後ろについたままじっと立ち尽くしに掛かっていた。

「おれ……」と、彼は重々しく口を切った。「オヤジっていうやつが、いねえんだよ」

 野武と顔を見合わせた。ゆっくりとしたうなずきを得た。

「つまり、どういうことかね? 君のお母さんは、結婚していないということなのだろうか。それとも、不慮の事故が過去にあったとか、そういうこと……?」

「それでいいんだよ」と、彼は顔を上げて言った。「結婚していねえんだよ。あんまり好きな言葉じゃねえし、口にするのも腹立たしいけれどよ、でもおれという立場を説明するためには言わなければいけない。いわゆる、ヒチャクシュツシってやつなんだよ」

 非嫡出子――

 彼は、法廷書類上でいう夫婦関係の繋がりのない両親から生まれてきた子供ということでいいようだ。その思いつめたような模様からして、彼が母親に反発していることの中身を見たような思いがした。

「それで、父親がどういう男なのかも分からない、と」

「いや、知っているよ」と、彼は一度首を振って言った。「五歳頃まで、おれのそばにいたよ」

「だったら、父親がいないというのは、少し表現が間違っているんじゃないだろうか? いくら結婚していなくても――」

「あいつは!」と、隼斗は机を両方の手に拳を作って、忌々しく叩きつけた。「おれらを捨てていったんだ。ある日、突然に、だ。だから……あんなものを、オヤジと認めるわけにはいかねえんだよ」

 彼の傷ついた気持ちを察して、なんとなく沈黙が落ちた。

「つまり、その男は君が五歳の頃、君と母親の前から去っていった、と?」と、しばらくしてからそっと問いかけた。

「まあ、そうだ。五歳の頃に、でていったんだ……」

 先に行われていた簡単な人定質問では、彼は現在、ちょうど二十歳であると口にしていた。単純に計算して、その男が彼の前から消えたのは、十五年前ということになる。

 それにしても、五歳の頃に突然姿を消すというのは、子供にとっては残酷な行為ではないのか。まだ彼には純粋な精神があって、可愛い盛りであったはずなのに、その男は彼の前から消えたというのだ。子供にだけ許される、天性的な自信を無条件で挫くというような行為であったはずだろう。

「なぜ、そうなったのかは、これは分からない?」

「捨てた理由を聞くなんて、刑事さん、そりゃ、ひどい詮索っていうもんじゃないだろうか?」

「君のお母さんが、事件に巻き込まれた以上、その男が容疑者候補として浮上することになるってことに、君はまだ気付いていないようだね」

 彼ははっとしたような顔で、門脇を見た。そうか、と小さくつぶやいたのが分かった。

「これから、そいつを調べるってわけか?」

「そうなるだろう」

 彼の口許に、失笑のような気配が浮かんだ。

「だったら、早くに調べてやってくれよ。住所はあえて言うまでもないだろうが、ここからそう遠くないところにあるってことだけは言っておく。地元に根を下ろした、金沢気質の染み付いたやつだと思うよ、そいつはよ」

「つまり、彼がどういう仕事をしているのか知っている、と」

「仕事は工場だよ。板金を加工する、職人のような仕事をしている。うろ覚えで、もう記憶もほとんど消えているに等しいけれど、何度か工場のような所に連れてこられた記憶がおれにはあるんだ。使用していたのは真っ黒い機械だった。作業台のあたりはいつも、オイルで汚れていたな。何だか、その当時、手を汚すことがあって、しつこいぐらいに手を洗わされたというような覚えがある」

 いわゆる機械職人が配置された市内の板金加工業となれば、それは町工場である可能性が高い。いずれにせよ、有益な情報を得られたことから、自力での割り出しは、順当に進められていくはずだった。

 それにしても、その男が、佐貴子を殺したのだろうか?     

 隼斗は母子ともども、自分たちを捨てたと口にした。それが正しいなら、佐貴子がその男を憎む理由は成り立つが、その逆は成り立たない。事件は、佐貴子が手に掛けられる形となっているのだ。男が佐貴子を殺したとなれば、別の理由がなければならなかった。忘れてはならないのは、三人が袂を分かってから、十五年経過しているという事実だ。この月日はあまりにも長い。いくらなんでも、そうした出来事に怨みを持って凶行に走ったという流れは、考えにくかった。

「話は飛ぶがね」と、門脇は改まって切り出す。「君のお母さんについて、なんだが。最近、男性と交際している事実があるとかそういう話は聞いているだろうか……?」

「ああ、それね……」と、彼は頬を掻いた。「それっぽい人は、何人かおれの前に現れたことがあったけれど、全部違ったよ。きっと、そういうのはいないんじゃないかな? そういうところ、何だか知りたくないっていう気分がおれのなかにあるんだよ。なんか、聞いただけでむしゃくしゃする話題っていうか。……だから、そのあたり何も知らないから、はっきりとは言えないんだよ」

 仮に何人かの男と交際しているというような事実があったとしたら、佐貴子はそれだけの美貌の持ち主だっただろうか、と門脇は考える。スナックのママに見るような艶っぽさがあったのは、確かだろう。何より、必要以上に自分を飾らない、垢抜けないところがあるというのは、地元の人間にとっては、強烈に引き付ける何かがあるのかもしれなかった。

「とくに事件と関係がなくてもいい。君が言ったそれっぽい人について、その中でとくに記憶している人物を挙げてもらいましょうか?」野武が後ろから隼斗の肩を叩いて言った。

「本橋ってやつだ」と、彼は考えてから言った。

「その男は、どういう男だろうか?」門脇が、前にのめって問うた。

「若い人だよ」と、彼は短く言った。「まだ、二十代半ばか……後半くらいの人。髪が長くて、ちょっと何考えているんだか、よく分からない人だ。いつも微笑んでいて、目が合うとそれだけでにっこりしてくる人」

「二十代半ばとあらば、君のお母さんよりもだいぶん年下ということになるが?」

「そうだね」と、彼は軽薄に言った。「おれよりちょっと上という程度だよ。やりにくくないのかとか言われそうだけれど、その辺、おれは平気だよ。なんていったって、兄貴肌のある人だからな、その人は」

「となると、その人は、君ともある程度付き合いがある人ということなんだね?」

 彼は威勢良くうなずいた。

「けっこう気さくな人なんだ。よく笑うし、ユーモアも口にできる。つかみ所がない人ではあるけれど、話そうと思えばいける人だよ。何度か、道端で会って、車で送ってもらったことがあったっけ」

「君は、お母さんを憎んでいるようなことを口にしていた。ならば、そうした男との接触だって、許せない感情があるんじゃないだろうか? 本来ならば、突き放すのが普通だろう。君という立場からすれば」

「もちろん、最初は拒否していた」と、彼は素の表情で言う。「でも、拒否させない力がある人には、なんとなく気持ちを許せてしまったりしている……。そのうち、だよ。あいつさえ、憎む気持ちがあれば、それでいいじゃないかって自分の中で区切りがついて、そういう人たちとも、普通に付き合えるようになったんだ」

 母に対する差別的な感情を持っていることについて、まずぶつかっていかなければいけないように感じたが、そのことについて彼自身、根のある反抗心を持っているように思われて躊躇われた。結局、この場では何も指摘しないでおくことにした。

「話を、元に戻すがね」と、門脇は咳払いをして言った。「肝心なことを、聞き忘れていたことに気づいたんだ。君の父親にあたる男だ。その人物について、名前を聞いていなかったよ」

 彼はうなだれるといった具合に、首を垂れた。かなり深刻ぶったありさまだ。

 その男についての、彼の心証はひどく悪いということでいいようだ。母親よりも悪いというのだったら、憎しみという感情以上のものがあるということになってくるのではないか。

「足立――」と、彼は膝先を見つめてつぶやいた。「則昭。それが、その人の名前だよ。何度も聞かされているし、おれ自身刷り込まれてきた名詞だ」

 彼の人生において、もっとも忌むべき存在であるといった抵抗感のある具合が、言葉の端々にこもっていた。そうした感情になるまでには、どれほどの長い過程があったのか。そして彼の感情の底にあるのは、どのようなものなのか。いまだけは、彼の表情だけで分かるところまで汲み取るしかなかった。

「名前が分かれば、割り出すだけの手間が省けたよ」と、門脇は言った。「直に、というか、一番最初に接することになる相手となろう。君の事も、いろいろと彼に問うことになる。彼について、なにか他に言っておきたいことがあればと思うんだが、何かないだろうか」

 しばらく、彼は顔を上げなかった。

「何も、ねえさ」と、ぶっきらぼうに言った。「おれらを不幸にしたやつについて、何を言うってんだよ」

 言葉どおり、激しく怨んでいるのは本当のことのようだった。觝触するだけで、彼の感情を逆立てることとなってしまう。これは、控えなければいけないことのようではあったが、しかし事件は彼らにまつわることなのだ。だから、その辺りにも徐々にながら切り込んでいかなければいけなかった。

「まあ、そう言うな」と、門脇は一旦、彼をなだめる。「時間はたっぷりとあるんだ。お互い胸の内にため込んだものを取り払って、本当に聞きたいことを訊くべきだろう。これは、そういうチャンスだと思ってくれればいい」

 気になるのは、則昭のほうの隼斗に対する心証だ。それが確かめられれば、三人の立ち位置がはっきりとするはずだった。 

 野武が門脇をじっくり観察するように見ていた。やるべきことが彼にも分かっていたようで、二度目のうなずきを得た。

 

 

 3Dプリント銃による、世界初の殺人事件――

 世間の感心は大きいようで、大勢のマスコミがその裏で動いているようであった。彼らが生み出す喧噪が見えないところでじわりじわり広がっていくさなか、小春はうちのめされた気分のままに、一人孤立したところで沈んでいた。

 あの3Dモデリングデータが、凶器に使われた銃だったとしたら?

 データ消去は、やはり、間違いだった。しかし、その事実を外に出すどころか、職場内でデータの存在について口を出せないでいる。そんな気の弱い自分がたまらなくいやだった。

「おい」と、呼び掛ける声があった。むっつりした表情の、則昭だった。

「社長さん……」

 言葉が何となく続かなかった。言いたいことが山のようにありすぎて、喉元で塊になってしまっている。

「きつく言ってしまったけれどよ、そんなことでそこまで落ち込まんでいいいだろうよ」と、彼は目を逸らしながら言う。「たしかに、うちの方針はきつく守ってもらわないと困る。それさえ守ってくれれば、もう二度とそこまではいわん。分かっただろう、不始末の結果どうなるかってことが。それさえ、肝に銘じてもらえればそれでいいんだ」

 この時、小春はデータのことについて切り出すなら今なのかもしれない、と思っていた。

「落ち込んでいたのは……」と、小春は吃りながら言った。「そのこともあるんですけれど、それだけじゃないんです」

 あと少し、気を緩めれば泣いてしまいそうだった。告白がこんなにも勇気のいるものだとは思ってもいなかった。いっそ、取り止めてしまえば楽になるのだったが、やはり黙っているのはもっと辛かった。

「なんだ、いったい……」半分ぽかんとした調子で、彼は問うてくる。

 勇気を自分の胸一点に集中させた。

「テレビ……見ていましたか? あれのことで、気持ちが悪くなって……」と、一先ずその話題を振りまく。

「…………」

 この時、則昭はひどく塞ぎ込んだ顔つきになっていた。眉間には険悪な皺が一本、くの字に刻まれている。

「社長さん……?」

「けっこう、近くで起こった事件みたいだな」いつもとは違う、余所行きの口調で言った。「あんな事件のことなど、お前さんには関係ないことだ……余計なことを、考えるんじゃない」

 最後に歯噛みした彼の面体には、それとなく怒りが滲んでいた。それも、何となく根の深い怒りのように思われてならない。少なからず、そうした感情があると分かれば、気が怯まずにはいられなかった。とてもじゃないが、データのことなど切り出す雰囲気ではない。

「……すいません」

 粛々と謝ったのは、一先ず仕切り直しをするためだ。

「直に、警察がくるかもしれねえな」と、則昭は脈絡なく言った。「なんだか、今はかなり状況が悪い所にいるように思える」

 差し向けられたその顔は、なぜかしら蒼白に近かった。彼自身、そのことに対し、怯えがあるように感じられた。目を逸らすなり、震わせた声でつづける。

「こっちのことだ。やっぱり、お前さんには関係ない話だったよ」

 彼は事務所から出て行こうとした。その途端、彼を捕まえるように固定電話機の一つが鳴った。彼は、深呼吸してから応じ、発注書になにやら書き付けた。お得意先からの小口の依頼のようだ。終えるなり、受話器を静かに降ろした。その光景を、小春はじっと見守っていた。

「なんだよ」と、彼は口先を尖らせて言う。「言いたいことがあるって顔だ」

「いま、警察がくるとおっしゃったのが気になって……」

 ふぅ、と彼は肩で息をついた。

「丸藤佐貴子――。それが、被害者の名前だ」と、彼は流し目のままに言った。「その女は、良く知っている。おれが、当時、事実婚の間柄にあったというか……まあ、一緒に生活していた女なんだ。世間は、内縁の妻とかいっているが、まあそれだよ」

 空白が、小春との間に広がった。

 則昭に、そのような相手がいただなんてこれまでに、一度だって聞いたことがなかった。

女性がいかにも寄りにくい雰囲気を作っているだけに、相当なレベルの禁欲家なのではないかと疑ったことまであったが、実際は、過去にそうした女性と関係していた時期を持った男だったのだ。

 それにしても、その相手が事件の被害者だという。

 その事実の意味を呑み込むなり、小春の中の恐怖がさらに一段と、深みを増した。もしかしたら、則昭が実行犯という可能性だって少なからずあるのかもしれない――そうとまで考えついた。

「どういうことなんでしょうか。いまいちよく分からないのですが……」

「その女と、深い仲にあったということだ。気恥ずかしくなるような説明を繰り返させるんじゃねえよ。こんな話など、二度としたくねえが、しかしこうなった以上は、話さなければいけねえ。……もしかしたら、警察は、おれのことを最重要人物の一人として、取り調べるかもしれねえな。それぐらいのことだ。その事件は、おれとは無関係ではいられないってことだ」

 最後は、自分に怒りをぶつけるように言っていた。どうやら彼自身、厳しい立場にあると、自分なりに理解しているようだった。

「警察に何か聞かれても、余計なことはいわんでいい」

 彼からそう言われて、思わずぎくりとした。

 データのことを訊ねられる可能性は高い。その時、自分はどうすればいいのか。そのことの答えは分かり切ったことだというのに、なぜか迷いが強く湧くのだった。

「でも、社長さん」と、小春は気を取り直して言った。「今回の事件は、そのう……。凶器に3Dプリント銃というやつが使われているようでして……。ちょうど、うちに、それがあるわけじゃないですか、プリンターが、ですよ。ですから、それについていろいろと聞かれるんじゃないかと思うんです」

「すっかり、3Dプリンターなんて、当たり前にあるような感覚になってしまったがな」と、彼は暗い調子で言う。「世間では、まだまだ流通していないものであるのは確かだ。だから、それについていろいろ疑義が掛かるのはやむを得ないだろう。おれと合わせて、いろいろと調べられるに違いない。だとしても、身構える必要などはないはずだ。何か聞かれるようなことがあっても、必要以上のことは答えんでいい」

 間接的にながら、データのことを黙っていろと言われているように感じられてならなかった。というより、自分がそのデータの存在に気付いてしまったことに、彼は気付いているのだろうか。だとしたら、これは事実隠蔽の口裏合わせということになってくる。

 しかしながら、彼の顔色からはそうした細かい機微を、うかがうことはできなかった。ここまでは、小春の勝手な解釈というのに過ぎない。

「なにか、聞きたいことは……?」と、則昭が目を細めて問う。

 とりあえず、データのことは据え置きにして、今起こった疑問について訊くべきだと、小春は頭を切り換えることにした。

「その相手の女性について、なんですが」と、小春は彼の顔色をうかがいながら言う。「どうして一緒にならなかったのでしょうか。いえ、こんなことを訊くのは失礼だとは分かっています。でも……気になって仕方がないんです」

「おれから切ったんだ」と、彼は固い口調で言った。「細かいことはいわんが、とにかく、どうにも我慢できんような状況になってな……それで、離れたくなったんだよ。何もかもがいやになったんだ」

 苦渋ばかりが顔にあった。口にするのも、不愉快でならないといった具合だ。

 則昭は脇目も振らずに、事務所を出て行った。ほとんど逃げだすも同然の退去であった。

 スクリーンドアから、彼が工場に向かっていく姿がはっきりと見えている。サンダルを引き摺るような闊歩。途中で細貝に出会すと、手を振り上げ、いつものように愛想良く対応に掛かった。今しがたあった暗いやり取りなど、微塵にも感じさせない切り替わりの早さだ。

 小春は長い間、落ち着かないもやもや感に、苦しめられることとなった。

 

 四時過ぎに、操業が一時停止となって休憩が入った。

 小春は悩ましい思いを抱えつつ、一人になれる場所を求めた。普段は誰もいない工場につながる備品室に入るなり、整理戸棚が壁に面してずらりと並ぶその部屋の一角に二人の男の影を見た。従業員の島田と、那須である。何やら、二人して雑談に耽っているようであったが、何を話しているのかは二人の雰囲気からして明らかだった。

「おっと、お嬢さんがいらしたよ!」と、島田が那須の肩を勢いよく叩いて振り返った。

 那須は吃驚するなり、その反動で手に持っていたものを落とした。それは、裸の女性の写真がいくつも載せられた成人向き雑誌だった。

「へへへ」と、那須は卑しく笑ってひよこ禿を掻きながら、自分が落としたものを背で隠す。「なにか、用があったんですかね、こんなところに」

「いえ、なんでも……」

 まずいところにきてしまった。ただでさえ、那須という男からは、いつも舐め回すような視線を受けていやな思いをしているというのに、こうした状況に出会せばより一層、意識されてしまうではないか。

 すぐさま、その場を離れようとしたが、島田から声が掛かった。

「ひどく具合が悪そうですね、お嬢さん。大丈夫ですかね」

 ちら、と彼を横目で見た。「問題ないです」

 島田は、卑しそうな外観とは裏腹に、表向きは生真面目な男だ。なんでも気持ち一心に取りかかるから、頼れるところがあった。それだけに、那須ととりわけ懇意にしている点は彼のイメージを大きく損なっていると言わざるを得なかった。もっとも、小春をのぞいて従業員が五名しかいないところだったから、仲良くやること自体に問題はなかったが、

それにしても二人の関係は、決して見逃せない影があった。

「なにか、聞きたいことがありそーな、感じだよ、これは」と、那須が軽薄な口調で言う。

 そのまま立ち去っても良かったのだったが、小春は何となく言った。

「社長さんのところに、警察さんが来るかもしれないっていうことでした」

 二人は、たちまち硬直した。事情をゆっくりと自分のペースで話していった。那須は落ち着かない様子で、なにやら早口にまくし立てた。小春はそれに構わず言った。

「社長さんと、交際していたという女性について、なにか知っていますか?」

 あー、と島田が訳知り顔で、唸った。顔を小さく見せるぐらいに、膨らんだ天然パーマの頭を掻きむしった。

「そりゃ、そうだろよ」と、那須と顔を見合わせながら言う。「社長とは、付き合いが長いから。もう、かれこれここでは、三十年近く働かせてもらっている。だから、社長の家の事情についても分かっているつもりではあるけれど……」

「教えてくれませんか」

 頼み込むと、島田は苦い顔をした。那須も、消極的な色合いを見せている。

「聞かれたことだけを、答えるよ」と、島田が言った。

「では」と、小春は早速切り出す。「社長さんは言っていました。今回の事件の被害者でもある丸藤佐貴子さんとは、どうにも我慢できないような状況になって離れたくなった、と――。その、どうにも我慢できないような状況とはなんでしょう?」

「いや、そのう」と、島田は口籠もって言う。「早速なんていうか、一番聞きにくいことを訊くね」

「いや、そこがお嬢さんっていうもんだ」と、那須が合いの手を入れる。

「まあ、ずばりいうとね。別れたくって別れたというような、あれじゃないんだよ。なんというか、本当、向こうも社長も未練があったわけなんだが、それでも離れた方がお互いにいいということで、やむを得ず離れたんだ。その理由は、子供のためということだったから、あれじゃないかな。その子に関して、何かあったんじゃないか」

「社長さんに、お子さんがいらしたんですね」

 まるで家族という言葉とは無縁な男だと思っていただけに、これまた意外だった。

「男の子だよ」と、那須が入れ替わって言う。「もう、十五年以上前のことなんだけど、うちの工場にその子を連れてきたことがあったんだ。目のくりくりした、可愛らしい子供だったよ。その時は、おれも若かったからよ、ちゃんと抱っこしてやったさ。まあ、いやがられて、泣かれたんだけれどな」

「その子は、そのう……社長さんに似ていますか?」

「ありゃ、母親似だよ」と、島田が言う。「こんなことを言ったらあれだけど、社長には似ない方がいいと思うよ。黙っているだけで不機嫌そうな具合だし、人から好かれるためにはある程度の器量はあった方がいいに決まっている」

「そんなこと、お嬢さんは聞いていないだろ」と、那須が突っ込む。「お嬢さんが聞きたいのは、ちゃんとした社長の子なのかってことだよ。おれが答えれば、それはノーだと思うね。社長の子じゃない可能性があるってこと。だいたいね、社長は向こうから結婚しないせめての見返りとして、子供の認知を求められていたんだ。民法ってやつ? それが適用されるには、そういう手続きをしなければいけないんだ。社長は、長らく断っていて、とうとう認めなかったみたいだ」

「認めなかったって、なんで知っている?」と、島田が那須に食って掛かる。「そんなこと一度だって、社長の口から言ったことがなかっただろう? ないことを、あることのようにいうなよ」

「あったんだ」と、那須は強い口調で言う。「社長に、なんとなくその話題を切り出したことがあったんだ。過去の話、だよ。もう七年ぐらい前のことか。それで、子供の方はずっとほったらかしのままだって言ってた」

「なんで、その時、おれに報告せんのだ」

「社長が余計なことは言わんでいい、と口止めするからよ……」と、那須は小さくなって言った。「おれだって、黙っているしかなかったんだよ」

「……ったくよ。根性なしがしゃしゃりでるとろくな始末にならねえな」と、島田は憤懣を示す顔をする。感情を抑えられないらしく、そのうち腕を組んでふてくされる態になった。

「それじゃ……ずっと、その話題は据え置きにされたままなんですね」那須への苦手意識も頭から離して、小春は彼にそう言った。

「そうそう」と、彼は気安く応じる。「ずっと、本当のところが謎のまんまで、据え置きにされたままだ。社長もかわいそうな人だと思うよ。ずっと信じていた人から、離れようって持ち掛けられた訳なんだから……。社長はね、その人のことを、真剣に愛していたと思うんだ」

「分からないことがあるんです。それは、どうして相手に対し、そこまでの愛情を持っていながら、籍を入れなかったのかということです。子供が産まれる前の話でしょうから、その時点でやっぱり何かおかしいですよ」

「それは、社長の性分だよ」と、島田が腕組みを解いて言った。「いつも赤提灯の席で、おれは結婚が向いていない男なんだよ、とぼやいていたからね。そうした家族を持つことに、根っこからの抵抗があったんじゃないかな」

 小春の胸には納得できたものとできないものが半々に入り混じっていた。しっかりとした愛情があったならば、結婚への迷いだって、自分の抵抗だって突き破っていくのではないか。彼は、それをせずに、ずっと中途半端なところに身を置き続けてきた。

 ある意味、女性から別れを切り出されたのは、単なる裏切りというものに留まらないはずだった。別れはその女性にとって、たしかな生活の安定を求めての自分なりのステップアップといった選択だったのではないか。優柔不断な彼と一緒にいても、さらなる発展が期待できないと分かった瞬間、愛想が尽きたのだ。

「まあ、お嬢さんには、難しい問題だよな」と、那須はへらへらして言う。「もう少し、経験を踏まないと解決できない問題だって、いっぱいあるんだよ。頭でいくら理論づけて考えても、無駄だってことさ」

 自分が低く見られて、ここはむっとしていいところだったが、状況的にそのような感情は強く湧かなかった。

 きっと、則昭は今も未練を残したままのはずだ。その相手が、事件に巻き込まれ、亡くなった。それなのに、今日の彼は素っ気ない風を装っていた。実は、かなり無理をしているはずだ。

 ――余計なことを考えるな

 それは、彼自身に向けた言葉だったのかもしれない、と小春はいまさらながらにそう思った。

 

     6

 

 使用された銃の鑑定が進められていた。

 あくまで、オリジナル仕様であるという見方でいいようであったが、専門家によれば、モデルとなった銃が存在し、それは、コルト社製の1911Aということだった。ブローニングの傑作設計といわれ、オートマチック拳銃の基礎として取り扱われることが多いものだ。今回、登場することとなった3Dプリント銃にまで、設計にあたって、見本となってしまったようであった。

 押収品の銃との注意すべき相違点は、ホールドオープン状態にできないという点と、セイフティ機能が備わっていないということであった。これは、銃についての性質と、構造を良く知っている人間ならではの、改良点というべきだった。

「肝心の弾の方はどうなっているんだ?」

 門脇は、配付された資料を読みふけっていた。文字を追うことが生来的に苦手なだけに、どうしても口が先に出てしまう。

「プリンター製造かどうかは、まだ分からないようだ。タイプとしては、45ACP弾、これの改良型に分類されるようだ。まあ、これは基礎となった1911Aの通常仕様弾だ。はっきり言うと、いまもっぱら採用されることが多い、パラベラム弾よりも威力のある仕様の弾といっていい」

 答えたのは、捜査関係者の内、とりわけ銃に精通している武本である。本部から招集された男で、門脇もそちらの知識については一目を置いている男だ。

「1911A式のほうは、旧タイプなのだろう? なぜ、一般に採用されている弾を参考にしなかったのか?」

「それは、いい質問だ」と、彼からの微笑みがある。「おそらく、制作者は威力を上げることを考えていたのだろう。というのも、今回使用されている銃は、強度という部分については本物よりもずいぶんと精度が欠けるものでしかない。暴発する恐れもあるし、逆に、弾自体が発射しないあるいは、望んだ威力が発揮されないという場合もあり得る」

「そうか」と、門脇は言った。「殺傷能力を高めるそのために古い、威力のある弾の設計を選んだということか」

「事実、今回のこれは、例の被害者から得られた、初期鑑定結果を見る限りには、至近距離から撃たれていることが分かっている。それなのに、銃創は盲管だった。この様式の銃が、そんなおもちゃのような威力しか発揮しないということはあり得ない。動作性に優れ、どのような状況にも対応できるマルチな能力を持ったものだ。海外の特殊部隊で採用された実績があるのもうなずけるだけの仕様……。本来ならば、貫通が当然なんだ」

 倒れた佐貴子の背中には、血の広がりは認められなかった。一般的な銃ならば、彼女の身体を貫き、その後方に弾痕が残されているはずだという。

 その錯誤の事実からして、門脇ははっと息を呑んだ。

「至近距離で撃ったのが意図的だったなら、犯人は銃の威力について知っていたということになるか?」

「知っていたというか、おそらく、試射が何度も繰り返されたはずだろう」と、彼は神妙な顔つきで言う。「これが意味するところは、試作機というやつが、何挺か作られている恐れがあるということに尽きる。そうでなければ、理論上、成立しないことがいくつか出てくるんだ。いきなり当てもなしに作られたものが、すぐさま銃として使えるという風にはならないだろう?」

 彼は息をついて、ゆっくりした口調でつづけた。

「なぜ、セーフティの機能が装備されなかったのか分かるか? それは、例の凶器は、単発式の設計になっているからだ」

「単発……?」

 つまり、発射のチャンスは、一回きりということだ。

 その条件は、実用性という面では、かなり厳しい条件であるといわざるを得なかった。

「そう、撃てるのはたった一発だけだ。先にも言ったように、強度の不安があり、それ以上は暴発して、自分の身の危険にまで及ぶ恐れがでてくる。いや、初発の一発さえも、命がけというようなスリルのあるものだったのかもしれんな。なんせ、例の凶器は、排莢機能までもが未完全で、自らの手で弾を取り除かなければいけないものだったらしいからな」

「ほとんど、ガラクタに近いではないか」

 ふと気付くと、横に待機していた野武が渋い顔をして、口を閉ざしていた。無理もない、彼は先の会議にてその意見とはまったく逆の考えを、主張している男だったのだ。

「そう、ガラクタだ」と、捜査員は言った。「軍事用に転用することは、到底できない脅威というまでにはおよそ足りないものだ。こうしたことから、分かる事実は一つ。それは、制作者が、その筋の人間ではないということだ」

「素人制作だったということか?」

「はっきりとは言えないんだが、そうとも言える」と、彼は気取った口調で言う。「しかし、性質と構造を理解していたことを見逃してはならない。この両者を足し合わせた中間点にいる人物――それが、この銃の制作者だ。その彼が、なんのために、こうしたものを作ったのかとあらば、決まっている。人を傷つけるためだろう。殺すためだったと言っていい。目的は、ただそれだけだ。何度も発射できるようにし、その後も護身用に使うなど、計算に入れていない」

「なるほど。となると、あの現場で銃を捨てていったのは、単に、もう用済みになったからだったというわけか……。正規の鑑定はまだだが、丸藤佐貴子は現時点で、すでに即死であったという見方が強い。撃った瞬間、彼女の命を奪ったということは、犯人も実感を持って分かったはずだ。目的を果たした……それで脱力して、凶器を落としていった。流れ的には、成り立つ筋立てではある」

「もし、脱力したというのでしたならば」と、野武が門脇に言う。「その場に居残ったまま、彼自身、我らの手に落ちるのではないでしょうか? 逃げる気力もなくなっているということです」

 門脇は悩ましい感情になった。

 どのような答えを出したところで、それらはすぐに覆ってしまうような浅いものでしかないように思われてならなかった。

「鑑定だ」と、門脇は重く言った。「それを待とう。銃の方からもしかしたら、指紋が検出される報告がなされるかもしれない。それで、すべての方向が決まるだろう」

「もし、指紋がでてこなかったとしたら、どういうことなのか」と、武本が言った。

「もちろん、計画的に行われたということになってこよう」と、門脇は抑揚なしに言った。「その場合、逃走だって計算に入れていたという答えが導き出される。もちろん、凶器が捨てられていったのだって、故意的だったということになる」

 その日の午後、本橋という男を掴まえ、事情聴取に踏み切った。彼は落ちつき払った態度に終始し、平然とながら佐貴子との関係について、ただの友人であるという風に証言した。すぐさま証言に従って、裏打ち捜査に掛かったのだったが、そのほとんどに嘘はないことが時間ごとに確かめられていった。

 その線から見つけられる希望は、ごく小さいと、結果的にそういう判断を下さざるを得なかった。

 

 夜遅くになって、鑑識の正式な報告が出された。丸藤佐貴子の推定死亡時刻は、午後の二時半過ぎ頃で、門脇たちが現場に駆けつける、わずかに一時間と少し前のことだった。 撃ち込まれた弾は、胸骨の一部を砕いて、右肺の奥に留まる形となっていた。死因は出血性ショック死。予想されていたように、ほぼ即死状態であった。

 注目された銃の至近距離については、煤暈などが不規則な形となっていたために、公式発表は控えられた。3Dプリント銃を預かった鑑定チームが同型器を再現した上で、実験を試み、得られた情報を参考値に、最終結論を出すようであった。

 門脇が期待していた、銃からの指紋等の遺留資料は挙がらなかった。また、犯人が侵入したとする庭先から、足跡が数種採取されたが、いずれも完全なものではなく、それらをたどっていくことには証拠能力の低さからして限界があった。

 犯人像はいまだに絞りきれていない段階ではあったが、それでも、すべては計画的に行われたということだけは、確かに認められた。

 計画的であったということは、明確な殺意があったということであり、それだけのエネルギーを所有していたということの証明でもあった。門脇としては丸藤佐貴子を殺めなければいけなかった理由がますます気になってならなくなってきた。

 足立則昭。

 彼が何かを知っていることを期待したいところだった。

 

 

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ