第一話 温もりを探す、眠り猫
浅い眠りと目覚める狭間の、覚醒前の心地良さは中々逃れられない魅力で人の心を支配する。
思考する事などむしろ無粋なのだと感じ、そのまま何も考えられなくしてしまう。ふかふかのベッド、さらさらで暖かい毛布。心地良くて微睡んでしまうのも無理はない。これは僕にとって……いや生ける者にとって耐えがたき極上の快楽と言える。
昔から寝るのが大好きだった。好きなだけ惰眠を貪るのが、休日の特筆すべき楽しみという位に好きだ。その性格のせいで平日の朝に起きられず、学校に遅刻しそうになったことは正直数え切れない程ある。
「……これは絶対出られない、今日はもう出られる気がしない」
寝返りをうって、大事に閉じ込めておいた毛布の温もりが少し逃げてしまった。僕は無意識に暖かい方を探して身体をよじる。それこそまるで温もりを探す、眠り猫の様に。
温もりを探したその先に何か、絶妙に柔らかくて暖かいものがある。覚醒前である僕はその暖かさを無意識に求めて手繰り寄せ、本能のまま抱き枕の様に抱き締める。
「んぅ……っ」
ぷにぷにと弾力があって柔らかく、本当に程よく暖かい。手を動かすと、すべすべするその抱き心地も悪くないどころか、むしろ非常に良い。それどころか、ほのかに香ってくる匂いも非常に良い。例えるのならば、シャンプー後の女の子の髪の様な良い香りだ。
「んんっ……」
眠気がまだ名残を惜しむように纏わり付くけれど、だんだんと意識が戻ってきた。
そろそろ起きなければ、本当にまずい。今日の一時間目は魔術基礎、その次は少し時間を置いて昼過ぎから魔術回路。魔術に関する座学なので是が非でも講義を受けたい。
そうは思ってもこの人間の三大欲求とは、容易く思考を鈍らせ意思を煙に巻いていく。
今抱きしめている柔らかくて暖かいものが、さらに眠気を加速させているのに遅ばせながら気付いた。というかそもそも、僕はベッドにそういう抱き枕の類は用意してなかったと薄ら思い出す。
そしてゆっくりと瞼を上げて、ぼやけた視界の中には信じられない光景が展開されていた。
「………………えっ?」
「んんっ……凪、ちょっと……苦しいかも」
「あ、ごめん! ……あーいやいや……いや、そうじゃなくて!」
僕が何も知らずに温もりを求めてずっと抱きしめていたのは、いつもの服よりずっとラフな格好の、キャミソールに近いワンピース姿の雛子だった。抱きしめられた雛子は、少し頬を赤らめながらどこか目が潤んでいる。
慌ててその抱擁をやめる。雛子とくっついていた部分が異様に熱くて妙に火照っている様だけれど、やがてすぐ冷えていく。その雛子の温もりと優しい匂いを、なんとなく名残惜しく思ってしまうのは仕方が無い。
同じベッドの中で、雛子もまだ微睡みの余韻を残したまま僕に柔らかい視線を向けている。少し乱れた髪とワンピース姿が、雛子の幼い見た目以上に艶かしく妙に色っぽい。
いやいや……というか、どうしてこうなった? まだ思考に霞がかかっている上に、この状況。混乱してしまうのもやはり無理はないと思う。
目が覚めたら隣に女の子が居たなんて事になったら誰でも動揺し、頭が真っ白になるだろう。だから僕がこうして、硬直したまま次の行動まで思うように移せないのを誰が責められるだろうか。
女の子特有の良い香りが思考を更に鈍らせ、このまま抱きしめて眠ってしまいたい衝動に負けそうになる。
「……凪、おはよ」
「うん、おはよう。……で、雛子はなんで僕の部屋に……というかベッドに入ってるの?」
起きたばかりで喉が渇いているためか、上手く声を出す事が出来ない。砂漠化した口内でなんとか今抱いている疑問を口にしながら、上半身を起こして身体を伸ばす。縮まって強張った筋肉や関節がほぐれていき、骨の鳴るいい音が部屋に静かに響く。
「私、何度も起こしたんだよ? でも凪は全然起きないし、なんか気持ちよさそうに寝てるの見てたら私もだんだん眠くなってきちゃって……ごめんね、つい」
頬を赤らめながら見上げる仕草、その雛子の動作だけで僕も顔が熱くなり、恥ずかしさから色々どうでもよくなってくる。
「そ、そっか。……でも、よく部屋に入ってこれたね? よくシステム理解してないからよくわからないんだけれど、自室に戻るときは寮棟のアウラを使って部屋に入るよね。……自分の部屋以外を訪問したりする時は、なにか方法とかあるの?」
この学園の寮棟は第一世界、元々僕が過ごしていた世界の寮とは違って、魔術的なシステムによって管理されている。
アウラという不思議な球体を利用して瞬間移動のように、どこか別に用意された場所へと転送される。寮棟の広いロビーの奥の部屋にはそのアウラを利用する為の部屋があって、そこから学園に住む者に与えられる番号を念じる事で自室に移動できる。その詳しい仕組みはさっぱりわからない。
この不思議球体アウラを使用する絶対的な条件が、入園で月の涙を宿す事。それ以外ではメイドさんの手助けが必要となる。因みに僕の番号は96257番らしい。
僕は温もりをベッドに置き去りにして、木製のテーブルに置いてあった水差しに手を伸ばす。程よく冷えた水を備え置きのグラスに注いで一口含む。
口の中に心地良い清涼と潤いが広がり、頭も身体も徐々に目覚めていくのがわかる。
「ありますよ。えーと、アウラに入ったら自室ナンバーの代わりに訪問したい相手を心に思い浮かべます。で、相手側にその通知がきますので承認するか拒否するか選択出来ます。メイドさんにセキュリティ設定をお願いすれば部屋の迷彩化、すなわち部屋を詮索させず永遠に拒否することも出来ますけれど」
他にもメイドさんに相談すると、色々設定してくれますよ。と僕のベッドの上で眠そうに微笑みながら解説してくれた雛子。気の抜けたドヤ顔を僕に向けている。
「そうなんだ? でも、僕そういう通知見た事ないなぁ。何気に僕の部屋に初めて入ったのは、雛子なんだよね。となると、僕は無意識に通知を許可したのかな?」
「は、はい。そ、そうですそうなんです、凪は無意識に許可しました! 私は、正当な方法でお邪魔したんです。なので私は何も変な力とか使ってませんよ」
あ、目を逸らした。でもまぁ……何も無かったしとりあえずこの件はそっとしておこう。あまり問い詰めても、なんだかいじめてるみたいで可哀想だ。
「あ、雛子も飲む?」
食器棚、こちらも木製。その棚からもうひとつグラスを取り出してテーブルに置く。本当は水滴が気なる性格なので、コースターとか使いたいタイプなのだけれど、今は無い。そのうちゆっくりバニラノームで買い物してお気に入りを揃えたい。
雛子はもそもそとベッドから這いずって降り、テーブルの前にちょこんと座ると眠そうに頷いた。
「ありがとう、頂きます」
それと、この部屋の備え付けの中に色々な茶葉があり、見たことも聞いた事もないような物や、第一世界でも馴染み深い珈琲、紅茶、お茶も完備されていた。第二世界ムーンガーデンは第一世界の文化も結構取り入れられているらしい。
いや、もしかしたらその逆なのかもしれないけれど……と考え始めたら思考の迷宮に落ちてしまい、いつだったか寝られなくなったので、今日は自重する。
「水でよかった? なんなら緑茶っていう僕が居た世界の国の飲み物も冷えているけど」
「あ……聞いた事ある、本で読んだ。凪の国は第一世界の日本……だったっけ? 緑茶、私飲んでみたいかも」
淹れておいた緑茶が入ってある、硝子細工が施された綺麗な水差しを取り出して注ぐ。興味津々にその様子を見る雛子を眺めつつ、ついでに僕の空いたグラスにも緑茶を注いだ。
「どう? 口に合うかわからないけれど、僕は好きなんだこのお茶」
「……あ、美味しい。思ったよりもずっとすっきりしてて優しい味なんだね。香りも独特だし、飲んだ後に口に広がるお茶の香りと……渋みかな? ほのかな苦味も良いね。私も好きかも、緑茶」
一口ずつ、ゆっくりと味わうように飲んでくれて、美味しいと言ってくれるのは素直に嬉しい。自分の故郷の味を気に入ってもらえるなんて、こんなに嬉しいものだとは知らなかった。
僕も緑茶を飲む。懐かしい故郷の味に郷愁を感じ、目の前の雛子を見て心がほんのり暖かくなった。僕の中の相対的な感情が入り混じって、なんとなくこのまま授業には出ないで好きに過ごしていたいなと思ってしまったのは、内緒だ。
「そういえば雛子、僕になにか用事あったの? こんな風に部屋まで訪ねてくる事なんて、今まで無かったから」
「あ、そうだった忘れてた……あのね凪、お願いがあるんだけど」
そう呟きながら俯いてみたり、何か言おうと口を開くけれどなかなか声が出てこない様で、じっとお互いの視線だけが交わる時間がゆったり流れる。
両手で優しく包むように持った汗をかいたグラスも表面から、水の粒がゆっくりと滴り落ちていく。幼そうに見えて、ふとした瞬間にすごく大人っぽい仕草や表情を浮かべる雛子は僕に遠慮がちに視線を向けてこう言い放った。
「ちょっとの間だけでいいから、凪の部屋に同居させてもらっていい……かな……?」
ランプの灯りが照らす中、口の中に残る緑茶の香りと雛子の言葉に、再び強い睡魔に襲われそうになったのだった。
「つまり、その魔術に込められた意味や願いを言語、文字化した訳です。なので、その意味を理解した上でこのように魔術回路を生成してー……」
先生が解説しながら指先をほんの少し動かすと、黒板には文字や図が描かれていく。話に聞くとどうやら自動書記魔術の恩恵らしい。
窓から臨む二つの月の灯りが淡く照らし、備え付けられたランプと蝋燭の炎で暖色に染まっている教室には、生徒達が先生の説明を熱心に聴いて書き写したり、ある者は船を漕いだりしている光景が広がっている。
僕は先生が話している内容の意味を理解するのに、相当の努力と柔軟さが要ると気付いた瞬間から外の景色を眺めるのに夢中になっていた。
やる気に満ち溢れて必死に授業に食いついて、理解できると思っていた時期も僕にはありました。いや、実際まだやる気はある。覚える気も全然ある。しかし元々勉強は出来る方ではなかったし、授業中だってそれなりに集中力は途切れる普通の男子なのだ。
窓の外には相変わらず大きな月が空に浮かんでいて、その傍らにもいつもの通り大きな星が寄り添っている。空は満天の星々が散りばめられた宝石のよう。所々に雲があるが、その模様の陰影がまたなんとも言えず良い雰囲気を醸し出だしている。
緑映える木々達や淡く光る発光植物達も、朝の爽やかな風に吹かれて心地良さそうに揺れている。今この窓を開け放って走り回ったらどんなに気持ち良く、どんなに開放感を感じられるだろう。そんなことをぼんやり考えていた時だった。
「ねぇねぇ、なぎなぎ」
「んん? あぁおはようクイナ。どうしたの? ってか今日の授業も難しいねぇ」
聞き慣れた声に呼び戻されるように、視線を久しぶりに教室の中に戻す。
「魔術のしくみ回路について……か。これは新入生にはなかなか理解するのに苦労するんだよね。やっぱ非現実の内容だもん、本能的にオカルトへの理解を私達は最初拒むんだよ……。実際あたしも苦労したしね。うん、あたしはー……ね、ほら、一度授業受けてるから」
「うだー、もしかして僕も脳がオカルトを拒否する事から発生する理解に苦しむ現象が、今起こっているんじゃないかな」
「いや、なぎなぎは違うと思うなー」
とても冷静に、そして辛辣を感じさせる雰囲気で突っ込まれた。眩しい程の笑顔なのが、この場合逆に辛い。
「ですよね、そうですよねすみません。……わからない所あったら、ご教授願います」
「うんっ! そうだよ、私に任せてよなぎなぎ」
隣に座る、その八重歯がちらりと覗く微笑みは誰が見ても印象良い、そんな可愛い笑顔の女の子。
キスハート学園指定の制服である臙脂色を基調にしたブレザーはクイナに良く似合っていて、実はクイナの為に作られたんじゃないかと思う程似合っている。
シャツやブレザーを窮屈そうに押し上げる胸の膨らみは、まだ少し幼さが残る顔付きにも関わらず重量感が凄い。
そして視線を下に移すといつもの焦げ茶のローファ。それに紺色のソックスと淵にひらひらのフリルが付いたスカートのバランスが絶妙で、すらっと伸びる細めの生足が妙に艶めかしく目のやり場に困ってしまう。
瞳の色は薄く透明感のある黄金色。可愛らしい中にも日本にはない外国独特の、高貴な雰囲気を纏っている。髪型は明るいブラウンで、横に流すように結われたふわふわと揺れる髪は肩より少し長い位。文句無しの美少女が、僕の隣で楽しそうに微笑んでいる。
しかし、前と違うところもある。
手の平や頬には、まだ少し火傷の跡が残っている。足の一部には包帯がまだ巻かれていたし、所々に治療中の痕がある。そしてきっと、腹部もまだ完治していないだと思う。
その事を思うと胸が痛むけれど、前にクイナから「あんまり気にしすぎると怒るよ」と言われたこともあり、顔には出さないようにしている。
それに火傷の跡ならば、僕も実はまだ完全には治りきってはいない。魔術の文明が栄えているからといって、一瞬で怪我を治したりはしないようなのだ。
勿論そういう魔術は存在するけれど、その魔術に使う魔力や生命力は一応有限なのだそうだ。なので極力は薬や様々な両方で治療するとの事。至極ごもっともである。
魔術を扱うには、術者本人に流れる生命力を魔力に変換する方法もある。勿論例外もあるけれど、高位魔術を扱う事は即ち諸刃なのである。
因みにクイナも僕も、学園に帰ってきてすぐに治癒系魔術で一命を取り留めている。その奇跡の力の恩恵に与っているのだ。
「ところでさ、話変わるんだけど、あたしあの日から治療を進めてリハビリとかしたりしてるでしょ? それで魔力の異常値測定検査っていうのをこの間やったんだけど」
「ちょっとまって、その……異常値測定って不穏な言葉は何?」
「えっとね……あたしはほら、この間のやつで色々あったでしょ? その時に膨大な魔力があたしの中に流れ込んできて飽和しちゃったって事らしくて。身体の傷や精神面も治療してもらって回復したけれど、なによりダメージを受けてたのはその私の魔力関係なんだって」
異常測定値はやっぱ正常じゃなくってさー、と明るく振舞うクイナ。しかしどこか陰りを感じるその表情に少し心配になる。
イヴの意志アルヘオが、クイナに同期して操った件。そういえばあの時イヴの意志アルヘオも言っていた「この娘が、私の力にここまで耐えられるとは、逸材だ。もう少し解放しても壊れないだろう」的な台詞はつまりそういう事だったのだろう。
クイナの魔力許容量ギリギリまでイヴの意志アルヘオの魔力が流れ込み、果てはその許容量を飽和して暴発し、暴走してしまった。
「そうだったんだ……具合は大丈夫? その魔力の異常測定値の件はどうなったの?」
「あたしの元々の魔力許容値よりずっと大幅に最大値が増えてたみたい。イヴの意志アルヘオの凄まじい魔力に、あたしの潜在的許容度が刺激された。みたいなこと、言ってた」
「それって、もしかして逆に良い方向に作用したって事?」
「そう、かな。まぁ結果だけ見ればね? その副作用みたいな症状も結構酷いし、良い事ばかりじゃないみたいだしね……でも、具合はだいぶ良いから。だからあんまり心配しないでね?」
いつも通りの、ちらりと八重歯が覘く優しくてふんわりとした笑顔。あの時の混沌に満ちた表情や口調は今はもう欠片もない。
いや、例え荒々しい部分をただ隠しているだけだとしても、もう僕らは大丈夫。あんなに激しくぶつかった後の再開で、少しばかりの恥ずかしさと信頼感を強く感じたから。どんなクイナもクイナなのだ。
クイナが僕をあの時の様にまた拒んだとしても、彼女が本当に辛い時は力になれたらいいなと、今改めて想った。
「んー……うん、わかった。クイナの体調が大丈夫なら良かったよ」
「なぎなぎはあたしの事心配してくれてあたしは嬉しいんだけど、正直あたしはなぎなぎのが心配だよ」
僕の顔を覗き込むような仕草は、やはり可愛い。心配そうにしている表情も、月灯りやランプに照らされてかなり大人っぽい印象。
「イヴの意志アルヘオの精神と同期していたなんて、そんなのって只の言い訳。あたしはなぎなぎにいくら謝っても足りないくらい酷い事言ったし、傷付けた。なぎなぎの負った沢山の傷だって……本当はまだ全然癒えてないんでしょ?」
「僕の方こそ大丈夫だよ、気にしすぎだって。もう殆ど癒えてると言っていいくらい回復しているよ? だからこうして日常生活も普通に不自由なく送ってるしね。でも……クイナの本心とか、辛さもわかってあの時は逆に良かったよ。今はそう思える」
「…………ほんと、優しいよね……なぎなぎは」
どこか柔らかい中にも、あの時感じた偽りの無いクイナの眼差しが数秒突き抜ける。色々な思いがあるのか、上手く感情の読み取れない目をしているけれど、見つめていると暖かい気持ちになった。うっすら潤んでて優しい瞳だ。
最後の言葉は小さな声でよく聞こえなかったけれど、思いの他クイナが満足そうな表情なので良しとする事にした。
とても穏やかで、ゆっくりした時間だ。これで、珈琲やお茶があればいう事ないんだけれどなぁ……と思ったその瞬間、ぞくっと背中に何か冷たいものが走った。
「御巫君、それにクイナさん……五月蝿いですよ」
魔術回路の担当教師が僕に辟易した様子でこちらに視線を向けている。
「あ、いや、あのー……すみません先生」
素直に謝罪する。こう何度も続くとなると流石にそのうち先生に呼び出されて、怒られるか補習する羽目になりそうで怖い。それはなんとなく嫌だ。
「わーいなぎなぎ怒られてやんの」
「いやクイナもでしょ、というか今回はむしろクイナでしょ」
「どちらもですよっ!!」
古風な上に、一体何処から取り出したのかわからないけれど、先生はチョークを僕とクイナの額目掛けて投げた。勿論避ける暇も、先生の投擲を見切る技術も無かった僕たちは額に鈍痛を感じながら授業を受けたのだった。




