お兄ちゃんは本当は照れているだけだ
三崎京介にボールが渡ったのを確認すると、俺―八鳳和生は迷わずゴールに向かって全力疾走した。
京介と俺はサッカー部でツートップを組んでいるため、阿吽の呼吸である。俺がどのタイミング、どの位置でボールを欲しがっているのかを、京介は完全に把握している。
「ミサキ君、今だ」
俺が心の中でそう念じると、ボン、っと背後でボールを蹴る音が聞こえた。京介は分かっている。俺が欲しいボールは、スペースへのボールでもなければ、足元へのボールでもない。
そう。ヒールへのボールだ。
俺は右足のかかとにボールが当たった瞬間、脚を後ろに蹴り上げた。ボールは弧を描き、俺の頭上、さらには俺を止めようと飛び出してきたゴールキーパーの頭上を越えた。
ヒールリフト成功。左足の柔らかいタッチでボールを迎えることに成功した俺の目の前にあるのは、無人のゴールだけだ。
―よし、決まった。
俺は右足の甲に力を入れる。
「決めてーーーーー!!お兄ちゃーーーーーん!!」
思いもしないタイミングで響いた雑音に俺の心は乱された。
ボールはロケットのように天高く打ち上がり、ゴールのバーはおろか、学校のフェンスすらも悠々と越えていった。
「ああああ、お兄ちゃん、もったいないいいい!!」
俺は辺りを見渡し、雑音の発生源がどこかを突き止めると、落胆するチームメイトには目もくれず、校舎に向かって一目散に走り出した。
普段自主練で行っている神社境内の階段ダッシュの成果なのか、はたまた怒りによって人間の底力が引き出されたのか、俺は光ファイバー並の高速で屋上への階段を駆け上がる。
屋上へのドアは既に開け放たれていた。本来このドアは鍵が掛かっていなくてはならないはずだ。職員室の前に置いてある目安箱に、職員の管理不行届を責める意見書を投函せねばなるまい。
俺のハアハアと息を切らす音に反応し、柵に寄り掛かって校庭の様子を眺めていた制服の少女がこちらを振り返った。
「あ、お兄ちゃん、わざわざ私に会いに来てくれたのね!」
目をキラキラ輝かせ、俺の方に走って向かってくるこの少女の名は、八鳳真白。
名前の通り雪女のように白く透き通った肌をしている。蒼く見えるくらいに黒々とした長髪も美しい。しかし、そんなことはどうでもよい。
端正な顔立ちをしていて、この前原宿の竹下通りを一往復する間に六社の芸能事務所からスカウトされたらしいが、そんなこともどうでもよい。
屋上に強く吹きつける風で、短く折った制服のスカートがめくり上がり、今にも下着が見えてしまいそうだが、そんなことはもっとどうでもよい。
真白は俺の実の妹である。安心してくれ。血統書付きだ。
「お兄ちゃん!」
俺に抱きつこうと飛びかかってきた真白を、俺はすんでのところでかわした。
「はむうううううう」
真白はヘッドスライディングのような格好で顔面をコンクリートの地面に打ち付けた。この様子は、彼女がレスリングのタックル並の勢いで俺に襲いかかろうとしていたことを如実に表現している。
「お兄ちゃん、なんで?私に会いに来てくれたんじゃなかったの?」
「んなわけあるか!叱りに来たんだよ!」
「え、なんで?」
真白は半べそをかいている。顔面をコンクリートで強打した痛みのため、であって欲しいが、きっと兄の冷たい反応に心を痛めたためだろう。
「真白、授業中だろ。今までここで何してたんだ?」
「お兄ちゃんの応援」
「まさか、俺の応援のために授業サボったのか?」
「うん。だって、高校サッカーの全国大会の決勝の日は、学校はお休みで、全校生徒で応援に行くのが普通でしょ?」
「は?これは体育の授業だぞ?」
「試合の規模なんて関係ないよ。大事なのはお兄ちゃんがいるかどうかだよ」
「そうやって授業をサボってばかりだと、実家にいる親父とお袋が悲しむぞ」
自分で言っておいて、何か違う、と感じた。親父とお袋はそれ以前に、真白の行き過ぎた俺への愛を悲しむはずだ。真白がこんな立派なブラコンに育ってしまったことを知れば、彼らは兄妹を同じ高校に進学させ、2人暮らしをさせてしまったことを激しく後悔するに違いない。
「で、いつまでそこで寝そべってるんだ?」
「お兄ちゃんが抱き上げてくれるまで」
「了解。風邪引くなよ」
俺はうつ伏せで倒れたまま脚をジタバタする真白を後目に、踵を返した。
このときはじめて、屋上にいたのは俺ら兄妹だけでなかったということに気が付いた。
「おい。お前らここで何してんだ?サッカーはどうした?」
「お前と真白ちゃんのやりとりを見てた。それを見るのが俺らの最大の癒しだからな」
そう発言したのは、ギャラリーの人だかりの最前にいた京介だった。
「見世物じゃない!これは家族の問題だから、部外者はなるべく関わらないでくれ」
「家族の問題だったら、毎日のように学校でドタバタラブコメディーを繰り広げないでくれよ」
錦織堤太の発言に、そうだ、そうだ、と国会の野次のようなものが飛び交った。
「俺は真白ちゃん支持派だ。いくら実の兄だからといって、真白ちゃんをぞんざいに扱うな!」
発言者は……えーっと、誰だ?同じクラスだが一度も話したことのない地味な男子で、名前が思い出せない。俺の内輪で俺と真白との関係を茶化しているだけかと思っていたが、どうやら視聴者層はもう少し広いらしい。
そうだ、そうだ、ぞんざいに扱うな、とまた国会野次。今度は俺の足元で真白も同調している。
「ぞんざいに扱う、ってなんだ?兄としては当然の対応だろ?」
「それは違う!お前は真白ちゃんの愛にちっとも応えてない!」
名前が思い出せない奴から、お前、と呼び捨てにされた。2chで名無しユーザーに叩かれる芸能人の気分が少し分かった気がした。
「なんで真白の愛に応えなきゃいけないんだよ!?兄妹なんだぞ!?」
「兄妹とか関係あるか!真白ちゃんの愛は純愛なんだぞ!」
「むしろ不純そのものだよな!?」
「とにかく、真白ちゃんを起き上がらせてやれ!」
なんでこの名無し君はこんなに威勢がいいんだ?こいつは真白のなんなんだ?
起こせ、起こせ、の大合唱。もはや、国会というよりはプロレス会場だ。
たしかに、倒れている妹に手を貸すくらいだったら、兄として普通の行いである。
俺は真白に手を差し述べた。真白はピラニアのような勢いで俺の腕の付け根辺りに飛びかかった。この身体能力をもってすれば、ビーチフラッグでは向かうところ敵なしだろう。
起き上がった真白は、付き合ってまだ3ヶ月のカップルくらいの密着度で、俺に腕を絡めてきた。普段だったら間違いなく振り払っているところだが、また倒れられでもしたら面倒なので、とりあえず真白の胸が当たらないように身体をよじるだけにしておいた。まあ、真白の胸の膨らみはないに等しいので、当たったところで何の感触もないのだが。
起こせ、起こせの大合唱はこれで止むかと思いきや、キース、キースの大合唱に転調した。
「おかしいだろ!お前ら、兄妹をなんだと思ってんだよ!変なラノベの読みすぎだろ!」
「それは俺らギャラリーに言ってるのか?それとも、この小説の読者に言ってるのか?」
俺が堤太からの質問への回答に窮している内に、キース、キースのコールはさらに大きくなった。このコールを無視したらKYと糾弾されることだろう。しかし、シスコンのレッテルを貼られるよりはだいぶマシだ。
「お兄ちゃん、見せてあげましょう」
真白が目を閉じ、唇をすぼめた。俺に身長の高さを合わせるために精一杯背伸びをしている。悔しいがめちゃくちゃ可愛い。この状態で真白のキスを拒める男は、世界中でただ一人、真白の実の兄である俺だけだろう。
俺は屋上の出入り口の方に目を遣る。京介を中心に5、6人の男子がスクラムを組み、出入り口を塞いでいる。
「逃げようったってそうはいかないぜ」
京介は、俺がボールを欲しがるタイミング、位置を完全に把握しているものの、それ以外の俺の欲求には全く理解がないらしい。
真白の唇が少しずつ俺の唇に近付いてくる。
キース、キース、キース、キース!
くそ、こいつらは何を考えてるんだ。一体何を望んでいるんだ。
―分かった。
「おい、真白、スカートの中見えてるぞ」
「え?ウソ!?」
真白が慌ててスカートの裾を抑えようとする。ギャラリーの目線が一挙に真白の小さなお尻に注がれる。
―今の内だ。
俺は全力で駆け出すと、スクラムに思いっきり体当たりをした。真白の下半身に意識が注がれ、気もそぞろになっていたスクラムは、呆気なく決壊した。階段を駆け下りながら、俺は吐き捨てる。
「お前ら、結局真白に対して下心を抱いてるだけだろ!真白がキスとか、とにかく、なんかエッチなことをしてるところが見たいだけだろ!」
ちきしょおおおおお、と誰かが大声を上げて悔しんだ。誰の声かは分からないが、名無し君だろう。多分。




