黒い夜
少年は、それを、当たり前のことだと思っていた。
ただ、そこにあるということに、何の疑問も抱いたことはなかった。
しかし、思うという行為自体、不可能であったのかも知れない。
いまとなっては、それももう、わからない。
男は走っていた。
いまにもなくなってしまいそうな三日月が頼りなく照らす坂道を、転がるように駆け抜ける。
「くそったれが……!」
気づかれたとは限らない。しかし、神殿の門で、人影を見た気がした。追ってきているかもしれない。
盗みを働いたという事実が、男を疑心暗鬼にさせていた。左右の木々の間から、追っ手が飛び出してくるような気がして、彼は一層足を速める。
この森を抜ければ、エーダの町がある。そこまで行けば、大丈夫だろう。
こんなところで捕まるわけには、いかないのだ。
もう、足の感覚がなくなってきていた。この日のために下見を重ね、何度も何度も行き来したはずの道が、異様に長く感じられる。目がかすみ、男は大きく首を左右に振る。景色が幻のようで、現実感がない。
自分は、本当に走っているのか、疲れを感じることすら遠退いて、わけがわからなくなる。
突然、視界が開けた。男は思わず立ち止まった。
「……なんだ、どうして……」
白い、町だった。不自然なほど広い道の両脇に、白くて四角い建物が、ひっそりと並んでいる。
人の気配や、生活感というものがまったくない。家々もどれも同じような造りで、店らしきものもなく、灯りなどどこにもついていなかった。
どうしてこんな所に来てしまったのだろうか。あれほど、シミュレーションを重ねたのに、どうしてこの町に来てしまったのか。自分では冷静なつもりだったが、道を間違えるほどに動揺してしまっていたらしい。毎日通い続けたこの町に、いつの間にか足が向かってしまったのだ。男は、唇をかみしめた。
「ここに来るのは、まだ……」
まだ、そのときではない。まだ、早い。
男は激しく頭を振った。そしてまた、走りだす。しかし、立ち止まっていたのがいけなかったのか、途端に足をもつらせて、思い切り転倒した。
静かな町に、地面に激突した音がやけに大きく響いた。急いで立ち上がり、服についた汚れには目もくれず、走りだす。
いまの音で、誰かが気づいたかもしれない。追ってくるかもしれない。追いつかれるかもしれない――男の頭の中で、不安がぐるぐると渦を巻いた。男は、思いを振り切るかのように、ひたすら走った。
もうこれ以上闇が深くなることはないと思われるような、黒い夜だった。男には永遠かと感じられたその夜も、しかしやがては明けてゆく。
男はまだ知らない。
黒い夜、白い町で犯した過ちを、深く後悔することになるということを。