人形の町
1
そこは、白い町だった。
「今日は、あなたにお別れをいいにきたの」
白い町のなかには、古びた白い家が並んでいた。家はどれも角張っており、植物が根づいているものも少なくない。
「毎日こうやって、あなたに会いにきていたけれど、それも今日でおしまい」
白い家には、誰一人として生きているものは住んでいなかった。そこにあるのは、いまにも動きだしそうなほどに美しく、しかし決して動くことのない人形だ。
「本当は、ここで暮らしたかったけど……けど、どうしても、やりたいことが、あるの」 白い町の白い家で、人形に向かって話しかけていた少女は、そういって少し淋しそうに微笑んだ。
少女の頭からは猫の耳のようなものが飛び出し、そして白いスカートからはやはり猫のような尻尾が覗いていた。ビースルと呼ばれる種族で、普段は集落を形成して暮らしている。しかし少女は一人きりで、人形の前に立っていた。
「ねえ、わたし、あなたみたいになりたいって、ずっと思ってた。ううん、いまでも思ってる。……だからわたし、リリン・ドゥーアに、行くわ」
少女は、返事をすることのない人形に向かってもう一度微笑むと、最後に、絶対に忘れてしまわないように、大切な人形を見つめた。
少女よりも少し背が高い。白い肌をしていて、大きな帽子の下からは灰色の短い髪が覗いている。瞳は青いが、光がない。白く、薄汚れた衣服を着ており、まるで何気なく壁にもたれているかのようだった。
しかし、少女は知っている。一年前、初めてこの町にきたときから、ずっと変わらない世界。この町に住む人形たちは、この少年に限らず、動くことはないのだ。
少女は、ゆっくりと目を閉じて、そしてきびすを返した。振り返ることなく、白い扉をくぐる。
大きく深呼吸をして、後ろ手に扉を閉めた。
胸のなかから、なにかがなくなった気がした。穴が開いた気分だ。
二つに結んだ、茶色の髪をふわりと揺らして、少女は広い道を歩きだした。左右には、白くて四角い建物が整然と並んでいる。人形が暮らす町は、普通の町ならばにぎやかであるはずの早朝でも、恐ろしいほど静かだった。
「おや、ミーシャ。今日は早いねぇ」
後から声が聞こえてきて、ミーシャと呼ばれた少女は、振り返った。そこにいた老婆を見て、ミーシャは進んだ道を少し戻った。
「お早よう、ヴィオレお婆ちゃん。久しぶりね。会えて良かった」
「ひっひっ。こんな老いぼれに会えて良かったなんていうのは、おまえさんぐらいのもんだろうね」
ミーシャは、少し困った顔をした。たしかに、老婆は頭から真っ黒な布をかぶっており、不気味な風体をしている。この町の近くにある森で、隠れて暮らしているらしい老婆は、気が向くと白い家で寝泊りしているようで、毎朝ここにくるミーシャとはときどき顔を合わせていた。
「わたしね、もう、ここにはこないの。旅に出ることにしたのよ」
ミーシャの言葉に、ヴィオレは驚いたように眉を上げた。
「旅に? 馬鹿いっちゃいけないよ、あんたみたいな小娘が一人で生きていけるほど、世の中は甘くない。けど……そうかい、とうとう、家を出る決心をしたかい。親には?」
「…………」
ミーシャは、目を細めた。怒りとも、悲しみともとれる表情だ。
「いってない。きっと、わたしが家に帰らないって知ったら、泣いて喜ぶわ」
「……親とはいえ、万能じゃあないんだ、ミーシャ。子どもは、親は完璧だなんて勘違いをしてしまいがちだけど、親も所詮ひとだよ。愚かで……だからこそ、いとおしい」
ミーシャは微笑んだ。
「妹たちに会えなくなることだけ、心残りだけど。でも、もう、決めたの」
「ああ、あんたのかわいい妹たちのことだけどね……」
黒い布の下で、ヴィオレはおもしろそうに笑った。
「昨夜、この町にきていたようだよ。またガラクタを集めにきたんだろうて。まったく、たいしたいたずら娘たちだよ」
「また、あの子たち……!」
ミーシャは唇を曲げて、頬を膨らませた。あのいとおしい妹たちを、もう叱ることもできないかと思うと、少し淋しかった。いたずらをしてでも何でもいいから、元気でいてほしいと思う。妹たちだけが、ミーシャを慕ってくれる、唯一の味方だったのだ。
「もしまたあの子たちを見かけたら……」
そこまでいいかけて、ミーシャは押し黙った。いいたいことは山ほどある。しかしそれらは、伝えてはいけないことのような気がした。
「……決めたんだろう? ならもう、それでいい」
ヴィオレが、やさしく、微笑んでいるのがわかった。ミーシャはうなずいた。
「あ、いけない……! わたしったら、荷物を置いてきちゃったわ」
「ひっひっ、先が思いやられるねぇ。例の人形のところかい?」
「ええ、たぶん。取りに行かなくちゃ」
ミーシャは、あわてて走りだした。それほど離れてはいなかったので、すぐに辿り着く。ちらりと振り返ると、ヴィオレがゆっくりとついてきていた。
「もう、信じられない。本当に、旅なんてできるのかしら」
扉を押し開けて、見慣れた白い家に足を踏み入れる。ひび割れた白い机の上に、茶色い小さな鞄が置かれているのを見つけ、ミーシャは安堵した。
「ああ、よかった、なかったらどうしようかと……」
鞄に手をのばしかけ、彼女はぴたりとその動きを止めた。瞬くことも忘れ、ゆっくりと記憶をめぐらす。
なにか、違和感があった。ここに入ってきて、まず目にするはずのものがなかった。
「…………」
鼓動が早まった。少しだけ首を動かせば確認できることなのに、どうしても身体が動かない。
外の音など聞こえてこないのではないかと思うほど、鼓動の音が頭のなかで鳴り響いていた。しかしその声は、はっきりと、彼女に届いた。
「君は、だれ?」
少しだけ低い、透き通るような声。ミーシャは、全身が震えるのを感じた。
「君は、だれ?」
もう一度繰り返されて、ミーシャはやっと、声のほうに顔を向けた。
思ったとおり、そこには、毎日毎日話しかけてきた少年の姿があった。決して動かないと思われた、人形であった少年は、ミーシャのすぐ隣で、彼女を見ていた。
「……あなた……」
それだけいって、言葉を失う。少年の目には光があった。たしかに、動いている。
少年は、小さく首を傾げた。無表情で、もう一度、問いを口にする。
「君は、だれ?」
「わたしは……わたしは、ミーシャ。あなたの、名前は、なんていうの?」
少年は、少しだけ、微笑んだように見えた。
「ぼくは、ロゼ」
ミーシャには、信じられなかった。これは、夢かもしれないと、遠退く意識のなかで、かすかに思った。
白いテーブルの上に、カップが三つ並べられた。座り慣れた椅子に腰かけると、ヴィオレはもう一度、人形であった少年の顔をしげしげと見つめた。
「しかし……こりゃあ、驚いたね。人形が動きだすなんて、聞いたこともない」
自分のことをいわれているということに気がついていないのか、ロゼと名乗った少年は目の前のティーカップを珍しそうに見ている。代わりにミーシャが、唇を尖らせた。
「いまのいいかた、あまりよくないと思うわ、ヴィオレお婆ちゃん。人形人形って、馬鹿にしているみたいに聞こえる」
「ひっひっ、そりゃあ悪かった。そんなつもりはないよ……ただ、聞いたこともないってのは本当のことさ。それは、あんたもだろう、ミーシャ?」
「…………」
ミーシャは押し黙る。ヴィオレのいっていることは正しい。
白い町で、ロゼが動きだしたことによってミーシャは混乱し、そのまま気を失ってしまったのだ。そこへ現れたヴィオレもやはり驚いたが、とりあえずミーシャをどうにかしなければならないということで、ヴィオレがこの町にくるたびに勝手に使用している白い家へとやってきていた。
目が覚めたとき、ミーシャはもう一度失神してしまうところだった。自分をここまで運んできたのはロゼだと聞かされ、頭のなかが真っ白になったのだ。
「人形っていうのは、ぼくのこと?」
ロゼが口を開いた。外見から想像するよりも、落ち着いた声だ。
「そう、おまえのことさ。ロゼ……といったねぇ? おまえは、なぜ急に、動きだしたんだい?」
「ヴィオレお婆ちゃん……!」
「おだまり、ミーシャ。この人形はあんたのお気に入りかもしれないが、危険がないとはいいきれないんだよ」
容赦のないヴィオレのいい方にもひるまず、ロゼはゆっくりと瞳を瞬かせた。
「危険?」
「いいのよ、ロゼ。気にしないで」
ヴィオレとミーシャを交互に見つめて、ロゼは無表情のまま少し考えるように口を閉ざした。奇妙な沈黙が落ちる。
「なぜ急に動きだしたのか、と聞いたよね?」
逆に問いかけられ、ヴィオレはやや驚いたような顔をしつつも、うなずいた。
「ああ、そうさね」
「それは、つまり、ぼくはいままでは動いてなかったってことだね」
「…………」
ヴィオレは、眉をひそめた。
「……わからないの?」
ミーシャが問いを口にする。ロゼは首を縦に振り、それからミーシャを見た。
「わからない。きっと、そういうことの違いが、始めからなかったんだと思う」
不思議ないい方だ。自分がどういう存在なのか、何もわかっていないということは確かなようだ。
ヴィオレは、大きくため息を吐いた。立ち上がり、小さな家の奥にある台所から、自らが持ち込んでおいたティーポットを携えて戻ってくる。
「要するに、おまえは、何にもわかっちゃいないんだね」
中身が減っていないロゼのティーカップを除いて、あとの二つにハーブティーを注ぎながら、ヴィオレは疲れたようにつぶやいた。
「なら、教えてやるよ、ロゼ。あんたは人形……ドールだ。その大きな帽子を、取ってごらん」
ロゼは、おとなしく帽子を脱ぐと、テーブルの上に置いた。灰色の、やわらかそうな髪が顕になる。
「やっぱり、他のドールと同様、耳は丸いようだね。尻尾もない。まだ子どもだからだろうが、外見はあたしたちディンディゴとまったく同じだ」
ヴィオレもまた、フードを脱いだ。彼女の耳も小さく、丸い。
「ディンディゴ?」
「本当に、何も知らないようだねぇ……」
目を細め、ヴィオレはひっひっと低く笑った。ロゼは黙っていたが、ミーシャは何となく不愉快になり、下を向いてしまう。
「あたしもおまえもミーシャも、いっちまえば皆ヒトさ。ヒトの定義には色々あるが、見た目があたしらみたいのはひっくるめてヒトって呼ばれる。そのなかでも、いろいろな種族がいるわけさね」
淡々と、ヴィオレが話し始める。ロゼは無表情で、話を聞いていた。
「大昔は、ヒトというのはニンゲンしかいなかったらしい……そのニンゲンの成れの果てが、おまえたちドールさ。そして、あたしはディンディゴ。ディンディゴの特徴は色々あるが、見た目は……そうだねえ、だいたいニンゲンと同じだ。ちょいと背が低いぐらいだね。ミーシャのように、獣の耳と尾を持ったものは、ビースルっていうのさ。他にも、たくさんのヒトの種類がある……」
ロゼは、話を聞いても何の感情も抱くことができなかった。聞こえてくるものが、すべて新しい知識にしか感じられない。
「いいかい、ロゼ。普通、ドールは、動かないんだ。ヒトの形をしているだけで、決して動くことがない。それが、常識なのさ」
ヴィオレは、正面からロゼを見据えていた。ロゼも、彼女を見つめ返す。
その瞳を見て、ロゼは悟った。どうやら、自分が動いているというこの状況は、歓迎されていないらしい。
「でもぼくは、動いている」
ロゼは事実を口にした。
「いままで、ぼくがどうだったのか、まったくわからない。でもいま、ぼくは動いているよ」
ヴィオレは片方の眉を跳ね上げた。
「それが、異常だっていってるんだよ、人形のロゼ」
「ヴィオレお婆ちゃん……!」
ミーシャが、ヴィオレを睨みつける。ヴィオレのいい方には、棘がある気がしてならない。しかしヴィオレは、肩をすくめて、そのまま黙ってしまった。
小さく息を吐くと、ヴィオレから目を逸らし、彼女はロゼに向かって小首を傾げる仕草をした。
「ねえ、ロゼ。ちょっと、こっちにきて」
立ち上がり、手を差し伸べる。その様子を見て、ヴィオレが顔色を変えた。
「あんた……!」
「いいのよ、ヴィオレお婆ちゃん」
ロゼは、差し伸べられた手と、笑顔のミーシャとを、交互に見つめる。この手の意味も、彼女の笑顔の理由も、彼にはまったくわからなかったが、それでもロゼは手を握った。
「…………」
ミーシャは、手を握り返して、それからゆっくりと微笑する。
「うん、思ったとおり」
「……大丈夫なのかい?」
「どうして?」
ミーシャは、ヴィオレにとびきりの笑顔を向けた。
「最高の気分よ、ヴィオレお婆ちゃん! さあ、ロゼ、こっちよ」
手を引かれるままに、ロゼはミーシャのあとについていった。台所の横の通路を抜け、やはり白い壁の部屋に出る。
そこは、書斎のようだった。たいして大きくもない部屋の四方は、背の高い本棚に囲まれており、中央にある机の向こう側には、ひとりの男がいた。
ロゼは、その男を、じっと見つめた。
「わたしたちと、何も変わらないように見えるでしょう?」
ロゼは、ミーシャの言葉にはこたえず、ゆっくりと男に近づいていく。
隣までくれば、すぐにわかった。男は、ひどく美しい、人形であった。
「これが、ドールよ。決して動きだすことのない人形。さっきまで……あなたも、この男のヒトのように、動かない人形だったのよ」
やはり、ロゼはこたえなかった。しかし、いま目の前にいる男と自分とが、決定的に異なっているという事実が、なぜか重い塊となって彼の胸に落ちた。
「…………」
ロゼは、そっと、男の頬に手を当てた。
「この『ドール』と、ぼくとは違う。……ぼくは動いている」
ロゼは、すぐ後にミーシャがいることがわかっていたので、そのまま振り返った。そして今度は、彼女の頬に触れた。
「ミーシャと、ぼくとも、違う……」
ミーシャは、首を左右に振った。
「そんなに、哀しい? あなたは、動きだしたのよ。それで、いいじゃない」
「…………」
ロゼには、わからなかった。わからないという感情すら、理解できていないのではないかと思うほど、彼は静かに混乱していた。
「ねえ、ロゼ。あなたは、どうしたい?」
ゆっくりと、彼女はそんな問いを口にした。
「……どうしたいって?」
「あなたはきっと、いま生まれたのよ。生まれたからには、やりたいことやらなきゃ、損でしょ?」
「生まれた……」
その言葉を、ロゼは頭のなかで繰り返した。それは彼にとって、ひどく新鮮な響きを持っていた。
「わたしはね、ロゼ。真っ白なあなたに、世界の綺麗なところ、たくさん見せてあげたい。生まれてきて良かったって、あなたが思えるように」
ミーシャはそういって微笑した。
ロゼは、瞳を瞬かせ、ミーシャを見つめる。どうしたいのかなどと、そんな問いは彼にとってなんの意味もなかった。
「ぼくは……ミーシャと、一緒にいるよ」
それは当然のことのように、彼の口から出た言葉だった。ミーシャは笑った。
それが、二人の始まりだった。
2
ひとつだけ聞かせておくれと、ヴィオレはロゼを呼び止めた。ただの人形だった頃の記憶は何もないのかと、それが彼女の問いだった。
ロゼはいった。たったひとつ、覚えていることがあると。
それが何であるのかを聞いて、ヴィオレは笑った。
ミーシャの幸せを願う彼女には、それで充分だった。
季節は春に入っていたが、森の中を歩くにはまだ肌寒かった。草花は遠慮がちに芽吹き始めていたが、差し込む光は頼りなく、森はまだ春色に染まることができないでいる。
その森のなかの小さな道を、ロゼとミーシャは歩いていた。ロゼの姿は、どう見ても森を歩くには適していない。白を基調としたデザインの衣裳は、帽子から靴に至るまで、どこかぞろりとした印象がある。
対して、ミーシャはもともと旅に出るつもりであったので、ずいぶんと動きやすい服を着込んでいた。上半身は茶色のベストで引き締められており、手には同じ色のグローブをはめていた。ふわりとした白く短いスカートから飛び出した尻尾は、いまは元気に左右に揺れている。
「ほら、見えてきた!」
ミーシャの猫のような耳が、跳ねるように動いた。ロゼは、彼女の指差す方向に目をやった。
「家が、たくさん見える……」
「エーダの町よ。ビースルとディンディゴが住んでいるの」
町は、いま自分たちがいる森よりも低い場所にあるようだった。茶系統の三角の屋根と、その間に時折木々が見える。中央にある白く大きな建物は、どうやら教会のようだ。
「ああ、どきどきする。わたし、とうとう旅に出たんだわ……!」
ミーシャの頬は少し紅潮していた。町に向かう足が早まる。
「ミーシャは、エーダの町に行くのは初めてなの?」
「初めてじゃ、ないけど。でも、前は保護者が一緒だったから、なんだか初めてって気分」
彼女は微笑んで、それからむりやりのようにロゼの手を取ると、走りだした。長い坂道を、一気に駆け降りる。
町をぐるりとおおっている外壁の、その入り口が見えてきた。入り口の門が自分たちよりも大きく見えるまで走って、やっとミーシャはスピードを落とした。
「はあっ、疲れちゃったね」
そのわりには嬉しそうだ。まったく疲れていなかったので、ロゼは正直に首を左右に振る。
「ぼくは疲れていないよ。ミーシャは、大丈夫?」
「大丈夫よ、わたしが走りたいから走ったの。そういうところ、気遣いはいらないのよ、ロゼ」
くすぐったそうに笑い、少しだけ尻尾を揺らす。幼さと大人らしさが同居しているような仕草だ。
見上げると、開け放たれた門の両脇に、大きな男が二人、立っていた。右側には小さな石作りの小屋のようなものがあり、その窓から一人の男が顔を出している。
町に入るためには避けて通れない道だった。
ミーシャは、ロゼの手を強く握り締めると、思い切って門の前に立った。ロゼがその横の、少し前に並んだ。
「やあ、こんにちは」
大きな身体をした男は、武装したその風貌には似合わないやさしい声音で、二人に話しかけてきた。
極端に短い髪が空に向かって立っており、その下には彫りの深い顔立ちがあった。狼のような耳をもつ、ビースルだ。ロゼの数十倍はあろうという筋肉を、袖のない薄茶色の衣服が包んでいる。金属でできた胸当てをはめて、手には長い槍を携えていた。
この町は、そんなに危険なのだろうかと、ちらりとミーシャは思う。
「お父さんや、お母さんは、いないのかな?」
男は二人を見下ろした。ロゼが無言で見つめ返してきたので、ミーシャに視線を向けることにする。
「わたしたち二人だけです。町には、入れないんですか?」
「そうかい。いや、もちろん入れるとも。名前と出身地、種族をリストに書かせてもらうがね。簡単な手続きだ。――名前は?」
小屋の窓から、痩せたディンディゴの男がリストをさしだした。それを受け取りながら、質問してくる。
「ミーシャ。出身地は……セプテン。種族はビースルです」
「へぇ、神殿の生まれなのかい」
「…………」
ミーシャはうつむいた。それをうなずいたのだと解釈して、男はロゼを見る。
「君は?」
「ぼくは――」
「この子はロゼ。出身地はセプテン。種族はディンディゴよ」
ロゼを遮って、ミーシャは一気にまくしたてた。
「ふむ……なるほど」
それだけいって、男はさらさらとリストに記す。たったの数秒が、ミーシャにはひどく長く感じられた。
やがて男はリストを窓の男に手渡すと、二人に笑いかけた。
「さあ、手続きは終わりだ。町に入って少し東にいったところに、宿場がある。あてがないなら、まずは今日の寝る場所を確保することだね」
「ありがとう、おじさん」
にこりとミーシャが笑い、その横でロゼが頭を下げる。二人は、少しだけ緊張しながら、門をくぐった。
「……セプテンというのが、ぼくの出身地なの?」
「そんなの、知ってるわけないでしょ。適当にいったのよ。種族だって、ディンディゴだなんて嘘ついちゃったわ」
ミーシャは、ぺろりと舌を出した。
町のなかはたくさんの人が行き交っており、ずいぶん賑わっていた。三角屋根の家々を通り過ぎ、店が立ち並ぶ広場へと出る。茶色い町だ、とロゼは思った。ほとんどの建物が茶系統で統一されているので、店の入り口の上にかかっている看板の白い色が印象的だ。
広場の中央には、大きな噴水があった。店は、その噴水を遠巻きに取り囲むようにしてぐるりと建っており、店と噴水の間の広場には、たくさんの人が集まってきていた。
「たくさん人がいるわね……なにかあったのかな」
ミーシャが、うんざりした調子でつぶやく。人の多い場所は好きではない。
広場を通過しようと足を速めると、若い男の声が飛び込んできた。
「間違いねえよ、神殿仕えのやつが話してるのを聞いたんだ!」
ミーシャは立ち止まり、声のする方向に目を向ける。ロゼもつられてそちらを見た。
二十代ほどのビースルだ。噴水の前の、一段高くなっているところに立ち、何かわめいている。この人混みは、どうやらその男の話を聞こうというものらしかった。
「でも、それが本当だとしたら……」
「ねえ……」
男の話を聞いている人々が、不安げに顔を見合わせている。興味を引かれ、二人はもっと近づいてみることにした。
「信じるか信じないかは勝手だが、いまごろ神殿は必死に犯人探ししてるはずだぜ。セプテンのご加護もなくなっちまうってことだからな……まったく、大変なことになりやがったよ……!」
「……セプテンって、ミーシャの生まれた場所だね。ゴ加護があるの?」
「神の名前でもあるの。神殿のある町の名前として、さっきは使ったけど」
ロゼの問いに答えながらも、ミーシャは男を凝視していた。
「セプテンで、何があったのかしら……」
「それが、大変らしいわよ」
聞いてもいないのに、ミーシャのつぶやきを聞きつけて、前にいた女性が振り返ってきた。
「神殿のエスペランスが、盗まれたらしいの。あの人が、神殿仕えの人たちが話しているのを聞いたんですって」
「……エスペランスが……」
ミーシャは、声を搾り出した。エスペランスとは、セプテン神が創造したといわれる奇跡の腕輪だ。その力で、セプテンを信仰する者は幸福と幸福の心とを授かるといわれている。
それが盗まれたというのは、セプテンにとって大変な事件だった。
「神殿はどうなってしまうのかしら……奇跡の神子様も不在のままでしょう? ああ、私たちは本当に、セプテンに救われるのかしら……」
吐き気がして、ミーシャはうつむいた。そうやって、一生、目に見えないものに頼っていればいい――気分が悪くなった。やはり人混みは、好きではない。
「行こう、ミーシャ」
ミーシャの手をつかみ、ロゼは歩きだす。驚いたように、ミーシャは彼の顔を見上げた。
「……うん」
二人はできるだけ急いで、門番に教わった宿場へと向かった。
ロゼとミーシャが歩き去り、その姿が見えなくなったちょうどそのときに、一人の少年が広場に現れた。栗色の、少し長めの髪を、後で束ねている。年齢は、十代半ばほどだろうが、ぶかぶかの上着を着込んでいるので、それよりも幼く見える。耳は丸く、背も高くはなかった。
「…………」
少年は、ひょいと背伸びして、二人の姿が消えた方向を見た。宿に行ったのは間違いない。それを確認してから、先程から噴水の前でわめいている男に向き直った。
「……幸せだねぇ、まったく」
馬鹿にしたように、つぶやく。ぎりぎり男の耳まで届くような、声の大きさだった。
「なんだって……?」
直観的に、自分のことをいわれたのだとわかった。眉をひそめて、男が声の聞こえてきた方を見る。続いて、笑い声が聞こえたような気がした。しかしそこには、誰もいなかった。
「なんだよ、誰かなんかいったか?」
男は、首を傾げつつ、周囲の者に尋ねる。しかし皆、首を左右に振るので、気のせいだったということにしてしまった。
その様子を、数メートル離れた店の屋根の上から眺め、少年は唇の端を上げた。彼は嘲りともとれる表情で、もう一度つぶやいた。
「シアワセだっつったんだよ、ばーか」
3
すべてのカーテンを閉めきった、光の届かない小さな部屋で、男は膝を抱えていた。誤算だった。数年前に訪れたときは、町に入るための審査など何もなかったのに。
「……ちくしょう」
とっさに、偽名を使ってしまった。しばらくはそれで誤魔化せるだろう。しかし、いつばれるかわからない。いつ、追ってくるか、わからない。
黒い前髪の下から、ぎょろりとした鋭い目で、男は床に散らばった自らの荷物を見た。
視線はそのままで、ゆっくりと立ち上がる。痩せた、ディンディゴの男だ。歳は三十歳ぐらいだろう。
「……何が、いけなかった……何から、狂い始めた……完璧だったはずだ、完璧だったはずだ……」
しかし、歯車は確実に狂い始めていた。
「ちくしょう……」
荷物を見下ろす。硬貨と、ほんの少しの着替え、そして保存食が転がっていた。
それだけだった。
逃げてくる途中で、落としてしまったのだ。それは間違いない。では、どこで? いつ、落とした?
「…………」
わかっていた。昨夜、白い町で落としたのだ。あろうことか、自分はそこで転んでしまったのだ。
しかし、もう追っ手は動き始めているはずだった。いまから白い町まで探しに戻るのは、あまりにも危険だ。
だがそれでも、彼は戻らなければならなかった。
「絶対に、手に入れてやる……」
うなるような低い声で、男はつぶやいた。
「エスペランスは、オレのものだ」
*
「ちょっとねぇ、悪いけど、泊めるわけにはいかないね」
カウンターの男に断られ、ミーシャは肩を落とした。わかりました、と力のない返事をして、二人はそのまま、宿を出る。
もうこれで、三件目だった。理由はどれも、こどもだけでは泊められないというものだ。要するに、信用がないのだろう。
そんなのはおかしいと、ミーシャは思う。大人にだって、色々問題を起こす人はいるはずだ。たった数年、生きてきた年数が少ないだけで、差別を受けるいわれはないではないか。
「また、駄目だったね」
淡々と、ロゼがそんなことをいう。特に悔しがっている様子もない。それがおかしくて、ミーシャはくすりと笑った。
「日が暮れるまでに、見つけなくちゃね。どうしても駄目だったら、馬小屋でも何でもいいから、屋根のあるところを借りましょ」
「でも、それじゃあ……」
「ちょっと、そこのボクたち?」
突然、背後から呼び止められ、二人は立ち止まった。振り返ると、ミーシャの母親ぐらいの年齢の女性がいた。ディンディゴのようだ。
「なんですか?」
ミーシャが、ロゼより一歩前に出る。赤茶色の髪の毛を揺らして、その女性は困ったように笑った。
「あら、そんな、構えないで。聞こえちゃったんだけど、宿を探してるのよね? こどもたちだけで、宿なんて見つからないわよ。皆ね、お金のことを気にしてるの。それに、たとえば何か起こったとき、あなたたちには責任がとれないし」
「……そう、ですか」
ミーシャは、唇を噛み締める。こどもだというだけで、こんなにも扱いが違うとは思わなかった。
「それでね、もし良かったら、なんだけど……」
膝に手を置き、少し屈んで二人の顔を覗き込むと、その女性はやさしく微笑んだ。
「私の家に、来ない? 見ててね、かわいそうになっちゃったの。すぐそこで、母と二人で住んでいるんだけど……どう?」
「え……」
小さく声を発して、ミーシャが黙ってしまう。それは願ってもないことだが、しかし、見ず知らずの人に甘えるわけにもいかない。
「ね、遠慮しないで。最近うちの子が家を出ていっちゃってね、すごく淋しいのよ。人助けだと思って……どう?」
ロゼは、ただ黙って、その様子を見ていた。人のやさしさというものがわからない。彼の目には、それはとても奇怪なものに映っていた。
「あの……本当に、いいんですか?」
「もちろんよ! じゃあ、来てくれるのね? 素敵な食事をご馳走するわ。私、こう見えてもお料理上手なのよ!」
「ありがとうございます」
はにかむように、ミーシャは笑った。
その女性は、アリアと名乗った。彼女の家は、宿場から少しだけ離れた、静かな通りに面したところに建っていた。白と茶の煉瓦で造られた、小さくて可愛らしい家だ。まだ新しいのか、壁は少ししか黒ずんでおらず、門にあしらってある銀色のささやかな装飾も、造りたてのようにぴかぴかだった。
「さあ、この部屋を、好きに使ってちょうだい。あとから毛布を持ってくるから、奥のベッドを使ってね」
二人を二階の客間らしき部屋に通すと、アリアはそういい残して、部屋から出ていった。
残された二人に、沈黙が訪れた。顔を見合わせて、ミーシャは大きく息を吐く。
嘘みたいだ。
「どこの宿にも泊まれないから、どうしようって思ってたけど……」
「やさしい人だね。ヒトは、みんな、こんなふうにやさしいの?」
「そんなことはないわ」
冗談めかして笑って、ミーシャは目を細める。ロゼは帽子を脱ぐと、緑色のソファの上に置き、自分も腰かけた。
「じゃあ、どうしてだろう」
「どうしてって?」
ミーシャも、ロゼの隣に腰をおろした。部屋にあるソファは、三人がけのこの緑色のものだけだ。
「どうしてあの人は、やさしいんだろう」
ミーシャは、首を傾げた。
「どうしてってことは……ないんじゃないかな。きっと、理由なんてないのよ。世の中には、アリアさんみたいにやさしい人もいるってことね」
ふぅんと、たいしてわかってもいないような返事をよこし、ロゼはそのまま口を閉ざす。彼にとってアリアの行為は、理解の範疇を超えていた。
「もう、日が暮れるわね……今日は、本当に、いろんなことがあったわ」
窓の外の、赤く染まり始めた空を見てつぶやくと、ミーシャはロゼに視線を移した。
「ねえ、ロゼ」
呼びかける。ロゼは何気ない仕草で、顔を向けた。
「あなたは、いま、どんなことを考えているの?」
「…………」
質問の意味がわからない。それが伝わったのか、ミーシャは苦笑した。
「困るわよね、そんなの。なんていうのかな……いままでは、きっと、あなたの時間は止まっていたでしょう? 今日、あなたが生まれたことには、意味があると思うのよ。動きだしたあなたは、どういうことを考えるのかなぁって、思ったの」
「…………」
長い、沈黙があった。ゆっくりと自分の心に耳を傾けて、それからロゼは首を左右に振った。
「わからないよ……いままでのぼくがどうだったのか、いまのぼくと何が違うのか。ただ、人をたくさん見ても、人と話しても、初めてって感じじゃなくて……懐かしい、ような気がする」
それは、質問のこたえにはなっていなかった。しかしミーシャは、そうよね、と微笑んだ。
料理をしているアリアの後ろ姿に、ひとりの老婆が話しかけた。
「人数は?」
アリアは、少しだけ振り返って、老婆に微笑みかける。サラダを容器に移し替えながら、答えた。
「二人よ、お母さん。とてもかわいいビースルの女の子と、頭の良さそうなディンディゴの男の子」
「そうかい」
短い会話だった。木製の杖をつきながら、老婆はアリアに背を向ける。振り返らずに、最後に一言、つぶやいた。
「……もう、これで、最後だよ」
アリアは、自嘲するように頷いた。。
夕飯に呼ばれ、下の階のダイニングへと赴くと、丸いテーブルの上に、四人分の豪華な食事が並んでいた。わぁっと、思わずミーシャが歓声をあげる。
「ふふ、どう? おばさん、頑張って作っちゃった」
椅子を引いて二人を促し、アリアは楽しそうに笑った。最後にコップに葡萄のジュースを注ぎ、自らも椅子に腰かける。その隣には、五十歳ほどの女性が座っていた。
「紹介するわね、私の母よ」
「いらっしゃい。よくきてくれたね」
ルシアと名乗り、アリアの母は目を細めて二人を見た。痩せた女性だ。手はしわくちゃで、骨の形がはっきりとわかるかのようだった。
「ミーシャです。今日は、お世話になります」
ミーシャにあわせて、ロゼも頭を下げる。
「今日といわず、好きなだけゆっくりしていっていいのよ」
本気なのか、冗談なのか、とにかく楽しそうに、アリアがいう。何だか嬉しくなって、ミーシャはもう一度お礼をいった。
「さあさ、準備はこれでいいわね」
ゆっくりと、食卓についた面々の顔を見てから、アリアは目を閉じた。右手を胸に、左手を額の下のあたりにあてる。
食事の前に行なう、セプテンへの祈りだ。
「…………」
静かに、アリアは祈った。見ると、ルシアも同じ仕草をしていた。左手をおろし、右手の上に重ねる。
ロゼにとっては不思議な光景だった。ミーシャは、最初のうちだけ仕方なく仕草を真似したが、すぐにやめてしまった。
アリアとルシアは、目を開けた。
「さあ、食べましょうか」
それは、ロゼの記憶のなかでは初めての、ミーシャにとっては本当に久しぶりの、絵に描いたような幸せな食事だった。大きな器に盛られたサラダを、順番にアリアがよそうという、たったそれだけのことが、ひどく新鮮に感じられた。
「……最近、こどもが家を出ていったっていってたけど、どうして?」
黙って食事をとっていたロゼが、唐突に口を開いた。それは、ずいぶんと無遠慮な質問だったので、ミーシャが咎めるような目を向ける。しかしロゼはじっとアリアを見ていた。
一瞬、アリアの笑顔が止まったように見えた。しかしそれは、本当に一瞬のことだった。
「一人息子が、いたんだけどねぇ。ひとりで旅に出たわ。世界を、見たいんですって」
「…………」
じっと、ロゼがアリアを見る。それからルシアを見て、もう一度視線を戻し、彼ははにかんだように少しだけ笑った。
「じゃあ、ぼくらと一緒だ」
話を聞いていないわけではなかったが、ミーシャが思ったのは、そんなふうに笑うこともできるんだ、ということだった。
昨日までは笑うことすらない人形であったという事実が、嘘のようだ。
「あなたたちも、旅をしているのよね? どこか、目的地はあるの?」
「目的地……」
尋ねられ、ロゼは黙ってしまう。代わりにミーシャがいった。
「リリン・ドゥーアに、行こうと思っています」
「まあ……東の果てじゃないの。リリン・ドゥーアなんて、何もないでしょう?」
「ええ……でも」
ミーシャはゆっくりと笑んだ。少し寂しげな笑顔だと、ロゼは思う。
「その道中で、世界を、見たいんです。世界の綺麗なところを、たくさん。それに、どうしても……リリンに、行きたくて」
ガチャンと、音が響いた。見ると、ルシアの目の前にあるスープの皿が、倒れてしまっていた。
「あら、やだ、お母さんったら。大丈夫?」
どうやら、フォークを落としてしまい、それが皿にあたって倒れたらしい。あわてて立ち上がり、アリアがタオルを持ってくる。
暖かい、家族の光景だ。
家族というのは、本当は、こういうものなのだろう――そう思い、少しだけ、ミーシャは瞳を伏せる。
二人の旅の一日目は、こうして静かに、終わりを告げようとしていた。
少なくともミーシャは、そう思っていた。
「ぼくにはわからないよ、ミーシャ」
食事を終え、部屋へと戻る階段で、ロゼはそうつぶやいた。何が、と問われて、彼は首を左右に振る。
「そういう、ものかな……人のやさしさというものは、そういうものなのかな。ぼくが人形だったからかもしれないけど……わからないんだ」
「深く、考えることないわよ。きっと淋しかったのよ、息子さんが行っちゃって」
「……うん。そう、かな」
そうよ、とミーシャが尻尾を振る。そのまま、階段を上って一つめの部屋の扉を開け、彼女は驚いて立ち止まった。
がらんとした部屋だった。青いカーテンと、青いベッドがある。ベッドの上には、綺麗に畳まれた寝巻が置かれていた。横にはタンスと、背の低い棚があり、棚には本が並べられている。絵本のようだ。その上には、玩具の詰まった箱が置かれている。
子供部屋だ。
「部屋、間違えてるよ」
「……みたいね」
アリアの一人息子の部屋なのだろう。しかし、それにしては、奇妙だった。
どう見ても、五、六歳ほどのこどもの部屋だ。こんな幸せそうな家庭の、幼いこどもが、旅になど出るだろうか。
「……ロゼ」
呼びかける。ロゼは返事をしなかったが、かまわずにミーシャは続けた。
「先に、部屋に行っててくれる? アリアさんに、用事を思い出したわ」
ロゼは、やはり答えずに、静かにミーシャを見た。
ミーシャがキッチンに入ると、アリアはちょうど紅茶をいれているところだった。気配に気づき、ぎくりとして振り返る。
ミーシャは、耳をぴょこりと揺らした。
「ねえ、アリアさん」
「な、なあに、ミーシャちゃん」
動揺している。気づかないふりをして、ミーシャは上目遣いにアリアを見た。
「ロゼがね、わからないっていうの。アリアさんたちのやさしさがわからないって。あの子は、人とあまり接したことないから、それも仕方ないと思うわ。でもわたしは、感謝してる」
「……? え、ええ」
よく、意味がわからない。ミーシャが近づいてきて、そっとアリアの腕に触れた。
「だから、信じようって決めてたの……本当よ、本当に……」
ミーシャは、ひどく哀しげに、眉を歪めた。
「……こんなことしたくなかったのよ」
「どうしたの、ミーシャちゃん? 何かあったの?」
心の声が鮮明に聞こえてきて、ミーシャは静かに笑った。
「わたしね、こうやって触ると、人の考えてること、わかっちゃうの。心の声が聞こえるのよ。だから、もう、わかっちゃった」
「な……」
とっさに、アリアが手を払おうとしたが、予想外に力強く、ミーシャは彼女の腕を握り締めていた。
「その紅茶、わたしたちにくれるつもりだったのね。そう……眠り薬が入っているの……」
「……! 離しなさい!」
「ああ、驚いてるわね。気味が悪い? そうでしょう。そんなに恐がらないでも大丈夫よ」
「やめて……!」
ミーシャはやめなかった。爪が食い込むほどにアリアの腕を握り締め、淡々と続けた。
「あなた、人身売買なんてやっているの? セプテンに祈りを捧げているくせに、セプテンの意に背いてるのね。……ああ、そう、一人息子も、人買いに売ってしまったの……」「やめて!」
ミーシャは手を離した。震えるアリアを、淋しそうに見つめた。
「お金、そんなに大事? お金さえあれば幸せ? わたしはあなたを責めないわよ。わたしはあなたの人生に、干渉する気はないもの」
真っすぐアリアの目を見て、ミーシャは辛辣な言葉を吐いた。それだけだ。もう、彼女を見るのもいやだった。
振り返ると、ルシアが、呆然とした面持ちで立っていた。そのすぐ隣を、ミーシャはゆっくりと歩き去る。
「じゃあ、どうすればよかったのよ……?」
アリアが叫んだ。
「どうすればよかったのっ? 聞いたことあるわ、人の心がわかるって……、あなた、セプテンの神子様でしょう? 教えてよ、ダンナが金貸しから大借金して、蒸発して、残ったわたしたちはどうすればよかったの? 首を括って死ねばよかったの? 救いの手を差し伸べてよ、セプテン様に、こんなにも、祈りを捧げているのに……!」
ミーシャはアリアを見て、唇の端を上げた。ひどく冷たい笑みだ。
「あなたは何もわかっていない。それにわたしは、あなたの人生に、干渉する気はない。勝手に人をさらって、人買いに突き出して、しあわせになりなさい」
とても、十代前半の少女の言葉とは思えなかった。ミーシャはきびすを返し、それきり振り向くことなく、キッチンから出る。
そこには、ロゼがいた。ミーシャの、感情のない顔を見て、ロゼは哀しそうに目を細めた。
「泣いているの?」
ミーシャは、もう一度笑った。
「ロゼにね、世界の綺麗なところを、たくさん見せたいと思ってたの。わたしは、汚いところしか知らないから。でも、無理かも、しれないね」
それは、セプテン神殿で奇跡の神子として崇められた、人の心の声を聞くことのできる少女の、静かな悟りだった。
「行こう」
ロゼが、ミーシャの手を握る。真っ白な、暖かい気持ちが流れこんできて、ミーシャはやっと、泣いた。
*
日は落ちていた。
暗やみの町を、寝床を求めて歩きだした二人を見て、少年は屋根の上で舌打ちした。
「もうちょっと、物事考えりゃあいいのに。余計な苦労かけさせんなよな……」
呟き、屋根の上を移動する。素早く、確実な動きであるにもかかわらず、彼は物音ひとつたててはいなかった。
そうして、二人の視界ぎりぎりのところにわざと着地し、さっと身を隠す。
五感に優れているビースルの少女が、それに気づいた。思惑どおりだ。
「いま、何か、動かなかった?」
「……? ぼくは気がつかなかったけど」
たしかに何か動いたはず、といいながら、少女が近づいてくる。大きな帽子をかぶった少年もそれに続いた。
それを確認して、彼は再びぎりぎりのところで跳躍した。
「ほら、やっぱり何かいる!」
今度は走りだす。うまく追ってこられるように、器用に進路を変えつつ、彼は移動した。
何度か繰り返すうちに、目的地に辿り着いた。彼はその扉を少しだけ開けて、屋根の上に身を隠す。
二人が現れた。しかし、そこには誰の姿もなく、やわらかい光のもれる建物があるのみだった。
「宿だわ……」
「小さいね」
「泊めてもらえるかどうか、頼んでみましょ」
そうして、二人は建物の中に入っていった。
それを見届けて、少年は小さく息をつく。
「そう、それでいい……そこの宿なら安心だ。頑張れよ、お二人さん」
空を仰いだ。雲が多いのか、星は見えなかった。