前編
これは、ゆめのはなし。
――僕ばっかり会いに行くのも不公平だね?
たまには君から会いに来て。
砂糖菓子の門の先で、待ってるから――。
目を覚ますと、辺り一面を濃い霧が包んでいた。見渡す限りの景色に色はなく、彼女の剥き出しになっていた肌は霧にしっとりと湿っている。
思わず二の腕をさする。手の平のあたたかさが彼女には心地よく、不愉快さが解けていくようだった。その不愉快さが何に由来するものか、彼女は何一つ覚えていなかったけれど。
はあっと彼女はため息を吐く。
横になったままで見えるのはそればかりで、今日はずいぶん霧が濃いのねと冴えないままに彼女は一人言ちた。
ベッドに伏せたまま何度かぱちぱちと瞬きを繰り返し、シーツに手をついてゆったりと体を起こした。
随分と体が重く、だるかった。どこがとはいわないけれど。
動きにあわせて、体にかかっていたらしい布団がするりとすべり落ち、腰のまわりでドレープをつくる。
不思議なことにシーツも布団も濃霧のなかにあってからりと乾いていたけれど、そのことには彼女は思い至らなかったようだった。
顔にかかった髪を寝起き然とした緩慢な仕草で耳にかけると、ゆったりと周囲を見回す。
視線が高くなっても、白以外に目に映るものはなかった。
首のまわる範囲で辺りを眺めているうちに、おのずと眉をひそめてしまう。
険しい表情のまま、それでもゆったりした仕草で彼女は首を傾げる。
「ここは、どこなの?」
声がかすれていたのは、目が覚めたばかりだからだけではなく。傾げた拍子に口元についた髪の毛を、そろりと退けた指先は少しひんやりとしていた。
彼女はベッドからそろりと足を下ろす。さらされた足の裏に、柔らかい芝生が触れた、思わず引っ込めてしまう。
けれどもう一度下り、屈んでよくよく見てみると、それは確かに植物であるのに色がなかった。
不思議なものがあるものねと彼女は首を捻る。
それから何とは無しに振り返ると、今まで寝ていたはずのベッドが消えていた。
「なっ……!」
言葉が出ない。見失ったのだ。慌ててあったらしい場所に手を伸ばすけれど、期待していた感触はなく手の平は空をかく。
「消えるなんて、どういうこと……?」
言葉にしてみても状況は何も変わらなかった。けれど、彼女の方は表面上落ち着きを取り戻す。
少し乱れた髪を再び耳にかけ、慎重に辺りを探してみたがやはり何も見つからない。
そんな理屈の通らないことを目の前にして、事態を理解していないからなのか、現実味がないからなのか――。
彼女は再び取り乱すこともなく、何をするでもなく立ち尽くしていた。
どれくらいか時間がすぎた頃。ふと彼女は気付いた。
「――のど、」
かわいたな。言葉の代わりに息が抜けていく。
それは一度意識に上がるとなかなか忘れられず、とても堪え難いものになった。声をだそうとしても喉の奥が張り付いたようでうまく言葉が出てこないほどだ。
ひゅーひゅーと空気が抜けるような音がするばかりなので、声を出すのを彼女は諦めた。
できることなら、氷がたっぷり入ったストレートのアイスティーが飲みたかったけれど、きっとそんなものはここにはないだろう。
この際水だろうと生温い炭酸だろうと構わない。何か飲むものが欲しいと彼女は辺りをきょろきょろと見回した。
「―――……!!」
彼女はすぐに異変に気づいた。
ちょうど目の前の3歩先に、またもや真っ白なテーブルセットが置かれていた。
この濃い霧で見えなかったのだろうか? と思わず考えるけれど、さっき辺りを手で探った時にはなかったのだ。
不自然だった。
こうして存在しているのだから、絶対に、と言い切る自信は彼女にはなかったけれど。
いよいよ喉の渇きが酷く感じて彼女はふらふらと、導かれるようにそれに近づく。
濃霧のなかでもきちんと輪郭を保たれていることがやはり不思議だったけれど、彼女は一先ず考えることを放棄した。
そうするほかなかったのだ。
お誂えむきに後ろに引かれていた一脚の椅子に腰掛けてテーブルの上をみると、まさしく彼女の求めていたアイスティーがあった。
(こんなところにあるのよ?)
細身のグラスいっぱいに、濁りなく透き通った氷が入っていて、そこにつややかなカラメル色の紅茶が注がれている。
ガラス表面は結露に覆われていて、よく冷えていることが伝わってきた。
とても魅力的で、おいしそうに見えた。
「drink me!」と主張しているようにさえ思えた。
彼女は迷わず手を伸ばす。
指が触れた瞬間、雫がたらりと滑り落ちてコースターを濡らした。
けれど構うことなくグラスを持ち上げて、アイスティーを飲みほしていく。
彼女の白い喉が併せて大きく動いた。
一瞬で空にしたグラスを元に戻すと、彼女は目を伏せた。
そして、両手のひらで顔を覆った。
喉の乾きが癒えたことで、彼女の思考はいつもどおりに動きだす。
「なんなの、本当……」
それはまず、普段なら絶対に手をださないような怪しさに満ちた飲み物を飲んでしまったことへの後悔から始まった。
深いふかいため息が彼女の唇からこぼれ落ちる。ついでに誰にあてるでもない恨みごとも一緒にこぼれた。
それから、たかだか喉が渇いたくらいで、すぐに自我を失ってふらふらになるのだろうかという疑問が浮かび、そして、急に現れたテーブルセットと消えたベッドに思いを寄せて鳥肌を立てた。
改めて、理解不能な事態に巻き込まれていることに彼女は気付いたのだ。
「えっ……うひゃっ!」
けれど彼女はすぐに訂正しなければならなかった。
急に現れ、そしていつの間にか消えたテーブルセット、と。
手を顔からどけて視線を下ろした先に、あったはずのグラスもテーブルもなかったのだ。
椅子はと言えば、今のいままで座っていたのに、慌てて確認しようとした瞬間に消え、しりもちをつくこととなった。
したたかに打ち付けた腰をさすりながら彼女は、色気のない声ねなんてひとごとのようにどうでもよいことを考えていた。