後編
「どうして私の夢に現れるのよ」
それは確かに彼女の声であったけれど、正確には違うものであった。どこか不安定で、揺らぎ、ノイズが混ざっている。けれどその声を聞いた彼は嬉しそうに笑うのだ。
「なんでだろうね、少しは君も僕に会いたいと思ってくれてる?」
「まさか」
「じゃあ、確かに君の夢なんだろうね」
彼女には確かに彼が笑ったことが分かったけれど、表情が見えるのかといえばそれも違う。朧気に人影が見えるだけで、彼の性別だって本当のところわからないのだった。
ただ、彼女がそうだろうと思っただけで。
彼はほんの少し哀愁を匂わせる、それでも彼女と話せることを喜んでいるらしい声で言葉を紡いでいく。
「僕ばっかり君に逢いたいなんて、さみしいなあ」
「知らないわよ」
「……毎晩くるのも大変だし、名前が分からないから探すのが大変なんだ」
彼の声は時々かすれた低音が混じり、耳に甘く響いてくる。それも彼女は気に入らなかった。
きっと同世代の癖に、どこか大人びているというか、余裕をみせる態度が鼻につくのだと彼女は思った。
そんな彼が、確かに出会い頭では息も絶え絶えだったことを彼女は思い出し、なんとなく気分が良い。
「ふうん、確かにいつもへとへとね貴方」
「ちょっとは心配してくれるなら、名前教えてよ」
「その冗談面白くないわね。
そもそも、名乗る前に聞くのは礼儀に欠くんじゃない?」
「君って本当、素直じゃないね。
でも、そうだね。 僕は□□□□、君は?」
「まあ、名前くらいなら。私は―――」
緩やかに意識が戻ってくる中で、彼女は自分がどこかにたゆたっているのを感じた。
彼のかすれた声を思い出し、なんとなく、知ってるわよと呟いてしまう。
自分でもよく意味が分からなかった。分からなかったけれど苦しかった。
はやく取り返さなくちゃいけないのだと彼女は確認する。
先の彼の言葉を思い出すと、そういえば砂糖菓子の門をくぐっておいでと言っていた。
思わず、この霧では溶けてしまうんじゃないかと考えた瞬間、彼女の意識がはっきりする。
「あった……」
無意識にもらした声はどこか乾いていて、耳に届く前に空気に溶けてしまった。
彼女は相変わらずの濃霧の中に倒れ込んでいたけれど、目の前には気を失う前まではなかったものが現れていたのだ。
起き上がって近付いてみると、真っ白な壁を形作る粒がきらきらときらめいている。
無色透明の飴でできたレンガで縁取られた壁にはこれまた白いアイシングが施されている。
確かに繊細な砂糖菓子でできた門だった。
「この先に、いけばいいのよね」
誰に確かめるでもなく呟いた彼女は、深くふかく呼吸をして足を進めた。
そしてその門をくぐった途端、彼女の白一色の世界は色を取り戻す。さながら分厚い霧がさあっと晴れていくように。
地面はちょうど先ほどまでの芝生が緑に彩色されたものになっていて、彼女の裸足にも心地よかった。
そのまま進むと少し開けた空間に出た。
「部屋、かしら?」
彼女は立ち止まり、見渡して首を傾げる。
そこにはベッドやテーブルセットがおかれているにもかかわらず、植物が青々と茂っていたのだ。
その点だけに注目すれば打ち捨てられた廃屋のようだけれど、決してそうではない。
ベッドにはちょうど抜け出したようにシーツと布団が乱れていたし、テーブルセットには飲み干されたグラスが残っていて、その横にはキャンディーが入った小瓶がおかれている。
誰かがつい最近まで使っていた痕があるのだ。
「もしかして……」
彼女はその続きを口にすることなく、首を振った。
そして改めて部屋の中を確認し、一点に目を留めた。
乱れ咲く花々に埋もれたように置かれていた、古びた本棚。側面には蔦が這っていたけれど、大きくないながらも頑丈な作りになっているらしく本は無事なようだった。
その本棚の手前で、本をぱらぱらとめくる人影。
彼女は視線が吸い込まれるように視線を注ぐ。
彼が気付く。ふせられていた視線が上がり、彼女のものと交わる。
知ってる、と彼女は思った。目がそらせなかった。
涼しげな目元とさらさらとした黒髪が印象的だった。
背の丈は彼女より10センチほど高そうに見える、彼女と同じ年頃の、線の細い少年だった。
彼は嬉しそうに、けれどどこか悲しさを滲ませた表情を浮かべている。
「本当に、帰っちゃう?」
「……当たり前でしょ」
彼を観察するのに忙しい彼女は、彼の問いかけに反応するのが少し遅れた。
それが悔しくて、彼女は早くはやくと彼をせき立てる。
彼は寂しげな顔で何事がつぶやき、次の瞬間いたずらっぽい笑顔で彼女に近づいてきた。
「しょうがないなあ」
言い返そうとして彼女は、詰められた距離の近さに驚く。いつの間にか回された腕に拘束されていたことにも。
「じゃあまたね、 」
呟かれた名前に彼女ははっとして、こぼれでるはずだった非難の声を彼の唇に飲み込まれながら、再び意識を手放したのだった。
残された彼は、腕の中から消えてしまった彼女を思い、それから自分の姿を見回した。
「こういうのが、趣味なんだ?」
そして彼もこの場から消えてしまった。
瞬間意識が引っ張られて、私はうつしよに戻ってきた。
放課後の図書室、もうじきやってくる中間試験に向けて古文の復習をしていた私は、いつのまにやら居眠りをしていたらしかった。
ブラインドの隙間からは随分傾いた夕日が差し込んで室内を染め、部活動に勤しむ声が遠くから聞こえてくる。
「おはよう」
向かい側に座っている男子生徒から小さく挨拶がされる。
わざとらしい嫌みに、まだ回りきらない頭でどう返事をするべきかと私は悩み、そしてそもそも誰といたのか知らなかったことに気づいた。
慌てて目の前の彼を見て、息をのむ。
「やっと気付いた」
かすれた低い声が耳に甘く響く。
随分と嬉しそうな表情をしている彼を見たのは初めてではないような気がした。
続けざまに彼が呟く。
君が夢で会うのは嫌だって言うから、僕が来ちゃった。
お付き合いありがとうございました。
古文のなかでの夢と思い人の解釈とか、顔を知らないまま落ちる恋とかが好みなので詰め込んでみました。
蛇足が長くなってしまった気がしますが……。
伝わってるといいなあと思います。