第零目の町 二話
―同日 夜―
ここ三日間、毎夜事件が起きている。さらに事件現場が日に日に家から遠ざかっているようにも思えた。今回も女性が襲われているようだった。屋根を跳び移りながら、事件現場に向かって疾走している時だった。
次に跳び移ろうとした家の屋根に人影が突然現れた。思わず足を止めて、その人影を見据えた。それは私を待ち構えているようにも見えた。
その人影からは、ただならぬほどの殺気が発せられていて、はためくコートがどこか死の宣告を告げに現れた死神のようだった。
流れる雲に隙間が出来て、人影が月光に照らされると、その人影の正体が浮かび上がった。その正体はもちろん死神なんかではなく、間違いなく今朝の来店客の女性だった。
その女性は今朝と変わらない服装をしていた。普通ならば一度会った者ならば、においでわかるはずだが、女性からは全くにおいがしなかった。
それが、狼虎に対する対策であるのと、女性が狼虎の討伐を生業としていることはほぼ確定的だった。
狼虎の討伐を生業とする『狼虎殺し』はもう珍しくない。狼虎が世界に初めて認知されたのは二十年ほど前になる。あくまで世界的に存在が認められた時が二十年ほど前というだけであって、狼虎はそれよりずっと前に存在している。現に私は推定八十歳以上である。しかし、見た目は二十歳代に見える。狼虎で言う二十歳代が人間の八十歳だからかもしれないが、本当にそうであるかは分からない。他の狼虎とはもう数十年会っていないので、確認は取れない。
そういう意味で、自分のことは自分が一番知っているというが、私にはそれは当て嵌まらない。私は自分をあまり知らない。だが、無理に知ろうとは思わない。自分の名前とジュードおじさんにミーシャの存在だけを知っていれば、今の私には十分だった。
それはさておき、『狼虎殺し』には二つの人種が存在する。私怨を晴らすためになった者。そして、高い報奨金を目当てになった者の二つである。前者は家族や友人などを狼虎に殺された復習者。後者は腕に覚えのあるものか、ただの愚者であるが、今回の場合は前者のようだった。女性の発する殺気は後者のものでは発せられないと思ったからだ。
雲の隙間はやがて過ぎ去り、女性の姿は再び人影と化した、その瞬間、女性は着ていたコートを放った。空中でコートは瞬く間に広がり、視界を遮った。不意を喰って硬直していると、コートから突然、剣の鋭利な刃先が私の眉間に向かって突き抜けてきた。間一髪で首を横に曲げて、剣をかわし、後ろに跳び、距離をとった。
「私の名はエレナ。わかるだろうが、狼虎狩りを生業としている」
コートは万有引力でもって、やがて垂れ下がり、風にはためいた。
そして、おもむろにエレナの正体が浮かび上がった。
エレナは、茶色の短パンに着古したシャツを着ていて、後ろでまとめた茶髪は腰まで届いていた。顔は凛としていて、歴戦の戦士を思わせた。実際、幾度と無く狼虎との交戦という白刃をくぐってきたのだろう。
「流石にこの程度の攻撃をよけられないほど雑魚ではないようだな。ちょっとは楽しめそうだ」
と言うと、エレナはコートを捨て、剣を構えた。顔には不適な笑みが浮かべられていた。
狼狩りを生業としている者との初めての遭遇ではあったけれど、それに何か特別な感情を抱くことはなかった。なるほど確かにエレナから発せられるている殺気もただなるぬものだけれど、殺気を向けられことも殺気特有の刺々しさにもどこか懐かしささえ覚えていた。
そんな余裕があるのは、エレナのやる気と裏腹に私に戦う気は更々なかったからだ。彼女との交戦は、無闇に暴力を使わないという私の信念に背く行為である。
私は変化を解き、人間の姿に戻った。
「どういうつもりだ」
殺気を一段とさらに放ちながら、エレナは私に低い声で言った。
「私は誰かを守るときのみ、拳を作ることにしています。私が助けようとした人はどうやら芝居をうっていただけみたいですから」
先程まで聞こえていた女性の啜り泣く声がいつの間にか止んでいた。女性の啜り泣く声の発信源は目と鼻の先だった。女性の身になにかあれば私の五感がその情報を見落とすはずがなかった。女性の啜り泣く声が止んだのを見落としたではないかと思うかもしれないが、女性が泣き止んだことはあまり緊急性を含んでいない情報だったために私のアンテナに引っ掛からなかったというぐらいの言い訳をさせてほしい。女性が暴行を加えられたならば、その時に女性がどれほど小さい声をあげたとしても、私はそれを聞き逃さない確固たる自信がある。それに加えて、暴行で擦り傷ができりば、それがどれほど軽度でも、この距離でその察過傷から滲み出た血のにおいを嗅ぎ逃すこともないと断言する。
再度変化し、振り向いて家路に着つこうとした瞬間に腹を冷たい何かが刺し貫いた。――いや、そんな感触がした。
痛みも無ければ、もちろん何も刺さっていない。しかし、冷たく鋭利な刃物が腹を貫いたような感触が残っていて、今更思い出したかのように汗が体中から一気に吹き出した。動こうとしない首を無理矢理捩ってエレナの方を見た。暗闇に浮かぶ二つの眼光を目にした瞬間、まるで突風が吹き付けてきて吹き飛ばされるような感覚を覚えた。その感覚はエレナの放つ鬼気から発せられる気迫によるものだっとすぐに理解した。さっきまでの滾滾と湧き出る隠然たる殺気とはまるで異なる、いや対極と形容しても違わないような殺気だった。体に夥しい数の目に見えない細い針を突き立てられていのような錯覚に襲われた。
無意識の内に体が硬直する。少しでも動いたら、その瞬間首が撥ねらると言っても過言ではないほどの緊張が場に横たわっていた。
――いいのか。ホントに殺されるぜ。殺さなかったら、な。てめえだったら造作もねえことだろうが。殺っちゃえよ、ヴィアス
まただ。今朝と同じ声が頭の中に響いた。私の言うことに一度も耳を貸さない心の中の住人の一方的な悪魔の囁き。
早くも、手足が痙攣し始め、息が辛くなってきた。
「別に構わないが、家の場所が知られているのだから、あの小娘も危ないってことはわかっているんだろうな」
とエレナが言った。
一瞬小娘が誰を指しているのかわからなかったが、すぐにそれがミーシャだとわかった。
そしてその時、押さえ込んできた何かが溢れ出した。
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『ミーシャにまで手をだすつもりなのか。なぜ?ミーシャは誰も怪我さえさせたことも無いのに。なぜ人そんなミーシャに手をかけることができるんだろう』
――人間を憎め、ヴィアス。人間ってのは自分勝手な奴らだぜ。そんな奴らを助ける理由なんてのも、目の前の女を殺さない理由なんてのもないんだよ。
『その通りかもしれない。いや、だけど人間の中でも優しい人もいる。私がこうして普通に人間としての生活を送れているのはあの人達以外の誰のおかげでもないんだ』
――おいおい。何でそうなるんだ?お前は何を見てきたんだよ。いや、目を逸らしているのだったけな、この糞純真無垢野郎が。お前は知っているはずだ、人間の醜い部分を。だろう?
『人間には醜い部分がある。だけど、彼等はそれと戦う強い心も持っている、シュヴィル。君にもわかるはずだ』
――はっ、ホント、ヴィアス、お前と話していると、吐き気がするぜ。純粋で汚れを寄せ付けない、いや受け付けない白。白くて、気持ち悪いほど真っ白い。だが、もうその純白の心ももうそろそろ気付いているんじゃねえのか、もう純白ではいられないことも汚れを受け入れなければならないこともな。
『…………君の言いたいことがわからないよ、シュヴィル』
――だーかーらー、お前は気付いているんだろうが、ヴィアス。人間は死の危険を前にすると、何とか生き延びようと醜い部分をひけらかすことを散々思い知っているだろうが。正義のヒーローごっこしているときに何度も見ただろうが。その度、お前の純白の心が汚れては直ぐに白を上塗りしているのが手に取るようにわかったぜえ、目に見えてわかったぜえ。
『ち、違う!君は何も知らない。皆の温かみを。黒の君には温かみを感じられないだけなんだ』
――感じられなかったらないに等しいじゃねえかよ。馬鹿にしてんのか?まあ、それは俺にとってはどうでもいいんだ、兄弟。大事なのは、昨日のことだ。昨夜の男共のことだ。お前、あいつ等を殺そうとしただろう、一瞬。ははっ、傑作だったよ。白い心が黒ずんでいく速さと同じ速さで白の上塗りをしていたんだからな。もう、ダメなんじゃねえのか?ごまかしがきかなくなってじゃねえのか?ダムももう壊れるぜえ。てか、お前、俺と話している時間あんのか?こんなところで油を売ってると、あの女に愛しのミーシャが消されるぜえ。
『っ!』
――ははっ、ほら、ダムのひびが広がったぜえ!
『うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!』
――そうやって目を逸らしていてもいいけどさあ。お前がどれほど美化したところで人間は人間。助けられても、礼どころか、訝しまれたりするもんな。優しくされるより脅される方が素直になったりもするもんな、あいつら。お前には心中お察し極まるよ。お前の心中にいるだけに、なんてな。まあ、この機会に考えてみろよ、兄弟。
『……………………人間はどこまでも人間。そんなことわかっているに決まっているじゃないか。じゃあ、優しくしてくれた人達は私が狼虎だと知れば、離れていってしまうと言いたいのか?』
――さあな。もしかしたら離れるだけでなく、捕まえに来るかもしれねえなあ。なんたって狼虎は『人類の敵』だからな。生け捕りにして、報告すれば一年遊んでも暮らせるお金が手に入る。地雷原の向こうに大金が転がっているようなもんだ。勇気のある奴とか馬鹿な奴は地雷原に踏み込むだろうなあ。本当に怖いのは、命を賭してでも大金にありつこうとするその強欲さだっつーのに。
『だけど……だけど……』
――じゃあ、俺の話を聞いて、お前、あいつらの前で正体をばらせるか?出来ねえだろ?
『……出来…ない……』
――お前も薄々気付いているということだ。素直になろうぜ、ヴィアス。俺に一瞬だけ体をよこせ。俺が全てサクッと解決してやるよ
『ば、馬鹿にしているのか!君に体を明け渡せばどうなることぐらいはわかる。もう死んでも君になんか体は渡さない!』
――はっ。お前が言うか。お前がどれだけの人間を殺してきたんだよ。
『そんなことはわかってる!わかってるからこそなんだ!』
――本気で言ってんのか。ええ?だったらなんで目を背けてんだよ。見ろよ、ほら。
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「お母さん!!お母ああさん!!」
ぷつっと意識が切れたと思った次の瞬間眼前に血の海に沈む女性を四、五歳ばかりの男の子が揺する光景があった。文字通り眼前だった。自分の背が縮んだようだった。
私は女性を挟んで子供と向き合うような位置にいた。
ここは居間らしい。平均的な家庭だったらしく、居間はそれほど大きくなく、食卓にほとんどの場所を取られていた。その食卓には首を寸断するように開いた切り傷から血を垂れ流しながら突っ伏す父親らしき男がいたはずである。
食卓のそばで倒れている女性は既に息を引き取っていた。左胸の辺りに子供の腕の太さぐらいの血で黒々とした穴が空いていた。その穴からの出血がひどくないことから、穴が貫通していて血は向こう側から流れていることがわかった。子供はすがるようにそんな母親の亡き骸を揺すっている。目には涙が絶えることなく溢れて、二筋の線を作っていた。
――助けなくては。
と混濁した意識の中でそう思った。
けど、体が動かない。手を伸ばすにも指一本も動かない。逃げるようにと言うにも口が縫い合わせられたように動かない。
――助けなくちゃ。たすけなくちゃ。たすけなくちゃ
そう思わないといけなかった。思わないと心が持たなかった。
逃げろと叫んでも、それは声にならなかった。
足が動かない。手が動かない。言葉が出ない。
何故動かないのかなんてわかり切っていた。
けど、否定したかった。
動けたからといって何かが変わることがないことぐらいわかりきっていた。
けど、変えたかった。目の前の光景を、そしてこれから起きるであろう事を。
そして、それは起きた。起こるべくして起きた。
当然である。
体が動かないのは、これが、この光景が映像だからで、変えられないのはこれが過去だからである。
視界の端から華奢な人間の腕が伸びた。
その腕に気づいた子供が顔を上げた。手を見て、揺さぶっていた手を止めた。顔も凍ったように固まった。
華奢な腕は固まって動かない子供の首を掴むと、ゆっくりと持ち上げた。子供は抵抗をしなかった。死を悟ったのかもしれない。突然の事に思考がついていっていないということもあるかもしれない。圧倒的な冷酷無情な力の前に本能的に屈したのかもしれない。一瞬にして両親を奪った悪の塊に屈したのかもしれない。
「……おか…あ……さん……怖いよ。たす…けて……よ。嫌………だ…よ」
細い指は首に食い込んでいき、やがて気道を押し潰された子供は口から声なのか、それとも押し潰されたことで出た音なのかよくわからない音を漏らして事切れた。
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「来るなー!!化け物!!それ以上近づいたらガキでも殺すぞ!!」
子供の絶命の感触を手に感じた瞬間、またもや意識が途切れ、今度は路地裏で意識を取り戻した。路地裏は赤い光で照らされていた。背後の大通りを挟んだ向こう側の家が火に包まれていたのだ。火に包まれているのはその家だけではない。町のあらゆる家に火が放たれて、燃え盛っているはずだった。町全体を燃える木材のにおいの他に肉が焼けるにおいが充満していた。においとともに悲鳴も町に満ち満ちていた。
そして、『私』がいたところは行き止まりだった。三方向すべてを背の高い家に阻まれていた。そこに追い詰められた女性と女性を庇うように立っている男性がいた。女性は妊娠しているようで、腹部の膨らみが相当にあった。その女性が宿している子の父親であろう男性は右手に細い角材を振ってこちらを牽制していた。
右手に何か冷たい物がべったりと付いていた。目すら動かせないために見えないが、その何かの正体は見ずとも明らかだった。
――やめてくれ!やめてくれ!
次の瞬間に起こるであろう惨劇を知りながらも何も出来ない。惨劇を思い浮かべるだけで胸が裂けそうだった。思考を逸らすことも既に叶わない。
――見せないでくれ!!忘れていたのに!!もう十分苦しみつづけたはずだ!!!
「く、来るなああ!」
自分の意に反して歩を進めていた。時折視界の端に見える毛に覆われた腕が『私』が変化していることを伺わせた。
二人との距離はもう二メートルもない。
――行くな。お願いだから止まってくれ!!
と思った瞬間、『私』は足を止めた。
――えっ?
ほんの少し希望を抱かせるような間の後、
「こ、殺してやるううう!!!」
男性が飛び掛かってきた。振り下ろされた角材を事もなげに体を半身に構えて横にかわし、がら空きとなった左胸に指を真っすぐにして爪を突き立てた。それだけで飛び掛かってきた男性が自ら『私』の爪を左胸に突き通した。
この瞬間に私は考えるのをやめた。
右手が貫通していく間、肌の表面を温かく濡れたものが密着するように流れていくのを感じた。不思議なくらい抵抗無く腕の付け根まで突き抜けた。男性の背中から突き抜けた手に主を失ってもなお脈を刻む心臓が握られていた。男の肩越しに温かく脈打つ心臓を少し物珍しそうに角度を変えながら眺めて、握り潰した――と動じに、中にあった血が辺り一面に飛び散った。
ぐちゅと音を立てて肉片と化した心臓は指の間からゆっくりと垂れる。潰した感触は何とも言えないものだった。
「きぃやあああああああああああああ!!!」
一瞬の間を置いて女性の悲鳴が上がった。その声の大きさといったら尋常ではなかった。その悲鳴に思わず耳をふさごうとしたのを思い出した。というか、していた。
『私』は、無造作に男から腕を抜き放り捨てると、女性に飛び掛かり大きく開いた口の中に指を真っすぐにして手を突っ込んだ。手は脊髄を貫いて向こう側に突き抜けた。貫いたとき首の骨に当たったもののそれほど抵抗は受けなかった。引き抜くと、女性は悲鳴なのかよくわからないくぐもった声を上げて、倒れた。体が時折痙攣のように小さく跳ねる。失禁したのか微かな排泄物のにおいが鼻についた。白目を剥いた目からは涙が流れていた。その涙が恐怖からなのか、悲しみからなのかは知る由もなかった。
興味が湧いたのか『私』は女性の膨らんだ腹の前でしゃがみ込んだ。いまだ温もりを感じられる腹に手をあてさすったり舐めたり嗅いでみたりしていた。初めての物に遭遇した動物のような行動である。一通り観察してから、『私』は女性の腹を刺した。いずれ勝手に死を迎えたであろう胎児は原型を残して逝くことすら許されず、呆気なく体を寸断されて命を奪われた。
『私』は引き抜いた腕に絡み付いた血の混じった羊水を一度におうと、顔をしかめて腕を振って払った。そして、二つの亡き骸に一瞥を投げて路地裏を後にした。
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そこで微かな意識は途切れた。次に意識を取り戻すのは翌朝のことだった。
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「おい。どうした。殺気に当てられて気を失ったわけではないだろうな」
エレナは膝から崩れてそのまま動かなくなった狼虎を嘲るように言った。エレナからはもう殺気の類は感じられなくなっていた。
「ははっ。そんな訳無いだろうが。ただこいつを懐柔しようとしたけど、めんどくさくなって無理矢理精神へし折ってたから時間食っちまったんだよ。悪かったな、待たせっちまってよ」
ゆっくりと狼虎が立ち上がった。その言葉にエレナは顔をしかめた。
明らかに狼虎の様子がおかしかった。
狼虎はエレナに背を向けた間々背伸びをしてみると、今度は肩を回した。
「これが肉体かよ。なんだ、つまらねえなあ。俺はもっとこう、感慨深いものだと思ったが、以外と何にも感じねえなあ」
狼虎は手の平を広げて、握る動作を繰り返して、体の感覚を確かめているようだった。
「俺が現れる前にぶった切らなかったのをお前はきっと悔やむだろうが、そんなことはもう関係ねえ。始めようじゃねえかあ。快楽を伴う死合いを。おまえは俺を楽しませくれるのか」
狼虎はそう言うと、飛び上がり、大きな放物線を描いて、エレナに向かって殴り掛かった。エレナは間一髪後ろに飛びのいてかわした。エレナは反応が著しく鈍くなっていた。狼虎の拳は屋根を紙であるかのように突き破った。間を置かず、狼虎は前転したかと思うと、エレナの脳天にかかとを振り下ろした。エレナはさらに後ろに跳び、それを紙一重でよけたが、狼虎は恐ろしいほどの脚力で振り下ろした足で踏み切ると、エレナのみぞおちに拳打を喰らわせた。エレナは勢いよく突き飛ばされ、屋根の間を飛び越えて、大きな音をたてながら隣の家の屋根を転がり、屋根の端にしがみつくようにしてようやく止まった。エレナは思わず、その場で嘔吐し、呻きながら悶えた。
家の明かりが点り始めて、不思議そうに窓から外を見回す住民の姿が目立ちはじめた。そして、狼虎の姿を目にした者は悲鳴を上げるか、絶句して、窓から引っ込んだ。
「おいおいおい。まさか、こんなもんじゃねえだろうなあ。こんなんじゃ俺は毛ほども満足できねえぜえ」
そう言いながら、周りの騒がしい住民をちっとも気に留めず、狼虎はゆっくりとエレナの方に歩み寄った。
「この町の全ての人間をやらねえとこの渇きは潤されねえのかなあ」
と狼虎が家の周りに集まりはじめたやじ馬を見てつぶやいた瞬間、エレナは殺気を帯びた目で狼虎を睨んだ。
「そう睨むなよ。十分やる。その間に死合い出来るようにしろ。まあ、俺が出てこれたのは全てお前のおかげだしなあ」
さも余裕であるように狼虎が言った。
「それは、どういうことだ。貴様は一体何なんだ」
エレナは息をするのも苦しいそうであったが、狼虎に向かって叫んだ。
「まあ、返せねえようなでけえ借りがあるからなあ、お前には。話してやらんでもない」
狼虎は屋根の棟に腰を下ろすと、話を続けた。
「俺はこいつが生まれた時から、心の奥で息をひそめていたんだが、物心がつくまでは自由に出入りが出来たんだがなあ、結構前からあいつのせいでなかなか表に出させてくれなくなったんだ。ひどいだろ。ていうか、本当はこいつはなかなか強い精神の持ち主だったんだがなあ」
狼虎はニャッと微笑を浮かべながらエレナに言った。狼虎は身振り手振りも加え始めた。
「こいつの心の奥で退屈していると、お前がこいつの喫茶店に来たんだよ。一目見て、わかったぜえ。お前が俺を解放してくれるってなあ。そして、実際にそうなった。俺は本当にお前に感謝しているんだぜえ」
狼虎は喜びを体全体で表すように立ち上がり手を空に伸ばすと、突然振り返りエレナの方に早足で近づいた。エレナのそばに来ると、しゃがみ込んで握手を求めるように手を伸ばした。
「街の全ての人間ってのは、喫茶店にいたあの小娘も入るのか。」
手を払いのけると、咳込みながらエレナは言った。エレナは劣勢でありながら唇に冷笑を浮かべていた。エレナは賭けに出ていた。エレナの反応が鈍っていたのは腰が抜けたからではなく、思考をしてしまったからだった。戦いの場において考えることは百害あって一理無し。だが、幸か不幸か彼女の思考は一理はあった。その一理にエレナは賭けたのだった。
「俺に身内はいない。何を言っている」
先程まで余裕綽綽としていた狼虎はエレナの放った言葉を聞いて、顔をしかめた。
「貴様に訊いているんじゃない、あいつに訊いているんだ」
エレナは狼虎、否『ヴィアス』を睨みつけながら言った。
「あいつって、『ヴィアス』のことか?残念ながらもうあいつはこの肉体の主人ではなくなったんだ。俺が出そうとしないかぎり、あいつは出てこれねえよ」
「おい、そこにいるんだろう。このままだとあの小娘、殺されるぞ。聞こえてるのか!!」
エレナは狼虎に構わず続けた。
「だからあいつは消えたって言ってんだろうが」
苛立ちを隠さず狼虎は言った。
「あの小娘を殺すぞ!!!」
「うるせえ!!!」
と言った瞬間、狼虎は動きを止めた。時間が止まったようだった。狼虎はゆっくりと右手で左胸の辺りを押さえた。狼虎の息が荒くなる。狼虎は頭を抱えて、苦しみはじめた。
「てめえは大人しくしてろ。くそがあぁぁっ。このクソ尼ぁ!あいつのことしゃべってんじゃねえ!」
やがて狼虎は頭を掻きむしり、屋根に穴が開くほどの力で拳をたたき付け始めた。まるで、体の中の何かが皮膚を突き破って這い出そうとしている痛みに悶えているようだった。立ち上がると、屋根の上で平行感覚を失ったかの如くよろめき始めた。
エレナは、この好機を逃すまいと、よろめきながら立ち上がると、腰から短剣を抜き、決死の思いで狼虎に突進した。
しかし、視界の端で立ち上がり、短剣を手にしたエレナを捉えていた狼虎は意識が混濁している中、やみくもに腕を振り回した。
幸か不幸か、振り下ろされた鋭い爪が短剣に当たり、弾かれ、同時にエレナの手からも短剣が弾き飛ばされた。突進の勢いそのままにエレナは前に倒れ込んだ。
「久しぶりに出てきたんだぜ。もう少し、暴れさせろよおっ!」
狼虎はついにひざをつき、うずくまった。エレナは見回し、短剣を見つけると、腹ばいで短剣に這い寄った。
「て、てめえは……」
狼虎が片息で何かつぶやいくのを耳にしたエレナは振り向くと、狼虎の前に小さな人影を見つけた。
狼虎は尻餅を付くと、いざって後退りした。
やがて、エレナにも人影の正体がはっきり見えた。
人影はミーシャだった。
「来るな。よせ。近寄ったら殺す」
狼虎は後退りしながら鋭く尖った右手の爪をミーシャに向けて威嚇していた。だがミーシャは、そんな威嚇も意に介さない様子で狼虎に近づいていった。ミーシャは狼虎の攻撃可能な範囲に踏み入れるのに、それほどかからなかった。
「おああああああああ!!!」
狼虎は何かを振り払うようにおたけびをあげると、爪をミーシャに振り下ろした。狼虎のおたけびは怒りと悲痛が混ざった奇妙な音色だった。
しかし、ミーシャは攻撃を苦も無く横にかわし、そのまま懐に飛び込むように狼虎に抱きついた。
その途端まるで狼虎の周りの時間が止まったように見えたが、次の瞬間には、
「おぁ、あぁぁぁぁぁ!!!!」
狼虎は街中に響き渡るような叫び声を突如として上げると、力尽きたように倒れ込んだ。すると、ミーシャは自分の体重の二倍もありそうな狼虎の巨体を軽々と背負って、引きずりながら歩き出した。
「これ以上、この人を苦しめるのなら、あなたを絶対に許さない」
ミーシャはエレナに背を向けた間々言った。エレナは呆然としていて、自分に向かって言っているのに気付いて、ミーシャの方を見た時には、ミーシャと狼虎の姿は跡形も無くなくなっていた。