第十三話 月の果実と再会
「あーそうそう。代金にゃんだけどにゃ、今日は特別にいいにゃ。次また店にきた時にでもまとめて払えばいいにゃん」
月の祝福亭でエルとの話し合いを終えて、いよいよ荒波に首を突っ込もうとしたその時だった。カウンター越しに現われた店主は、ひょっこりと小動物さながらの登場だ。
「いやいや、そんな流石に悪いです。ちゃんと払います。なんだかツケというか、こういうやり残してる感を作ったまま出かけるのはちょっと」
「御巫、ここは店主の恩義に乗っかろう。これかなり珍しい事だし祝福があるかもしれないよ。素敵なご利益だと思えばいいじゃん」
月の祝福亭というありがたい名前の店名だし、そう言われるとなんだか確かに加護がありそうな気がしてくる。
そして猫の耳をぴょこぴょこ動かしながら、エプロンの前ポケットに両手を突っ込みながら店主が厨房から出てきた。
「君達みたいな若くて勢いのあるお馬鹿さんは、結構好きだにゃん。仕方ないから、私がこの店で君達の土産話を待っててやるにゃん」
柔らかい微笑みで目尻を下げる店主からは、なんともいえない暖かさと優しさに溢れていた。幼い女の子のような見た目に反して、おばあちゃんのような落ち着く雰囲気まで醸し出せるなんて、この店主の底が全く見えない。
そして、遠まわしにちゃんと生きて帰って来い、と。そう意味を持たせている事に気付いた瞬間、少し視界がぼやけたのは、きっと涙ぐんでしまったのだと思う。
「あの……今更かもしれませんが、エルのラボラトリーで助手をさせてもらってます御巫凪と申します。この間この世界に来たばかりです。よかったら店主さんの名前、聞いてもいいですか?」
「うんうん、知ってるにゃん。でも挨拶してくれたのは殊勝にゃ。最近の若いのときたら……」
ふと思う。この腕組みをして人差し指を立てながらぶつぶつ言っている店主は、一体何歳なのだろう。見た目だけは本当に、小学生みたいなんだけれど。
「私の名前はラピス・ルーナフルーツって名前にゃ。君は感じが良いから、好きに呼んでもいいにゃん」
「わ、本当ですかっ! 有り難う御座います。ではまた月の祝福亭に来ますね、ラピスさん」
「えぇっ、うちの助手になんか優しすぎないか店主。俺の時はそうじゃなかったよねー……」
エルが最初に月の祝福亭に来た時はどうもこんな感じじゃなかったらしく、笑いながら背中を叩くラピス店主の傍らで、ほんのり悲しそうにするエルがなんだか可愛くて面白かった。
そんなやり取りをしながら、僕の中の意思がどんどん強くなり固まっていく。
そして店主に向かって会釈をすると、暖かい気持ちを胸に月の祝福亭を出たのだった―――
等間隔のランプが灯す長い廊下に響く二つの足音。
そっと窓に視線を送ると、最初の授業である基礎魔術訓練を行なった、あの広い中庭がある。
中庭は、相変わらず規格外に広く、最果てが見えない。
街灯に照らされた緑鮮やかな芝生、所々に植えられている木々の緑。異常なほど大きな月とその隣に浮かぶ大きな星の淡い紫と薄い青色が、中庭を幻想的に照らし彩っている。
窓越しに空を仰げば、零れ落ちそうな程散りばめられた星々が満天に広がっていた。
「それにしてもエル、月の祝福亭のラピスさんはすごく暖かい人だね」
「そうだな。もしかしたらあれ程の人格者は他に居ないんじゃないか? 少なくとも俺はこの世界ならあの人以外に知らないな」
エルも、手放しでそんなに褒める事ってあるんだなぁと少し以外に思った。でも、僕も感じたように、あの店主はなにか只者じゃない感じがして、絶対に敵に回したくないタイプの人だ。
さらに、あの猫耳が非常に似合ってて可愛すぎるから、ラピスさんに会う事がむしろ月の祝福亭に行く一つの大きな理由になってしまいそうで、少し財布の中身が心配になる。
「それにしてもエル、今は雛子の辿った痕跡を調べながら追いかけてるんだよね?」
「まぁそんな感じ。さっきの鍵で見せた通りに、雛ちゃんの辿ったルートを歩いている。その上で、この後何処に行くのか大体予想してるんだが」
少し考えるように、顎に手をやって俯く。しかし歩くスピードは変わらなくて、エルはもしかしたら普段からこうして考え事しながら普通に歩く習慣があるのかもしれない。
そして突然、どこかでまた学園を揺らすほどの衝撃が起こった。
僕達は思わず立ち止まり、倒れないように踏ん張る。そこまで強い揺れではないにしろ、やはりその衝撃が雛子に向けられているとなると、心配で胸が張り裂けそうになる。
「ねぇエル、この衝撃ってやっぱり……」
「ちっ……御巫急ごう。ちょっともう悠長にしていられない魔力と、匂いだったな今のは」
走り出したエルの白衣が、風に煽られてばさっと舞う。その背中を追うように僕も走り出す。膝関節がもう既に言う事を聞かなくなってきていて、一発拳でガクガクの膝に気合を入れる。
頼む、頼むから。そう心の中で繰り返しながら、ふと違和感に気付く。その違和感に一旦気付いてしまうと、紙に滲んだ水のように毛細管現象の如くどんどん広がっていく。
「ねぇ、ちょっと……ねぇ待ってエル」
「なんだ、今色々と考えてんだから雑談だったら後にしてくれ」
「違う、違うよ。……なんかおかしくない?」
少し走るスピードを緩め、そして立ち止まったエルは呼吸を整えながら僕に困惑の視線を送っている。
「おかしいって、一体何が? ……いや、御巫。お前一体何に気付いたんだ?」
「エル、おかしいと思わなかった? 僕達が会ってから、いや僕は教室を出てからかな。最初は先生とかが上手く生徒とか守ってくれて、部屋で待機しているんだと思っていたんだけれど」
少し言葉に詰まってしまった。必死に頭の中で、僕が感じる違和感の説明を考える。感覚から言葉に変換しようとしても、中々上手く出来ない自分に苛立つも、エルは決して急かしたりせず待ってくれていた。
僕も呼吸を整えるために数回深呼吸をして、脳に酸素を送り込む。
「えっと、なんでこんなに静かなのかなって。廊下には誰もいないし……こんなに堂々と僕達は動いているのに、先生は誰一人として止めにこない。生徒の姿は一人も見かけない。これって、なんかおかしくない?」
ぽかん、と口を開けて数秒固まるエル。喉からは声とも言えない空気が漏れて、静かな空間だからか荒めの呼吸音がやけに耳に残る。
やがてエルは唇を湿らして口を開いた。
「なんてことだ、ここは既に術中だったってのか……これは、人払いの類。それに、その事に気付かないし、気になることも出来ない。そんな魔術だ」
壁に背を預けて白衣のポケットに両手を突っ込む。視線は床に注がれており、額には冷や汗が滲んでいた。
「ってことは、そうか。別に罠に嵌まっている訳じゃないが、術者はこれすらも計画通りに進めていると言う訳だ。くそっ、人払いは初めてじゃないが、毎回どうしてこんな事に気付けなかったのかと些か疑問で、そして不甲斐なくてしかたない。……でも、でもなんで御巫は異変に気付けたんだ? これは、そういうのも出来なくする類の魔術だったはずだ」
白衣のポケットから煙草を取り出すと、火も付けずに咥える。そうして少し悩むように壁際にのっかかって僕の方と、辺りをゆっくり調べるように見ている。
「僕は、その……そういう難しい事はよく解らないんだけれど、でも気付いちゃったってのは、あんまりよくない事だった?」
「いや、そんなことはない。むしろこの状況をより深く知ることが出来た。よし、先回りしよう、御巫。人払いに気付けたらこっちのもんだ。今までは感じれなかった禍々しい強い魔力が、向こうに展開されている。その場所に雛ちゃんは必ず来る」
咥えた煙草に火を付けないまま、エルは走り出す。それに倣って僕も走るものの、エルが一人で納得しちゃった形で話が終わったから、いまいち状況が掴めないでいた。
でも、エルが言うこの先の禍々しい魔力が展開されている場所に行けば、雛子に逢えるんだと思えば、いくらでも走れる気がした。
ただ、もう一つ気がかりなのは、クイナだ。
あの時、突如として教室からいなくなってしまったクイナの姿を、僕はさっきから探しているんだけれど、一向に見つからなかった。
せめて、この事件に巻き込まれていないことを願って止まない。またあの眩しい程の笑顔で、無邪気なあのクイナと早く話したい。
無事でいてくれ、と祈っているとまた奥で何かが爆発したような音と衝撃がくる。僕の不安をこれでもかという位駆り立ていく。
「御巫、ここだっ」
若干息を切らしながら到着したのは、なんと大聖堂だった。進路からもしや、と思っていたのだけれど、行き着いた先はこの間入園式をしたばっかりの大聖堂だったのだ。
重厚な扉を開け、中に入る。途端生ぬるくて気持ち悪い風が中から吹いて、頬を撫でていく。反射的に、身体を強張らせたのはこの先に危険が潜んでいる予感がしたからだ。
大聖堂の中は酷く静かである。誰も居ないし、物音一つしない。ただランプの灯りが揺れていて、中央の巨大で豪華な飾りつけの器がぼんやり光っているくらいだった。
しかし、僕でも感じることが出来る異常な程の魔力。こんな禍々しい魔力を僕は今だかつて感じたことがない。明らかに悪意のある、それでもって人を傷つけることに容赦のないような、そんな匂いがする。
自然と僕の足は震えだし、少しでも気を緩めようならこの魔力に当てられて気を失いそうになる。
僕が生半可に魔術について知っていて、少しでもこの魔力と魔術陣の意味を知っていたのなら、もしかしたらこの場にいるだけで、相当の恐怖に全身粟立っていたのかもしれない。
理解出来ないからこそ、こうやって立って意識を保っていられる。その事に気付いた時に自分の無知に初めて感謝した。
「これは、大規模で仰々しい魔力の大渦だな。この中に居るのは流石に寒気というか、悪寒がしてくる。一体この魔力をこんなに渦巻かせて、何に使うつもりだ? ま、ろくな魔術じゃないわな。禁忌魔術か、その類か」
エル曰く禁忌とされた魔術ってのがいくつもあり、あまりに危険だったり不可解で解明されていない不安定な魔術は禁忌とされ、意図せずとも使ったり、その魔術が載っている本を読んだだけでも厳しく罰せられるそうだ。
「エル、ちょっと待って何か音が聞こえる。……もしかして、雛子が来たのかもしれない」
入り口の扉を見つめる。僕達が入ってきたまま、扉は開きっぱなしにしてある。これは、魔術学的にも効果があるらしく、密室を崩すのもこの部屋に渦巻く魔力やその術式に影響があるそうだ。
小さな音。不規則に鳴る靴音が少しずつ近づいてくる。そして、とうとう大聖堂に入り口にその音の主が姿を現した。
現われたのは、僕のよく見知った顔だった。
「ク、クイナ!」
必死に走り回っていたのか、顔には汗が流れ、前髪も汗でびっしょりと濡れていた。
一体、クイナに何があった? 何故あのとき突然教室からいなくなり、今は何かから逃げるように大聖堂に入ってきたのか。沢山の何故が頭に浮かんだけれど、今はクイナの安全を確保するのが先決だ。
そう思って、クイナの元へ走ろうとした瞬間。勢いよく立ち止まったクイナの表情が険しく、僕を制止するように両の手の平を向けた。
「なぎなぎっ、だめ……ごめんね。でも、きちゃだめっ」
「なにを言ってるんだよクイナ、早くこっちへ! ここから逃げよう」
クイナは下唇を噛み締めたまま一歩も動かない。そのクイナの変な様子に、僕もなんだか動けなくなってしまった。
意を決してクイナの元へ足を踏み出したところで、もう一つの足音が聞こえてきた。それは不規則なリズムで、無理して走った後の僕のような乱れた歩みだった。
開いた扉から、廊下にいる誰かの影が見える。
そして、先程と同様、僕のよく知る女の子がそこに立っていた。疲弊しきっているのか呼吸が乱れてて、すごく苦しそうに身体を揺らす女の子。
ふわりと空気を含んで柔らかく、ゆるくパーマがかかっている白に近い金の髪は汗で湿っている。
黒と白藍色のオッドアイ、見つめていればその瞳の中に吸い込まれるような錯覚を覚えるほどに神秘的なその瞳は、疲労のせいか開ききっていない。
落ち着いた色の、アイボリーを基調としたどこかの民族系衣装のような、幾重にも重ね着された服も所々汚れており、焦げてしまっているところもある。
そう、ずっと探していた雛子がそこにいた。疲弊しきった顔で、それでも僕やエルの姿を見つければ静かに微笑んでくれる優しい女の子。
微笑んでくれたのも束の間、今度は表情を曇らせる。まるで、なぜ貴方達がここにいるのと言うように。こんなところ、見られたくなかったと言わんばかりに。
「雛子っ!」
「凪、凪はきっと知ってしまった。だから此処にいるんだね。私が今追われている理由や、もしかしたら……私の過去も」
そう呟くように言うと、雛子は悲しそうに目を伏せる。
「雛子、話したいことは一杯あるけれど、今は此処から離れよう!」
「おい御巫、やばいぞ。魔力の渦が加速した。……もう直に発動する。急げ、早く雛ちゃんとその友達連れて逃げるんだ」
エルが急に声を荒げる。そして僕にも目に視える位大きな魔力の動きが起こった。空中には巨大な陣が現われ、見たことの無い記号や文字が浮かび上がる。そしてそれに倣う様に辺りには似たような魔術陣が現われた。
この大聖堂に渦巻いてた禍々しい魔力が、ここまではっきりと可視できるまで変化した。それは、つまり。
耐え難い力が体に降りかかる。重くて、痛くて、寒い。気付いた時にはもう遅く、僕の体は石のように少しも動かなくなってしまっていた。
視線の横では、エルも硬直していた。どうやら僕だけでなく、エルも動けなくなってしまったようで、悔やむ声が微かに聞こえる。
「なぎなぎっ!」
悲痛なクイナの声。空中に浮かびあがった記号や文字の羅列や、陣を見ていた僕も、反射的にクイナへと視線を向ける。
そこには、数秒前とは全く違う状況が出来上がっていた。数秒前。言い換えるなら、魔術陣が現われる前。
僕の名前を呼んだクイナ。そのクイナが何故か雛子に掴まれていて、両の手首をがっしりと掴まれたクイナは、その拘束から手を引き抜こうとしているのだけれど、一向に引き抜ける気配がない。
「雛ちゃん……駄目だ、やめるんだ!」
静かに小さく首を振った後、雛子の視線が僕に向けられる。酷く疲れきった表情で、なにか言いたげに微笑していた。そして聞こえない声量で雛子が何か呟くと、大聖堂が大きく揺れる。
「雛子っ……クイナ!」
空中に浮かぶ記号の羅列と文字が変色し、鈍い光りを放つと、やがて大聖堂を眩い光が支配する。光はどこか灰色っぽくて、目を瞑っていてもわかる程に強い閃光。
動けない体にビリビリと発動した魔力の波動が、容赦なく襲い掛かる。冷たくてどろっとした様な物が全身を這うように感じて、酷く気持ち悪くて痛い。
膨大な魔力の発動。目も開けられない灰色の閃光。それも段々収まっていく。
瞼の裏で感じる光の明暗。落ち着いたと見計らって重い瞼を開けてみると、眼球が光によって見事に焼けていて周りがよく見えない。緑っぽく変色して、歪んだ世界。太陽を直視した後の様な症状によく似ていた。
少しずつ視界が元に戻っていく。瞬きの度に変わる色合いはまるでコマ送りの写真のようで、大聖堂の光景がとても絵になって息を飲んでしまう。
そこには、僕にとって絵にするには何かが足りない光景となってしまっていた。
雛子と、クイナの姿が消えてしまっていた。そこに居た筈の二人は、何も残さず完全に消失してしまっていた。
そして情けないことに、今頃になって僕の体は自由に動かせるようになっていたのだ。
「そん、な……くそ、僕がもっと早く判断して、ちゃんと動いてさえいれば!」
「いや御巫、そんなに思いつめなくってもいい。あの禍々しい魔力の中、俺らの行動を強制的に止める魔術を重ねがけしていたんだ。仕方ないといえば仕方ない」
エルも動けるようになった自分の手を開いたり閉じたりして、感触を確かめている。エルでさえも、動けなくしてしまう程の魔術を、僕が解いて自由に動けたはずもない。
そう思うと慰められた気持ちにはなったが、なんだか虚しく情けない思いが心に滲んでくる。
「消えちゃった……どうしよう、雛子もクイナもいなくなっちゃったよ……」
目の当たりにした、消失事件の現場。実際に消えてしまった光景は、眩しくて見えなかったけれど、どうしようもない喪失感が僕を支配し始める。
クイナの声が頭に響く。雛子の微笑と、消えてしまう直前の微かな唇の動きが頭に浮かぶ。
その記憶の中で、どうしてもエルに聞かなければならないことがあった。きっと、その記憶から目を背けたら駄目な事だ。
「エル。さっき、魔術陣が現われてから、雛子さ。……雛子はクイナに掴みかかってた、よね」
「そうか、クイナって名前なのか、あの御巫の友達っていう女の子は」
白衣のポケットから煙草を取り出して、ゆっくりした動作で咥える。少し考えるように雛子とクイナがいた所を見つめながら、エルは目を細めた。
「そうだな、雛ちゃん掴みかかってたな。それに、御巫に何か言いたげだった気もする」
「でも、僕は雛子が何を伝えたかったのか、解らなくてさ……なんか歯痒い」
微かに動いた、雛子の唇の動きがまた脳内で再生される。本当に微妙に見えただけなので、何を言っていたのかはやはり、解らなかった。
「それに、消えてしまった二人は何処に行ったのか、どうなってしまったのか……僕はこれからどう行動したらいいのか、わからない事が何より苦しいんだ」
「ああ、御巫。でもな、いい知らせなんだか悪い知らせなんだか、わかんないけどな? この後どう動くかはもう決まっている」
いつの間にか、エルの手には細くて小さな硝子管があった。その中の液体を指に付けて擦ると、エルの指先にはランプの様に小さくて綺麗な火が現われた。
その火で、咥えた煙草に火を点ける。紫煙が漂う中、魔術を使った際に感じる匂いとはまた別の、独特で優しい匂いをほのかに感じた。
「ほ、本当? 僕は、僕達はこれからどう動けばいいの?」
「無論、追いかける。術者には生憎だが、俺も用意無しって訳じゃないからなぁ。具体的には、雛ちゃんと御巫の友達のクイナちゃんが消えたであろう、その先に俺達も行く」
深く煙草を吸い込むと、ゆっくり吐き出す。変則的に漂う紫煙は、どこかエルの迷いを映し出しているような気がした。実際少しそんな表情をしている。
「ただ、さっき言った悪い知らせかもしんないってやつなんだけどな。……まぁ今更かもだし、薄々感づいているかもしれないけど、この先に行けばなんらかの真相に辿り着くことになるんだと思う。って事は、御巫が精神的にも、肉体的にも、酷く傷付く可能性が非常に高い。深くて不快な情報や、辛酸を舐めるような選択もあると思う」
「そう、なんだよね。なんとなくだけど、雛子とクイナが消えた先に行くって聞いた時に、五感じゃないどっかでなにか感じたよ。そこには語られるべきではない真実があって、それに僕は酷く悩んで傷付くんだろうなって」
その先になにがあって、誰がどうなっているのか。僕はそこに行くとどうなってしまうのか。しかし、その先に雛子やクイナが居るのなら、僕の感じる恐怖や迷いなど、そんなものは蹴り飛ばす。
「ん、さすがに覚悟を決めた男の顔は違うなぁ」
「そんなんじゃないよ。ただ、変わりたいなぁって。多分、この世界に来るまでの僕なら、今頃この件からあっさり手を引いてる。安全でぬるい場所から出ようとせず、傍観を決め込むんだと思う。やっぱり傷付きたくないし、どこも痛くないだろうからね。でも……それじゃなんか嫌だなって」
雛子やクイナ。ムーンガーデンで知り合った大切な友人。気の良い友人。日は浅いけれど、本当に大切な人達だ。
その大切な雛子とクイナが、今なにかに巻き込まれているのなら。僕の小さな力じゃあ何も変わらないとしても、何とかしたい。今の僕はそう思えるし、そうしたい。
「いいか、この先にはこの学園を包む保護魔術アムレートが効いていないだろう。学園内で強力な魔術を使っても補正されて、大きな怪我や効果がなくなるのは知ってたよな?」
「うん、授業でアゲート先生が放った凄まじい炎の柱は、実際にあの魔術を使っていたら大火事だし、生徒みんな熱風で火傷してたと思う」
「そうそう、それ。それは要するに学園を包むアムレートって魔術のおかげなんだよ。だから学園内で魔術を使っても大事には基本的にはならない。今回は、うまく魔術回路の隙を狙ったのかもしんないけど、まぁ素人の技ではないな」
赤々と燃える煙草の先端から灰が落ちる。大聖堂なのに、煙草吸ったりして大丈夫なのかなと今更ながら思ったけれど、この際気にしない事にする。事態が事態なので、事が落ち着いたら綺麗にしよう。
「つまり、だ。この先にいけば、その補正が効かない。一切保護されない。魔術や効果、打撃がダイレクト肉体や精神に伝わる。一つ一つが、死に繋がる本当の戦闘になると思う」
覚悟したとはいえ、改めて聞くと恐怖以外の何者でもない。だって僕はただの人間なのだから。異能もろくに使えないただの人間。
思わず言葉に詰まっていると、エルはそのまま話を続けた。
「御巫、お前は第一世界で生活していて、命のやり取りと言える程の争いをしたことがあるか? いや、ないだろう。戦争時ならまだしも、御巫の過ごしたであろう時代では中々起こり得ない。純粋に、生き残ったものが勝ちという世界の話だ。それは小競り合いや喧嘩という次元ではない。生きる為に、自分の事情や主張を貫き通して暴力を行使する。相手の事情は露知らず自分は正義、相手は敵」
なにか御伽噺でも話してくれているような感覚。こんな時なのにゆっくりと、落ち着いた声音でエルは語っている。
エルの言う通り、僕はそんな命のやり取りなんて言われる程の喧嘩などしたことがない。いや、むしろそれはもう喧嘩ではなく殺し合いなのだ。そんな出来事、起こりっこない。
「正義の定義なんて、もう崩壊しちゃってるねそれじゃ。正義は勝つ。勝った方が正義。横暴で乱暴で独裁的だよ。正義の逆にいる立場の人だって、正義を掲げているのに」
「しかしどの世界でも、暴力は存在し、その目的が正義なのか、悪なのか。それはどの視点での話でも暴力が全て支配する。話がずれてしまってるが、つまりはさ、こっから先はそういう可能性もあるって事。そして」
吸いきった煙草から一段と濃い煙が漂う。エルの吐いた紫煙が、浮かぶだけで漂っていた煙に空気の流れを与え巻き込んでいく。
「その中で、絶対生き残らなきゃならないってこと」
白衣のポケットに手を突っ込んで、溜息混じりに頭を垂れると吸い終わった煙草を握りつぶした。数秒後び開いた手には、跡形も無くなった煙草。ほのかに香ってくる煙と焦げた匂い。
「あたりまえだよ、エル。僕達まだ月の祝福亭に、代金払ってないし」
「はは、違いないな」
激しく渦巻いていた魔力の名残が、大聖堂を不気味に満たす。名残といえども、油断しただけで気を失ってしまう位の瘴気だ。
その対照的に僕達は、なんでもないかのように笑い合う光景はきっと、それなりの魔術士や異能士からみたら気が狂ったのかと思われるかもしれない。
それでも、この荒々しい魔力の瘴気の先に雛子とクイナが居ると思えば、自然と足は軽くなる。
「じゃあ、早速迎えに行くとしますか」
僕とエルはお互いの拳を一度ぶつけると、雛子とクイナが消えてしまった場所、一番禍々しい名残が残る所へと足を向けたのだった。