第二話 黄金色の瞳と大聖堂
僕の目の前に広がる、そのあまりに豪勢な内装と広すぎる部屋故に異様でさえ感じる壮大な光景。
今にも聖歌隊の力強くて優しい聖歌が聞こえてきそうな聖堂で、立ち尽くす他にない程にただただ圧巻だった。
本やテレビで見た時もここまで大きく、足が竦む程の圧倒感は無かったように思う。どれも実際に目の前にすれば、今みたいな感想を抱くのかもしれないけれど。しかしこの部屋に入ってから感じていた不思議な感覚は、大聖堂に足を踏み入れる度に強く感じるのも確かだ。
兎に角興奮冷めやらぬ状態のままだけれど、入ってみることにする。
変な所から突然現れた僕に、奇異の視線を向けられるんじゃないか、と心配していたんだけれど、特別変な視線を感じる事はなかった。
皆談笑していたり、説教を熱心に受けてたりと思い思いの行動をしている。よくよく見てみると大聖堂に集まっている人達の服装や持っている物には、全く統一感が無い。だからこんな僕の格好も気にならないのだと推測した。
にしても、やっぱりカーディガンにジーンズ姿の僕は、この中で浮いてる感が否めない。そんなラフな格好をしている人は、辺りを見渡してもやはりどこにも居なかった。
この気持ちを例えるのなら、ファンタジー映画に私服のまま紛れ込んでしまったかのような違和感。その妙な気持ち悪さを感じずにはいられないほど、浮いているように思える。
しかしだからって何もしない訳にはいかないので、早速大聖堂を探索しようと歩き回ってみる。でも残念ながら知らない人達の会話の中に、いきなり混じっていくなんて高度なコミュニケーションテクニックは持ち合わせていないので、沢山抱えている聞きたい事を泣く泣く飲み込む。
ちらほらいる生徒っぽい人を避けつつ歩いていると、月の光がステンドグラスを通して、絵が映し出されている床の一つを見つけたので、見に行ってみる。
天井に描かれた赤系の色や薄い紫等の色と模様は、月の光と混じって淡い色になっている。それどころか、ステンドグラスには描かれていなかった色まで床に映し出されている。
「綺麗……これは、何て名前の色なんだろう」
色の配色もだけれど、幾何学的というか抽象画のように、すぐには理解出来ないようなそんな模様だった。見方によってはドラゴンが大きな翼で空を飛んでいるようにも見えるその模様に、目も心も奪われてしまっていた。
「ねぇ君、そんな所でなにしてるのっ?」
月明かりのステンドグラスに見蕩れていると、ふと背後から声がした。あまりに綺麗な模様と、惹き込まれる配色に心を奪われていて、誰かが近付いてきていた事に全く気付かなかったのだ。
振り返ってみるとそこには、一人の女の子がニコニコと笑顔で首を傾げている。その八重歯がちらりと覗く微笑みは誰が見ても印象良い、そんな可愛い笑顔の娘だった。
「あ、いや……えーっと、道に迷った……んじゃなくて、この床に映し出されたステンドグラスの模様を眺めてたんだ」
「ああ、これ? うん、すごく綺麗だよね。あたしさっきこの学園に来たばかりだから、うん。本当に綺麗だよね。ずっと眺めていたくなる、そんな色使いとデザインだよね」
僕の隣にちょこんっとしゃがみ込んで、床のステンドグラス模様を一緒に眺めるその女の子は人懐っこい雰囲気で、この世界に来てから感じていた孤独がまた少し薄れていくのがわかる。
他人を避けながらも、寂しがる僕の性格はもうどうしようもないな、と心の中で嘲笑してしまった。
「出来ることなら、この模様を絵にして壁に飾りたいくらいだよ。あ……ってか実は、僕も今さっきこの学園にきたばかりだったりするんだけれど」
「今さっき? てことは、なんとあたしと同期さんですな。でもでも、その様子を見る限りもしかして、まだ手続きとかしてない感じなのかな?」
「うん、さっきちょっと色々あったけれど本当に今きたばかり。正直右も左もわからない状態なんだ」
「あら、そうなんだ? ……んーじゃあせっかくだし今から付き合ったげるから、一緒に行こうよ」
女の子にあまり耐性が無いとはいえ、この娘の無垢な笑顔にこんなにも見蕩れてしまうなんて。でもきっと男の子は、いや女の子でも惚れてしまうようなその絶世の微笑みは、とくんっと僕の心臓を跳ね上がらせる。すごく可愛い。
八重歯が印象的な女の子からの提案は願ってもない、むしろこちらから御願いしたいものだった。だって地図的なものも持っていないし、どこに行けばいいのかもわからなかったし。
「えっと、遅れたけれど僕の名前は御巫凪っていうんだ。君の名前は?」
「あっ、そうだね。あたしも自己紹介がまだだった。あたしの名前はクイナ・シャルトライム。クイナとでもなんとでも呼んでいいよ」
クイナと名乗るその女の子は、奇抜といっては失礼だけれど周りの人達の特徴的な所謂【異世界】的なファッションではなく、日本でも見慣れたような制服を着こなしている。ブラウンを基調にしたブレザーはクイナに良く似合っていて、その中に着ているシャツを窮屈そうに押し上げる胸の膨らみは、まだ少し幼さが残る顔付きにも関わらず、たわわに実っている。
そして視線を下に移すと焦げ茶のローファ、紺色のソックスと淵にひらひらのレースが付いたスカートのバランスが絶妙で、すらっと伸びる細めの生足が妙に艶めかしく、目のやり場に困ってしまう。
瞳の色は薄く透明感のある黄金色で、可愛らしい中にも日本にはない外国独特の、高貴な雰囲気を纏っている。髪型は明るいブラウンで、横に流すように結われたふわふわと揺れる髪は、肩より少し長い位。文句無しの美少女だった。
「ところでさ、あたしまだ和名ってよくわからないんだ。君の名前の区切り方は、みかな・ぎなぎ?」
「あー、それは全然違う。カタカナにしたらちょっとしたモンスターになっちゃうよ、それ」
ミカナ・ギナギが現れた。ロールプレイングゲームの中盤とかに小役として出てきそうな名前だ。
「あれれ違うのか、ごめんね。じゃあ、み・かなぎなぎ?」
「それも違う。ってか僕の親が仮に、【み】って苗字だとして、かなぎなぎって名前を子供に付ける親を、僕は親と認めたくないよ。おーい、かなぎなぎーなんて呼ばれたって僕は絶対に振り向かないし、反応すらしない。むしろ返事だってしない自信がある」
「あれぇー、これも違うのかぁ。じゃあなんだろ……あ、あたしわかっちゃったー。いくよ? みか・なぎなぎでしょ?」
「え? なに、華麗に正解だけを外すそのセンスは一体どこで養ったの?」
「えっ、嘘でしょ……今のも違ったのっ?」
本当に驚いているようで、ぶつぶつと口元に手を当て思案しながら僕の名前を復唱している。
「みかなぎ・なぎだよ。みかなぎが苗字で、なぎが名前。まぁ確かに解りづらいかも知れないね、名前はまだしも苗字はちょっと珍しいみたいだし」
「ふーん……わかった。じゃあなぎなぎって呼ぼう。君はなぎなぎ。よし、そう決めた」
「うわーびっくりした、僕の説明をふーんで片付けたよ。あと何がわかったのか、逆に僕がわからないよ。もう今までのくだり全然必要ないし、正解にもさほど興味がないご様子に僕は正直驚きを隠せないでいるよ」
全然必要なかった、とは言ったものの今のクイナとのやり取りは正直楽しかったし、初対面の他人と笑いながら、仲良く楽しく話せている自分に少なからず驚いている。
以前の僕にとっては、もう忘れてかけていた表情と感情だ。もともとコミュニケーションは少し苦手だったけれど、今思えば会話をするのは好きだったんだ。それに誰かにあだ名を付けてもらうなんて、実は僕にとっては初めての事だった。
「まぁまぁ落ち着きなされ。じゃあ早速いこっか、きっと担当の人もなぎなぎをずっと待ってると思うし。ねっ? なぎなぎ」
軽いフットワークでふわふわと歩き出したクイナは、今さっき僕につけたあだ名をどこか大切そうに口に出すと、嬉しそうに微笑んだ。慣れない呼び名になんだかこそばゆい気持ちになったけれど、なぎなぎというヘンテコなあだ名も悪くないなと、クイナの笑顔につられて静かに微笑んだ。
「ね、なぎなぎはこの学校で出来た初めてのあたしの友人だよ。……後で必ずまた逢ってお話しようね」
微笑みの中、黄金色の瞳で見つめるそのクイナの表情は、出会ってから初めて見る表情だった。愁いを帯びた瞳は微かに揺れ、うっすらと泪で潤んでいるようにも見える。
僕と同じように、知らない場所で不安や孤独をその小柄な身体で感じていたのかも知れない。
そんな憂いた表情はほんの一瞬で、直ぐに明るく歩いていくクイナの後を着いていく僕は、さながらどこまでも後ろに付いていくRPGの主人公の仲間のようだった―――
大聖堂から出て少し歩いた所、日本の学校で言うところの事務所的な所に到着すると、クイナは「あとはここで事情を説明すれば大丈夫。あたしはちょっと部屋に行って休んでるよ。また後でね」と言い残して笑顔で戻っていった。
クイナに案内された部屋で待っていたのは何故かメイドの格好をした女性で、僕が頭の中でイメージするようなメイドの姿そのものだった。
長いウェーブの黒髪は艶やかでよく手入れされていて、頭には白いフリフリがついた可愛いカチューシャ。白と黒のモノクロを基調としたメイド服も完璧に着こなしている彼女。表情は殆ど無表情に近いのだけれど、それがまた可憐でよくできた人形のようで、可愛いというよりも凛としていて綺麗という印象だ。
「お待ちしておりました」
整った顔立ちのメイドさんは、会釈すると作業の一部分のような無機質な声でそう言った。
「御巫凪、様で間違いないですか?」
「あ、はい。遅れてしまったみたいですみませんでした」
「いえそれは大丈夫、ご無事でなによりです。本来の到着時間より十六時間と三十八分五十二秒遅れていましたので、心配しておりました」
かなり細かい秒数まで指摘されたのと、先程からの無機質な話し方が、心なしか責められているような気がして少し辟易してしまう。
そしてメイドさんは何を思ったのか、唐突に僕の頬にそっと手を添えてきた。
「……少しだけ、そのままでいてください」
「へぅっ……あ、ああ、はい」
突然の展開に、頭が真っ白になって変な声を出してしまった。恥ずかしいと思う暇もない位、情けなくただ動揺して、されるがままになってしまっている。
無機質な表情とは裏腹に添えられた手のひらは温かく、こうやって人の体温を直接感じることがなかった為、なんだか恥ずかしさと小さな嬉しさで温かい気持ちになった。けれど、動揺を隠せない程びっくりはしている。心臓が暴れ馬のように騒がしく動いている。
「御巫凪様、貴方の個体生命情報を無事把握しました。私と、セキュリティーのデータに登録を完了しました」
メイドさんはゆっくりと瞼を開け、僕の頬から手を離しながら淡々とよくわからない内容の話を始めていた。僕はというと、動揺し過ぎたあまりよく聞き取る事が出来ずにいた。
「す、すみません、今何て言ったんですか?」
「貴方の個体情報を解析し、セキュリティーと共に理解したと申し上げました。この学園で生活する際必要な事なので」
話を聞くと、このメイドさんの魔術的ななにかで、この世界に住む人達全員を把握しているらしい。科学的に言えば、データベースをパソコンで管理するみたいなものだろうか。それで、僕のような新参者はメイドさんの所にいって、解析と認証をしてもらわなくてはまともに生活出来ないとのことらしい。
セキュリティーとはそのままの意味で、施設等諸々メイドさんに認証されていないと使えないものがあったり、部屋に入れなかったりすると説明された。成程、わからん。
「まだ微妙によくわからないけれど有り難う御座いました。それで、僕はこれから何をしたらいいんですか?」
「御巫様の部屋は既に此方で用意致しましたので、ひとまず自室で休んで頂く形をお勧めします。今からこの学園内、学園の外を見学するには少し広すぎますし、万が一迷ったりしたらこの後にある入園の儀式に、間に合わなくなるかもしれませんので」
「もう部屋が用意されてるなんて、助かります。ところで……その、気になっていたんですが、入園の儀式って一体なんですか?」
「御巫様が居た、日本の学校の入学式みたいなものと思って頂いても構いません。懸念されているような危険なことも特にないですし、そんなに警戒なさらなくても大丈夫ですよ」
「あー、入学式みたいなものですか。それって何時から始まるんですか?」
「時間はそうですね……はい、受信しました。御巫凪様の到着で今期の新入生全員の到着が確認されましたので、今より三時間と十二分三十八秒後の十時に行なうとの事です」
メイドさんの言葉を聞いて、今の時刻が夜の七時頃だと知る。自宅、この場合は第一世界である日本のアパートに居たときの夜の十二時からは、思っていたよりも時間が経っているようだった。いや、そういう時間の流れに関してはまだこのムーンガーデンでは不確かだったか。
入園の儀式とやらの内容が何気に気になるけれど、あまり質問ばかりしてもメイドさんが困ってしまうかもなと思い、相槌で留める。それにもう三時間後には自然にわかることだし。
「じゃあ、お言葉に甘えて一旦自室で休もうかと思います」
「そうですね、ではこれを。この学園の簡単な地図と、自室までのルートが書いてありますので」
「何から何までありがとう御座います」
メイドさんから案内図を受け取り、改めて会釈しながらお礼を言う。このやり取りの間はやはり無表情を崩すことなく、淡々と喋る無機質な印象は結局変わることはなかった。
メイドさんから貰った案内図を頼りに歩き出したところで、ふと後ろから視線を感じたので振り返ってみると、メイドさんが此方をじっと見つめている。
少し離れているから錯覚かもしれないけれど、ほんの一瞬気付かないくらいに微笑んでくれた気がした。自意識過剰だと言われればそれまでだけれど、なんとなくそんな気がした。
少しの間そうしているとメイドさんの体は徐々に薄くなっていき、程なくして視線の余韻だけを残しながらメイドさんは消えてしまった―――
メイドさんから貰った案内図を頼りに、用意されているという自分の部屋へと向かって学園内を歩く事五分とそこら。
この学園で暮らす生徒や教師の為の寮が別棟としてあるようだ。そこに行くためには専用のエレベーターを利用しないと辿り着けないらしい。
そして今その案内図を片手に歩いているのだけれど、どうも不自然な余白が所々にあって少し几帳面な性格の僕としては、その不自然でアンバランスな余白がどうにも気になって仕方ない。こういう事務系のバイトがあるのなら立候補して即座に直してしまいたいくらいだ。
戸惑いながらも寮の方へと通じるであろうエレベーターがある場所までは、なんとかたどり着くことが出来た。のだけれど、目の前に現れた近未来的なエレベーター……いやもはやこれをエレベーターと呼んでいいのかすら微妙な乗り物というか、見たことの無い設備の登場に驚きを隠せずにいた。
僕が今まで乗っていたエレベーターとは違い、どこを見ても機械じみていない。それどころか丸くて大きなシャボン玉のような、半透明な虹色に発色するふわふわした球体が、当たり前のように低い四角形の台座に乗って目の前にある。
この物体を動かすための操作盤のような物は、一切ない。あるのは行き先は寮棟と書かれているくたびれた木材で作られた看板だけだ。
「うーん……こういう風に案内図があるんだったら、このエレベーターっぽいこの施設の使い方も、載せておいてくれたらいいのになぁ」
恐る恐る指で眼前の物体を突っついてみる。触感は、やや弾力が強いけれど思ったよりもずっと軟らかい。手を離すと、突っついた分が元の形状に戻ろうと表面に波紋を浮かべる。その様はさながら空に浮かぶシャボン玉のようだ。
触ってみてこのシャボン玉みたいなのがエレベーター的な役割を果たすのかが、やや不安になってきた。
使い方もよく解らずにしどろもどろしていたら、いつの間にか隣には先程のメイドさんが立っていた。
無機質な雰囲気はそのままで、よく見るとメイド服の色が微妙に違っているようだった。さっきは白と黒の無彩色モノトーンだったけれど、今は更にスカートのヒラヒラの所に挿色でピンク色が増えている。この短時間で着替えたのだろうか。というかメイドさんが隣まで来ていた事に全く気付かなかった。
「……御巫凪、様? 此方をご利用ですか?」
「あ、はい。案内図には寮の方に行く為には、これを使わないといけないらしいんですが、使い方がよくわからなくて」
「成程。新入生でしたね、それなら仕方ありません。知らなくて当然です」
そう言った瞬間、身体に受けた強い衝撃と共に体が浮いた。いや、浮いたというか正確には後ろからいきなり突き飛ばされた。突然の事に頭が真っ白になるも、メイドさんに突き飛ばされたと気付いて抗議しようと振り返ってみると、目の前が半透明の虹色の膜で覆われていた。
「いってて……ちょ、なにするんですか! って、あれ? もしかして、さっきのシャボン玉の中に入っちゃってる?」
「シャボン玉? あぁ、はい。確かキスハート園長は作成時にシャボン玉をモデルにしたというデータが存在します」
そう呟きながら少し遅れてメイドさんも入ってくる。その光景はやはり例え辛いのだけれど、割れないシャボン玉が伸びて人間が侵入してきた感じ。いや……ってかなんで割れないんだこのシャボン玉。
「これは、この世界でアウラって呼ばれているものです。アウラの魔術式はー……っていっても、まだよくわからないですよね」
「アウラ……っていうんですねこのシャボン玉。動力源とかどう使うかとか正直さっぱりです。ましてや魔術式なんて、当然理解できないですよ」
「誰だって最初はそうです。そのために私達もサポートすべく存在していますので。御巫凪様をはじめ新入生方は、まだ入園の儀式してないからアウラを使えないのです」
呟きに近い、か細い声でそう教えてくれるとメイドさんは静かにその綺麗な瞳を閉じる。長い睫が綺麗な人形のようで見とれてしまった。よく見ると口元に黒子があることに気付く。先程事務所で話した時も綺麗な瞳と睫だなぁとか、小さくて可愛い唇だなぁと思って見てたんだけれど、その時は気付けなかったのだろうか。
「では目を閉じて下さい。そうしないと、酔ってしまうかもしれないので」
メイドさんを見つめていてついつい気が抜けていたので、不意な言葉に慌てて目を閉じる。
今考えていた事をメイドさんに見透かされたのかと思った。いや別にやましい事は考えてなかったのだけれど、なんだか恥ずかしい気持ちになってしまった。
暫くもやもやしていると、カーディガンの袖を軽く引っ張られている事に気付く。
「あの、着きましたよ。いくら声を掛けても、気付かなかったので」
相変わらずの無機質な表情で首を傾げながら、つまんでいた僕のカーディガンの袖からそっと手を離した。……なんだか少しドキドキして、名残惜しい。
「あ、す、すみません考え事してて。……もう着いたんですか?」
多分時間にして五秒位かだと思う。正直移動したような感覚は全くない。
「もうこの、アウラから出てもいいんですか?」
「はい。では……」
「おっと、危ない危ない。もう押さなくても大丈夫ですからね?」
「……そうですか」
メイドさんが無表情で両手の平を向けてきたので、制止しておく。特に表情に変化があったわけではないけれど、心なしか少し残念そうに見える。無表情の奥に潜む色んな感情をこっちが読み取れないだけで、意外とそうゆう茶目っ気もあるのだろうか。
自力でアウラから出ると、目の前には広いロビーが広がっている。壁にはもはやおなじみの鈴蘭灯が等間隔に並んでいて、ゆらゆらと壁や室内を照らす明暗が綺麗だ。
内装は一貫して木を基調とした落ち着いたもので、ヨーロッパ辺りの古い家の優しい内装を思わせる。座面と背もたれ部が見るからにふわふわで、とても気持ちよさそうなソファーやテーブルなんかも並んでいる為、ここは生徒同士の談話室的な役割もしているらしい。
「送ってくれてありがとう。すごく助かったよ」
「いえ。ここからはまた案内図に従って進めば、順当に御巫様の部屋に辿り着くはずです。入園の儀式に向かう際はまたこちらへいらしてください」
「うん、わかった。なにから何まで有り難う御座います。ところでメイドさん、名前とか聞いてもいいですか? 名前じゃなく勝手にメイドさんて呼ぶのもどうかなって思うし」
「……いえ、私達には名前など有りませんので」
表情を崩さずに告げたその言葉に、とくんっと心臓は跳ね上がって激しく動悸する。それが当たり前かのように紡ぐそのメイドさんの様子は、やはり無機質に機械的だ。冷たく、綺麗な瞳には感情の色は灯っていないように感じる。
「では、また後ほど。ごゆっくりと御休み下さい」
言葉を発せずに立ち尽くしていると「話は終わりましたか?」みたいな雰囲気でメイドさんは会釈をしながらそう言った。呼び止めてなにか言わなきゃ、という気持ちが妙に焦燥感を煽る。
言葉を探り、搾り出そうとするんだけれど、所詮僕の足りない頭では語弊を招きかねない語学の無さで、逆に傷つけてしまいそうで、結局一言も言うことが出来ず仕舞いになってしまった。
そうしているうちにメイドさんの身体は徐々に薄くなっていった後、先程同様に忽然と消えてしまった。
アウラという、魔術移動のシャボン玉のような乗り物でメイドさんに連れてきてもらった寮棟、ロビー兼談話室の大広間には、何人かの生徒同士でリラックスしている姿があった。
大広間は吹き抜けで、天井にはやはりステンドグラスが施されている。その模様は学校の図書館で見たことがある、とある空想上の生き物に酷似していた。
伝説の火の鳥、不死鳥フェニックス。
永遠の時を生きる、神話の不死鳥はステンドグラスの中で生き生きと描かれていた。様々な種類の赤色を基調とした、幻想的としか表現できない神秘的な施しのフェニックスだ。今にも緩やかに動き出しそうな迫力のあるステンドグラスは、やはり月の光で床に映し出されていて、天井と床に目を奪われてしまう。
そして寮棟のシステムは予想通りというか、やはり常識を外れた不可解なものだった。
まず見渡しても個室らしき部屋が、全くない。吹き抜けの上を見上げてもただの空間が其処に在るだけだし、周りを見渡しても大広間が広がっているだけでそれらしい扉や部屋が見当たらないのだ。
「此処ってもしかして、うーん……いや案内図を見てみても此処が寮棟って書いてあるしな。……あれ?」
案内図をよく見てみると、大広間の奥に扉と四角いスペースがあるようで、そこに矢印で【オールドア】と表記されている事に気付く。オールドアって、そのまま和訳すると全ての扉って事だろうか?
そこで正解な気がするのでとりあえず歩き出す。案内図を片手に歩く姿がもう、新入生とアピールしているようなもので、ソファーでくつろぐローブを纏った生徒や、分厚い本を片手に立ちながら談笑している生徒の好奇の視線がまとわりついて、なんだか少し鬱陶しい。
そんな居心地の悪さを感じ、自然と俯きながら足早で例のオールドアへと向かう。
扉の前まで視線を避けるように辿り着く。古びた掛け看板にはやはり【オールドア】と書かれている。
「あ、怪しい……でもまぁ、開いてみないとなにも始まらなそう」
古めかしい扉を開くと錆び付いたような、ぎぃぃ……と、木の扉を何年も使うと鳴る独特の軋む枯れた音が、どこか耳に心地良い。
中に入ると、広さは十畳位の広さで割と狭い。部屋は思っていたよりも狭いのだが、目の前には見たことのある物が其処に在るのが当たり前かのように、堂々と鎮座していた。
「アウラ……」
ここでアウラから視線を案内図に移し、もう一度眺めてみる。僕の名前の横には96257と番号が書かれている。説明によるとこの数字が僕の出席番号らしいのだけれど、どうやら部屋の割り振り番号はこの出席番号と同じものらしい。
「なになに、一度アウラを使用するとその経験が体内で構築されて、一人でも使えるはずです。アウラに入って、出席番号を頭の中で念じて下さい。か」
どうゆう仕掛けなのか、この部屋に入った時に余白が多かった案内図に文字が浮かび上がってきた。余白が多かったのは、後で出現する文字があるからってことなのか? ならばあえて隠す意図がよくわからない。
その現われた文を読むと、先程アウラに乗ったなら後は1人でも大丈夫と書かれている。しかも頭の中で念じるだけって、本当か……?
案内図の指示通り、とりあえずアウラに入ってみる。相変わらずシャボン玉にしか見えないアウラに身体を沈めている時の感覚は、やはり勢いよく割れてしまいそうで怖い。
「出席番号、出席番号。96257……」
「96257、御巫凪様。個体情報、生態データ読み取りました」
最早聞き慣れた声が、アウラの中で静かに響く。隣に居るんじゃないかと視線を移すも、そこには姿はなく声だけが聞こえてくる。
「目を閉じて、お待ち下さい」
目を開けてどんな景色が広がっているのか、見てみたい知的好奇心が湧き上がってくるも指示通り瞼を閉じる。瞬間ニ、三秒後には聞き慣れた声が到着を促していた。
「相変わらず早いなー……今度は目を開けて見てみようかな」
そんなことを考えながらゆっくり瞼を上げる。すると既に個室、所謂自分の部屋の中に立っていた。シャボン玉にしか見えないアウラはもの凄く便利だった。もしかしたらこの世界の主な移動手段はアウラなのかもしれない。
案内図に書かれている部屋の内容を見てみると、自分の部屋の内装は自分の好みに好き勝手に模様替えしてもいいそうだ。基本的には学園内の内装のように、木を用いた暖かみのある内装。
部屋を見渡してみると、やはりヨーロッパ辺りの素朴な家を思わせる。殆どの家具が木製で、ベッドは信じられないくらいにフカフカ。それに決して綺麗な造形ではない、良く言えば歪でデザイン的なくすんだ焦げ茶色の木製本棚に、近代的なお洒落ソファー。アンバランスに見えて、絶妙に豪華で落ち着ける部屋だった。
「この部屋を自分の部屋として使うには、僕には少し勿体無い気がするな」
外国の絵本のような部屋に、嬉しさを覚えて顔がにやけていくのが自分でもわかる。
とりあえずカーディガンやジーンズのポケットに入っている私物をテーブルに置いて、ソファーでくつろぐ。ソファーの柔らかに体が心地よく沈んでゆく。
此処第ニ世界ムーンガーデンにやってくる過程や、キスハート学園に到着してからのいざこざ、いきなり始まった戦闘に新しい出会い。今日から始まった慣れない環境での生活に、自分が思っている以上に身体は悲鳴をあげていた。
ソファーに座った瞬間に押し寄せる強い疲労は、自覚した途端一気に眠気を誘い込む。
「……ダメだ、少し休もう」
払いきれない強い眠気に、沢山ある考えなきゃいけない事の全てを一旦放棄して瞼を閉じる。魂がストンと落ちる感覚の中、しばし惰眠を貪る事にした―――