お兄ちゃんは本当は私が心配で居ても立ってもいられない
さすがの俺も背筋が凍った。俺だって真白に対して兄妹として情愛は当然に有している。それ以上の特別な感情は抱いていないとしても。肉親が誘拐されたと聞かされ、血の気の引かない者などどこにもいない。
「どういうことだ?真白は無事なのか?」
「ああ、今のところは無事だ。ただし、彼女が無事でいられるのも、あと3時間だ」
「3時間後には真白はどうなるんだ?」
「死ぬ」
「は?ふざけるな!真白を無事解放しろ!」
俺は語気を荒らげた。しかし、電話口の男は冷静なトーンを崩さなかった。
「お前の愛する妹を助けたいならば、私の要求に従え」
「要求?金か?いくらでも出すぞ」
親父とお袋に連絡すれば、お金はいくらでも工面できる。彼らは大した努力もしていないのに、不労所得によって、この資本主義社会のピラミッドの頂点に君臨している。真白の命のためならば、新興国の国家予算並みの額が躊躇なく出されることだろう。
「いや、金は要らない。今すぐここに来い。必ずお前一人でだ。警察を含め、誰か別の者に連絡したら、お前の愛する妹の命はないと思え」
「ここ、ってどこだ?」
「リビングの机の上に地図が置いてある。その地図に場所は書いてある」
俺はリビングの机の上に目を遣る。犯人の言う通り、二つ折りにされたコピー紙がそこには置いてあった。広げると、そこにはネットで印刷したと思しき地図と、セロテープで添付された2枚の1万円札があった。
「このお金はなんだ?」
「タクシー代だ」
俺はここでようやく違和感を覚えた。金銭を要求しないどころか、こちらにタクシー代を寄越す誘拐犯だなんて前代未聞だ。それに、考えてみると、先程から、「お前の妹」と言えば良いところを、「お前の愛する妹」と、余計な修飾語がくっついている。
「お前は誰だ?」
「誘拐犯だ」
「この家にどうやって侵入した?」
「それは企業秘密だ」
「真白とはどういう関係だ?」
「ちょっと待て。誘拐犯を刺激するのはあまり得策とは言えないぞ」
「構わない。真白とはどういう関係だ?」
「いやいや、立場逆転してるし!お前は俺の指示に大人しく従えば良いんだよ!」
「俺だって暇じゃないんだ。めいりんのライブが終わる18時頃まで待ってくれないか?」
「え?3時間後には愛する妹が死んじゃうんだよ?」
「そこを何とか動かせないか?」
「無理無理!」
「うーん、でも気乗りしないんだよな……」
「分かった!こっちでタクシー呼んでおくから、それに乗ってきて!」
「あれ、気のせいか口調が変わってないか?ボイスチェンジャー的なやつ使ってるだろ?」
「え?あ……ゴホン。とにかく、お前の愛する妹を救いたければ、一刻も早くここに来い。分かったな?馬鹿なことは考えるなよ?」
「はいはい。分かったよ」
電話が切れた。
面倒くさい。実に面倒くさい。しかし、今日はどうしても真白のお遊びに付き合ってあげなければならないらしい。
地図の目的地は、我が家から直線距離で10kmもなかった。なので、俺は2万円でお釣りが来ることを期待したのだが、長い間山道をグルグルと登っていたためか、メーターは2万円を僅かに超えた。運転手が「あれ、おかしいな」と何度もぼやいていたところからして、単に迷子になって無駄にメーターを回されただけかもしれないが。
タクシーを降りると、そこは完全に山の中であった。さすがに道路は舗装してあるものの、川の水が流れる音と虫の鳴く声だけが場を支配していた。道沿いの急斜面には伸び放題に伸びた木々が広がっていた。
果たして真白はどこにいるのだろうか。
「真白ーーーー!隠れてないで出て来ーーーい!」
大声で呼んでみたものの、返事をするのは虫の声だけである。
「真白ーーーー!お兄ちゃんとあんなことやこんなことして遊ぼうよーーーー!」
こんなことも叫んでみたが、真白魚雷が俺に飛びついてくる様子はない。
「真白ーーーー!お兄ちゃんと✕✕✕✕しようよーーーー!」
もっと直接的なことを叫んでみた。
すると、俺の視界に人影が現れた。
真白……ではない。大きなリュックを背負いながらこの山道を登ってきた観光客らしき青年が、俺のことをまるで不審者を見るかのような目で見ている。
「いや、あ、その、これは映画の撮影なんですよ」
必死に取り繕うとする俺のことを、青年は、今度はピンク映画の男優を見るような目で見ている。
「いやいや、大人の映画じゃないです。ちょっと過激な青春映画です」
「妹との青春か。素敵だな」
青年は親指を立てると、「グッジョブ」と言って、俺の前から去っていった。ちょっと頭のオカシイ人で助かった。
辺りをキョロキョロ見渡していた俺は、木々の合間に妙なものがあるのを見つけた。
大きな矢印の書かれた看板である。泥の一つも付いていないところからして、最近立てられたもののようだ。矢印は斜め上の方を指している。
「この急斜面を上れっていうことか……」
俺はシャツの袖をまくると、看板の指示に従い、斜面を上り始めた。
次に俺の視界に飛び込んできたのは、なんと、真白に燃やされたはずのめいりんのポスターだった。
「めいりん!」
まさか、こんな山奥でめいりんと再び出会えるだなんて。これは神のお導きに違いない。
あの地獄の業火があって以来、日課であるめいりんとのおはようのキスとおやすみのキスができていない。
俺はめいりんと再会のキスをすべく、木に貼り付けてあるめいりんのポスターの方へと駆け出した。俺はめいりんに引き寄せられていく。急斜面にかかる重力なんて、恋の引力の前では意味をなさない。エル・オー・ブイ・イー・ラブリーめいりん!
「うわあっ!」
めいりんに手が届くか届かないかのところで、正真正銘の無重力になった。自由落下運動を始める俺の身体。
木の根元にあった穴に落ちるだなんて、まるで不思議の国のアリスじゃないか。否、めいりんを使った色仕掛けに騙されて落とし穴に落ちる俺は、ロン○ンハーツのドッキリに引っ掛かった芸人に近いかもしれない。
え、まだ落ちるの?もう良くない?と思ってから、さらに5秒くらい落とされた。
落下地点で俺を受け止めてくれたのは、車のエアバッグを何十倍にも大きくしたようなふかふかのクッションだった。その上でスーパーボールのようにポンポンとバウンドしていたときはさすがに生きた心地がしなかった。
「八鳳和生、待ちわびたぞ」
クッションの上で仰向けで放心状態だった俺に、例の低い男の声が話しかけた。俺は声の出処を探す。
洞窟、と呼んでいいのだろう。その空間はむき出しになった岩肌に覆われていた。
スピーカーはすぐに見つかった。文明の機器は、天然の岩壁に全く馴染んでいない。
「まんまと落とし穴に掛かってくれたな。あんな小細工に騙されるなんてな」
「くそ、我ながら不覚だったぜ」
「しかも、あんな不細工に騙されるなんてな」
「めいりんの見た目をdisるな!今をときめく売れっ子アイドルだぞ!」
正直言って、めいりんのポスターが罠だということは何となく察していた。もっと言うと、めいりんのポスターが貼られた木の前だけ土の色が少し違うことにも気が付いていた。しかし、それでも走り出す自分を止められなかった。これが男の悲しい性なのである。
「これはどういう真似だ?この洞窟はお前が用意したのか?」
「左様」
「この洞窟の中に真白はいるのか?」
「左様」
「お前が真白か?」
「左よ……、って違うわ!」
「とにかく俺はどうすればいいんだ?」
「このダンジョンを進み、お前の愛する妹を救い出すのだ。制限時間はもう2時間を切っているぞ」