違いと無理解
1
角張った白い家々が立ち並ぶ、無機質な空間。動いているものはなにもない、形だけの町。森を抜けると幻のように現れるその白い町は、シアにとっては少し苦手な場所だ。
彼女がこの町を訪れるのは、人生で三度目だった。猫のような耳は、力なく垂れてしまっている。彼女は尻尾を揺らし、自信のない素振りで辺りをうかがった。緩やかに編まれた長い三編みも、静かに揺れる。
相変わらず、何の気配もない。不気味なほどきれいに整った幅の広い道を、ゆっくりと歩いていく。
恐ろしく静かだった。風すらも動いていないかのようだ。森ではうるさいほどに聞こえてくる鳥のさえずりも、ここまではとどかない。
シアは、ぎくりとして立ち止まった。道の先に、老婆が立っていた。
「おやおや……これは、珍しいのに会ったもんだ」
老婆――ヴィオレは、ひっひっと低く笑った。
「娘を探しにきたのかい、シア?」
シアは、一瞬躊躇したが、意を決したようにヴィオレに近づいていった。
「あの子が……ミーシャがどこにいるのか、ご存じなんですか?」
「ひっひっひっ。さあ、どうだかねえ。なんにしても、あんたのような親に、教えたくはないねえ」
おかしそうに笑う。シアはかっとして、大声を張り上げた。
「ミーシャを返して! あの子、外になんか出たら、大変なことになるのよ……! あの子は何もわかってないの! 返してちょうだい!」
ヴィオレは唇の端を上げ、大きく開いた目でシアを睨んだ。
「知らないね。あの子が出ていくのを見たが、どこにいるかなんて知らないよ。どうせあんたが、何か嫌われるようなことでもしたんだろうよ」
「……っ!」
してない、といえば嘘になる。気づいていないわけではなかった。自分の行動がどれだけミーシャを傷つけているのか。
「……後悔しているわ。でも私は、あの子のことを思って……」
「後悔? やめときな。なんにもならないよ」
笑みは絶やさずに、ヴィオレは厳しい言葉を吐き出した。うつむいたシアの目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。
「……ミーシャ……どうして……」
娘の名を呼ぶ。気味が悪いと思い続け、恐れてさえいる娘の名。
今までも、何度も後悔の涙を流した。ただ、その繰り返しだ。
「あんた、親だろう。親がそんなふうに泣いて、自分の不幸を慰めて、それでどうにかなるとでも思ってるのかい」
「あなたなんかに……いわれたくないわ……この森に住みつく魔女なんかに……!」
「あんたのそれは一生治らないね」
笑いながら、シアの後を仰ぎ見る。そして、小さな二つの影を確認すると、息をついた。
「あんたみたいなのから、どうしてミーシャやあの二人のようなこどもが生まれたんだかね……」
「お母さーん」
それは、双子の少女だった。ふわふわの長い髪を、頭の高い位置で束ねている。まだ幼く、大きな目が愛らしい。
「お母さん、泣いてるの?」
「ごめんなさい、ヴィオレお婆ちゃん。お母さん、疲れてるの。お気を悪くなさらないでね」
少女たちは、ヴィオレにむかってぺこりと頭を下げた。時折、親の目を盗んで白い町に「冒険」に来ているので、ヴィオレとは面識がある。
「もちろん。気を悪くなんかしないさ。あんたたちのお母さんは、お気を悪くされたかもしれないがね。ひっひっひっ」
ヴィオレは身を翻した。黒い布をなびかせて、静かに歩いていく。
後ろでは、まだシアの泣いている気配がした。
「あの子にとっては、良くも悪くも解放か……」
そして風に向かって、つぶやいた。
*
「あんたらはとんだ世間知らずだな」
二人の行き先を聞いて、アスフェルはひどく驚いた。こんな偶然があるなどと、思ってもみなかったからだ。しかし彼は平静を装い、怒ったように言葉を吐くことで、気持ちの乱れを誤魔化した。
ミーシャは腹が立つような恥ずかしいような気持ちになって、唇を曲げる。
「あなたが物知りすぎなのよ! 若いのに、そんなんじゃすぐ禿げちゃうんだから」
「ミーシャ、それは偏見だと思うよ」
「ロゼまでこの人の味方するの?」
ミーシャが情けない声をあげる。ロゼの前ではお姉さんのような顔ができたのに、アスフェルの出現で立場が危うくなってしまった。
「まず、情報収集もろくにできないなら、地図ぐらい持つのは常識だね。それから、リリン・ドゥーアに行きたいなら、海路をとるルートの方が近道だ。あと……」
「もう! わかったから、結局、何がいいたいの?」
気持ちを隠したくて、大きな声をあげる。アスフェルはおかしそうに笑った。
「はいはい、悪かったよ。結局いいたいことは、今からでも近道があるってこと。ニンゲンがいた時代のカガクリョクを駆使した素晴らしい方法でね」
「カガクリョク?」
初めて聞いた単語に、ミーシャが怪訝そうな顔をする。
「ま、そのあたりのことはなんでもいいや。とにかく、めざすはトリコにあるセプテンの遺跡!」
そういうわけで、三人はトリコの町へと続く道を歩いていた。
右手には森が広がり、左手には茂みが続く。その茂みの向こうは絶壁になっていて、今ならまだ遠くにエーダの町を見下ろすことができるだろう。町を出てすぐに長い坂道を登り、やっと現れた平坦な道を歩き始めて、もうずいぶん経つ。
太陽も高い位置にきていた。春にさしかかったばかりとはいえ、太陽は張り切って大地を照らしている。
しばらく無言で歩いていたロゼが、突然小さく声をもらした。
「暑い……」
その隣で、ミーシャは耳を大きく揺らした。
「暑い? ロゼも、暑いとか思うの?」
「思うよ。暑い。たぶん、この服、今の季節向きじゃないと思う……」
ミーシャはロゼを見た。深く考えたことはなかったが、たしかにぞろりとしたこの衣服は熱を放出するつくりにはなっていないようだ。
「嬢ちゃんはさ、ドールのことを完全に人形みたいなもんだと思ってんの? そりゃヒトなんだから、暑いときは暑いって思うだろ」
たいして歳も変わらないように見えるのに、アスフェルはミーシャのことを嬢ちゃんと呼ぶ。気に食わなかったが、今はその内容の方が重要だった。
「そう、よね……。ヒトなんだもん。当たり前だよね。でもなんか、不思議」
「やだやだ。固定観念みたいなやつ、捨てたほうがいいよ」
「うん。反省する」
素直にそう思ったが、見るとアスフェルも充分暑そうな格好だ。結局そこは個人差なのかな、とミーシャの考えは一応の決着を見せる。
「何にも知らないみたいだから、教えてあげよう。ドールはニンゲンの成れの果てだって話は知ってるな?」
ロゼとミーシャはうなずいた。それは有名な話だ。ロゼは目覚めてすぐにヴィオレにいわれたので、知っている。
「そもそもずっと昔、この世界はニンゲンが支配していた。いまのディンディゴとかビースルとか、そういうのの元みたいな奴らもいたはいたけど、ニンゲンの数からすれば微々たるもんで、まぁ森のなかとかそういうところでつつましく暮らしてたわけだ。ニンゲンってのは、大部分が自然を支配しようって考えの奴らだった。独自の技術で暮らしをどんどん豊かにしていって、夢みたいな生活をしてたらしい」
簡単にいわれてもなかなか想像のつく話ではなかったが、二人は懸命に耳を傾けている。
ただずっと歩き続けているのに疲れたからというのもあったが、純粋に興味のある内容だ。
「でも、いくら自分たちの力でいい暮らしをしても、結局自然なしじゃやってけないってことになった。たとえばディンディゴなんかも自然を平気で壊すけど、そこはあくまで最低限、共存の範囲内だろ? ところがニンゲンは止まることなく、上を上を求めて際限なくやっちゃったわけだ。で、いいかげん、なんとかしなきゃなっていう流れになってきた」
それは、なんとなく想像できる気がした。話を聞く二人の表情が、少し固くなる。
「で、あるひとりのニンゲンが、進化をすればいいとかいいだした。進化をすれば、痛みを感じなくなる、腹も減らなくなる、考えなくてよくなる、死ぬことがなくなる……永遠の命を手に入れるんだってね。つまり、人形になるってことだ。もちろんそうすれば、自然なんて壊れるわけがない」
二人は、真剣な面持ちで、ただ黙って足を前に運び続けた。その続きは、聞かなくてもわかった。
「それで、ニンゲンはドールになったのね……」
納得できるような、できないような、不思議な感覚だ。少しは聞いたことがあったが、詳しく聞くのは初めてだ。
ロゼは、自分の歴史というよりは、まるで別の世界のお伽話を聞いた気分だった。
「ニンゲンは皆、その進化に賛成したの? だからぼくも、ドールなの?」
アスフェルは、少しだけ淋しそうに笑った。ただその表情は、後を歩く二人には見えなかったが。
「そんなわけないだろうね。もちろん、反対するやつらもいたんだろう。でもいま、実際に、動いているニンゲンはいなくて、動かないドールはたくさんいる。詳細はどうあれ、それが事実だ」
「…………」
ロゼは押し黙った。もし、賛成していなくてもドールになった者もいるのだとすれば、自分はそうであればいいと、漠然と思う。
「ニンゲンはいるわ」
ミーシャが、独り言のように呟いた。
「だってわたしはそのために、リリン・ドゥーアに行くんだもの」
「ニンゲンを、探してるってこと? なんでまた?」
思わず立ち止まり、アスフェルがこちらを見る。ミーシャは、極上の笑みを浮かべてみせた。
「ないしょ」
向こう側の見えない笑顔に、アスフェルは黙る。しかしそれは、アスフェルにとっても好都合だ。
「ニンゲンがいるっていうオハナシね……だから、リリン・ドゥーアか。なるほど」
「知っているの?」
「博識だからね」
おどけて笑ってみせる。二人のやりとりを聞きながら、この二人は仲が良くないのかなとロゼは思った。お互いヴェールごしに話をしているみたいだ。
話しながらも進んでいた道は、だんだん森のなかへと入っていき、暑さも和らいできていた。道は狭くなったり広くなったりを繰り返している。自分の暮らしてきた森と似ているなと、ふとミーシャは思う。
「ちょっと、休憩するか? お疲れ?」
「まだまだ平気だけど。ロゼや、ディンディゴのあなたにはつらいかな? 休もうか」
ドールはどうだかわからないが、少なくともディンディゴは頭脳派で、体を使うことには適さないとされている。ビースルの彼女は実際まだぴんぴんしていたが、先も長いので休憩することにした。
大きな木を探し、その影に座り込む。そして、リィナにもらった鳥の煮つけを取り出した。
「アスフェルは、ドールを、たくさん見てきたの?」
遠くを眺めながら、ロゼがそう口にした。
「……まあね。ドールの町ってのは、いろんなところにあるから」
慎重に、言葉を選ぶ。
茶の用意をしていたミーシャが手を止めて、黙ってしまったロゼを見た。
「どうしたの?」
「何も」
「…………」
そして沈黙が落ちる。
ロゼは、考えていた。自分は何者なのか。
赤い髪を無造作に後ろに払い、ファレイは道を歩いていた。フィエルテ=ドントワールが町を出たことを知り、門番のいう方向へと急ぐ。この先にあるのはトリコの町。おそらく、そこへ向かったのだろう。
腕輪も、見つからなかった。ということは、売ったわけではないようだ。
「早く、見つけなければ……!」
焦りが、じりじりとつのる。
身軽さを重視したため、手足はほとんど露出していたが、それでもこの太陽の熱は暑いと感じた。雨が降るのか、湿度さえある。
行く先に、気配を感じた。ファレイは立ち止まり、少し離れた木の影から様子をうかがう。
子どもが、三人。ひとりは少女、あとふたりは少年だ。
「ビースルと、ディンディゴか……。子どもだけで、どうしてこんなところに」
何か、話しているようだ。気配を完全に殺し、もう少し、近づく。
不意に、大きな帽子をかぶった少年が、こちらを向いた。
「どうしたの、ロゼ?」
少女の問う声。少年は、答えない。
ぶかぶかの上着を羽織った少年が、こちらを見もせず、いい放った。
「お客さんなら出てきたら? 用がないなら失せることをおすすめするよ」
「…………」
ファレイは黙って姿を現した。
客というわけではないが、逃げ出すような真似をするいわれもない。
「失礼した。敵意はない」
彼女はそう告げ、今度ははっきりと三人の姿を見た。
そして、絶句した。
「――っ!」
現れた赤い髪の女性を見て、ミーシャはとっさに木の後ろに隠れた。
「ミーシャ?」
「しっ、黙って……」
ロゼの手を握り締める。ロゼからは、困惑と、それから案ずる気持ちが流れてきた。
「あんた誰? なに見てんの?」
その二人をかばうようにして、アスフェルがファレイの正面に立った。右手は、腰の鞭に置かれている。
しかし、ファレイはアスフェルを見てはいなかった。その向こう側、ロゼよりもさらに後ろを、呆然と見つめている。目は大きく見開かれ、驚きのあまり声も出ないといった様子だ。
「……? おい、あんた……」
「ミーシャさまでは、ありませんか?」
唐突に、ファレイが口を開いた。びくりと、怯えたような震えが右手から伝わり、ロゼはファレイを睨みつける。
「ミーシャさま、ミーシャさまですね? なぜ隠れるのです、ファレイ=ミラです! おわかりになりませんか?」
憮然とした顔で、ミーシャがロゼの隣に出る。隠れても無駄だと悟ったのだ。
「わかったから、隠れたの。何の用?」
冷たい目で、ミーシャがいった。ファレイはゆっくりと首を左右に振る。
「なぜ、こんなところにいるのですか、ミーシャさま? あなたがセプテンから姿を消してからというもの、神殿に訪れる信者もずいぶん減りました……」
「関係ないわ、そんなの。わたし、セプテンの信者じゃないもの」
「また、そんなことを……」
沈痛な顔をして、ファレイが黙ってしまう。ミーシャもこの場に居づらそうに、下唇を噛んでうつむいてしまった。
アスフェルが、ロゼを見た。ロゼは相変わらずファレイを睨んでいる。
「……まあ、敵意がないってことはわかった。で、結局あんたは何なんだ?」
少し疲れたように、アスフェルはそう問いを投げかけた。
ファレイは、そんな彼らに向かって頭を下げる。
「失礼しました。私は、ファレイ=ミラ。セプテンの、赤の神官です」
「セプテン……」
ロゼがつぶやく。また、セプテンだ。もう何度も、その名を聞いた。
「今は、ある任務でフィエルテ=ドントワールという男を追っています。……だから、ミーシャさま、あなたを追ってきたのでは、ありません」
「……でも、連れ戻す気なんでしょう」
「…………」
赤髪の神官は、目を細めて少女たちを見た。そして、ゆっくりを首を振る。
「いいえ……戻っていただきたいが……むりやり、連れ戻すような真似はいたしません。私は、ミーシャさまの味方でありたい」
その言葉に、ロゼが緊張を解いた。ミーシャも、表情は硬いままだったが、どこかほっとしたように息をつく。
「あのさ、わかってないのは俺だけかもしれないけど。なんで『ミーシャさま』? 嬢ちゃん、神殿の関係だったの? 実は偉い人?」
無遠慮なアスフェルの言葉に、ミーシャの表情はさらに強ばった。ロゼと、ファレイにまで睨まれ、少しひるむ。
「な、なんだよ、なんかまずいこといった?」
「ミーシャは、嫌がってる」
「……あー、みたいだね。悪かったよ」
アスフェルが肩をすくめる。しかし、それで終わるわけもなく、ファレイは彼に詰め寄った。
「奇跡の神子さまを、知らないっ? 貴様、セプテンの信者では……!」
「ないよ。俺、神とか信じないもん」
「なんてことを……!」
ぶるぶると震え、ファレイが腰の剣に手をかける。アスフェルは慌てて後ずさった。
「おいおい、信者じゃなかったら切るわけ? むちゃくちゃだな!」
「……ミーシャさまが、このようなものと行動をともにしているとは……!」
ファレイの言葉に、ミーシャは不快感を顕にしてため息を吐いた。自分だって、セプテンの信者ではないといったばかりなのに、この神官には伝わってないらしい。
「あのね、アスフェル。……教えてあげる。わたしは、ヒトの考えていることがわかるっていう、この気味悪い力のせいで、幼い頃にセプテン神殿に売られたの」
あきらめたように、ミーシャが口を開いた。
「それから、お祈りに来た何にも知らない信者の気持ちを適当によんで、それらしいこといって、お布施をいっぱいもらうっていうお仕事をしていたの。その評判が広まって、 『奇跡の神子』とか呼ばれたわ。そんなのに嫌気がさして、逃げ出したんだけどね。わかった?」
すらすらと、よどみなく説明してみせる。ふうんと、たいして興味もなさそうに、アスフェルは鼻をならした。ファレイは、ミーシャのいい方に怒っているように見える。
ロゼの表情は、見えない。見るのは恐かった。
「ミーシャさまは、そのように、思っていたのですか……?」
「思うもなにも、そうなんだもん。違う?」
「違います!」
ミーシャには、自分のことを純粋に想ってくれているファレイの強い思いが聞こえてきた。意地悪ないい方だったかもしれないと、自嘲気味に笑む。
「……相変わらず、ファレイは、真っすぐね。――フィエルテ=ドントワールというひとを追っているんでしょう?」
恐らく、エーダの町で、ロゼに接触してきた人物だろう。名前をいわれれば、一致しないこともない。しかし、彼がフィエルテだとすると、腕輪を返せという言動に疑問が生じる。
しかし、一連のできごとをわざわざ伝える気もなく、ミーシャはファレイを促した。
「こんなところで油を売ってる場合じゃないんじゃない?」
あっと、ファレイは小さく声をあげる。忘れていた。すぐに熱くなってしまうのは、悪い癖だ。
「……これは、重大な秘密なのですが……」
「エスペランス――奇跡の腕輪が、盗まれたんでしょう?」
ファレイは、大きく目を見開いた。なぜそれを、といおうにも、驚きのあまり声が出ない。
「あ、それ聞いた。エーダの町で噂になってたな」
「うん。ぼくも、聞いたよ」
「……! そ、そんな……」
擦れた声で、つぶやく。このままでは、神殿の権威は失墜してしまう。
「と、とにかく、私は先を急ぎます。では、これで失礼を!」
ミーシャに向かって深く頭を下げ、ファレイは慌ただしく走り去っていった。その後ろ姿に、ミーシャは苦笑する。
アスフェルは、少しだけ楽しそうに口を開いた。
「奇跡の神子って、一年前ぐらいに失踪したっていう神殿の看板か……。噂には聞いたことあったけど、まさかあんたがそうだとはね」
「普通、このことを知ったら、信者以外は怯えるけど。アスフェルは平気なの?」
「俺は平気だよ」
アスフェルは、自分の胸をぽんっとたたいた。
「俺のここには、何も入ってないから」
冗談めかして笑う。
アスフェルらしいいい方だと、ミーシャも少しだけ笑みをこぼす。
「ロゼは、平気?」
一番気になっていたことを、できるだけ自然な流れで、問いかけた。答えはわかっていたが、言葉として、聞きたい。
「だって、ミーシャはミーシャだよ」
ロゼの言葉に、心底ほっとしたように、ミーシャは微笑んだ。
赤の神官、ファレイ=ミラが走り去っていくのを、フィエルテ=ドントワールは見ていた。自らの目で見ていたわけではない。黒鳥の目を通じて、距離をおいた森の中から、見ていたのだ。
「行ったか……」
トリコの町に行ったとでも、勘違いしているのだろう。好都合だ。
こんなところで、捕まるわけにはいかない。まだ、目的は達成していない。
「あのドールから、腕輪を取り戻すまでは……ディアナを、目覚めさせるまでは……」
低い、地を這うような声で、つぶやく。ディアナ、ディアナと、最愛の妹の名を、フィエルテは何度も繰り返した。
黒の神官は、戦闘能力は低い。黒鳥などの動物を操ることができるぐらいで、あと能力といえば精神に働きかけるものばかりだ。ドール相手に、精神への攻撃が効くとは思えない。力ずくで腕輪を奪い取ろうにも、あの腕のたつディンディゴの少年が護衛しているのでは、迂闊に手は出せなかった。
機会を待つしかない。
失敗は許されない。
すべては、ディアナのために。
フィエルテは、慎重に、尾行を続けた。
3
エーダの町からトリコの町へは、徒歩でちょうど七日間かかった。たくさん買っておいた食料も、途中から足りなくなり、アスフェルが木の実などを調達した。旅慣れているだけあって、寝床の確保など、実にうまくやってのける。
ロゼとミーシャだけでは、こうはいかなかっただろう。自分がどれだけ浅はかだったか、ミーシャは痛いほど思い知った。
もう、太陽は傾いていた。日中は暖かいが、太陽が隠れてしまうと、まだまだ肌寒い。
「ここが、トリコの町……」
眼前に広がる風景に、ミーシャがぽつりと呟いた。
「思ってたのと、違う」
「そりゃ、違うだろうね。文化が違う。ここに住んでるのは、ビースルでもディンディゴでもない、スィースィーと、ストンだ」
当然のことのように、アスフェルがいった。ミーシャは、ゆっくりと目を瞬かせる。スィースィーとストンというのが、ヒトの種類であることはわかるが、目にするのは初めてだ。
トリコの町は、ミーシャの頭のなかにあるいわゆる「町」とは異なっていた。森、といった方が近い。道もなく、人工的に作られたようなものはほとんど目につかない。ただ、目の前に、「トリコ」と三種類の言語でかかれた看板があった。向こう側には、大きな木と、大小さまざまな石が見えるのみだ。
「スィースィー、ストン?」
ロゼが、初めて聞いた言葉を繰り返す。
「あとで、教えるよ。とりあえず、ゆっくりしたいだろ? 寝るとこ確保して……ああ、それと、なんか栄養あるもん食わないとな」
「町に入る審査とかは、いいのかしら……」
ミーシャは辺りを見回すが、杞憂だったようだ。そもそも、外壁といえるものも、枯れた草を組み合せて作られた柵があるのみで、外との境界はあってないようなものだ。
「じゃあ、行こう。スィースィーと、ストンというのに、会ってみたい」
珍しくロゼが自分からそんなことをいって、先頭を歩きだした。
木の前で、石を囲んで座り込んでいたこどもたちに話しかけると、すぐに宿の場所を教えてくれた。ひとりの少年に案内され、大きな木に辿り着く。
その木の前に、看板があった。その看板の向こうに洞穴が見える。どうやら、この中に入っていくようだ。
「多くのスィースィーは、家を建てるって習慣がないんだ。森にある、こういうタイプの木の下に空洞を造って、そこで暮らす。自然との完全な共存が、スィースィーの美徳だからね」
洞穴を見て、ためらった様子のミーシャに、アスフェルがそう説明した。ミーシャは、ゆっくりと首を左右に振る。
「わたしたちビースルだって、自然との共存をよしとしているけど、ここまではしないわ。というより……共存の考え方が違うのね、きっと」
ため息混じりに、感想をもらす。ひとそれぞれってやつだねなどと、アスフェルが簡単に相槌を打った。
「変なの。ぼくより、ミーシャの方が驚いてるみたい」
「だって、わたしの知らない世界なんだもの。あ、ロゼだって、そうよね……」
ロゼと目を合わせて、ミーシャは小さく笑う。
「わたしは、いろんなことを知っているつもりで、知らなかったからかな。だから、余計に驚いてるのかな……」
それがわかっただけでも、旅に出てよかった、そんなことを思いながら、ミーシャは少しだけ身を屈めて、洞穴に入る。
植物のようなものが発光し、ぼんやりと照らしているので、暗くはなかった。傾斜を進むと、髭をたくわえた細身の男性が、石と向かい合って座っていた。
彼はすぐにこちらに気づき、少しだけ驚いたように目を見開いた。
「一昨日は勇ましいお嬢さんで、今日はかわいらしいこどもさんか……こんな町に続けてお客さまとは、珍しい。ようこそ、トリコへ」
男は、茶色の布に穴を開けて、頭からそのままかぶったような格好をしていた。首には、木の実で作られたペンダントが、じゃらじゃらといくつもついている。
好意的なその態度に、ミーシャはあわてて頭を下げた。それを見て、ロゼもかるく会釈する。
「こんにちは。あの……とりあえず、今日一日、泊まりたいんですが……」
控えめに、ミーシャの耳がゆれる。男は、もちろんとうなずいた。
「どうぞ、ゆっくりしていってください。たいしたおもてなしはできませんが……私たちは、この町を訪れたあなたがたを、歓迎しますよ」
ミーシャは安心して胸を撫で下ろした。エーダの町ではほとんどの宿で断られたので、
不安だったのだ。
「この宿の裏に、泉があります。水浴びをなさるといいでしょう。食事も、ご用意いたします。どうぞ、ごゆっくり」
宿の主人はそういって、やわらかく微笑んだ。
大きな部屋が布で仕切られ、ミーシャの部屋と、ロゼとアスフェルの部屋とが、簡単に作られた。部屋といっても、宿の主人が持ってきた草が寝床として敷かれただけで、特に何もない。水を汲んできて身体を洗い、出された木の実や茸などの料理を食べ、三人はすぐに部屋に引っ込んだ。まだ、夜更けという程でもない。しかし、休めるときに休んでおきたかった。
トリコに辿り着くまでは、屋根のある場所で何も気にしないでゆっくり眠りたいとあんなに思っていたのに、何故か寝つけなかった。ミーシャは、何度も寝返りを打ち、天井を見つめた。
大きな木の根が、上から下へと伸びている。どういう仕組みなのか、土壁は崩れるような気配はない。
「……やっぱり、眠れない」
ミーシャは起き上がり、こっそり布をまくり、向こう側を見た。
そこでは、アスフェルが、さっきまでのミーシャと同じように、天井を見ていた。
「ロゼは?」
「なんだよ、寝てたんじゃないのか」
アスフェルは、驚いてミーシャを見る。
「アスフェルこそ、寝てるんだと思った。ここにつくまで、夜も見張りしてくれてたみたいだから、ほとんど寝てないんじゃないの?」
「こっちが無理いってついてきてんだ。当たり前だろ、それぐらい」
アスフェルのいい方では、考えていることがいまいちわからないとミーシャは思う。何かを強く思えば、触れていなくてもミーシャには聞こえてくるのだが、アスフェルの心はまだ聞こえたことがない。
「ロゼなら、ここのマスターにつかまってるよ。旅の話を聞かせてくれって、さっきね。嬢ちゃんは寝てると思ったから、ロゼだけ行った」
「そっか……」
つまらなそうに、ミーシャが息をつく。どうせ寝つけないのだから、何か話しをしようと思ったのに。
「わたしも、行こうかな」
「……俺は、これからのことを思えば、寝といたほうがいいとは思うけど。ま、好きにすれば?」
ミーシャは、立ち上がるのは何となく億劫だったので、膝をついたままずるずると移動した。出入り口は、ロゼとアスフェルの部屋の方にあるのだ。辿り着いて、それから思い出したようにアスフェルに目を向ける。
「そういえば、あなたの胸の中には何も入ってないって、いってたけど。どういうこと?心、ないとか?」
冗談めかして、話題を持ちかける。アスフェルは、あああれね、と笑った。
「別にそのままの意味だよ」
「じゃあ、わたしと、握手できる?」
微笑んで、右手を差し出す。触れれば、考えていることがわかるはずだ。
アスフェルは、挑戦的に笑って、その手を握った。
ミーシャの、表情が変わった。
「あなた……」
「な? いっただろ?」
「……っ」
ミーシャは急いで手を離した。怯えたように、アスフェルの目を見る。
「どうして……? どういうこと? こんなこと、今まで一度も……!」
「ああ、やっぱり、そうなんだ」
アスフェルは、ひどく淋しそうに、唇の端を上げた。
夜は、綺麗だ。
朝も昼も、綺麗だけど。
初めて夜と出会ったような気分で、ロゼは、空を見上げていた。
「スィースィー……ストン……」
視線を落とす。目の前に、ロゼの顔よりも少し大きいぐらいの石があった。この町に入って、いくつか見た石だ。大きさは様々で、その性格も様々なのだという。
「石じゃ、ないんだよね……」
ロゼは、先程宿の主人から聞いた話を思い出していた。この石のようなものは、「ヒト」なのだという。自分の力では動かないと思われているが、いつのまにか子孫を残す。気持ちによって、色や温度が変わるという。スィースィーとストンは共生関係にあり、気候の変化に過敏なスィースィーは、ストンの湿り具合によって気候を「教えて」もらう。一方、ストンは、それぞれの気候によってスィースィーに動かしてもらう。
そうやって、もうずっと昔から、助け合って生きているのだという。
大昔は、ストンも一般的なヒトに近い形態をしていたのだそうだ。しかし、環境に適応していくうちに、今のような形になったらしい。
「まるで、ニンゲンみたいだ」
ロゼは、目の前のストンをそっと撫でた。
「ねえ、君はいま、何を考えてる? いま、そうあることは、幸せ?」
言葉は、返ってこない。
ロゼには、少しずつ、わかってきている気がした。多分、同じなのだ。目を覚ます前、あの白い町にいた自分と。
「幸せとか……何を考えているとか……そういうことじゃ、ない……」
背後に、気配を感じた。
振り返ると両手を頭の後ろで組んで、つまらなそうにこちらを見るアスフェルがいた。
「夜が静かだって、最初にいった奴は誰だろうな」
「?」
突然、わけのわからないことをいう。
「実際、夜が静かだとか思ってる奴は、いっぱいいる。でも、静かなもんか。夜に活動する奴らが、こんなに騒いでる」
耳を澄ますまでもなかった。虫たちの鳴き声が響き、喧しいほどだ。
「夜に活動しない種類の奴らが、そう思うだけだ。そうだろ?」
「……うん。そうかも、しれない」
アスフェルはロゼを正面から見据えた。
「ドールが動かない人形だなんて、誰が決めた?」
「……そう……ミーシャたちにとっては、動いていなかったのかもしれないけど……」
ロゼは、ゆっくりと首を左右に振った。
「もしかして、もしかしたら……ぼくたちにとっては、それが当たり前で、ぼくたちにとっては『動いて』いて、きっと、幸せだったんじゃないかと……そんなふうに、思うときがある」
うまくいえないやと、ロゼは自嘲気味に笑う。
「どっちにしても、ぼくはもうこうなってしまっているから、わからないんだけどね」
それからロゼは、思い出したように、つけ加えた。
「それに、アスフェル。君も、動いているしね」
*
あんなに小さな町に入ってしまえば、すぐにばれてしまうのは目に見えていた。フィエルテ=ドントワールは、ロゼたちがセプテンの遺跡に行くといっていたのを思い出し、遺跡に先回りしていた。
セプテンの遺跡といっても、遺跡らしいものをセプテンが買い取り、その後セプテンのものと認定しているだけなので、信者であるフィエルテも訪れるのは初めてだった。ここの他にも、セプテンの遺跡と呼ばれるものは全国に数多くある。建造物がしっかりとした形で残っているものなどは、そのまま教会として利用している例もある。
訪れたときにはほとんど陽も沈んでいたので、詳しいことはわからないが、随分と大きな、古い遺跡のようだ。あちらこちらが草木に支配されており、動物が住みついている気配もある。建物としての原型は止めておらず、しかしどうやら質のいい材質でできている壁は、崩れ落ちてもなお腐敗することなく残っている。
「やつら、こんな遺跡に一体なんの用だ……。ニンゲンがいた時代の何か、といっていたが……」
気にならないではなかったが、自分の目的に比べれば取るに足らないことだ。絶好の隠れ場所に身を潜め、飛ばした黒鳥での監視を続ける。
明日か、遅くとも明後日にはこの遺跡にやってくるだろう。それまでに、チャンスができるだろうか。できるだけ、早く、手に入れてしまいたい。
気持ちが急いていた。アスフェルは、血が滲むほど唇を噛み締める。
「こうしている間にも……ディアナはひとりで、淋しい思いをしているというのに……」
ひとり、呟く。
焦りだけがつのり、余裕を失ったフィエルテは、背後から忍び寄る気配に、気づかなかった。
思わぬ状況に、ファレイは緊張していた。トリコにフィエルテがいないと知り、追い抜いてしまったのかと思い、遺跡で待ち伏せていたのだ。遺跡に潜伏して油断させておいて、町に現れたフィエルテを捕まえるつもりだった。それがまさか、遺跡に現れるとは。
フィエルテは、先程からずっとひとりで何か呟いている。ファレイは剣を鞘ごと構えると、背後からゆっくりと彼に近づいた。
そして剣を降りかぶり、フィエルテを殴りつけた。
「ぐあっ」
にぶい音がして、フィエルテはそのまま前方に倒れた。ファレイはすかさず縄で両手を縛る。
鞘の先で乱暴に転がし、上を向かせた。自分は立ったままで、鋭く睨みつける。
「フィエルテ=ドントワールだな?」
「…………」
フィエルテは、口から血を流していた。反抗的な目で、赤の神官を睨む。
「なんだ、その目は! 貴様、セプテンの奇跡の象徴であるエスペランスを盗むということが、どういうことかわかっているな? おとなしく、渡せ! 今ならまだ、セプテン様はお許しになるかもしれない」
「……噂の、赤の神官か……」
恐れることもなく、フィエルテは嘲ら笑った。
「ディンディゴのくせに戦う神官なんて、大変だろうな。なあ? 知ってるか? あんたが警備の日を選んで、盗みを決行したんだ。ディンディゴの、しかも女の赤の神官なんて、恐くもないからな」
かあっとファレイの頬が紅潮した。侮辱され、怒りで一瞬頭の中が真っ白になる。
「貴様……!」
「それだよ。そういうところが、甘い」
いつのまにか二人を取り囲んでいた数匹の黒鳥が、一気にファレイに襲いかかった。ファレイは短く悲鳴をあげ、後ろに倒れる。
黒鳥は、ファレイの全身に鋭い歯を立てた。
「セプテンの黒鳥は、ヒトを喰う。知っているだろう。そのまま、こいつらの餌になれ」
「貴様……! 貴様は、それでもセプテンに仕える神官なのかっ? エスペランスを、返せ! このままでは、セプテンの権威は失墜してしまうのだぞ!」
「知ったようなことをいうな!」
自分でも聞いたことのないような激しい声で、フィエルテは怒鳴った。声に驚いたのか、操る力が途切れたのか、黒鳥が追い立てられるように一斉に飛び立つ。
しかしファレイは、すでに全身から血を流していた。
「セプテンは、オレの妹を救ってはくれなかった……。あの世で、救われているだと? 最初は、それでもいいと思ったが……やはりそんなもの、納得がいかない。あの世じゃ、だめなんだ。オレは、ディアナがいないとだめなんだ。ここに、この世界に、オレの目の前に!」
フィエルテは、ファレイを右足で踏み付けた。
「オレはもう、充分、セプテンに仕えた。褒美をもらって何が悪い? 奇跡の腕輪、エスペランスで、奇跡を起こすんだ。その間、借りるだけだ。ディアナと、もう一度、暮らすだけだ。……なあ!」
「ぐ……っ」
ファレイが血を吐いた。かまわずに、足に力を込める。
「あんたも、欲しいだろう。褒美が、欲しいだろう? 神なんて、いたってな、救ってくれなきゃ、意味がないんだよ!」
足を振り上げ、頭を蹴りつける。赤の神官が動かなくなったことを確認して、フィエルテは彼女を持ち上げると、茂みに捨てた。
今の自分の計画に、必要のない存在だ。
「……妹と」
闇に飲み込まれそうになる。
フィエルテは、夜に向かって呟いた。
「妹と、暮らしたいと思うことの、何がいけない……。オレは、間違ってなどいない」
夜は嫌いだった。
恐ろしいほど静かで、自分も消えてしまう気がして、後ろを振り向いてしまいたくなる。
振り向いて平気でいられるほど、強くはなかった。
3
トリコの町に、朝が訪れた。
ミーシャが目を覚まし、部屋を出ようと仕切り布をまくると、そこにはロゼもアスフェルもいなかった。
「もう、起きたんだ」
両手をあげて伸びをして、ぷるぷると首と尻尾を振る。アスフェルがいないことに少しほっとしていた。
昨夜食事を出された部屋に行くと、そこではロゼが茶のようなものをすすっていた。ここにも、アスフェルの姿はない。
「おはよう、ミーシャ」
ロゼがこちらに気づき、嬉しそうに微笑みかける。ミーシャも笑っておはようと返し、ロゼの向かい側に腰をかけた。
「昨日は、よく眠れた、ロゼ?」
「うん。だから、今日はすごく気分がいいよ。ミーシャは?」
「……そうね。うん、わたしも」
本当は、ほとんど眠れなかった。
「ミーシャ? どうかしたの?」
「ね、ロゼ、アスフェルは?」
できるだけいつもどおりに、何でもないことのように問いかける。ロゼは、首を傾げた。
「さあ……ぼくが起きたときには、もういなかったけど。どうして?」
「……あのひと、おかしいわ」
「?」
ロゼは、目を瞬かせた。
「どういうこと?」
「おかしいの。変なの。ねえ、ロゼは、そう思わない? 普通じゃないわよね?」
「……ミーシャ?」
ミーシャは押し黙った。おはようございますと声をかけながら、宿の主人が現れたからだ。
主人はミーシャの前に、暖かい茶を差しだした。
「申し訳ないのですが、この町のしきたりでして、今日の朝食は、お出しすることができないんです。お茶ぐらいしか……」
ひどくすまなそうにいわれたその言葉に、ミーシャが敏感に反応する。
「しきたり、というのは?」
「ロゼさんにはお話したのですが……昨夜おそくに、町のこどもがひとり命を落としました。そういうことがあったら、その次の食事はしないというしきたりがあるんです」
今日の天気でも説明するような柔らかい表情で、主人はそう説明した。ミーシャは、何といっていいかわからず、思わず口を閉ざしてしまう。
「では、どうぞ、ゆっくりなさってください」
「あ、はい……」
歩き去っていく主人を、思わず目で追ってしまう。なんとなく居心地の悪い気分で、ミーシャはロゼを見た。ロゼは、今までにないような複雑な表情をしていた。
「こどもでも、おとなでも、ヒトが死ぬのはよくあることなんだって。この町では、治療と呼ばれるものは一切しないみたいだよ。全部、自然に任せるんだって」
「……そうなんだ」
そういう考え方もあるのだろうと、認める気持ちもあったが、やはりやりきれないような気持ちになって、ミーシャは瞳を伏した。
死ぬということは、そういうものなのだろうか。
「ここではね、死ぬっていうのは、ここでの暮らしの終わりで、別の暮らしへの始まりなんだって。だから、引っ越しみたいな、そういう感覚みたい」
「…………」
ミーシャの返事はなかったが、ロゼは茶の入った器に目を落とし、続けた。
「死ぬっていうのは、どういうこと?」
ミーシャはこたえられなかった。
「生きるっていうのは、どういうこと?」
ミーシャは、こたえられなかった。
ロゼは、随分と色々なことを考えるようになった。
顔を洗うために宿の裏の泉にやってきて、泉の前にぺたりと座り込み、ミーシャはぼんやりとそんなことを考えていた。
澄んだ水を両手ですくい、顔を洗う。揺れた水面に、情けない顔が映った。
「あなたの心は」
ミーシャは手をのばし、水面に揺れる自分の顔に触れる。
心は、聞こえてこない。
「……わたしの心は、どこにあるのかな」
瞳を伏せた。
色々なことを考え、成長していくロゼ。喜ばしいことなのだろうが、素直に喜べない自分がいる。
あんなに真っ白だった、生まれたての心も、やがて変化していくのだ。
生きているというのは、きっと、そういうことだ。
ばしゃりと乱暴に手を入れて、自分の顔をかき消した。
「大嫌い。心なんて、大嫌い。なければいいのに」
アスフェルに触れたとき、心が聞こえてこなかった。あんなことは初めてだった。
あれほど心が聞こえることを嫌悪していたのに、聞こえないことに恐怖を覚えた。
「聞きたくないのに。聞こえないと、恐いなんて……」
「奇跡の神子ともあろう方が、何をお悩みですか?」
「――!」
突然背後から聞こえてきた声に、ミーシャはとっさに身を翻した。ビースル特有の素早さで跳躍し、姿勢を低くして声の主を見る。
「! あなた……!」
「お久しぶりでございます、神子」
声の主は大仰に一礼した。随分と痩せたディンディゴの男だ。黒い前髪の下から覗かせた大きな目は、いやらしく細められている。
ミーシャはこの男を見たことがあった。そしてその名も、察した。
「あなた、フィエルテ=ドントワールね……」
「さすが奇跡の神子。そのとおりでございます。そしてあなたなら、私のやろうとしていることも、もちろん、おわかりですね?」
張りつかせたような笑顔に寒気を感じながらも、ミーシャはゆっくりと、首を左右に振った。この男が、セプテンの奇跡の腕輪を盗んだということはわかる。しかし、そのことと自分との関係がわからない。
「わからないわ……」
「わからない? はっ、とぼけるな」
笑顔は張りつかせたままで、フィエルテはミーシャに近づいた。
「あんたと一緒にいる、ドールがいるだろう。やつが持ってるはずだ。それを返してほしいだけだ。別にあんたらをどうこうしようってわけじゃない」
「あなた、このあいだもそんなこといってたみたいだけど……勘違いしてる。どうしてそう思うの? 盗んだのは、あなたでしょう? ロゼは何も持ってなんか……」
「オレには全部わかってんだよ! あんたみたいに、キレイなとこでずっとちやほやされてきた嬢ちゃんにはわからないだろうが、オレにはわかるんだ!」
突然の大きな声に、ミーシャはびくりと身を震わせた。このまま言葉を交わすだけではすまないだろう。襲われたとして、逃げられるだろうか。様々な可能性を、必死で考える。
「ドールがなんの力もなく、自力で動きだすわけがないだろう。オレのエスペランスを持ってるはずだ! あの野郎、人の物を横取りして、どういうつもりだ!」
いつのまにか、フィエルテはミーシャのすぐ目の前まで来ていた。さっき逃げればよかった、いまならまだ……そんな考えがよぎるが、足がすくんで、動けない。
「あんたは人質だ、神子。エスペランスを取り返してやる。さあ、おとなしくついてこい」
「…………」
ミーシャは動かない。
気持ちよりも先に全身が怯え、動けない。
「さあ!」
フィエルテは、ミーシャの肩を思い切りつかんだ。
「――!」
ミーシャは硬直した。フィエルテの思いが流れこんでくる。黒く、重いものが、入り込んでくる。
「いや……!」
ミーシャは手を振り払おうともがくが、彼の思いはとめどなく流れこんできた。ミーシャの目から、ぼろぼろと涙がこぼれる。
「やめて、離して、はなして……やめて……!」
それは怒り、悲しみ、憎しみ……表しきれない思い。ミーシャの口からは甲高い悲鳴のような声が漏れる。
「いやぁ……!」
「うるさい、早く来い!」
フィエルテは泣き叫ぶミーシャを無理やり肩に担いだ。一際大きな悲鳴を上げて気を失ったが、かまわずに走りだす。
とりあえず身を隠さなければ、この少女を隠さなければ、そして交渉すれば、エスペランスは手に入るはず……フィエルテはほくそ笑み、遺跡へと走った。
しかし、すぐに背後から鋭い声がかけられた。見つかったことを悟ったが、それでも彼は走り続けた。
「ミーシャ!」
胸騒ぎを覚えて様子を見にきたロゼは、長身のディンディゴの男が走り去ろうとしているのを目撃した。見間違えるはずはない――その肩に抱えられていたのは、ミーシャだ。
考えるよりも先に、走りだす。
「止まれ! ミーシャを離せ!」
もちろん、止まる気配はない。ロゼは、ひどく心が乱れているのを、冷静に感じているような、妙な感覚に陥った。ミーシャが連れ去られていくことなど、あってはならない。外気を感じないほどに寒気がする。
男は、町を囲む柵を飛び越え、整備されていない荒れた道を走り続ける。しかし、ミーシャを抱えたディンディゴの足だ。ロゼとの差は徐々に縮まっていた。
こんなときに、アスフェルは一体どこに行ったのかと、唇を噛む。ちょうどそのとき、ロゼから見てディンディゴの男よりも更に向こう側に、アスフェルの姿が見えた。
アスフェルがこちらに気づく。それでもロゼは声を張り上げた。
「アスフェル! ミーシャを……!」
アスフェルはすぐに察知して鞭を構える。フィエルテはするどく舌打ちし、右手に続く森に飛び込んだ。二人がそれに続く。
「どうして! こんなときに、どこに行ってたっ?」
アスフェルに向かってロゼが怒鳴りつける。後悔するように唇を噛み、アスフェルはスピードをあげた。
「あいつは?」
「知らない、でも、会ったことがある。そのときは、わけのわからないことをいってた」
それを聞いて、アスフェルも思い出す。介入はしなかったが、そのときもロゼたちの様子をうかがっていた。妙な男だ。
「黒鳥を使って襲ったのもあいつだろうな……っくそ!」
アスフェルは一気に距離をつめると、フィエルテの足元に鋭く鞭をふるわせた。彼は短く悲鳴を上げ、バランスを崩す。
そこへロゼが飛びかかかろうと跳躍する。しかし、どこからか現れた黒鳥が、二人に襲いかかった。
「うわ!」
ロゼが倒れ、アスフェルが素早く黒鳥を叩き落とすが、フィエルテはよろめきながらも走り続けていく。黒鳥は何匹も現れ、倒しながらではなかなか前へ進めない。このままでは見失う──そう思ったときだった。
視界が開けた。セプテンの遺跡だ。
「ここは?」
「……やっかいなところに逃げ込んだな。追うぞ!」
見たことのないような厳しい顔で、アスフェルが走る。いわれるまでもなく、ロゼも後を追う。
しかし、彼はもう逃げなかった。突き当たりで立ち止まり、すぐ後ろにまで迫る二人を確認して、もう逃げられないと悟る。フィエルテは短剣を引き抜き、気絶しているミーシャに突きつけた。
「止まるんだ! 止まるんだ……わかるな? こっちには人質がいる。いいか、動くんじゃない」
ロゼとアスフェルが、立ち止まる。フィエルテは、短剣をミーシャの頬にぴたりとつけながら、頭のなかで必死に考えていた。ミーシャを攫い、隠しておくはずだったのに、追いつかれてしまった。一度立てた計画が崩れることを嫌悪するフィエルテにとって、今のこの状況は混乱をもたらすものでしかない。
「いいか? ロゼ、という名だな……貴様、奇跡の腕輪を……なにか、腕輪を、持っているはずだ。いいか、それを、渡すんだ。神子と交換だ。わかるな?」
「……前もいった。腕輪なんて、持ってない」
「いいから渡すんだ! 神子を殺すぞっ、いいんだな?」
「……!」
かっとして身を乗り出すロゼを制し、アスフェルが口を開いた。
「なるほど……あんたがフィエルテなんたらってやつか。そもそも奇跡の腕輪ってのはあんたが神殿から盗んだんだろう、どうしてそれをロゼが持ってるって話になるんだ?」
「黙れ! 余計なことはいい! こいつが持ってるはずなんだ!」
「……落ち着け。こっちとしては嬢ちゃんを返してもらいたいだけだ。その奇跡の腕輪ってのにははっきりいって興味がない。もしこっちが持ってるものなら、喜んで渡す。でもわかんないものは渡しようがない」
フィエルテは黙ってアスフェルを見つめた。もっともなことをいっているように聞こえる。しかしそれを認めてしまっては、もう何を求めて進めばいいのかわからなくなってしまう。
フィエルテはゆっくりと後ろへ下がった。混乱した頭のなかで、とにかくこの場から逃げなければ、と考える。冷静な判断など、到底できる状態ではなかった。
フィエルテの合図で四方から黒鳥が出現し、二人に襲いかかった。一瞬の隙をついて、フィエルテはロゼの横をすり抜ける。
「ま、待て!」
ロゼも後を追う。アスフェルは一人で黒鳥を数匹相手する形になり、舌打ちしながらも鞭をふるい、遅れて走りだした。
「くそ! くそ! くそ!」
フィエルテの体力はもう限界に近づいていた。足がもつれて、うまく走れない。
「この!」
よろめいたフィエルテの背中めがけて、ロゼが飛びかかった。ロゼとフィエルテと、気絶しているミーシャとが、叩きつけられるように床に転がる。がんっと、したたかに身体を打ち付けたフィエルテの、その真下の床が大きく波打ったように見えた。次の瞬間には、床ががらがらと崩れ落ちた。
「うわあ!」
フィエルテがつかんだ瓦礫ごと、ごっそりと床がぬけた。床の下に広がる空洞に落ちていくフィエルテを見る余裕もなく、ロゼは崩れかけた柱になんとかしがみつく。
ロゼの身体も床に垂直になっていた。足が揺れている。つかんでいる柱も、自分の目線よりも上にある床も、今にも崩れ落ちそうだ。
視界の端に捉えたミーシャのいるところも、まさに崩れようとしていた。
「ミーシャ……! 起きて、ミーシャ! ミーシャ!」
呼びかけるが、死んだようにぴくりとも動かない。ロゼは必死に、よじ登ろうと力を込める。
ロゼの手を、遅れて現れたアスフェルがつかんだ。
「まさか崩れるとは……。あいつは落ちたのか?」
「そんなことより、ミーシャを!」
「そりゃ無理だ。向こう側には……」
届かない、といおうとして、アスフェルの身体は前につんのめった。大きな振動。そして轟音。
床が落ちたのだと、ロゼが理解するより早く、彼の意識は遠退いた。