第七話 半透明の光と消失
図書館。第二世界ムーンガーデンにあるキスハート学園内にある、第十六図書館。
そこら中から香ってくる古い本の放つ独特の匂いは、この第十六図書館内を遠慮なく包み込んでいる。
深く深呼吸をする。その独特な香りを肺一杯に満たすと、その匂いに安心して気分がすーっと落ち着いてくるのがわかる。
時代や環境の、何度も何度も塗り重ねられた香り。湿気と乾燥を繰り返した紙の芳香。
図書館という場所は、数え切れない程沢山の本に支配された情報空間。そして読みきれない程の本に開放された、優しい物語のような空間。その空間の中、僕と雛子は二人中央のテーブルにて並んで座っている。
艶のあるこげ茶色の、マーブル模様のテーブルの上には何冊も本が積み上げられている。そのどれもが難しそうなタイトルばかりで、その積み上げられた本の一つ一つが非常に分厚く、丁重に扱わなければと思わざるを得ないような、上質なカバーと紙質の古い本だ。
先程、雛子が言い放った言葉が頭の中で蠢いていた。その蠢きはまさに生き物のような感覚で、脳の中を這いずり回られているような気がしてどうにも気持ちが悪い。
……最近、生徒達が消えているという話。
「いや、そんなの初耳だな……え、その、なに? 生徒が消えてるって……どういう事?」
雛子から唐突に聞かされた、物騒で奇怪な話に僕の心臓はドクンっと激しく鼓動する。生徒が消えるって、この学園の生徒が消えているなんて、そんな治安の悪いようなことなんてあるのか?
「いや、まだなんとも言えないんだけれどね……? そんな話をなんだか最近ちらほら聞くの。だから、ね? その、凪がそうなっちゃうと、嫌だなぁって……」
そう呟きながら俯く雛子の視線の先には、何冊にも積み上げられた本の塔。
なんとなく少し気になったので、その本のタイトルを下から順番に黙読していく。その中の一冊のタイトルを見た瞬間、心のもやもやが一瞬にして晴れたような気がした。
まるで夏の朝。朝日が照らし出す早朝、澄み切った空気と空の中で思いっきり深呼吸したような突き抜ける程の爽快感に似ている。
「その、一番上に置いてある本……【消えた生徒達】ってタイトルだけど、まさかその本を読んで感化されたとかじゃないよね雛子さん……?」
「そ、そそそんなことはっ! いえ、あるかもしれない……ですけれど。……だってなんか、フィクションだとわかっていてもこういうのってなんか怖くって」
あわあわと両手を僕の方に向かせ、なにやら奇妙な動きで説明する雛子。その様はさながら可愛い小動物のようで、なにやら必死な雛子には悪いのだけれどどうしてもほんわかしてしまう。愛でたい。撫でたい。
因みに消えた生徒達というタイトルの下にある分厚く、一際古そうな本には【消失の魔術とその扱い方法】というタイトル。もしかするとその本には、人を本当に消してしまうような魔術が記載されているのかもしれない。そんな事を考えていると、なんだか恐ろしい本のように思えてきてしまった。
「もしかして、その様子だと雛子は結構怖がりだったりするの?」
「だ、だって……仕方ないでしょう? 怖いものは怖いんだもん」
「なんかすごくしっかりした女の子だなぁって思ってたけれど、なんかちょっと安心した。こんな弱くて可愛い一面もあるんだ、雛子って」
「か、かか……可愛いって……」
急に顔を真っ赤にして、抱きしめていた分厚い本をきゅっと更に抱きしめてしまった。今、僕なにか変なこと言ったっけか。
それに今気付いたんだけれど、凪って呼び捨てにしてくれるのは嬉しいんだけれど、雛子の言葉使いが丁寧語と、タメ語が混ざっていてなんだかちぐはぐだ。でも今まであまり聞いた事のない話し方で、新鮮にも感じるのも確かだ。普段から丁寧な言葉しか使ってないとかそういう理由があるとしたら、その名残なのだろうか。
「もう……知らない、凪のばか。……でもね、生徒が消えたって噂話はこの学園でもあるし、実際に相談もあったみたいだから……本当に凪も気を付けて下さいね?」
噂話、か。学校七不思議とか、都市伝説みたいな類なのだろうか。でも、聞くかぎり現行して生徒が消えている事件が起こっているような話とかじゃなくて、安心した。
様々な不安に駆られたあの胸の苦しさから解放された気持ちだ。でもなぜだか、拍子抜けというか、肩透かしを喰らったような、そういう少し不謹慎な気持ちにもなるのは、今までずっと危機感のない生活していた名残なのだろうか。
「ありがとう、気を付けるよ」
そう言いながら自分なりに微笑んでみたものの、実際はどうだっただろう。うまく笑えていたかわからないし、自信は無い。生徒が消えるという話が、妙に頭に残ってしまっていたからだと思う。いやらしくねっとりとした、動けば動くほど絡み付いてくる黒い沼に、身体の一部をうっかりつっこんでしまったような感覚。
なんだか少し気になってしまったから、今度個人的に調べてみようと思った。
「それにしても大きいよね、この図書館。雛子はよく来るの?この、えーと……第十六図書館だっけ?」
顔を上げて、二人では相当持て余してしまう程に広く大きな室内を眺めながら、そう何気なく問いかけると、雛子はなにやら色々と腑に落ちなさそうな顔でこちらを見ていた。そして直ぐに諦めたような表情を浮かべ、抱きしめていた本を抱き直していた。
「もう……折角心配したのに。……はい、広いです。此処はまだ小さい方ですがそれでも本の量はありますね。実は私、結構図書館で過ごすこと多いんですよ。あ、結構とはいっても全くこれない日もあるので、まちまちですけれど時間があるときは図書館に来たりします」
「そうなんだ。雛子は本が好きなんだ? 同じ同じ、僕も本が好き。こうやってゆっくり話す機会なかったから、雛子のそういうとこ知れて良かった」
「そうですね、あの日から音沙汰なかったですもんね。私も凪のこと気になっていたから、またこうして逢えてお話できて良かった」
宝石のように綺麗な黒と白藍色のオッドアイ、その神秘的な雛子の瞳が潤んでいて、そしてその潤んだ透き通る瞳を僕に向けている。僕の心臓はすごく簡単に鼓動が激しくなるみたいで困った。
「あれは強烈な出会いだったからね、流石に忘れられないよあんな衝撃的な出会い方をしたら。……僕も、雛子とまた逢って話したかったよ」
そう、強烈で、印象的だったあの出会い。平和な日常から一変して何がなんだかわからないまま、あの手紙に連れられてここムーンガーデンに着いて。またまたよくわからない内に巨大な虎が現れて凄く危険な目にあって、そして雛子に助けてもらって。あのときの事は深く強く脳の海馬に記憶されている。今直ぐにだって、鮮明にあの光景を脳内で高画質再生することが出来るくらいだ。
「ていうかあれだ、ついでだから僕もなにか本借りて行こうかな。あれ? そういえばここって貸し出しとかしてるの?」
「うん、してますよ。しかも凄いですよ、期間が来るとセキュリティー系の魔術が発動して自動で返却される仕組みなんです」
「うわー滅茶苦茶便利だ!」
「この学園は、きっと凪のように第一世界から来た人にとってはある意味、夢のような世界らしいですね。それこそ夢を見ているような、映画をみているような感覚だ、と色んな人が言っています。因みにこんなことも出来てしまいます」
そう軽く宙に浮かせた左手。オーガニック生地というか、民族調の服の袖からちらりと覗く細い左手首。その細くて華奢な手首には、ミサンガのように編み込まれた色とりどりの綺麗な紐が何本もしてあって、綺麗な数珠もニ本している。
くるりと手のひらを反転させて、天に向ける。その一連の雛子の仕草は、なめらかに流れるようで優美。突然だったという事もあってか思わず見入ってしまった程に、あまりに美しい。
そして図書館の吹き抜け部分には、もはや見慣れた球体が突如として現れて、浮いていた。あたかも最初からあったかのように、自然に浮いていたのだ。
「アウラ……?」
「そう、アウラ。凪もよく知っているアウラ。このアウラにね、ちょっと念じてみるの。こんなタイトルの本があったようなー……って」
雛子はゆっくりと目を閉じる。するとどうだろう、ゆっくりとアウラが雛子の元へ近づいてくる。そして一瞬淡く光ったと思うと、アウラは消えてしまっていた。
光の消失と共に、雛子の手の中には一冊の本が現れていた。その本を大切そうに抱きしめるとこちらを見上げるようにして小さく微笑んだ。
「うおお、凄い! 自動で検索して、しかも持ってきてくれるなんて……便利すぎる!」
「でもでも私は、いつもは自分で探して行くほうなの。ちゃんと自分で探して、お目当ての本を見つけるほうが好きだなぁ私は。でもこのアウラを、凪に見せたくてやってみました」
どうだった? すごいでしょう? と言わんばかりの無邪気な笑顔で首を傾げてみせる雛子。いや実際凄かった。魔術というのはやはり何でもありの便利極まりない代物に感じる。
「雛子、今の魔術ってもしかして僕にも出来るの? その……異能士でも扱える?」
「出来ると思うよ。今のは魔術っていうよりかは学園のシステムって感じかな? 入園の儀式で月の涙を体内に宿した人にならアウラが反応するのと一緒で、この図書館のアウラも同じように扱えるはずです」
「本当? それじゃあ……うん、やってみようかな」
瞼を閉じる。そこで気がついたのだけれど、この世界の図書は全く知らないのでタイトルがわからない。ここは思い切って読んでみたい雰囲気のタイトルを思い浮かべてみる事に。
「…………おおっ、本当にアウラが現れた、凄いよ見てよ雛子。ってか適当に思い浮かべただけなのにアウラの検索に引っかかったのは奇跡だな」
「あ、多分アウラはそれに近い内容のものを検索してくれる能力もあるので、きっと凪の思い浮かべた本か、それに近い本のはずですよ」
そして宙に浮かぶ綺麗なアウラが一瞬淡く光ると、僕の手の中には一冊の本が現れていた。
「えっと……ねぇ、凪……それって……」
若干訝しむような表情で僕を見ながら後ずさりする雛子。一体なんだというのだろう、僕はこの国の歴史か、動植物について書かれている風なタイトルを思い浮かべたというのに。
「うわっ、なんだこれっ!」
僕の手にしっかりと掴まれている本には、布面積が少なく刺激的な格好をした女性が、扇情的なポーズをとっている表紙の本があった。その表紙を見るだけで中身の内容は言わずもがな。雛子の反応もうなずける。
しかしこれは、うむ。中々どうしてアウラも気が利くようだ。
「じゃなくって、いやいや雛子これは誤解だって。僕こんな本思い浮かべてなんかいないから!」
「じゃあ何故そんなに大事そうに掴んでいるんですかっ! それに凪の意識と無意識で、アウラがより強い想いを感じてその……そのえっちな本をアウラが選んだんじゃないですかっ」
「ええー、無意識なんて言葉もってこられちゃったらもう僕はなにも言えないよ……でもなんでだ? 僕は確かにこのムーンガーデンの歴史とか、動植物についてとかそれっぽいタイトルを思い浮かべたんだよ?」
雛子のじとじとした視線が気になりつつも、僕はとりあえず手元にある本を適当にぺらぺらとめくってみた。今更雛子の前だからだとか気にする事もないから、思い切って開いてみる。
「あれ……? おかしいな、ねぇちょっと雛子これ見てよ」
「ちょっと凪っ、私にそんな本見せないで下さいはしたない!」
顔を真っ赤にしながらそう抗議する雛子だけれど、視線はちゃんと此方へと向いている。なんだかんだ言ってやはり、こういうのは女の子も気になるのだろうか。
「いやいや、いいから見てみなって。ほら」
「っっ……あ、あれ。え? もしかしてそれって……えっちな本、じゃないんですか?」
恐る恐る本の中身を覗いた雛子は、僕を見上げながらそう言ってきょとんとしている。鳩って豆鉄砲くらったらこんな顔になるのだろうか。
そう、本を開いてみれば内容は全然表紙と関係のないものだった。それこそ僕が思い浮かべた類の本だったのだ。開かれたページには見たこともない植物が一つ一つ解説付きで、青々しく載っていた。
「うーん、これあれだな。表紙だけ取り外して悪戯したってオチっぽいな。ほら、表紙めくったらこの本の本当のタイトルが出てきたよ。よくわかる植物図鑑だって」
「え、えーと……あの、なんか疑ったりしてごめんなさい凪」
さらさらとなびく綺麗な金髪に近い白の髪がゆらゆらと揺れていて、瞼を閉じて、俯いている様がどこか怒られた子供のような印象を受ける。決まりが悪くて、どう切り出したらいいのかわからないあのもどかしさは今でも慣れないものだ。
「いやいや謝らないで、別にこれは雛子が悪いことした訳じゃないからさ。許すも何も、全然怒ってないよ。っていうかアウラはすごい優秀なんだね、表紙で判断するんじゃなくってちゃんと中身で選んで判断してくれたんだよねこれって。しかも僕の為なのか、本格的で難しそうな本じゃなくって、よくわかる簡単に読めるタイプの本だし」
はぐらかそうとした訳ではないけれど、少しでも早く落ち込んだ雛子を元気にしたかった気持ちと、正直にアウラに対して思った感想を言った。
でも、事実これには驚いたのだ。表紙での判断ではなく、中身の内容でこの本を選んできたのだから。アウラって本当に一体なんなのだろう。
「それなら……うん、ありがとう。えへへ、良かった。でもこの本検索の結果には私もびっくり。こんなことってあるんだね。それにしても誰だろう、こんな悪戯するなんて仕方のない人もいるんだね」
まったくもう、と言いながら柔らかくて気持ち良さそうな頬っぺたを、可愛らしくぷりぷりと膨らませる。まだ表紙が微妙に気になるのか、ちらちらっとこちらに視線を送っているのがなんだか笑えてくる。
「まぁ折角だから、この本借りていくよ。でも、この表紙違うのはどうしたらいいのかな?」
「うーん、私もこうゆうのは初めてだから……とりあえずそのままでもいいのではないでしょうか」
といっても、この本をこのまま持ち歩くのもなんだか気が引ける。なんか、買ったことはないのだけれど、コンビニでえっちな本を購入したときのあの透明な袋に入れて歩く感覚に近いかもしれない。しかし透明とはいえ若干白いからさほど恥ずかしくもないのか。
念のためにもう一度言うけれど、僕はそういった類の本を買ったことがない。
「このままは流石に気が引けるなー。なんかいい感じの袋ないかな」
「あ、アウラが一瞬で部屋に転送してくれますよ。ごめんなさい、これ言うの忘れてましたね」
「うわーもう最後まで便利だ。もうあれだね、至れり尽くせりだ」
「これで恥ずかしい思いしなくってすみますね。っとと、いけない。すごく楽しくてすっかり忘れてた、私これから頼まれ事があったんでした」
そう言いながら雛子は僕の持っている本に手を翳す。すると、その動作だけで今の今まで持っていた本が一瞬にして消えてしまった。ちゃんと僕の部屋に届いている事を心の中で、祈ったのだった。
そしてふと何かを思い出した様に雛子は、本棚が並ぶ方へと小走りしていく。唐突に終わった楽しい会話の名残を惜しみつつ、雛子が向かった本棚の方へ僕も向かう。
天井へと伸びる規格外の高さと幅の本棚は、近くでみるとその迫力は相当のものだった。今までよく学校帰りに通っていた図書館に比べてやはり、その圧巻の本の量と本棚の立派さと規模がどこか作品めいているというか、物語を見ている感覚にどうしても陥ってしまう。
綺麗で荘厳な、大きな図書館の中を、金色に近い白い髪でオッドアイの女の子が歩いていくその光景は、物語めいた感覚を更に加速させる。少しは仲良くなって話せるようになったとはいえ、ふと冷静になるとこの光景の中に僕が混ざり込んでいるのには違和感を感じざるを得ない。
「あったあった、これだこれだ……うぅーん……」
本棚に並んだ本の背表紙をゆっくり眺めながら雛子の向かったほうへと歩いていき、追いついた。雛子が求めている本は少し高い所にあるらしく、必死に背伸びしてその本に手を伸ばしている。……可愛い。
「雛子、どの本が欲しいの?」
「その、そのね……一冊だけある緑色の本。凪お願い、とってくれる?」
僕の身長なら背伸びしないまでも、手を伸ばせば届く所にその緑の背表紙の本はあった。程よくしっとりしていて、ひんやりとしたさわり心地が気持ちいい。本を抜いた時の擦れの音が図書館の中静かに鳴った。
「はい、この本でいい?」
「うん、ありがとう凪」
ふわり微笑む魅力的な微笑みにどこか気恥ずかしくなって顔を少しだけ逸らした。緑色の本を受け取ると殊更大事そうに抱きしめる。
「頼まれ事って、その本?」
「うん。あとね、他にもあるんだけどそれは学園から出て街に行かなきゃ手に入らないから、ちょっぴり面倒くさいけどさくっと行って来ようかな」
「おおっ、もしかして外って街に出るの?」
「そうだけど……どうしたの?」
このムーンガーデンに来てからというもの、なんだかんだ一歩もこの学園から出ていないのだ。ずっと気になっていたこのキスハート学園の外観や、近くにあるという街。
この学園の外観についての情報は全くの皆無。いや、皆無とはいっても自分から調べたり聞いたりしていたら知ることができたのだろうけれど、僕はあえてそうしなかった。説明会で、ルイ先生が見てからの楽しみといっていたように、僕自身そうするつもりだったからだ。
ちゃんと自分の目で、この学園の外観を見てみたい。
僕にとってこの第二世界と呼ばれるムーンガーデンは、今はまだキスハート学園の内部でしかない。この中以外知らないのだ。外の景色も知らない。街がどんなところなのかも知らない。どんな生き物がいるのかも、どんな植物が生えているのかも知らない。もっともっとこの世界を見てみたいという、抑えていた欲求が一気に僕の中から溢れ出した。
「雛子、あの……もしよかったらなんだけれど、僕も一緒について行ってもいい? 実はまだこの学園から出たことなくってさ」
「あ、そうなんですか? じゃあ……一緒に行きましょう凪。っていうか私こそお願いしようと思ったんだけれど、迷惑かなって思ってたから嬉しい」
てっきり、頼まれ事があるからとか、忙しからとかで断られると思っていただけに、一緒に行こうと言われた瞬間は驚いてしまったけれど、良かった。
とうとう外の世界を臨む事ができそうで、自然と胸が弾んだ。勿論この学園内に不満があるとかでなく、純粋に好奇心によるものだ。
「うわ、本当っ? 嬉しいな、有り難う雛子。うわーやばい本当に楽しみだな」
「あれ、でも凪達新入生は今日はもう授業ないんだっけ? 外に出て大丈夫なの?」
「うん、えーと……ほら、この羊皮紙にも今日はもう授業無いって書いてるし。今日はもう自由時間だよ」
「そっか、なら良かった。でもでもまさかそんなに喜んでくれるなんて思わなかったです。でもそれもそうですよね、ずっと建物の中にいたら疲れますもんね。じゃあこれから外に出て一緒に散策しよう、凪」
どうにも収まらない興奮を隠しつつ、ふと窓の外を見る。
この図書館の壁際に設置されている窓もシングルハングで、廊下の窓と同じく下から上へ押し上げるタイプ。ただ大きさは図書館の窓の方が大きく、外から差し込んでくる月の光はランプでぼんやり灯された室内を更に光度を上げる。透明度の高い光は優しく床に痕跡を残している。そよそよと風に揺れる木々達の姿が月の光に照らされていて、それがやけに鮮明に見えたのだった。
・とある日の出来事
時を刻む針はもう門限時間である午後十時を過ぎた、十時半を過ぎた頃。
女生徒は、門限を過ぎている事への罪悪感と焦燥感からか、走ってはいけない廊下を走りながら自分の部屋がある寮棟へと向かう姿が、そこにはあった。
着ている制服はだらしなく乱れ、呼吸も激しく額から肌を伝って汗が頬を撫でている。
息を切らしながら廊下を走る女生徒が、寮棟へと向かう為に必要な移動用アウラがある部屋に到着するまで、もう少しといった所。もう目と鼻の先という所まできた頃だった。
「うわ、ヤバい……人の気配がある」
女生徒の吐息が混じった声が小さく漏れる。乱れる息を整えながら額に浮かぶ汗を半ば乱暴に拭いながら、胸に手を当てている。
壁際に身体を隠すようにして、女生徒は寮棟へと移動する為のアウラがある部屋を覗く。未だに整っていない呼吸は、手のひらで口を押さえて誤魔化していた。
「あ、良かった……。って、えっ……?」
そこに居たのが先生ではない事に安心した、その束の間の出来事だった。
一瞬女生徒は、自分が何を見ているのか、理解が追いつかなくなるような光景だった。
その移動用アウラがある空間には、少女がいた。いや正確には少女と、生徒が一人だ。
少女と対面している生徒の顔は正に蒼白。冷や汗なのか脂汗なのか、気持ち悪そうに額を濡らしている。少女のほうは後ろ姿しか見えない為、表情は伺えない。ただわかるのは、肩で息をする程に呼吸を乱しているようだということだ。
その少女の髪は、白に近い金色をしている。遠くからみてもわかるほどにその髪質は良く、さらさらと清流のように流れ、雲のように空気を含んだふんわり感。しかしこのただならぬ雰囲気からか、見覚えのある少女のその髪の色や民族調の特徴的な服は、ただただ異質。女生徒は背筋に汗が伝うような、寒気がする感覚に襲われそうになる。
「な……なんなの……?」
対面する二人が何か言葉を交わしているのが見える。しかし、女生徒の位置からではぼそぼそとしか聞こえず、話の内容はおろかどちらが喋っているのかすらわからない。
ふと、生徒は後ずさりして、少女は空中にある見えない何かを掴むような動作をした。その袖口から見える華奢な手首には様々なミサンガや数珠がちらりと覘いている。
その刹那。
生徒の姿は消えてしまっていた。助けを求めるような悲哀に満ちた目をしながら、何かに吸い込まれるように消えてしまったのだ。
「あ……ああ、うあ……ひっ…………」
女生徒は胃から逆流してくるものを堪えるのに必死だった。漏れる声を抑えることに必死だった。もう女生徒はその場所から動けずにいた。
白に近い、金色の綺麗な髪がふわりと揺れる。
瞳が女生徒へと向けられる。黒と、艶やかで綺麗な宝石のような白藍色の瞳。その瞳を見つめていると少女の瞳の中に吸い込まれるような錯覚を覚えるほどに神秘的だ。神秘的で、化物的。
女生徒はもう何も考えることが出来なくなっていた。
「ーーーーーーーーーーーーーっ」
ひんやりとした風がどこからともなく吹いてくる。この部屋を包む不思議な空気。何かの気配はあるのに、まるで静謐だと何かが主張してくる矛盾にも似た感覚。
その空間には女生徒の姿はもう姿形無く、残るのは様々な色に変化する移動用アウラと、立ち尽くす少女の姿だけなのだった。