表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

選択

   1


  ロゼにとっての始まりは、少女の淋しそうな笑顔。

  あなたみたいになりたいという、少女の言葉。


  目を覚まそうと、そう思った。

  この少女と、共にいたいと。


 「思った」ときには、もう、始まっていたのかもしれない。



   *


「……目が覚めたか」

 ぼんやりとした視界に、アスフェルの大きな上着のようなものが映った。ロゼはゆっくりと瞬く。頭のなかがはっきりしない。そして、突然思い出したように跳ね起きた。

「ミーシャ!」

「横でまだ寝てるよ。落ち着けって」

 こちらを見ているアスフェルと目が合って、ロゼは急に現実に引き戻されたような気分になった。隣を見る。ミーシャが横たわっていた。

「床が……そう、床が、落ちて、ぼくらも落ちて……じゃあ、ここは、遺跡の下?」

 床が抜けて、落ちたことは覚えている。その先がわからないということは、気を失ってしまったのだろう。

 アスフェルは、肩をすくめてみせた。

「正解のような、はずれのような」

「どういうこと?」

「どういうことだと思う?」

 そのまま問いかけられ、ロゼは考えてみる。遺跡から落ちたのだから、遺跡の下にいると考えるのが普通だ。

 それとも、気を失っている間にアスフェルが移動させたのだろうか──考えているうちに、ロゼはあることに気づいた。

 かすかな音。擦るような、隙間から吹く風のような、何か音が聞こえる。ロゼは初めて、いま自分がいる場所を見た。

「……ここ、どこ?」

 遺跡の下、といってしまうには、あまりに狭い空間だった。すぐ手が届くところに壁があり、半円形のドームのようになっている。床が崩れて、その下に落ちたはずなのに、立ち上がれないほど低いところに天井があった。

「どこ、っていわれても、正確な位置はわからないんだけど……俺たちはいま、リリン・ドゥーアに向かってる。それは確かだ」

「リリン・ドゥーア? どういうこと?」

 ロゼにはもう、何が何だかわからない。

「わかりやすくいうと……そうだなぁ、地面の下に、たくさんの管があるとする」

 右手で地面を、左手の指で管を表しながら、アスフェルが説明する。

「うん」

「で、その管は、ある一つの場所に向かって進んでいる」

「……。うん」

 うなずいてみたものの、もうついていけなくなってしまった。

「ま、理屈はいいや。とにかく、地面の下にはたくさんの管があって、そのなかに乗り物みたいなもんがある。それが進んでると思えばいい」

「うん」

「その乗り物の行き着く先が、リリン・ドゥーアってわけ」

 ロゼは、もう一度まわりを見た。耳をすまして音を聞き、理解する。

「ぼくたちは、遺跡から下に落ちて、その乗り物に乗ったってこと? この音は、この乗り物が動いてる音だね……」

「うーん。正解、だけどちょっと不正解」

 アスフェルは、人差し指を立てて、にんまりと笑った。

「リリン・ドゥーアに行くのに、近道するっていっただろう、覚えてるか? あの遺跡は、そもそもこの乗り物の乗り場だったわけだ。落ちて乗った、っていうと、偶然っぽいけど、そうじゃない。まあ、床が落ちたのはさすがに驚いたけどな。俺たちは乗り場に来た。そして、乗り物に乗った。その手段が落下だった……まあ、そういうこと」

「…………」

 ロゼはうつむき、考える。どうしてこんなものがあるのか、という問いの答えは、なぜか自然に頭に浮かんだ。

「……ニンゲンを、リリン・ドゥーアに集めたんだね。昔。人形に……ドールに、するために」

 それは、考えて出たことなのか、記憶なのかはわからないが。

 ロゼの言葉に、アスフェルは驚いたようだったが、そのまま続けた。

「そう。なぜ、リリン・ドゥーアが死んだ町といわれるのか、何もない町といわれるのか……それは、リリン・ドゥーアが、町の形をした巨大なドール生産工場だったからだ。ニンゲンが集まった町……ニンゲンが、進化した町」

「それが、リリン・ドゥーア……」

 ぽつりと、ロゼは呟いた。一瞬、悲しいような気持ちがよぎる。

「いま俺たちが乗ってるのは、そのときの運搬手段、移動手段だ。過去の遺産だね。こんなもの、今の技術じゃ作れない」

「……うん」

 窓もなく、光源も見当らないのに、ぼんやりと明るいのも、過去の遺産というやつなのだろう。ロゼは眠り続けるミーシャの頭をそっと撫で、ひどく落ち着いた気持ちでいた。

 新しい場所に行くという心境ではない。もちろん、凄まじい技術を前に、驚いているというわけでもない。

「ついでにいうと、この乗り物はすごい速さで進んでる。途中で出たいとか思わないほうがいい。んで、忘れてるみたいだけど……真っ先に落ちてったあの黒いおっさんも、この管の前の方にいるはずだ。二メートルぐらいずつ部屋みたいになってるから、どのみち接触できないけど。乗り物っつっても、ずっと動いてるものだから、乗ったら最後、リリンに着くまでは出られないよ」

 情報を吐き出して、アスフェルは身体を反り返らせて伸びをした。冷たい感触の床に寝転がり、ロゼとミーシャに背を向ける。

「あんたは賢いからわかるだろう。着くまで何もできない。嬢ちゃんみたいに、寝んのが得策だ」

「……アスフェルは、どうしてこんなこと、知っているの?」

 ロゼの問いに、アスフェルはいつのも飄々とした声で答えた。

「リリンは俺の故郷だ。知ってて当然だろ」


 どれほどの時間が過ぎたのだろう。

 外の光は入らないので、何度朝を迎えたかわからない。何日も過ぎたような、ひょっとしたら一日も過ぎていないような、不思議な感覚だ。

 ロゼたちの『乗り物』は、当たり前のように突然止まった。

 ぎゃいんと、止まるときに一度だけ響いた金属音が、逆に嘘らしく感じられる。ドームのようになっていた天井が横に開き、遠くに明かりが見えた。

 ずっと眠り続けているミーシャを抱え、ロゼはアスフェルに続いて乗り物を降りた。少し歩いたところにあった、長い長い階段を抜けると、そこはもう、町だった。

「ここが、リリン・ドゥーア?」

 驚いたように口を開けているロゼを見て、アスフェルが苦笑する。彼は少女のように上着の裾を両手で摘むと、一礼してみせた。

「そのとおり。ようこそ、リリン・ドゥーアへ」

 日の光は眩しく、ずっと地下にいたロゼにとっては痛いほどだった。幅の広い道の両脇に立ち並ぶ家屋の、その白い色に反射して、より一層明るくなっているようだ。

「……ぼくがいた、町みたいだ……」

 古めかしい、しかし生活のあとのない白い家のなかを覗くと、動かないドールが、飾り物のようにあった。自分が目を覚ました白い町のことを思い出し、ロゼは複雑な思いでドールから目をそらす。

「とりあえず、嬢ちゃんをちゃんと寝かせないとな……ついてきて」

 そういって、アスフェルはすたすたと歩きだした。


   *


 閉じこめられたのだと、フィエルテは思った。 

 目を覚ましてみれば、薄暗い小さな部屋のなかにいたからだ。部屋というにはあまりにも天井が低く、ケースのなかに入れられたようだった。

 そのケースには窓も隙間もないようだったが、呼吸が苦しくなるというわけではなかった。しかし、一向に出られる気配もない。

 何か小さな音が、耳鳴りのように聞こえるだけだ。一体、どうなってしまったのか、まったくわからない。

 ケースから出ることができないとわかってからは、ただじっとしていた。最愛の妹のことを思い、憎いドールのことを思い、じっとうずくまっていた。

 突然、固いものを擦り合わせたような低い音とともに、地震のような揺れを感じて、がくんと身体が動いた。ケースが開き、外に出て初めて、今までいたケースが動いていたのだと、さっきのは揺れたのではなくて止まったのだと、わかった。

 彼は階段を見つけ、光に目を細め……

 愕然とした。

「……白い町、だと……?」

 広い道の両脇に、不自然なほどに整然と並ぶ白い家々。フィエルテは、よろよろと歩きだす。

「戻ってきたのか……?」

 彼は走りだした。

 ならば、ディアナがいるはずだと、最愛の妹を求めて。


   2


 夢を見た。

 幼いころの夢。

 まだ、神殿に売られる前の、母に愛されていたころの、幸せな夢。


 「むかしむかし、あるところに……」

   ──お母さん、それじゃなくて! ねえ、あのお話して、ニンゲンのお話!

 「あら、またニンゲンのお話? ミーシャはニンゲンのお話が大好きね」

   ──いいから、ねえ、ねえ、お話して!

 「ええ、いいわよ……」

   

 母親が話してくれる。

 ミーシャはその話が、その時間が、大好きだった。

 

   ──ねえ、じゃあ、最後のニンゲンは、今も、リリン・ドゥーアにいるの?

 「そう。ひとりぼっちになってしまったニンゲンは、世の中のことを嫌って、たったひとりで、暮らしているのよ」

   ──ミーシャ、大きくなったら、ニンゲンに会いにいきたいな。だってひとりじゃ  寂しいもの。ミーシャが一緒なら、きっと寂しくないと思うの!



 そして、大きくなったミーシャが、森にいた。

 神殿を逃げ出し、毎日泣き崩れる母と共に、森で暮らした。

 

   ──ねえ、ヴィオレお婆ちゃん。ニンゲンのお話、知ってる?

 「当然、知ってるさね。ビースルの間で語り継がれる、お伽話さ」

   ──わたし、ニンゲンに、会いにいきたいな。

 「ひっひっ、なんでそんなこと思うんだい」

   ──お願いしたいことがあるの。


 ずっと昔から決めていた。ニンゲンに会って、伝えたい願い。

 その願いは、ずっと、ずっと、色褪せることなく、ミーシャの胸のなかにある。


 

   ──お願いしたいことがあるの。

     だから、リリン・ドゥーアに、

     いつか

 


     ニンゲンに、お願いしたいことがあるの





 ミーシャは跳ね起きた。

 開け放たれた窓から風が訪れ、自分がひどく汗をかいていることを自覚する。ゆっくりと首を左右に振り、毛布を足よりもさらに向こうに追いやって、もう一度寝転がった。ふかふかの感触に軽く身体が跳ねて、ベッドで寝るのなんて久しぶりだと、ぼんやり思う。

 そしてもう一度、跳ね起きた。

「え? わたし……」

 何だか恐くなって、もう一度毛布をひっぱってきて抱き締める。なぜ、ベッドで寝ているのだろうか。トリコの町にいたはずではなかったか。

 カーテンもない、ただ切り抜かれただけの窓から、外を見る。

 道の向こうに、白い家屋が並んでいるのが見えた。

「白い町……まさか、帰ってきたの?」

 しかし、毎日通い続けたあの白い町とは、どこか違うように思えた。具体的に何が違うというわけではないが、知らない風景のような気がする。

 ミーシャは、だんだん思い出してきた。

 トリコの町にいたこと。

 フィエルテに会ったこと。

 その心を、聞いたこと。

「……わたし……」

 身体が、小刻みに震えだす。ミーシャは、首をゆっくりと振った。

「……わたし、行かなきゃ……リリン・ドゥーアに、行かなきゃ……早く……」

 震える足をベッドからおろし、ミーシャはふらつきながらも歩きだした。


 その建物は、他の白い家と比べると、ずいぶん大きいようだった。なかにある家具も装飾品も、すべて白い色をしている。生活の気配が全くないという意味では、他の家々と同じだ。

 ロゼは、アスフェルの後ろを黙って歩いていた。部屋にひとりで寝かしてきたミーシャのことが気になったが、おとなしくアスフェルに続く。

 白い廊下の突き当たりに、あまり大きくもない部屋があった。扉を開けて、なかに入る。

部屋のなかは薄暗かったが、アスフェルが壁に触れると、昼間のように明るくなった。

 部屋の中央に、ちょうど人がひとり乗るぐらいの、四角い白い台が一つ。部屋の奥とその両脇には、ロゼが見たこともないような、物々しい器具のようなものが並んでいた。

「ここは……?」

「何も感じないか?」

 問われて、ロゼは首を傾げる。

「どうして?」

 アスフェルはロゼに背を向けて、台にそっと触れた。

「ドールは、こういう場所で作られたんだ」

「……ドールが、生まれた場所?」

 そういわれても、ぴんとこない。ロゼは、ゆっくり部屋を見渡した。しかしやはり、初めて来た場所という認識しかできない。

「リリン・ドゥーアは死んだ町だ。あるのは、こんな、過去の遺産だけ。ニンゲンなんていないんだ。最後のニンゲンは、俺たちを作って、死んだ」

 アスフェルが、意を決したように、ロゼを見た。

「ロゼ、わかってるだろう。俺は、最初から、わざとおまえたちに近づいた。そして俺がなんなのか……それも、わかっているはずだ」

 ロゼはアスフェルの目を見つめた。

 そんなことはわかっていた。しかしそれを口にすることに、どれだけの意味があるのか。

「アスフェルがドールだということが、何か目的があってここに連れてきたということが、そんなにいけないこと?」

 疑問を、素直に口にしていた。

「何を悔いているの?」

 アスフェルは、ロゼのその目を受け止めた。逸らさずに、唇を噛む。

「俺が悔やむのはこれからだ──おまえに、選択を迫らなければならない。なぜ、ただひとり、おまえが目覚めたんだと思う? どうして、ここに連れてきたんだと思う?」

 ロゼはこたえない。わかるはずがない。静かに、アスフェルは続けた。

「これは、ニンゲンの勝手だ」

白い台に手をつき、どこか懐かしむように──どこか辛そうに、撫でる。

「ニンゲンの勝手で、選択を迫るんだ、ロゼ。おまえに──始まりのドールであり、終わりのドールである、おまえに」

 意を決したように、アスフェルはロゼの両肩をつかんだ。それは力強く、肩に爪が食い込むようだったが、それでもロゼは瞬くことすらできなかった。

「さあ、ロゼ、『目覚めたもの』……おまえは、ここに来て、何を思う?」


 家のなかは思ったよりも広く、外に出られずに、ミーシャはおぼつかない足どりでさまよい歩いていた。

 不気味なほどに、どこもかしこも、白い家だ。まだ夢の続きなのではないかと思ってしまう。

 小さな部屋のようなものを見つけて、ふらりとなかに入る。そこにあったものを見て、ミーシャは鋭く息を吸い込むような悲鳴をもらした。

 白く、狭い部屋の中央に、人影がある。しかしそれは、幻であるかのように、薄く、向こう側が透けて見えた。

 影は、驚いたように見えたが、すぐに微笑んで一礼した。

『ようこそ、リリン・ドゥーアへ』

 空気のなかに消えてしまいそうな声だ。ミーシャは、ゆっくりとあとずさる。

「あ、あなた、だれ? リリン・ドゥーアって……」

『恐れることはないよ、森の民……ビースルのお嬢さん。「目覚めさせたもの」よ』

 少年の姿をした影は、やわらかく微笑んだ。その姿が誰かに似ているような気がして、ミーシャは思わずつぶやく。

「アスフェル……?」

『アス=フェルというのは、「導くもの」の名前だよ。私は「待つもの」。ここ、リリン・ドゥーアで、ずっと君たちを待っていた』

「リリン・ドゥーア……ここは、リリン・ドゥーアなの? ねえ、じゃあ、ニンゲンに会わせて! リリン・ドゥーアなら、最後のニンゲンがいるはずよ!」

 影は、少し寂しそうに笑って、首を左右に振った。

『ニンゲンはいないよ。最後のニンゲンは、私たちを作って死んだ』

 ミーシャは、目を見開いた。

「死んだ……? 嘘……じゃあ、わたしは……!」

 ミーシャの言葉をさえぎって、影はやわらかい声で続けた。

『さあ、お嬢さん、「目覚めさせた者」。君の意志を聞こう。君は、何を思う?』


「何を思うって……どういうこと?」

 ロゼは目を瞬かせた。アスフェルは、ロゼの目を見ている。

「おまえは特別じゃないんだ、ロゼ……ドールは皆、目覚める。おまえは少し、早かっただけだ。思いを一身に受けることで、目覚めた。ドールが目覚めることを強く望むものがいれば、そのドールは動きだす──これは、プログラムされていたことだ。そのプログラムを、最後のニンゲンが、仕掛けた」

「…………」

 ロゼは黙って聞いている。自分が動くことを望んだのは、ミーシャだ。

「でも、最後のニンゲンは迷った。果たしてそれは本当にいいことなのか……ひょっとしたら、進化の妨げになるだけなのではないかと。そこで、最後のニンゲンは、俺を作ったんだ。最初に目覚めたドールと、目覚めさせたものとをここにいざなうために。ドールが目覚めることを是とするか否とするかを、最初のものに聞くために。要するに、ドールをどうするかは、おまえに委ねられたわけだ。……わかるな?」

 ロゼは小さくうなずいた。

「さあ、ロゼ、おまえの心を問う。もし是とするなら、ドールはこのままだ。否とするなら……二度とドールが目覚めることがないように、プログラムを断ち切る。──さあ」

 アスフェルは、繰り返した。

「何を、思う?」


「じゃあ、ロゼは、わたしが強く思ったから目覚めたってこと?」

『そう、利口だね、「目覚めさせたもの」。そういうことだ。そして、最初にドールを目覚めさせた君が──正確には、君と、最初に目覚めたドールが──今後のドールを、左右することになる。最後のニンゲンは、その選択を、君たちに委ねたんだよ』

 影は目を細めて、ミーシャを見下ろした。

『さあ、君は何を思う?』

 ミーシャは、ゆっくりと、何度も、首を左右に振った。

「わからない……」

 わかるはずがなかった。

 真っ白だったロゼの心が色々なことを感じていくことが、白くなくなっていくことが、良いことなのか悪いことなのかなど。

「わたしには、わからない……だいたい、そんなの、無責任よ……わかるわけ、ないじゃない……」

 目覚めたとき、ロゼの心は真っ白だった。

 今はもう、真っ白ではない。それは、成長の証。

 それは良いことなのか、悪いことなのか、ミーシャには、わからない。

「この世界をあの子に見せることは、正しかったの? わたしがあの子を目覚めさせたことは、罪ではないの? ロゼの心はあんなに綺麗だったのに……わたしが染めたの、わたしが、よごしてしまったの」

ぼろぼろと涙がこぼれた。

 最後の町を訪れることを望んだ。最後のニンゲンに会うことを望んでいた。それは、目的があったからだ。

「なのにわたしは、まったく反対のことを、してしまったの」

 ミーシャは、影を見上げた。なにもかもが理不尽に思えた。

「どうしてわたしが、選択しなくちゃいけないの」

『この世界で、だれよりも、ドールを想ったのが君だったからだよ』

「想った……?」

 確かに、ミーシャは想った。

 しかしそれは、ロゼを目覚めさせるためのものではなかった。

「わたし、ドールを想ったわ……だって、願いが、あったから。だからここに来たの。だから、ここに来たのに!」

 ミーシャは、影を睨めつけた。

 こんなはずではなかった。

 自分には、選択する資格などないのだ。

「あなた、勝手だわ。いつまでもそうやって、だれかを頼っていればいい……自分で考えることもしないで」

 姿勢を低くすると、ミーシャは高く跳躍した。影の横をすり抜けて、窓から身を躍らせる。

 最後にちらりと影を振り返ったが、何もいわなかった。


「ぼくには、わからないよ」

 ロゼは、自嘲するようにそうつぶやいた。

「わからない……?」

「ぼくはね、思うんだ。ドールは、動いている人にとっては動いてないけれど、ドールにとってはそれが当たり前で、そうやって暮らしていたんじゃないかって……。うまく、いえないけど、ドールにとっては、動いてないことのほうが、自然な状態で、いろんなことを考えて、生きていたんじゃないかって」

 ロゼは静かな表情で告げた。

「だからそれはきっと、ぼくが決めていいことじゃない」

「…………」

 アスフェルは目をそらさない。

それは、アスフェル自身も思ってきたことだった。

 もう、気の遠くなるほどの昔、ニンゲンの手で生を受けてから、ずっと思っていた。ドールの監視をしながら、静かに、穏やかに過ぎていく毎日のなかで、思い続けてきた。

 そもそも、ドールを、目覚めさせる必要はあるのか。

 いまのこの世界に、波をたてる必要はあるのか。

「アスフェルは、どう思うの? 目覚めさせた方がいいと、思っている?」

 くっ、とアスフェルは笑った。

「まさか、俺が聞かれる側になるとはな」

「予想できたことでしょう、アスフェル」

 突然、低い、感情を押し殺したような声が響いた。

 部屋の入り口に、ひどく冷たい目をしたミーシャが立っていた。

「ミーシャ! 目が覚めたんだね」

 すぐにロゼが駆け寄るが、ミーシャは一瞥しただけで、視線をアスフェルに戻す。

「無責任で、自分勝手……ヒトなんて、みんなそう。ニンゲンもそうだったのね。ただの責任放棄であなたたちを作って、見届けずに死んでしまった」

「……そうか、聞いたんだな」

 ばかみたい、とミーシャはつぶやいた。

 何をしに、こんなところまで来たのだろう。

 ニンゲンには会えず、結局、嫌な思いをしただけだ。

「もう、どうでもいい──選択なんて、関係ない」


   *


 妹がいた。

 最愛の妹だ。

 両親を早くになくし、二人で生きてきた。

 体の弱い妹は、健気に家事をこなし、働き続ける兄を支えた。

 ささやかな幸せ。しかし、充分な幸せ。

 だが、妹は死んだ。

 流行病で、あっけなく、命を落とした。

 救いを求めて入信したセプテンでは、信仰こそがすべてを救うと教えられた。

 願った。

 妹が、生き返るようにと。

 そうして、あるとき、白い町でドールを見た。

 妹に酷似した、少女のドール。

 このドールは妹なのだと、妹に間違いないと思うようになったのはいつのことだっただろう。

 そんなことがあるはずはないと理解していたが、心は信じてしまっていた。

 妹がここにいる。

 救わなければ。

 救い出さなければ。


 フィエルテは、町をさまよい歩いていた。

 ここがずっと通い続けてきた白い町ではないということは、すぐにわかった。しかしそれは、なんの解決にもならない。

 もう、限界だ。

 一刻も早く、エスペランスを取り返さなければ。

 妹を、救わなければ。

 フィエルテは町中を歩き回り、一軒だけ他の家よりも大きい家を見つけた。

 警戒しながらも足を踏み入れると、人の気配がした。彼は、直感を信じ、迷わず家のなかを突き進んだ。

 突き当たりの部屋には、思ったとおり、ドールの少年がいた。フィエルテは、喜びのあまり、高らかに笑った。

「やっと見つけた! 追い詰めたぞ……! さあ、奇跡の腕輪を渡すんだ!」

 ロゼとミーシャが振り返り、アスフェルは右手を額にあてた。

「そういえば、いたなあ、あんた。正直、それどころじゃないんだけど」

「おとなしく渡せ。そうすれば、危害は加えない。エスペランスさえあれば、救うことができるんだ……! さあ!」

 その目は、ロゼを見ているようで、しかし遠くを見ているようでもあった。頬は紅潮し、必死になっているのに、心はどこか遠くにあるようであった。

「持っていないよ」

 静かに、ロゼが告げた。フィエルテはせせら笑う。

「嘘をつくな。ならどうして、お前が──ドールが、動いている? それこそ奇跡だ! エスペランスの力だろう!」

「あなた、エスペランスなんて、本気で信じてるの」

 ロゼの隣で、ミーシャが怒りと哀れみの入り交じった声を出した。

「神殿なんて、お金儲けしているだけ。ただの腕輪に決まってる」

 奇跡の神子の言葉に、さすがに怯む。アスフェルが続けた。

「その腕輪がどういうものかは知らないけど……ロゼが動いていることには、本当に関係ない。ドールは動き出すんだ。だれかが強く思えば、それだけで。ロゼはミーシャの思いを受けて、動き出した。それが、ドールのプログラムだ」

「…………」

 フィエルテは、ロゼとミーシャと、アスフェルとをゆっくりと見て、考えるように沈黙した。そうして、静かに、笑い出した。

「邪魔を、するのか」

 もう、目の焦点が合っていなかった。

彼はひどくゆっくりと、懐から短身のナイフを取り出す。作り物のように静かな動きに、ロゼたちには、それが意味するところが何なのか、一瞬わからない。

 それからの動きは素早かった。

「なら、ドールを壊して、エスペランスを取り返すまでだ!」

 フィエルテは床を蹴り、ナイフを振り上げた。それを上回る速さで、ミーシャが身を翻す。

 ロゼは目を見開いた。

 ロゼの目の前で、ミーシャが崩れ落ち、鮮血が飛び散った。

「てめえっ」

 アスフェルが飛び出し、フィエルテの手をねじり上げる。彼は血を浴び、恍惚とした表情で声を上げた。

「赤い! 奇跡の神子の血も赤いんだな! この血が、この血があればディアナは生き返るかも知れない! なんせ神子の血だ……!」

 完全に、心が、どこかへ行っていた。殴りつけようとして、アスフェルはそのまま手を下ろす。

 その必要はなかった。

 もうこの男には、何をする力も残っていなかった。

「ミーシャ……!」

 ロゼは、ミーシャを抱き寄せた。

 ミーシャは、流れ込んでくるロゼの気持ちに、微笑む。

「ごめんね……わたしは、あなたを、目覚めさせちゃいけなかったのかも知れない。ドールは、ドールのままでいたほうが、幸せだったんだ、きっと」

 でも、この気持ちはなんなのだろう──ミーシャの目に涙がにじむ。

 もう、ロゼの心は真っ白ではない。

 しかし、こんなにも、あたたかい。

 これはいけないこと?

「ミーシャ、ぼくは、ぼくはね、目覚めてよかったよ。ミーシャと同じ時間を過ごせることが、本当に幸せなんだ。だから、ミーシャ──」

「ごめんね」

 謝罪を告げて、ミーシャはアスフェルを見た。

 胸から流れる血は止まらなかったが、その瞳は、力強い意志を宿していた。

「お願いがあるの」

 そのために、ここに来た。

 白い町で、ずっと抱いていた想い。

 ミーシャは、微笑むようにして、願いを告げた。


「じゃなきゃわたし、壊れてしまうから」


   3


 ステンドグラスから、色彩豊かな光が差し込むなかで、白いローブを着た老人は、優雅に茶をすすっていた。白いテーブルの上にカップを置き、小さく息をつく。

「キリン=ルーシ。遅かったですね」

 振り返らずに投げかけられた言葉に、同じく白いローブを着た男性が、どきりと身を硬直させた。

「は、ルーンセイグ老。それが、町の骨董屋では、たいしたものが……」

「なにも、怒っているわけではありません。心配していたのですよ」

 ルーンセイグは微笑して、キリンを招き寄せる。

 キリンは、恐縮しながら、白テーブルの上に懐から取り出した布を敷いた。その上に、紫色の包みを置く。

「このようなものしか……」

「かまいません。ご苦労でしたね、キリン=ルーシ。白の神官であるあなたに、このようなことをやらせて」

「いえ、いえ、そんな……」

 こんこんと、控えめなノックの音が響いた。誰だ、と、ルーンセイグに対するときとはまるで別人のような声で、キリンが声を張り上げる。

「──失礼します。ファレイ=ミラ殿がお帰りになったのですが……」

 消え入るような声に、ルーンセイグが優しい声音で、しかし有無をいわさぬ調子でこたえる。

「ファレイ=ミラ、入りなさい。ファレイ=ミラだけです。あとのものは、入ってはなりません」

 ややあって、あちこちに包帯を巻いた赤の神官、ファレイが足を引きずりながら現れた。その姿を見て。キリンが眉根を寄せる。

「このような姿で、失礼します、ルーンセイグ老」

「よく帰りました、ファレイ=ミラ。ずいぶんと、大変な目にあったようですね」

「いえ……」

 ファレイはうつむいて、そのまま黙ってしまった。その身体が、小刻みに震えだす。

「どうしたんだ、ファレイ=ミラ。報告に来たのだろう!」

 キリンにいわれ、ファレイは顔を上げる。悔しさと情けなさで震える体をなんとか沈め、彼女は圧し殺した声を搾り出した。

「……申し訳、ございません……奇跡の腕輪、エスペランスを取り返すことは、できませんでした……!」

 ファレイを見下ろし、ルーンセイグは優しく微笑んだ。

「そうですか」

 返ってきたのは、たったの一言。ファレイは恐る恐る、ルーンセイグの顔を見上げる。

「わ、私は……! この責任をとって、セプテン神のために……!」

「ファレイ=ミラ」

 相変わらずの優しい声で、その名を呼ぶ。はい、と小さく、彼女は返事をした。

「奇跡とは、何だと思いますか?」

「は……奇跡、ですか? それはもちろん……」

「奇跡などありません」

 白の神官は、残酷な言葉を吐いた。ファレイを見下ろし、笑顔で続ける。

「奇跡は、奇跡という形であるのではない。それを奇跡と呼ぶのは人です。奇跡は人のなかにある」

「し、しかし! お言葉ですが、セプテン様は……!」

 哀れみさえ含んだ目で、ルーンセイグはもう一度微笑んだ。

「神などいない。神を信じるのも人です。神も、人のなかにいる」

「……っ」

 ファレイの頭のなかは、真っ白になっていた。もっとも尊敬する神官の口から出てくる言葉の意味が、わからない。

 ルーンセイグは、キリンが持ってきた紫色の包みを厳かに開いた。中には、数個の指輪や腕輪などが入っている。

 彼はそれをいくつか物色すると、最後に一つ、古ぼけた指輪のようなものを手に取った。

「ふむ……これで、いいでしょう」

 何のことかわからずに、ファレイはただ白の神官を見上げる。

「奇跡の腕輪はその効力を失った。今からはこの指輪が神の指輪……新しいエスペランスとして、この神殿に祀りましょう」

「……え?」

 ファレイは目を見開いて、ルーンセイグと、その手のなかにある指輪を見る。

「愚かものがいました。奇跡の腕輪があれば、死んだ妹を生き返らせることができるのだと信じ、腕輪を盗んだ愚かものが。あれも、もともとは、骨董屋で仕入れたただの銀の腕輪だというのにね……」

 ルーンセイグは優雅に屈み、ファレイの肩に手を置くと、ひどく優しく笑った。

「あなたは頑張りました。きっと、神のご加護があるでしょう」

 ファレイは、ゆっくりと、首を左右に振った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ