中編
あれこれ考えた末に彼女が導き出した結論は、この霧に紛れてしまって自分が見失ったもの、存在を疑ったものは、本当に消えてしまい、望んだものは現れるということだった。
ばかげている発想だと、彼女自身わかっていた。けれど試しに飴玉を思い浮かべてみると、次の瞬間手の中に飴玉が一つ現れたのだ。
「……あまい」
そしてまた口にしてしまうのも、同じで。なんの躊躇いもなく飴を食べてしまったのは、きっと自分の意志じゃないだろうと彼女は見当をつける。
それはとても不思議な、狐につままれたような感覚だった。
なにをしたらよいやらわからない彼女は、とりあえず今の自分の状況を確認してみることにした。
自分まで見失わなってしまって、消えてしまったらどうなるやらわからない。
これ以上面妖な事態に巻き込まれるのはごめんだと、彼女はため息のかわりにつぶやくのだった。
まず身につけていたのは、いつも憧れていたの白いワンピースで、寝ていたわりに皺ひとつなく、肌触りがとても良かった。
自分がどうしてこんな服を着ているのかわからない、見覚えのないものだ。
ゆったりと広がった裾は霧に溶けるように隠れている。
どこまでがワンピースなのか認識しておかなければ、本当に霧に溶けてしまうかもしれなかった。
裾を持ち上げ、繊細なレースが縫いつけられた端を確認して、そのイメージを忘れないように注意しながらそろりと元に戻した。
ついでに自分の足がきちんと二本あったことも確認した。
「それから、この場所のことなんだけど」
彼女はどうして自分がここにいるのか、まったく覚えていなかった。
迂闊にものが消えて現れ、自制がきかないような、濃霧に包まれた世界に関わりがあったとは思えない。
普段の生活のなかで、ぽこぽこものが消えて現れていては不便で仕方がないだろう。
「…………普段の生活って、どんなものだった?」
口にして初めて気付く。ここが異常であることは知っているけれど、果たして何を基準に異なっていると考えたのか、自分はいつもどんな生活を送っていたのか。
全く分からなかったのだ。初めから知らなかったみたいに。
そもそも、自分が何を覚えていて、何を忘れているのかもわからない。
ただただ、目が覚めたらここにいたことと、それからなにかが不快だと思っていたことだけ、それだけだった。
いつものことが分からない、という言い知れない不安が恐ろしさをつれて足元から這い上がってくるようだった。
「分からないなんて、おかしいじゃない。
……いやよ、こわい。こわいこわいこわいこわいっ!」
抱きすくめた体は我ながら貧相で頼りなかった。身を包んでいく恐怖を振り払うこともできずに、しゃがみこむ。
足元の地面がどろりと溶けていくような、どこかに飲み込まれていくような不思議な感覚を、恐怖という膜一枚隔てた場所で彼女は鈍く味わった。
頭のなかをただ一つの感情に占められて、却って無心に近づいていくようで。
感覚が次々と切り離されて、大事な心を守るように。
どこかに飲み込まれはじめた彼女は、大した抵抗もしないままに落ちていくさなか、そうだ、と思い出す。
ーー私は名前を奪われたのだ。あの男に、毎夜夢に現れる男に。
名を奪われたから私は夢の世界から帰れなくなってしまったのだ。
名の無いものはうつしよにはいられないから。
「な、まえを……、とりかえ、さな、きゃ……ぁっ」
そうして彼女の意識は一度ここで途切れた。