プロローグ
既に日は沈んでいる。一面に広がる漆黒の空には黒い布の上に砂金を振り撒いたように大小様々な幾多の星が浮かんでいる。そして、三日月はそんな空の真ん中で涼しい顔して踏ん反り返っている。
しかしそれでも街は暗い。この街、ミリノスはギリミス帝国の極北に位置する国の真ん中にあり、属国との物流の中心地である。そのためこの街の賑わいは他の街の追随を許さないほどではあるが、夜になれば属国との交通は封鎖されて国境の街の活気は鳴りを潜めて月や星がどれだけ照らそうともひっそりとして暗くなる。
ミノリスにある光は街を十の字に横断する二本の大通りの両側に並んでいる街灯と出店の明かりだけだ。そのため本通りは夜でも明るく賑やかだが、少しでも本通りから離れるとそこは漆黒が支配する世界。普通ならば犯罪者の巣窟であるが、この街では例外である。
久しく闇に踏み込んだ者の声が遠くに聞こえる。
瓦を蹴る軽快な足音だけを残して風を切って屋根を跳び移りながら、近くにある教会に向かった。
教会の尖塔はこの街の象徴的な建物だけあって一番高い建物だ。
教会の尖塔に飛びつけるように教会の正面に回り短く助走をつけて軽く棟の先端で跳んだ。
教会を囲むように道があって周りの住宅街と少し隔てられているが、私にとってそれは取るに足らないことである。
難無く教会に飛びつくと、いつもお世話になっている尖塔の先端までの出窓や出っ張りなどの足場を跳び移って先端にある十字架の上にたどり着いた。
この場所なら音は建物に反響されず、音源を正確に探知できる。
耳をそばだたせ、声の発信源の正確な方向を把握すると、尖塔から跳んで民家の屋根に柔らかく着地して屋根伝いにその方向へ疾走した。
やがて人間の声だとしかわからなかったぼんやりとした連続した音が明瞭に一つ一つの言葉として認識できるようになった。聞こえるのは男女三人の声。男性二人が一人の女性に気味の悪い声で言い寄っていて、女性はしきりにそれを拒んでいるように聞こえた。これで既に状況をあらかた予測できていた。
人の声を耳にしてから一分もしないうちに目的地に着いた。自分の影で気づかれないように注意しながら路地を見下ろすと、案の定二人組の男が女を脅していた。痩せ型の男と腹がパンパンに膨れ上がった男が女性を壁に追いやっていた。男等が来ている服という服、帽子から靴に至るまで、所々が破けていたり穴が空いていたり汚れていたりでボロボロだった。そんな服に劣らず、彼等の顔は汚れていた。帽子からはみ出ている髪は乱雑に散髪されたかのようにボサボサで、男等の手には刃こぼれが目立つ刃物が握られていた。それに対して、女性は今日仕立てたような綺麗なくるぶしまであるようなワンピースに薄いカーディガンを羽織っていて、長い茶髪の髪を引き立たせるように可愛らしいカチューシャを頭に付けていた。まるで対照的だった。そんな女性はせがむように痩せ型にしがみついていた。それを嘲笑うかのように二人は笑い合っていた。込み上げてくる怒りで低い唸り声を思わず口から漏れる。それを耳にしてかはわからないが、腹が膨れ上がった男がふとこちら見上げた。目を大きく見開くと、大きな尻餅を着き、痩せ型のズボンを引っ張り、こちらを指差した。
「お、おいっ!あ、あれを見ろ!」
痩せ型は仲間の異変に気づき、既に見上げていた。
彼等の顔は恐怖で歪んでいた。彼等が恐怖するのも無理はなかった。というのも、私は亜人の姿に変化していたからだった―亜人の中でも満月の夜に変化し人間を襲う伝説上の化け物『狼男』の姿に―。だが、私は厳密に言うと狼男ではない。空に昇っているのは満月ではなく三日月である。私は意の間々に変化できる『狼男』――狼虎である。
飛び降りようと足を踏み出した瞬間、痩せ型は我に返り、足にしがみついている仲間を振り払うと、走り出した。残された男は腰が抜けたのか、その場で倒れ込み、痩せ型が逃げた方にただ手を延ばしているだけだった。着地してすぐに跳び上がると、逃げている男の頭上を越え、逃げ道を遮るように降り立った。往生際の悪く、振り向いて走り出そうとしている男の肩を掴んで、間髪入れずにみぞおちに拳を叩き込むと、男は糸が切れたように崩れ落ちた。それを見て、仲間の男が力を振り絞るようにして、這い出した。持っていた男を無造作に放り投げて軽く跳びはねて這いずって逃げようとしている男の前に降り立ち、一瞬の間も与えず、足で後頭部を踏み付けて、顔面を地面に叩き付けた。足を上げて、気を失ったことを確認してから、女性の方に歩み寄った。女性は男等が片付けられるまでずっと魂が抜かれたかのように呆然としていたが、私が近づくと、我に返ったのか、座り込んだまま、震え出した。そんな女性の目は恐怖とどこか諦めの色をていしていた。
「お、お怪我はないですか」
とにかくどうにかして誤解を解こうと話し掛けた。
「い、いえ。ありません」
ポカンとしてから女性は言った。私が言葉を話せたことに素直に驚いているようではあった。
「そうですか。それは良かった」
「もしかして……噂の……?」
恐る恐るっといった感じで女性が言った。
「ま、まあ。噂の内容ははっきりとはわかりませんが、多分私のことも含まれているでしょう」
『人を守っている狼虎がいる』というこの街の噂――というか、既に事実になっている――が私がこの街の治安を守るようになる前からあった。というか、私がそれに共感して始めただけである。そのためこの街は治安が他の街よりもずっと良かったりする。
「ありがとうございますっ!」
ばっと立ち上がると、女性は勢いよくお辞儀をした。
「それと、ごめんなさい。私たちを守って下さっているのに怖がったりして」
深くお辞儀をした間々女性は続けた。
「いえいえ。こんな姿だから仕方ありませんよ。顔を上げてください」
と、言うと、女性はゆっくりと体を起こした。いまだ申し訳なさそうにしている。少し俯いて、せわしなく目を泳がせていた。それに少し微笑して
「では、家にお送りします」
と、言って女性を両腕で抱え上げた。突然抱き上げられた女性は
「わっ!!」
と、声を上げて慌てて私の首に腕を回してにしがみついた。
「ちゃんと、捕まっていてくださいね」
私は屈み込んで、軽く足を伸ばした。それだけで女性を抱えたまま屋根に飛び乗れた。
「住所は何処ですか?」
と、訊いたが、一向に返事が返ってこないことに不思議に思い女性の顔を覗き込むと、女性は目を輝かせてじっとある一点を見ていた。
女性の視線をなぞるように自分もその方向に目を向けた。
目に入ったのは、人でひしめく大通りの交差点だった。大通りの脇は色取り取りの出店が軒を連ねていて、店員が疲れも感じさせない声で客引きをしている。出店のほとんどが一人しか入れないような狭くて木でできた簡素なもので、鮮魚や精肉、野菜から服や、アクセサリー、日用品を取り扱う多種多様な店がある。
出店が夜でも営業しているのは、大通りを面している建物はほとんどが酒場で夜になれば大通りが酔客で溢れるので、そんな酔客を丸め込んで買わせるためだ。
そのため大通りは昼間よりも夜の方が夜の方が賑わっている。
その賑わいを女性は眺めていた。
この街は背の高い山で囲まれている盆地で平らな土地は中心地のかなり狭い範囲に限られていて家と家の間隔が無いに等しいぐらいないため、日光を遮るような二階以上の高さの建物は教会以外にこの街には無い。教会が一番高い建物なのはこういうことなのだ。
だから女性は屋根の高さから大通りを見下ろしたことはないのだろう。初めて海を見た子供のように無邪気にあどけなく女性は人が引っ切りなしに行き交う大通りに目を奪われていた。
そんな女性を見ていると、狼虎であることを良かったと思える。この気持ちのためにこんなことをしていると言ってもいい。
「あっ、すいません。ボーッとしてて」
我に返った女性はまたあの申し訳なさそうな顔をしている。違うところと言えば、少し赤くなっていることだった。
「いえいえ」
狼虎の姿であるにも拘わらず、人と接しているような女性の振る舞いは私に人肌の温もりを与えてくれていた。
「住所はどちらですか」
と、言うと、何の躊躇いもなく女性は住所を教えてくれた。少しぐらいは躊躇った方が良かったのではと思ったが、口には出さず、女性をその住所まで送り届けると、逆に名前と住所を教えてほしいと言われた。また来ますからとだけ言ってそれを丁重に断って現場に戻り二人組の男を近くの交番の前に落として帰った。後は勝手に警察が後始末をしてくれる。僕が犯罪者を捕まえて警察に突き出して警察は牢屋に入れるという暗黙の協力体制は前々からあった。この協力体制を時々警察の怠慢なのではと悪意を持って見たりしている。