選択
1
ロゼにとっての始まりは、少女の淋しそうな笑顔。
あなたみたいになりたいという、少女の言葉。
目を覚まそうと、そう思った。
この少女と、共にいたいと。
「思った」ときには、もう、始まっていたのかもしれない。
*
「……目が覚めたか」
ぼんやりとした視界に、アスフェルの大きな上着のようなものが映った。ロゼはゆっくりと瞬く。頭のなかがはっきりしない。そして、突然思い出したように跳ね起きた。
「ミーシャ!」
「横でまだ寝てるよ。落ち着けって」
こちらを見ているアスフェルと目が合って、ロゼは急に現実に引き戻されたような気分になった。隣を見る。ミーシャが横たわっていた。
「床が……そう、床が、落ちて、ぼくらも落ちて……じゃあ、ここは、遺跡の下?」
床が抜けて、落ちたことは覚えている。その先がわからないということは、気を失ってしまったのだろう。
アスフェルは、肩をすくめてみせた。
「正解のような、はずれのような」
「どういうこと?」
「どういうことだと思う?」
そのまま問いかけられ、ロゼは考えてみる。遺跡から落ちたのだから、遺跡の下にいると考えるのが普通だ。
それとも、気を失っている間にアスフェルが移動させたのだろうか──考えているうちに、ロゼはあることに気づいた。
かすかな音。擦るような、隙間から吹く風のような、何か音が聞こえる。ロゼは初めて、いま自分がいる場所を見た。
「……ここ、どこ?」
遺跡の下、といってしまうには、あまりに狭い空間だった。すぐ手が届くところに壁があり、半円形のドームのようになっている。床が崩れて、その下に落ちたはずなのに、立ち上がれないほど低いところに天井があった。
「どこ、っていわれても、正確な位置はわからないんだけど……俺たちはいま、リリン・ドゥーアに向かってる。それは確かだ」
「リリン・ドゥーア? どういうこと?」
ロゼにはもう、何が何だかわからない。
「わかりやすくいうと……そうだなぁ、地面の下に、たくさんの管があるとする」
右手で地面を、左手の指で管を表しながら、アスフェルが説明する。
「うん」
「で、その管は、ある一つの場所に向かって進んでいる」
「……。うん」
うなずいてみたものの、もうついていけなくなってしまった。
「ま、理屈はいいや。とにかく、地面の下にはたくさんの管があって、そのなかに乗り物みたいなもんがある。それが進んでると思えばいい」
「うん」
「その乗り物の行き着く先が、リリン・ドゥーアってわけ」
ロゼは、もう一度まわりを見た。耳をすまして音を聞き、理解する。
「ぼくたちは、遺跡から下に落ちて、その乗り物に乗ったってこと? この音は、この乗り物が動いてる音だね……」
「うーん。正解、だけどちょっと不正解」
アスフェルは、人差し指を立てて、にんまりと笑った。
「リリン・ドゥーアに行くのに、近道するっていっただろう、覚えてるか? あの遺跡は、そもそもこの乗り物の乗り場だったわけだ。落ちて乗った、っていうと、偶然っぽいけど、そうじゃない。まあ、床が落ちたのはさすがに驚いたけどな。俺たちは乗り場に来た。そして、乗り物に乗った。その手段が落下だった……まあ、そういうこと」
「…………」
ロゼはうつむき、考える。どうしてこんなものがあるのか、という問いの答えは、なぜか自然に頭に浮かんだ。
「……ニンゲンを、リリン・ドゥーアに集めたんだね。昔。人形に……ドールに、するために」
それは、考えて出たことなのか、記憶なのかはわからないが。
ロゼの言葉に、アスフェルは驚いたようだったが、そのまま続けた。
「そう。なぜ、リリン・ドゥーアが死んだ町といわれるのか、何もない町といわれるのか……それは、リリン・ドゥーアが、町の形をした巨大なドール生産工場だったからだ。ニンゲンが集まった町……ニンゲンが、進化した町」
「それが、リリン・ドゥーア……」
ぽつりと、ロゼは呟いた。一瞬、悲しいような気持ちがよぎる。
「いま俺たちが乗ってるのは、そのときの運搬手段、移動手段だ。過去の遺産だね。こんなもの、今の技術じゃ作れない」
「……うん」
窓もなく、光源も見当らないのに、ぼんやりと明るいのも、過去の遺産というやつなのだろう。ロゼは眠り続けるミーシャの頭をそっと撫で、ひどく落ち着いた気持ちでいた。
新しい場所に行くという心境ではない。もちろん、凄まじい技術を前に、驚いているというわけでもない。
「ついでにいうと、この乗り物はすごい速さで進んでる。途中で出たいとか思わないほうがいい。んで、忘れてるみたいだけど……真っ先に落ちてったあの黒いおっさんも、この管の前の方にいるはずだ。二メートルぐらいずつ部屋みたいになってるから、どのみち接触できないけど。乗り物っつっても、ずっと動いてるものだから、乗ったら最後、リリンに着くまでは出られないよ」
情報を吐き出して、アスフェルは身体を反り返らせて伸びをした。冷たい感触の床に寝転がり、ロゼとミーシャに背を向ける。
「あんたは賢いからわかるだろう。着くまで何もできない。嬢ちゃんみたいに、寝んのが得策だ」
「……アスフェルは、どうしてこんなこと、知っているの?」
ロゼの問いに、アスフェルはいつのも飄々とした声で答えた。
「リリンは俺の故郷だ。知ってて当然だろ」
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
外の光は入らないので、何度朝を迎えたかわからない。何日も過ぎたような、ひょっとしたら一日も過ぎていないような、不思議な感覚だ。
ロゼたちの『乗り物』は、当たり前のように突然止まった。
ぎゃいんと、止まるときに一度だけ響いた金属音が、逆に嘘らしく感じられる。ドームのようになっていた天井が横に開き、遠くに明かりが見えた。
ずっと眠り続けているミーシャを抱え、ロゼはアスフェルに続いて乗り物を降りた。少し歩いたところにあった、長い長い階段を抜けると、そこはもう、町だった。
「ここが、リリン・ドゥーア?」
驚いたように口を開けているロゼを見て、アスフェルが苦笑する。彼は少女のように上着の裾を両手で摘むと、一礼してみせた。
「そのとおり。ようこそ、リリン・ドゥーアへ」
日の光は眩しく、ずっと地下にいたロゼにとっては痛いほどだった。幅の広い道の両脇に立ち並ぶ家屋の、その白い色に反射して、より一層明るくなっているようだ。
「……ぼくがいた、町みたいだ……」
古めかしい、しかし生活のあとのない白い家のなかを覗くと、動かないドールが、飾り物のようにあった。自分が目を覚ました白い町のことを思い出し、ロゼは複雑な思いでドールから目をそらす。
「とりあえず、嬢ちゃんをちゃんと寝かせないとな……ついてきて」
そういって、アスフェルはすたすたと歩きだした。
*
閉じこめられたのだと、フィエルテは思った。
目を覚ましてみれば、薄暗い小さな部屋のなかにいたからだ。部屋というにはあまりにも天井が低く、ケースのなかに入れられたようだった。
そのケースには窓も隙間もないようだったが、呼吸が苦しくなるというわけではなかった。しかし、一向に出られる気配もない。
何か小さな音が、耳鳴りのように聞こえるだけだ。一体、どうなってしまったのか、まったくわからない。
ケースから出ることができないとわかってからは、ただじっとしていた。最愛の妹のことを思い、憎いドールのことを思い、じっとうずくまっていた。
突然、固いものを擦り合わせたような低い音とともに、地震のような揺れを感じて、がくんと身体が動いた。ケースが開き、外に出て初めて、今までいたケースが動いていたのだと、さっきのは揺れたのではなくて止まったのだと、わかった。
彼は階段を見つけ、光に目を細め……
愕然とした。
「……白い町、だと……?」
広い道の両脇に、不自然なほどに整然と並ぶ白い家々。フィエルテは、よろよろと歩きだす。
「戻ってきたのか……?」
彼は走りだした。
ならば、ディアナがいるはずだと、最愛の妹を求めて。
2
夢を見た。
幼いころの夢。
まだ、神殿に売られる前の、母に愛されていたころの、幸せな夢。
「むかしむかし、あるところに……」
──お母さん、それじゃなくて! ねえ、あのお話して、ニンゲンのお話!
「あら、またニンゲンのお話? ミーシャはニンゲンのお話が大好きね」
──いいから、ねえ、ねえ、お話して!
「ええ、いいわよ……」
母親が話してくれる。
ミーシャはその話が、その時間が、大好きだった。
──ねえ、じゃあ、最後のニンゲンは、今も、リリン・ドゥーアにいるの?
「そう。ひとりぼっちになってしまったニンゲンは、世の中のことを嫌って、たったひとりで、暮らしているのよ」
──ミーシャ、大きくなったら、ニンゲンに会いにいきたいな。だってひとりじゃ 寂しいもの。ミーシャが一緒なら、きっと寂しくないと思うの!
そして、大きくなったミーシャが、森にいた。
神殿を逃げ出し、毎日泣き崩れる母と共に、森で暮らした。
──ねえ、ヴィオレお婆ちゃん。ニンゲンのお話、知ってる?
「当然、知ってるさね。ビースルの間で語り継がれる、お伽話さ」
──わたし、ニンゲンに、会いにいきたいな。
「ひっひっ、なんでそんなこと思うんだい」
──お願いしたいことがあるの。
ずっと昔から決めていた。ニンゲンに会って、伝えたい願い。
その願いは、ずっと、ずっと、色褪せることなく、ミーシャの胸のなかにある。
──お願いしたいことがあるの。
だから、リリン・ドゥーアに、
いつか
ニンゲンに、お願いしたいことがあるの
ミーシャは跳ね起きた。
開け放たれた窓から風が訪れ、自分がひどく汗をかいていることを自覚する。ゆっくりと首を左右に振り、毛布を足よりもさらに向こうに追いやって、もう一度寝転がった。ふかふかの感触に軽く身体が跳ねて、ベッドで寝るのなんて久しぶりだと、ぼんやり思う。
そしてもう一度、跳ね起きた。
「え? わたし……」
何だか恐くなって、もう一度毛布をひっぱってきて抱き締める。なぜ、ベッドで寝ているのだろうか。トリコの町にいたはずではなかったか。
カーテンもない、ただ切り抜かれただけの窓から、外を見る。
道の向こうに、白い家屋が並んでいるのが見えた。
「白い町……まさか、帰ってきたの?」
しかし、毎日通い続けたあの白い町とは、どこか違うように思えた。具体的に何が違うというわけではないが、知らない風景のような気がする。
ミーシャは、だんだん思い出してきた。
トリコの町にいたこと。
フィエルテに会ったこと。
その心を、聞いたこと。
「……わたし……」
身体が、小刻みに震えだす。ミーシャは、首をゆっくりと振った。
「……わたし、行かなきゃ……リリン・ドゥーアに、行かなきゃ……早く……」
震える足をベッドからおろし、ミーシャはふらつきながらも歩きだした。
その建物は、他の白い家と比べると、ずいぶん大きいようだった。なかにある家具も装飾品も、すべて白い色をしている。生活の気配が全くないという意味では、他の家々と同じだ。
ロゼは、アスフェルの後ろを黙って歩いていた。部屋にひとりで寝かしてきたミーシャのことが気になったが、おとなしくアスフェルに続く。
白い廊下の突き当たりに、あまり大きくもない部屋があった。扉を開けて、なかに入る。
部屋のなかは薄暗かったが、アスフェルが壁に触れると、昼間のように明るくなった。
部屋の中央に、ちょうど人がひとり乗るぐらいの、四角い白い台が一つ。部屋の奥とその両脇には、ロゼが見たこともないような、物々しい器具のようなものが並んでいた。
「ここは……?」
「何も感じないか?」
問われて、ロゼは首を傾げる。
「どうして?」
アスフェルはロゼに背を向けて、台にそっと触れた。
「ドールは、こういう場所で作られたんだ」
「……ドールが、生まれた場所?」
そういわれても、ぴんとこない。ロゼは、ゆっくり部屋を見渡した。しかしやはり、初めて来た場所という認識しかできない。
「リリン・ドゥーアは死んだ町だ。あるのは、こんな、過去の遺産だけ。ニンゲンなんていないんだ。最後のニンゲンは、俺たちを作って、死んだ」
アスフェルが、意を決したように、ロゼを見た。
「ロゼ、わかってるだろう。俺は、最初から、わざとおまえたちに近づいた。そして俺がなんなのか……それも、わかっているはずだ」
ロゼはアスフェルの目を見つめた。
そんなことはわかっていた。しかしそれを口にすることに、どれだけの意味があるのか。
「アスフェルがドールだということが、何か目的があってここに連れてきたということが、そんなにいけないこと?」
疑問を、素直に口にしていた。
「何を悔いているの?」
アスフェルは、ロゼのその目を受け止めた。逸らさずに、唇を噛む。
「俺が悔やむのはこれからだ──おまえに、選択を迫らなければならない。なぜ、ただひとり、おまえが目覚めたんだと思う? どうして、ここに連れてきたんだと思う?」
ロゼはこたえない。わかるはずがない。静かに、アスフェルは続けた。
「これは、ニンゲンの勝手だ」
白い台に手をつき、どこか懐かしむように──どこか辛そうに、撫でる。
「ニンゲンの勝手で、選択を迫るんだ、ロゼ。おまえに──始まりのドールであり、終わりのドールである、おまえに」
意を決したように、アスフェルはロゼの両肩をつかんだ。それは力強く、肩に爪が食い込むようだったが、それでもロゼは瞬くことすらできなかった。
「さあ、ロゼ、『目覚めたもの』……おまえは、ここに来て、何を思う?」
家のなかは思ったよりも広く、外に出られずに、ミーシャはおぼつかない足どりでさまよい歩いていた。
不気味なほどに、どこもかしこも、白い家だ。まだ夢の続きなのではないかと思ってしまう。
小さな部屋のようなものを見つけて、ふらりとなかに入る。そこにあったものを見て、ミーシャは鋭く息を吸い込むような悲鳴をもらした。
白く、狭い部屋の中央に、人影がある。しかしそれは、幻であるかのように、薄く、向こう側が透けて見えた。
影は、驚いたように見えたが、すぐに微笑んで一礼した。
『ようこそ、リリン・ドゥーアへ』
空気のなかに消えてしまいそうな声だ。ミーシャは、ゆっくりとあとずさる。
「あ、あなた、だれ? リリン・ドゥーアって……」
『恐れることはないよ、森の民……ビースルのお嬢さん。「目覚めさせたもの」よ』
少年の姿をした影は、やわらかく微笑んだ。その姿が誰かに似ているような気がして、ミーシャは思わずつぶやく。
「アスフェル……?」
『アス=フェルというのは、「導くもの」の名前だよ。私は「待つもの」。ここ、リリン・ドゥーアで、ずっと君たちを待っていた』
「リリン・ドゥーア……ここは、リリン・ドゥーアなの? ねえ、じゃあ、ニンゲンに会わせて! リリン・ドゥーアなら、最後のニンゲンがいるはずよ!」
影は、少し寂しそうに笑って、首を左右に振った。
『ニンゲンはいないよ。最後のニンゲンは、私たちを作って死んだ』
ミーシャは、目を見開いた。
「死んだ……? 嘘……じゃあ、わたしは……!」
ミーシャの言葉をさえぎって、影はやわらかい声で続けた。
『さあ、お嬢さん、「目覚めさせた者」。君の意志を聞こう。君は、何を思う?』
「何を思うって……どういうこと?」
ロゼは目を瞬かせた。アスフェルは、ロゼの目を見ている。
「おまえは特別じゃないんだ、ロゼ……ドールは皆、目覚める。おまえは少し、早かっただけだ。思いを一身に受けることで、目覚めた。ドールが目覚めることを強く望むものがいれば、そのドールは動きだす──これは、プログラムされていたことだ。そのプログラムを、最後のニンゲンが、仕掛けた」
「…………」
ロゼは黙って聞いている。自分が動くことを望んだのは、ミーシャだ。
「でも、最後のニンゲンは迷った。果たしてそれは本当にいいことなのか……ひょっとしたら、進化の妨げになるだけなのではないかと。そこで、最後のニンゲンは、俺を作ったんだ。最初に目覚めたドールと、目覚めさせたものとをここにいざなうために。ドールが目覚めることを是とするか否とするかを、最初のものに聞くために。要するに、ドールをどうするかは、おまえに委ねられたわけだ。……わかるな?」
ロゼは小さくうなずいた。
「さあ、ロゼ、おまえの心を問う。もし是とするなら、ドールはこのままだ。否とするなら……二度とドールが目覚めることがないように、プログラムを断ち切る。──さあ」
アスフェルは、繰り返した。
「何を、思う?」
「じゃあ、ロゼは、わたしが強く思ったから目覚めたってこと?」
『そう、利口だね、「目覚めさせたもの」。そういうことだ。そして、最初にドールを目覚めさせた君が──正確には、君と、最初に目覚めたドールが──今後のドールを、左右することになる。最後のニンゲンは、その選択を、君たちに委ねたんだよ』
影は目を細めて、ミーシャを見下ろした。
『さあ、君は何を思う?』
ミーシャは、ゆっくりと、何度も、首を左右に振った。
「わからない……」
わかるはずがなかった。
真っ白だったロゼの心が色々なことを感じていくことが、白くなくなっていくことが、良いことなのか悪いことなのかなど。
「わたしには、わからない……だいたい、そんなの、無責任よ……わかるわけ、ないじゃない……」
目覚めたとき、ロゼの心は真っ白だった。
今はもう、真っ白ではない。それは、成長の証。
それは良いことなのか、悪いことなのか、ミーシャには、わからない。
「この世界をあの子に見せることは、正しかったの? わたしがあの子を目覚めさせたことは、罪ではないの? ロゼの心はあんなに綺麗だったのに……わたしが染めたの、わたしが、よごしてしまったの」
ぼろぼろと涙がこぼれた。
最後の町を訪れることを望んだ。最後のニンゲンに会うことを望んでいた。それは、目的があったからだ。
「なのにわたしは、まったく反対のことを、してしまったの」
ミーシャは、影を見上げた。なにもかもが理不尽に思えた。
「どうしてわたしが、選択しなくちゃいけないの」
『この世界で、だれよりも、ドールを想ったのが君だったからだよ』
「想った……?」
確かに、ミーシャは想った。
しかしそれは、ロゼを目覚めさせるためのものではなかった。
「わたし、ドールを想ったわ……だって、願いが、あったから。だからここに来たの。だから、ここに来たのに!」
ミーシャは、影を睨めつけた。
こんなはずではなかった。
自分には、選択する資格などないのだ。
「あなた、勝手だわ。いつまでもそうやって、だれかを頼っていればいい……自分で考えることもしないで」
姿勢を低くすると、ミーシャは高く跳躍した。影の横をすり抜けて、窓から身を躍らせる。
最後にちらりと影を振り返ったが、何もいわなかった。
「ぼくには、わからないよ」
ロゼは、自嘲するようにそうつぶやいた。
「わからない……?」
「ぼくはね、思うんだ。ドールは、動いている人にとっては動いてないけれど、ドールにとってはそれが当たり前で、そうやって暮らしていたんじゃないかって……。うまく、いえないけど、ドールにとっては、動いてないことのほうが、自然な状態で、いろんなことを考えて、生きていたんじゃないかって」
ロゼは静かな表情で告げた。
「だからそれはきっと、ぼくが決めていいことじゃない」
「…………」
アスフェルは目をそらさない。
それは、アスフェル自身も思ってきたことだった。
もう、気の遠くなるほどの昔、ニンゲンの手で生を受けてから、ずっと思っていた。ドールの監視をしながら、静かに、穏やかに過ぎていく毎日のなかで、思い続けてきた。
そもそも、ドールを、目覚めさせる必要はあるのか。
いまのこの世界に、波をたてる必要はあるのか。
「アスフェルは、どう思うの? 目覚めさせた方がいいと、思っている?」
くっ、とアスフェルは笑った。
「まさか、俺が聞かれる側になるとはな」
「予想できたことでしょう、アスフェル」
突然、低い、感情を押し殺したような声が響いた。
部屋の入り口に、ひどく冷たい目をしたミーシャが立っていた。
「ミーシャ! 目が覚めたんだね」
すぐにロゼが駆け寄るが、ミーシャは一瞥しただけで、視線をアスフェルに戻す。
「無責任で、自分勝手……ヒトなんて、みんなそう。ニンゲンもそうだったのね。ただの責任放棄であなたたちを作って、見届けずに死んでしまった」
「……そうか、聞いたんだな」
ばかみたい、とミーシャはつぶやいた。
何をしに、こんなところまで来たのだろう。
ニンゲンには会えず、結局、嫌な思いをしただけだ。
「もう、どうでもいい──選択なんて、関係ない」
*
妹がいた。
最愛の妹だ。
両親を早くになくし、二人で生きてきた。
体の弱い妹は、健気に家事をこなし、働き続ける兄を支えた。
ささやかな幸せ。しかし、充分な幸せ。
だが、妹は死んだ。
流行病で、あっけなく、命を落とした。
救いを求めて入信したセプテンでは、信仰こそがすべてを救うと教えられた。
願った。
妹が、生き返るようにと。
そうして、あるとき、白い町でドールを見た。
妹に酷似した、少女のドール。
このドールは妹なのだと、妹に間違いないと思うようになったのはいつのことだっただろう。
そんなことがあるはずはないと理解していたが、心は信じてしまっていた。
妹がここにいる。
救わなければ。
救い出さなければ。
フィエルテは、町をさまよい歩いていた。
ここがずっと通い続けてきた白い町ではないということは、すぐにわかった。しかしそれは、なんの解決にもならない。
もう、限界だ。
一刻も早く、エスペランスを取り返さなければ。
妹を、救わなければ。
フィエルテは町中を歩き回り、一軒だけ他の家よりも大きい家を見つけた。
警戒しながらも足を踏み入れると、人の気配がした。彼は、直感を信じ、迷わず家のなかを突き進んだ。
突き当たりの部屋には、思ったとおり、ドールの少年がいた。フィエルテは、喜びのあまり、高らかに笑った。
「やっと見つけた! 追い詰めたぞ……! さあ、奇跡の腕輪を渡すんだ!」
ロゼとミーシャが振り返り、アスフェルは右手を額にあてた。
「そういえば、いたなあ、あんた。正直、それどころじゃないんだけど」
「おとなしく渡せ。そうすれば、危害は加えない。エスペランスさえあれば、救うことができるんだ……! さあ!」
その目は、ロゼを見ているようで、しかし遠くを見ているようでもあった。頬は紅潮し、必死になっているのに、心はどこか遠くにあるようであった。
「持っていないよ」
静かに、ロゼが告げた。フィエルテはせせら笑う。
「嘘をつくな。ならどうして、お前が──ドールが、動いている? それこそ奇跡だ! エスペランスの力だろう!」
「あなた、エスペランスなんて、本気で信じてるの」
ロゼの隣で、ミーシャが怒りと哀れみの入り交じった声を出した。
「神殿なんて、お金儲けしているだけ。ただの腕輪に決まってる」
奇跡の神子の言葉に、さすがに怯む。アスフェルが続けた。
「その腕輪がどういうものかは知らないけど……ロゼが動いていることには、本当に関係ない。ドールは動き出すんだ。だれかが強く思えば、それだけで。ロゼはミーシャの思いを受けて、動き出した。それが、ドールのプログラムだ」
「…………」
フィエルテは、ロゼとミーシャと、アスフェルとをゆっくりと見て、考えるように沈黙した。そうして、静かに、笑い出した。
「邪魔を、するのか」
もう、目の焦点が合っていなかった。
彼はひどくゆっくりと、懐から短身のナイフを取り出す。作り物のように静かな動きに、ロゼたちには、それが意味するところが何なのか、一瞬わからない。
それからの動きは素早かった。
「なら、ドールを壊して、エスペランスを取り返すまでだ!」
フィエルテは床を蹴り、ナイフを振り上げた。それを上回る速さで、ミーシャが身を翻す。
ロゼは目を見開いた。
ロゼの目の前で、ミーシャが崩れ落ち、鮮血が飛び散った。
「てめえっ」
アスフェルが飛び出し、フィエルテの手をねじり上げる。彼は血を浴び、恍惚とした表情で声を上げた。
「赤い! 奇跡の神子の血も赤いんだな! この血が、この血があればディアナは生き返るかも知れない! なんせ神子の血だ……!」
完全に、心が、どこかへ行っていた。殴りつけようとして、アスフェルはそのまま手を下ろす。
その必要はなかった。
もうこの男には、何をする力も残っていなかった。
「ミーシャ……!」
ロゼは、ミーシャを抱き寄せた。
ミーシャは、流れ込んでくるロゼの気持ちに、微笑む。
「ごめんね……わたしは、あなたを、目覚めさせちゃいけなかったのかも知れない。ドールは、ドールのままでいたほうが、幸せだったんだ、きっと」
でも、この気持ちはなんなのだろう──ミーシャの目に涙がにじむ。
もう、ロゼの心は真っ白ではない。
しかし、こんなにも、あたたかい。
これはいけないこと?
「ミーシャ、ぼくは、ぼくはね、目覚めてよかったよ。ミーシャと同じ時間を過ごせることが、本当に幸せなんだ。だから、ミーシャ──」
「ごめんね」
謝罪を告げて、ミーシャはアスフェルを見た。
胸から流れる血は止まらなかったが、その瞳は、力強い意志を宿していた。
「お願いがあるの」
そのために、ここに来た。
白い町で、ずっと抱いていた想い。
ミーシャは、微笑むようにして、願いを告げた。
「じゃなきゃわたし、壊れてしまうから」
3
ステンドグラスから、色彩豊かな光が差し込むなかで、白いローブを着た老人は、優雅に茶をすすっていた。白いテーブルの上にカップを置き、小さく息をつく。
「キリン=ルーシ。遅かったですね」
振り返らずに投げかけられた言葉に、同じく白いローブを着た男性が、どきりと身を硬直させた。
「は、ルーンセイグ老。それが、町の骨董屋では、たいしたものが……」
「なにも、怒っているわけではありません。心配していたのですよ」
ルーンセイグは微笑して、キリンを招き寄せる。
キリンは、恐縮しながら、白テーブルの上に懐から取り出した布を敷いた。その上に、紫色の包みを置く。
「このようなものしか……」
「かまいません。ご苦労でしたね、キリン=ルーシ。白の神官であるあなたに、このようなことをやらせて」
「いえ、いえ、そんな……」
こんこんと、控えめなノックの音が響いた。誰だ、と、ルーンセイグに対するときとはまるで別人のような声で、キリンが声を張り上げる。
「──失礼します。ファレイ=ミラ殿がお帰りになったのですが……」
消え入るような声に、ルーンセイグが優しい声音で、しかし有無をいわさぬ調子でこたえる。
「ファレイ=ミラ、入りなさい。ファレイ=ミラだけです。あとのものは、入ってはなりません」
ややあって、あちこちに包帯を巻いた赤の神官、ファレイが足を引きずりながら現れた。その姿を見て。キリンが眉根を寄せる。
「このような姿で、失礼します、ルーンセイグ老」
「よく帰りました、ファレイ=ミラ。ずいぶんと、大変な目にあったようですね」
「いえ……」
ファレイはうつむいて、そのまま黙ってしまった。その身体が、小刻みに震えだす。
「どうしたんだ、ファレイ=ミラ。報告に来たのだろう!」
キリンにいわれ、ファレイは顔を上げる。悔しさと情けなさで震える体をなんとか沈め、彼女は圧し殺した声を搾り出した。
「……申し訳、ございません……奇跡の腕輪、エスペランスを取り返すことは、できませんでした……!」
ファレイを見下ろし、ルーンセイグは優しく微笑んだ。
「そうですか」
返ってきたのは、たったの一言。ファレイは恐る恐る、ルーンセイグの顔を見上げる。
「わ、私は……! この責任をとって、セプテン神のために……!」
「ファレイ=ミラ」
相変わらずの優しい声で、その名を呼ぶ。はい、と小さく、彼女は返事をした。
「奇跡とは、何だと思いますか?」
「は……奇跡、ですか? それはもちろん……」
「奇跡などありません」
白の神官は、残酷な言葉を吐いた。ファレイを見下ろし、笑顔で続ける。
「奇跡は、奇跡という形であるのではない。それを奇跡と呼ぶのは人です。奇跡は人のなかにある」
「し、しかし! お言葉ですが、セプテン様は……!」
哀れみさえ含んだ目で、ルーンセイグはもう一度微笑んだ。
「神などいない。神を信じるのも人です。神も、人のなかにいる」
「……っ」
ファレイの頭のなかは、真っ白になっていた。もっとも尊敬する神官の口から出てくる言葉の意味が、わからない。
ルーンセイグは、キリンが持ってきた紫色の包みを厳かに開いた。中には、数個の指輪や腕輪などが入っている。
彼はそれをいくつか物色すると、最後に一つ、古ぼけた指輪のようなものを手に取った。
「ふむ……これで、いいでしょう」
何のことかわからずに、ファレイはただ白の神官を見上げる。
「奇跡の腕輪はその効力を失った。今からはこの指輪が神の指輪……新しいエスペランスとして、この神殿に祀りましょう」
「……え?」
ファレイは目を見開いて、ルーンセイグと、その手のなかにある指輪を見る。
「愚かものがいました。奇跡の腕輪があれば、死んだ妹を生き返らせることができるのだと信じ、腕輪を盗んだ愚かものが。あれも、もともとは、骨董屋で仕入れたただの銀の腕輪だというのにね……」
ルーンセイグは優雅に屈み、ファレイの肩に手を置くと、ひどく優しく笑った。
「あなたは頑張りました。きっと、神のご加護があるでしょう」
ファレイは、ゆっくりと、首を左右に振った。