第三話 月の涙と入園式
「入園の儀式一時間前です。遅れないように時間に余裕を持っての行動をお願い致します。指定の制服に着替えて大聖堂までお集まり下さい」
まるで鉛のように重くなった瞼をゆっくりと押し上げる。何処からともなく耳に入ってきたメイドさんの声は、あんまり寝起きの良くない僕にとって、女性の声で起きられるのは割と良い目覚ましだった。
しかし備え付けのソファーでの惰眠はニ時間も貪る事が出来なかったようで、睡眠不足に加えてちゃんとベッドで寝なかったせいか、身体を動かせばギシギシと節々が悲鳴をあげている。
それでも眠気が支配していた頭は徐々に澄み渡っていき、靄がかかった視界も鮮明になってきた所で、先程のメイドさんのアナウンスを思い出してみる。
「ああ、そうか。入園の儀式があるんだったっけ」
錆び付いた自転車のような身体を起こす。フカフカのソファーの柔らかい感触を名残惜しく思いつつ、床に落ちてしまっていた案内図を拾い上げる。
「あれ……いつの間にかまた新しい項目と文章が増えてる」
空白だったスペースには新たに【入園の儀式の服装について】という文字が浮かび上がっている。
早速読んでみると、どうやら沢山の生徒が集まって行う式や行事等がある際は、指定の制服を着用する決まりがあるらしく、その制服は各自部屋のタンスの中に既に用意されているらしい。
「成程。式とかの行事に参加する時ちゃんと制服を着用すれば、後は服装に関して特に縛りとかはなく自由って事なのか」
という事はこれから行なう予定の入園式では、この学園の生徒や先生が着用している魔術師的なローブや民族系の服が制服にと変わる訳なのか。ところでみんなはああいう制服ではない、魔術師っぽい服や独特の雰囲気をまとう服を、一体どこで調達してくるのだろう。
流石にこの先ずっと制服でいるのはともかく、ジーンズ姿の私服でいるのも大概目立ちそうだし、出来れば近々なにかしら手に入れたい。
今思うと、学園の外をまだ一回も見ていない事にふと気付く。というかこの学園の外観すらも見てないもんな。気が付いたら中に居たんだし。
もしかしたら学園の外には、テレビの旅番組で見るような外国の町のワンシーンにたまにある、土の地面に様々な服や布、雑貨品を扱った露天商がずらっと並んでいたり、美味しそうな匂いが漂う出店が並んでいる光景が広がっているのかも知れないと思うと、自然に胸が弾む。
もしかしたら様々な魔術用品を取り扱っている店もあるかもしれないし、出来ることならば今すぐにでも外に繰り出して沢山探索したい。
でもこちらのムーンガーデンでの通貨は、今現在持ち合わせていないことに気が付いたところで、手に持った財布を苦笑いしながらそっとテーブルに戻したのだった。
とにかくもう式が始まるまで一時間を切っているみたいなので、着替える為に件のタンスを開けてみる事に。
本棚同様にシックで落ち着いた色と肌触りの木製タンス。田舎のお祖母さんの家にあるようなデザインではなく、使っている材料等の共通点はあれど、外国の古い家具と日本の古い家具はやはり違うもので、目の前にあるタンスは外国の古いタンスだ。それこそ外国の絵本に出てくるようなタンスで、用が無くても触ったり開け閉めしたくなる。
タンスの扉をそっと開けると、ぎぃぃ……と懐かしくなる木の音が鼓膜を心地よく刺激してくれる。
中には馴染み深い、日本でも着ていたようなブレザー型の制服一式が浮いていた。
そう、ハンガーに掛かっているのではなく【浮いて】いる。やはりこうゆう常識外の事にはまだ慣れていない為、目の前に現れた光景に素直に驚いて一瞬硬直して言葉を失ってしまった。
それに、魔術学園と銘打ってるだけあるので制服もなんというか。古書などで魔女は黒のローブを身に纏っていたし、ゲームでも魔術師はやはりローブを纏っていたから、イメージしていた制服と違って随分普通なのだなと、少しだけ肩透かしを喰らったような気持ちになった。
タンスの中でふわり浮いている制服を取り出して、袖を通す。臙脂色の綺麗なブレザーだ。勿論シャツとネクタイも装着済み。ズボンは薄い灰色のチェック柄で、日本で着ていた制服と全く相違なく着心地は悪くない。
しかし、よくよく考えると、自分の知っている形式の服で良かったと思える。なぜなら此処はもはや異世界とも言える場所だ、着る方法のわからない服があった可能性だって十分あったのだ。
内心ホッとしながら設置してあった姿鏡に自分を映し出して眺めると、見慣れない制服に着飾られた僕が映っていた。新しい制服に身を包んだ自分を見ていると、ゲームのリセットボタンを押して、新しく高校生活をやり直しているような、そんな妙な気持ちになってしまった。
壁に掛けられた時計を見ると、そろそろ大聖堂に向かったほうが良さそうな時間だったので、身支度はもうこの位にして、携帯等の私物は必要ないと判断してテーブルの上に置いたまま、式場である大聖堂へと向かう事にした―――
自室の玄関もといオールドアを開けると、目の前にはアウラが全てのスペースを隙間なく覆っている。シャボン玉の表面のように、様々な色がマーブルに混ざり合っていて、ずっと見ていると酔ってしまいそうになる。でも、三度目になると其処まで躊躇せずにアウラの中に入る事が出来た。人間の変化に対する耐性の強さをこんな所で実感しつつ、ロビーを経て大聖堂へと向かう。
ロビーには、先程とは打って変わって僕が今着ている制服に身を包んだ男女が、ちらほらと談話していた。ここだけ切り取ってみると普通の学校となんら変わらない日常のようで、魔術学園だと忘れてしまいそうになる。
ロビーで談話している人達をすり抜けて、なんとなく足早に退室する。そしてアウラを経て大聖堂近づいていくにつれて段々と人の集りは増していき、大聖堂に着く頃にはもう既に沢山の人で溢れかえっていた。
その人数は、おおよその見当もつかない程の夥しい数で、千人はゆうに超えていると思われる。僕の地元ではマンモス高と呼ばれるような高校の入学式でも、ここまでの人数はいないだろうと思う。
そんな中、皆が喋っているものだから一人一人の話し声は小さくても、相乗効果で音量が規格外で耳がと頭に痛みを感じる。建物が揺れているんじゃないかというほどの喧騒に、思わず眉間に皺が寄ってしまった。
こめかみを指で揉みほぐしながら大聖堂の入り口で辺りを見渡してみると、丁度メイドさんが案内しているのを見つけたので指示を貰う為に近づいてみる。
「先程はありがとう御座いました、おかげで助かりました。いやー……なんだか人が多くて大変そうですね」
「御巫凪様。お気遣い感謝致します、しかし私達は全く問題ないですよ。此処での案内は一応上部に有りますが、よろしければ私が口頭で案内しましょうか?」
よくみると案内電子板みたいなホログラムが上にふわふわと浮かんでいた。恐らくこれも魔術なのだろう。
「あ、じゃあ折角だから宜しくお願いします」
「新入生は此方の、大聖堂の正面から向かって右側に椅子が並べられてあります。名前も表記して有りますので確認して座って下さい。左側には、在園生が参加自由で席を用意してありますので、此方には座らない様お願いします」
「成程、了解しました。右側に用意された椅子ですね? 有り難う御座います」
無機質で無表情ながらもやはり忙しそうなメイドさんの邪魔をしないように、お礼をそっと告げると速やかに移動する。
大聖堂の正面に向かって右側、つまり新入生側。今ざっと見ただけでも百人位かそれ以上の椅子が用意されていて、正直こんなにいるとは思わずに驚いた。いても精々十人位だと思っていた。
いそいそと自分の名前が記された椅子をその大量の椅子の中から探しだし、見つけてホッとしつつそっと音をたてないように座る。
周りは当然知らない人達なのでどうにも居心地の悪さを覚えてしまい、それぞれ生まれた国が違う事や瞳の色や髪の色も統一感はない事も影響してか、何となく自分がこの場にいるのは随分と場違いな気がして自然と萎縮してしまう。
僕の名前が記された椅子は割と後ろのほうだった。前後左右に誰か日本、いやせめてアジア出身の人がいないか見渡していると、誰かがこちらに視線を送っているのに気付く。勿論その視線の主のことは一目でわかった。
クイナは僕と目が合うと、ふわり微笑んで手を振ってくれた。その八重歯が覗く愛嬌のある笑顔に解りやすく安堵すると同時に、もしクラス分けがあるのなら是非クイナと同じクラスになりたいなと、控えめに手を振り返しながらそう思ったのだった。
「静かに。……静粛に。えー、それでは新入生の入園の式を始めます」
視線が交わっていた時間は、先生と思われるスーツ姿の男性の声で数秒とたたずに中断される。クイナも周りに倣って前を向き、僕も背筋を伸ばして姿勢を正した。
大聖堂を包み込んでいた激しい喧騒が嘘のように静まっていく。話し声は勿論、物音一つすることはなくまるで外界と切断されたような、異様な静寂に満ちていた。
「新入生の皆さんは初めまして、ようこそキスハート魔術学園に。えー……私はクラン・ヘリオドールと申します。今回の式の進行役に選ばれましたので、宜しくお願いします。
新入生皆さんはいきなりの事、要は此処月の庭ムーンガーデンへ来たことに戸惑っているかもしれないですけれど、これは誇れると思ってほしいです。何故なら此処へは誰でも入れる訳ではなく、選ばれた貴方達だから今此処にいるのですから。日々周りの仲間と支え合い競い合いながら切磋琢磨して精進して下さいね」
縁のないメガネをした、中性的で整った顔立ちの先生はいかにも優秀そうな印象を受ける。高級そうなローブをまとっていて少しわかりづらいけれど、恐らくやせ気味の体躯。なんだか人当たりの良さそうなクラン先生の簡単な挨拶で、式は始まった。
「私の挨拶はこの位にして、まずは君達の正面に並んでいる方々が、これから新入生と在園生に基本魔術学や薬学に、戦闘基礎に魔術回路や専門的分野等を教えてくれる先生方です」
柔らかい物腰で、正面に並ぶ先生方の紹介を始める。ニコニコと微笑んでいる先生もいれば、無愛想にふてくされてる風な表情の先生もいて、個性的な人が多いようだ。
日本でもだったのだけれど、クラスが新しくなったりして知らない人達が自己紹介しても、なかなか名前を覚えきれないことがある。このキスハート魔術学園なら普段聴きなれている和名ではない為、尚更だ。今も簡単に先生方の名前等の紹介があったけれど、結局殆ど名前を覚える事が出来なかった。
「それでは、先生方の紹介もあらまし済んだみたいなので……キスハート園長宜しくお願い致します」
先生方の紹介が済んだ所で、クラン先生は一歩後ろに下がりながら頭を下げてそう言った。
先程の先生紹介の中に、園長の肩書きを持った人はいなくて何気に気になっていたのだけれど、園長は一体何処にいるんだろう。
そう思いながら正面の祭壇を見つめていると、祭壇の周りが徐々に歪み始めた。空間が捻れているというか、其処だけピントが合わずにその一点のみぼやけているみたいに歪んでいる。凄く表現が難しい現象が目の前に広がっていた。
歪みが晴れていく。捻れた空間が戻っていく過程で、漆黒のローブを纏い、真っ白い髪と髭を生やした老人徐々に現れてくるのがわかる。てっきりざわめくと思ったのだけれど、意外にも周りの新入生は冷静で、静寂を保っていた。
「諸君、ようこそキスハート魔術学園に。儂は一応この学園の長のキスハート・オアシスじゃ。ここにいる先生達の紹介は、大体クラン教諭が話してくれたようじゃな。他にも此処には来ていない先生、講師がおるから、皆、会うことがあったら挨拶するようにの。
えー諸君は此処で魔術を学んでもらう。魔術を学び、沢山の可能性や成果を出して人類の高みを目指していってほしい。それにあたって魔術を使う為の儀式があるから、それをこれから行おうと思う」
歪みが消えた祭壇には、厚い黒のローブに身を包んだ老人が居た。まるで最初からそこに居たかのように、ごく自然に、当たり前かのように存在していた。
綺麗な長い白髪は腹の辺りまで伸びており、皺があるその顔も流石に風格がある。自己紹介の通りキスハート園長は風貌からなにからまさしく学園の長って感じで、心なしか教師陣にも緊張感が漂っているように見える。
「儀式は、この大聖堂の中央の大きな杯の前で行う。この世界で魔術を扱うにあたって絶対に必要な事なのじゃ。勿論危険性はないし、諸君の先輩達も例外なく儀式を行っているからまぁ案ずることはない。
新入生の君達には魔術の種である月の涙と、オリジナルマジックというアビリティがまだ備わってない。月の涙についてはこれから直ぐにわかる。
オリジナルマジックとは専門に特化した能力の事じゃ。攻撃、補助、回復と種類は沢山ある。例えば攻撃特化能力の中でも炎や水などの属性でも相当に枝分かれしていて、他の人間と似通ることはあれど全く同じという事はまずない。まさしく個人で違うオリジナルの特化能力という訳なのじゃな。
大体の能力が魔術士に区別されるのだが、魔術士の枠内では説明の付かない特殊な特化能力も稀に見つかる。これらは【魔術士】ではなく【~師】と区別される。まぁ稀じゃからの、メリットもデメリットもあるし不明瞭な部分も多い故に魔術士が一番無難じゃと儂は思うがの。では今からする儀式では儂と教師達の指示に従うように」
キスハート園長が言っていた魔術に関しての説明は、難しくてよく理解できなかったけれど、とりあえず魔術を扱う為にその儀式は避けては通れないようだ。
今からその儀式を行うらしく教師陣は移動を始め、先輩達は少し離れた場所に移動している。キスハート園長とクラン先生が、中央にある巨大で豪勢な装飾の杯のような器の前で、なにやら準備を既に始めているのが見える。
オリジナルマジック、魔術士の個人に特化した能力か。なんだかゲームの最初の設定みたいで心が躍るなぁ。
僕にはどんな能力が宿るのだろうと気分を高揚させながら先生の指示に従い、僕達新入生は杯の正面に整列する。
「では前の者から、上がって来なさい」
豪勢な装飾が施された巨大な杯にキスハート園長が手を翳すと、たちまち澄み切った透明の液体が空っぽだった器の中に満たされていき、器から幾らか溢れだす。それはまるで緑が映える山で静かに湧く清水のようだ。
儀式が始まり、前列の新入生が杯の前まで行く姿が見える。杯は、ちょっとした台座の上に鎮座しており、杯の前まで行くには階段を二段程登らなければならない。
新入生の一人がキスハート園長と対面している。何か会話しているようなのだけれど、こちらまでは全く聞こえない。すると、キスハート園長がまた杯に手を翳すと見覚えのある球体が液体の中から浮かび上がってきた。
「小さい、アウラみたいだ……」
そう、浮かび上がってきたのはアウラ、もしくは極めてアウラに似ている球体だった。ふわふわとシャボン玉みたいに揺れていて、半透明な虹色は月の光を浴びて様々な色を自在に変えながら浮かんでいる。
あとは、こちらからは何が起こっているのかわからなかった。
アウラのような球体を毎回液体から浮かび上がらせては目の前の生徒に差し出しているようで、その後特別苦しんでいる様子もないし、なにか変わった様子も見受けられない。
ただ、その儀式らしき行為の後に生徒達は自分の椅子に戻っていくのが少し早すぎるというか、儀式と聞いておどろおどろしいものを想像していたせいなのか、なんだかあっさりしたものだなと一連の流れを見てそう思った。
みるみるうちに自分の番がやってくる。列の一番前までくると、段々早まっていた心臓の鼓動がより一層加速する。うう、流石にちょっと緊張してきたな。
「では次、えー……96257番御巫凪」
「は、はいっ」
少し控え目に返事をする。激しい鼓動が過剰に血を身体に巡らせて、どうにも息が苦しくて落ち着かない。
そして目の前に鎮座する杯の大きさと装飾の豪華さに感嘆する。本やテレビでしかみたことのないような彩り鮮やかな宝石が散りばめられていて、余すことなく豪勢に存在感を放っている。
「では、御巫凪。目を閉じて……意識を集中するのじゃ」
対面したキスハート園長の言うとおり、目を閉じる。瞼を通してゆらゆらと光が揺れているのは、月の光が大きな杯の液体に反射しているからだろう。
「うむ。もういいじゃろ。静かに目を開けるのじゃ」
数秒の間瞼を下ろしていると、仄かに光の揺れと光度が増したように感じた刹那、目を開けるようにそうキスハート園長が呟いた。
静かに瞼を開ける。すると眼前にはやはり、アウラのような小さな球体が杯の上でふわふわと浮かんでいる。サイズはソフトボール位あって、杯の液体同様やはり月の光を浴びて様々な色がマーブル状にうねっている。
「これこそが奇跡の魔術の種、月の涙じゃ。では……この月の涙を胸に当てて、再度目を閉じるのじゃ」
手渡された月の涙と呼ばれるアウラのような球体を言われた通り胸に当て、静かに瞼を下ろす。すると、心臓に何かがすーっと入っていくのを感じた。
「なんだろう、説明出来ない何かが漲ってくる……凄く熱い。まさかこれが魔力……?」
「そう、それが魔力。そしてそのまま目を瞑ったまま意識を深く深く、深海へと潜るように集中するのじゃ。……段々何かが見えてくるはず。それがお主のオリジナルマジックの属性、種類を判別する材料になるという訳じゃ」
「深海へ潜るように、深く集中……」
瞼の裏の暗闇の中、無心でいると仄かに黒の背景に緑色に帯びてくる。それはまるでオーロラのようにゆったりと様々な緑が綺麗だった。ゆらりと安定せず揺らめく緑色のオーロラは、よく見ると何かを包み込むように漂っているようだった。
段々と色の種類が増えていき、少しずつ鮮明になっていく。今瞼の裏には見たことのない様々な植物や木が生えていて、どれも見るからに異種のようだ。色鮮やかな花や実、どんな図鑑にも載ってないような形と色に成長していて、神が気紛れに作った庭と言われても納得する壮大で幻想的な光景だ。
噎せ返るような生命の濃い匂いが、意識を遠退かせる程に命豊かな森の壮大な景色が瞼の裏に広がっていた。その森の真ん中には一本の巨大な樹。雲をも突き抜けんばかりの見たことのない程に、立派な樹だ。その巨木の周りを、オーロラのように緑色をベースに様々な色に変化して漂っている。言葉を失う程に圧巻の光景が広がっていた。
「な、なんじゃと……?」
「えっ?」
キスハート園長の声に思わず目を開ける。瞬間、今まで瞼の裏の暗闇で見ていた景色は霧散してしまっていて、再び目を閉じてもあの壮大な風景を臨む事は出来なかった。そしてそこにはキスハート園長が口を開けて驚いた表情で僕の事、いや僕の中の何かに視線を送っていた。
「もしかして、キスハート園長にも僕が見ていたあの風景が見えてたんですか?」
聞くとキスハート園長は、生徒達に宿った魔力で視る瞼の裏の暗闇に広がる色や風景等の情報で、何に特化しているのか、それぞれのオリジナルマジックを大体見極めるのだそうだ。とはいっても覗かれるのはなんだか、僕は少し恥ずかしいから抵抗があるんだけれど。
「それで僕は魔術士の、何の属性に特化しているのですか? その……僕のオリジナルマジックはもう解ったのですか?」
そう訊ねると、怪訝そうに顎髭を撫でながら何か考えているようだった。一体どうしたんだろう。まさか、今更魔術士の適性がなかったから帰れとか言われたら、それはそれでちょっと落ち込むなぁ。
「ふむ。少しばかり珍しいようじゃのー……御巫凪、お主の属性はあまり情報がない故、滅多な事は言えん。黒魔術、白魔術とも今は判断つかんが……とりあえず魔術士として生活するといいじゃろ」
「そう……ですか。それってなんなのでしょうか? 中途半端で曖昧な感じがあんまりパッとしなそうですね」
なんとなく、炎とか雷とかそういう格好よくて強そうなイメージの特化がいいなぁなんて思っていたのだけれど。ああ、パッとしないのはオリジナルマジックじゃなくて元から僕の存在感なのだったな、なんて思わず嘲笑しつつ納得してしまった。
「まぁこれからの授業などで色々自分の事が解ってくるじゃろ。特化についてもすぐ解るじゃろうし心配しなくてもよい。では座っていた席に戻りなさい」
キスハート園長に促されるがまま、杯の前から立ち退く。話をしていた時間が他の人よりも少し長かったせいか視線が僕に集中していて、居心地の悪さからか先程まで座っていた椅子に戻るまでの道のりが酷く長く感じた。
自分の椅子へ着席し、杯の方に視線を向ける。その後滞りなく儀式は進んでいった。僕の後ろに並んだいた新入生達も瞬く間に自分の椅子へと着席していき、儀式も終わりに近づいているようだ。
「では、この儀式を閉式する。おめでとう、これで新入生の諸君は今日から魔術使いとして正式に入園したわけじゃな。日夜鍛錬に励むようにの」
真っ白な顎髭を静かに撫でながらそう言うと、キスハート園長は近くにいたクラン先生に何か耳打ちをする。そして大聖堂に集まった生徒達や新入生をゆっくりと眺めると、登場したときと同じ様に歪みの中へと消えてしまった。やはり学園長ともなると色々忙しいのだろうか。
「それでは、これで新入生の入園儀式を終わります。お集まりの皆さんもありがとう御座いました。新入生の皆さんは、これからの予定とクラス分けが決まり次第この大聖堂及び皆さんの自室へ公開致しますので、それまで自由時間とします。それでは……閉式とします」
爽やかで柔らかい物腰でクラン先生はそう言うと、微笑みながら会釈した。初見でも思ったのだけれど、きっとこの先生は優秀そうな上に優しそうで格好いいから女性に人気がありそうだな。そうゆう所がなんだか少し胡散臭く感じるのはきっと受け取る側、つまり僕が捻れた性格だからなのだろう。
そんなどうでもいい事を考えている内に、立ち上がる生徒達が出す椅子が床と擦れる音が一斉に鳴り出して、思わず条件反射で周りに合わせて立ち上がった。
立ち上がってそのまま、儀式の時に感じた魔力の感触を手探りで確かめながら、先程見た緑の綺麗な幻想的な森の光景を思い出していたのだった。
入園の儀式の後、恐らく生徒会とか実行委員の役柄であろう先輩達が、速やかに椅子等の撤去作業をしていた。僕はといえば特にする事もないので、自室に戻ろうかなとぼんやり考えながら大聖堂の片隅で撤去作業を眺めていた。
謎に包まれていた儀式も無事に終わり、僕も含めて晴れて正式に入園出来た新入生達も大聖堂に留まる人達もいれば、そそくさと大聖堂から出て行く人もいた。他の新入生達はどんな能力に特化したのか、話をしてみたくて話し掛けようかと思い立つも、僕の性格上それもうまくはいかない。
「おーい、なぎなぎーっ」
そろそろ自室に戻って休もうかなと思っていると、まだくすぐったくて慣れない例のあだ名が聞こえてきた。僕のことをこんな風に呼ぶ人は、一人しかいない。
「なぎなぎ、こんなとこでなにぽーっとしてるの?」
「おークイナ。入園式お疲れ様。僕はまぁ特にする事もないから、さっきの儀式の余韻に浸りつつ大聖堂を眺めてたよ」
「そっかそっか。なぎなぎは儀式どうだった? いやー、緊張したよ私。あの雰囲気に圧倒されちゃってさ……膝なんてガタガタ震えてたと思う」
クイナの服装は、出会った時に着ていた私服ではなく、この学園指定の制服に身を包んでいる。ふわふわと微笑むクイナはやはり可愛いくて、臙脂色の制服も申し分なく似合っている。
「僕も緊張で膝が笑ってたと思うなぁ。あと儀式に関しては色々と半信半疑だったんだけれど……なんかすごかったね」
今思い返しても、儀式の流れは神秘的であり厳かだった。自分にも月の涙が染み渡り、オリジナルマジックが身体に宿っていくのをあの時身を持って感じた。あんなに半信半疑だったのに、今では自分の中に宿る魔力と思われる力と記憶が何よりの証拠になっていた。
「私はね、なんだか魔術士の水系みたいだよ。儀式のとき瞼の裏側には綺麗な海とか、しとしと降る雨とか見えたし、キスハート園長もそう言ってたの」
感触を確かめるように目の前で手のひらを閉じたり開いたりすると、クイナは屈託なく微笑む。当然いきなりクイナの魔術で豪雨が突然降り出したり、大海嘯が押し寄せてきたりはしなかった。
「水かぁ、なんだろうなんとなくクイナにピッタリな気がする」
「ほんとっ? えへへーっ、嬉しい。まだ使った訳じゃないしよくわかんないけど、あたしも気に入ってる。なぎなぎはどうだったの?」
「僕のオリジナルマジックはなんだかよくわからないんだって。一応魔術士らしいんだけれど。なんだかよく解らないから、滅多なこと言えないとかなんとかキスハート園長が言ってた」
「そっかぁ、どんな能力が宿ったんだろうね? なぎなぎはなんかこう、ぽわーんって感じだからきっとぽわーんなオリジナルマジックなんだよきっと! ……でもさ、なんだかこの第ニ世界、月の庭ムーンガーデンにきてからずっと、慌ただしくて色々よくわからないことだらけだね」
この学園の事とか学園の外に広がる世界とかさ、ムーンガーデンの歴史とか魔術とか、わかんないことだらけだよー、と物憂げに俯きながら微笑むと僕の隣にとてとてやってきて、二人で後ろの木の壁に乗っかかる。
木の壁はほんのり暖かく、仄かに香ってくる優しい木の匂いが妙に落ち着く匂いで自然と気が緩む。
クイナの言う通りだった。というのは、全く同じ事を思っていたからだ。僕が感じている不安や疑問は僕だけでなくて、多分クイナもだし、この世界に住まう人達や今日僕と入園の儀式をした新入生達も、恐らくは感じてることだ。
もっとこの世界のことを勉強してもっと、もっと深く沢山知りたいと思う。よく考えてみなくても、なにも知らない場所でよく解らないまま学び生きていき、生活していくなんて想像するだけでゾッとする。けれどそれだけ自分の知らない世界が広がっている事には、不安も感じずにはいられないけれど、やはり期待に胸が熱くなる。
「クイナが言ったみたいに僕もわかんないことだらけだ、本当に。むしろわかることの方が少ないくらいだよ。それで正直ずっと不安だったりもするんだけれど、でもやっぱり見知らぬ土地での新しい生活とか、知らない事がある環境を楽しんでる自分も、確かにいるんだよ」
それに魔術を使うなんて、誰もが一度は考える想像の産物で憧れの的だしさ、と他愛のない会話を続けていると、無機質な声を合図に大聖堂の中央部空中に、案内電子板みたいなホログラムが浮かび上がってきた。今ならはっきりと解る。視える。これは儀式前の状態では感じることのなかった新しい感覚だった。
このホログラムが魔術で出現したと感覚で理解できる。
「それでは新入生のクラス割りが決まりましたので、各自確認して下さい」
メイドさんの無感情な声が学園に静かに響き渡る。何人か大聖堂に残っていた新入生達も、メイドさんのアナウンスを聞くと自分のクラス割りを確認しに集まって、中央部の空中に浮かぶホログラムの文字を見上げている。
「じゃああたし達もいこっか」
徐々に人が集まっていく大聖堂の中央部に向かって歩き出す。クイナと同じクラスならきっと楽しい生活を送れるんだろうなと思いながら、髪をふわふわ揺らしながら前を歩く女の子を眺める。
そして掲示板を見上げた僕とクイナはお互いを見合って、思わず笑ってしまったのだった―――
【とある一室】
「何故彼に教えて差し上げなかったのですか? キスハート・オアシス」
古めかしいランプと蝋燭が照らす薄暗い部屋の中に、そんな無機質な声が小さく響いた。
キスハートはとある一室のソファーに座り、白く長い立派な髭を撫でながらテーブルの上に上がった和紙を眺めていた。和紙や羊皮紙は千年以上もの時をも凌ぐ優れた保存性と、強靱で柔らかな特性があり、キスハートは書類を残す時は決まって和紙を使う。
「今はまだその時ではないじゃろう。伝えてもまだ理解できんじゃろうし、全てを話しても悪戯に混乱を招くだけじゃよ」
「しかし御孫さんの雛子様は恐らくもう御気付きですよ」
キスハートは和紙を手に取り、そこに書かれた文字を指で触りながら目で追う。側で姿勢よく直立している者の影が、蝋燭の灯りで静かに揺れている。
「緑師。貴方がこの世界の鍵だと言っていたのは其れの事でしょう?」
部屋に差し込む月の灯りは優しい。部屋に備え付けられえているステンドグラスに差し込む月光は、床に緑の綺麗な幻想的な森の光景を映し出すのだった。