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第十一話 精霊学とシルフの風

 朝の六時半。重い瞼を開けると、相変わらず月が窓から差し込む朝だった。

 ふかふかのベッドに名残惜しさを感じるものの、寝惚けた頭をすっきりさせるべく冷蔵庫に入れてある瓶の水を取りに行く。

 瓶の水はよく冷えており、非常に美味しい。乾ききった喉に染み渡るように潤っていく。

 まだ若干眠気の残る中、今日の授業の準備をゆっくりと始める。とはいっても今日は本を持っていくだけなので準備はすぐ終わった。

 ふと左手首に巻いている、ラボラトリーの鍵に視線を落とす。  

 僕がエルのラボラトリーの助手として白衣と鍵を貰った日から、もう数日が経った。ぼんやりあの日の事を考えると、あの沢山の出来事に今も胸を躍らせてしまう。

 あの日、エルのラボラトリーの扉を使って無事学園に到着した僕と雛子は、見回りの先生に見つからないようにお互いの自室へと直行した。

 途中で、雛子と月の祝福亭に行こうと思ったのだけれど、雛子は用事があるということで学園に到着して直ぐに、僕達は別れの挨拶を簡単に済ませた。

 そこそこお腹が空いていたのだけれど、いや本当は結構空いていたんだけれど、まぁ仕方ないので月の祝福亭を諦めた。

 僕は一人で店のご飯を食べる事には結構躊躇のない方なのだけれど、まだ慣れてない場所と環境だと話は別なのだ。

 今度学園内を探索して、購買を探そう。自分の部屋になにか食べる物とか用意しておいたほうが、今後こうして遅くなったときに良さそうだ。

 自室にはキッチンも一応あるので出来れば自炊したいところだけれど、食材が無いのでなんともできない。学園内にはそういう自炊する人の為の店はあるだろうか。

 あとはまたバニラムーンに行って、ゆっくり雑貨や服、そしてやはり食べ物も見てみたい。黒猫堂と、薬屋に向かう途中で気になる店が随分とあったので今度は巡りたい。あの軒先で大量に積み上げられていた沢山の果物も是非食べてみたい。

 そんなことを思いながら寮棟のアウラを使って、なんとか無事に自分の部屋に戻る。時間は十時半を過ぎている。少しゆっくりしすぎたかなぁと思いながら、制服を上着から脱ぎ始める。

 羽織っていた白衣は、ラボラトリーの壁に備え付けられたハンガーに掛けてきた。やはり白衣を脱ぐ時も、憧れの衣服を着ていた為か胸の高鳴りを強く感じた。やはり白衣は良い。

「んんー、なんかどっと疲れたなー。今日一日ずっと頭使ったせいで熱が出そうだ」

 箪笥の中でふわふわと浮かんでいた甚平にさっと着替え、そのままふかふかのベッドに飛び込むようにして倒れ込む。

 少し遠のいていく意識が、喩えようも無く心地いい。抗いたくない気持ちのいい眠気が、そっと身体を支配していく。   

 今日は初めてキスハート学園を出て、外に出て。目の前に広がる幻想的で壮大な景色に感動して、足が竦んで。

 今にも零れ落ちそうな星空と、緑溢れる大自然。

 沢山のランプに照らされたバニラノーム。沢山の人で溢れた街は、橙色の灯りの中で一瞬のひとときを大切にしていた。あの街を歩いているだけで、まるで物語のキャストにでもなったような気分になった。

 今日の出来事をゆっくり思い出していると、だんだん瞼が重くなって開かなくなってしまった。

 黒猫堂に行き、あの周りの建物から酷く浮く程に独特で異彩を放つ外観と、散らかっているのに何故か心休まる優しい雰囲気の店内。可愛い黒猫。硝子瓶に詰まった液体や乾燥した植物が詰められた小瓶等の、様々な物で溢れた店内を思い浮かべたところで、僕の意識はとうとう途切れてしまったのだった。






「えー、じゃあいい? この世界で扱われる魔術の類には、様々な精霊の加護の影響もあるのだという説もあるのを、今日は忘れないでちゃんと覚えていってほしいの。この世界が出来た時から存在していたのか、または後から創り出されたのかは定かではないのだけどね? 確認した事例は少ないのだけど、その精霊の力が、私達の魔術や異能に深く関わっているのではないかって研究した学問が、この精霊学なの」

 現在朝の十時頃。エルのラボラトリーで白衣を貰ってから数日が経った今日は、初めて受ける授業精霊学の日だ。

 教卓に立っている女教師の名前は、ロイ・スケープトス先生。端整な顔立ちで、ほんの少しだけ鋭い目をしている女性で、さらさらの髪は後ろでしっかり結ってあって、長さは大体肩に掛かる程。

 少し荒めな質感の黒いローブを着こなす美人教師だ。

 そして今精霊学の授業を受けているこの教室は、この間説明会があった部屋と同じだ。今回も座る席は指定ではない為、それぞれ好きな所を選んでもいいシステムらしい。

 運が良かったのか、窓際の一番後ろから一つ前の席を確保できた僕は、予め配布されていた分厚い教科書をぼんやり眺めながら、ロイ先生の声に耳を傾けていた。

 まだ微妙に眠気が取れないのも影響してか、少し字がぼやけて見える。自室からメガネを持ってくれば良かったと軽く後悔しつつも、精霊学というとても興味深い授業内容に胸は弾んでいるので、多少の事は気にしない事にした。

「ねぇねぇなぎなぎ、もし本当に精霊さんがいたのならさ、やっぱり小さくて可愛らしいのかな? 私、絶対逢ってみたい」

 そして僕の右隣には、説明会の時と同様クイナが座っている。キスハート学園の制服に身を包むその愛らしい姿は、何度見ても僕の心を癒してくれる。

 薄く透明感のある黄金色の瞳は、相変わらず高貴な雰囲気を纏っている。精霊に興味があるのか、嬉々としてその瞳は爛々と教科書へと向いていた。

 その一方、水無月は一番前の、ロイ先生の目の前の席に座っている。真面目に授業を受けているようで、先生の話を興味深そうに頷きながら聞いている。

 そんな水無月の服装は今日も巫女服。水無月の周りだけ、神聖というか、厳かな雰囲気に包まれているように感じる。気軽に話しかけるのも少し物怖じしてしまいそうな空気。

「小さくて可愛い精霊か、もし居るのなら僕も逢いたいな。……でもすごいよ、教科書にもほら、ちゃんと書いてる。この世界では精霊の存在がこうして明らかになってるなんて」

 教科書に書かれている文字を、人差し指で追いながら読んでいく。

 精霊とは、人類が古代から普遍的に持つ観念として、生命、神々、霊や魂などを表す。森羅万象に命が宿った、幾つかの具現化された中の一つが精霊であると考えられてきた。

 錬金術師パラケルススによって定義された、地・水・火・風の四大元素が実体化したものとして、水の精ウンディーネ。火の精サラマンダー。風の精シルフ。地の精ノームが存在すると云われている。

 開いている教科書にはそう書かれていて、丁寧にイラストまで描かれている。とても上手とは言えないようなざっくりとしたイラストなのだけれど、抽象的な精霊が紙の中でそれぞれ躍動している。

「このほら、風の精シルフなんてのはクイナの好みなんじゃない? 身体も小さくて、背中の羽もなんだかいかにも妖精っぽくて可愛いし」

「どれどれっ? ……本当だ、可愛い。ああっ、おもいっきり抱きしめたいなぁ」

 自分の教科書で見ればいいのに、何故か僕の教科書を見るために身体を寄せてくるクイナ。女の子ってこんなにも柔らかくて、こんなにいい匂いがするものなのかと、僕は心の中で風の精シルフに感謝する。

「でも見てよなぎなぎ、このイラストの通りなんだとすると……すごいね。これ一体どれほどの規模の竜巻を起こしているんだろうね。大袈裟じゃなく全てを薙ぎ倒して、そこら一帯を破壊する位の勢いじゃない?」

 激しい風が巻き起こす空気の渦。吸い込まれ巻き上げられた木々や建物が破壊される様を、荒々しく描いている。しかし精霊シルフはあどけない表情で、なんだかちょっとした悪戯で起こした微風だよっと言わんばかりだ。

「こんな可愛い容姿の精霊が、可愛い顔しながらこの絵の様に竜巻を起こして破壊活動していたら……うん、若干トラウマになりそうだよね」

 そんなことを、まるで昼下がりのカフェでお茶しているかの様にクイナと雑談していると、急に足元から明らかに自然的ではない風が軽く吹き出した。

「貴方達……えーっと、御巫さんと、クイナさんね。あんまりおしゃべりばかりしていると、そのシルフの風の様に貴方達も吹き飛ばしてしまいますよ?」

 魔力が呪文によって魔術に変換された時に反応する、身体発光の現象で光に包まれながらそう言うロイ先生の目は、全く笑っていなかった。

 毎回クイナとの雑談が原因で、どの先生にも怒られている気がする。

 流石に少し反省して授業に集中しようかなと思った、その時だった。

 それはあまりに突然の出来事だった。

 平和でゆったりしていた授業の時間が、まるで風の精シルフの起こした微風のように無尽蔵に吹き飛ばされたかの様だった。 

 窓の硝子に亀裂が入り、少し遅れて激しく割れる。硝子の破片が月とランプの光を反射しながら舞っている中、入り口側の壁も破壊されて木屑も空中に散らばっている。

 教室に激しい音が鳴り、大きく振動する。その音の衝撃は耳の鼓膜を破く勢いの音圧で、生徒達は突然の事に悲鳴じみた声を上げながら、その光景から目を逸らしたり、呆然と眺めていたりしていた。

 一体何が起こったのか。

 ロイ先生も状況を把握できていないのか、目を見開いて身動きが取れないようで、硬直してしまっている。しかし、先生が反射的に何か能力を使ったのか、硝子の破片や木屑が僕達生徒に降り注ぐことはなかった。

 本当にいきなりすぎて、瞳を通して網膜に映された一瞬の映像を記憶した、僕の脳の情報に強い疑念と違和感を抱いた。辺りを見渡すとどうも勢いよく何かが窓を突き破り、教室に突っ込んできたようだった。

 そして教室の端っこ、それも窓際で(うずくま)っているその疑念と違和感の正体を、信じたくないけれど僕はよく知っていた。

「メ、メイドさん……?」

「…………っ。……御巫様ですか、お早う御座います。授業中に、すみません。……私の事はお気になさらず」

 窓際まで飛んできた木屑と、硝子の破片にまみれたメイドさんはいつもと変わらず無表情。しかし、会話の端々に辛さが垣間見える言葉の間が、メイドさんの身体の状態を明確に表していた。

 表情には出していないけれど、きっと酷く苦しんでいる。

 ほんの少し眉間に皺がよっている気がする。呼吸もなんだか荒い。そんなメイドさんを目の前に気にしないでくれ、だって? 申し訳ないけれど、そんなことは僕にはもう無理な話だ。

「ちょ……大丈夫ですか? どこかに痛みは? 身体は動かせます?」

「……ありがとう御座います、本当に大丈夫ですので」

 相変わらずの無表情で、ほんの少し頭の角度を下げる。近くで見れば見るほど凛として綺麗な顔立ちと、息を呑む程滑らかな髪。長いウェーブの黒髪は艶やかでよく手入れされていて、頭には白いフリフリがついた可愛いカチューシャ。白と黒のモノクロを基調としたメイド服も、初めて出会ったときと変わらず完璧に着こなしている。

 ただ、今はそのどれもが傷つき、汚れてしまっている。なんだか不思議と腹の底が熱くなってくる。

「一体、何があったんです……? 誰がメイドさんにこんなことを」

「駄目です。御巫様はこの件に関与してはなりません」

 メイドさんは痛みを堪えるように起き上がり、木屑や硝子の破片を躊躇なく綺麗な素手で掃っている。

「関与って……いや、確かに僕はまだなにも力になれないけれど、でもっ」

「御巫君、ちょっと待ちなさい」

 先程まで不安がっている生徒や、泣いている生徒を安心させるように務めていたロイ先生がやってきて、僕の発言を制止させる。

「あの……今の状況を私にも提示してもらえますか?」

 僕に寄りかかるメイドさんを気遣う様にロイ先生が問いかける。やはり先生だってこの状況に不安を感じ、少しでも情報が欲しいのだ。

「…………。申請が通りません。なので拒否します」

 ロイ先生が唖然としている中、メイドさんがゆっくり手を宙に翳す。そして指先を忙しなく動かして、僕には見えないけれど何かを描いているようだ。記号や図形を用いている気がするので魔法陣、いや魔術陣なのだろうか。

「……はい、私です。そちらは? ……そうですか。とにかく今は雛子様を確保する事に行動の全てを振って下さい。私は大丈夫です、今行きます」

 僕に寄りかかっていた、メイドさんの華奢な身体に力が入る。

 立ち上がったメイドさんさんは、やはり無表情。この姿だけみれば怪我もなく無事だったと思うだろう。だけれどなんとなく僕は、メイドさんが無理をしているようにしか見えなかった。

 そしてなによりも気になる単語が、先程メイドさんの口から飛び出たのを僕は聞き逃さなかった。

「ちょっと待って下さい……今雛子って言いましたよね? 雛子を確保って……それ一体どういう事ですか」

 脳が熱くなり、思考が少し鈍る。心臓の鼓動が僕を急かす。酸欠のような身体がふわふわとした感覚の中で、メイドさんの返答を落ち着かない気持ちで待った。

 しかしメイドさんは眉尻を少し下げて、なんだか困ったように口をつぐんでしまった。

「御巫様、私はもう行かなければなりません。質問には、答えかねます。……知らないほうがいい真実もあるのです。知ることで得られるものが常に良い知識や情報だという保証なんて、この世でもあの世でもどこにもないんですよ。この件に関わればきっと、貴方からは笑顔が消えてしまう。そして深い悲しみに苦しむことになります」

 申し訳なさそうに眉尻を下げたまま、僕へ向ける視線が一切ぶれない。メイドさんからの視線と、この理解できない状況に僕の脳は、今にも溶けだしそうだ。

 そして、聞こえるか聞こえないか位の小さな声で「御巫様、こんな私を支えてくださって有り難う御座いました」とメイドさんが僕の耳元で呟いた。

 その刹那、メイドさんの身体に淡い発光が現われた。薄い桃色の綺麗な光。

「ちょ、メイドさん!」

 薄い桃色の光がふわりメイドさんの身体を包み込んだ瞬間、メイドさんの姿はもうなかった。先程の発光は、魔術を使用したときに起こる、発光現象だった。

 そして僕の腕にはまだ、メイドさんのぬくもりが若干残っている。そのぬくもりがなんだか、今見て聞いた話は夢じゃないと、強く突きつけられている気がした。

 それからどれくらい時間が経ったのだろう。実際は数秒なのかもしれないけれど、僕には何十分にも感じていた。何かしようにも、何も出来ずにただただ呆然としていた。

「御巫氏、よかった無事じゃったか」

 ふと聞き慣れた声がして、我に返る。気が付かなかったけれど、いつの間にか隣には水無月がしゃがみこんで、心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。

「あ……あー……うん。ありがとう、水無月も大丈夫だった? 真ん中らへんの前の席だったよね、硝子とか木屑とか当たらなかった?」

「うむ。儂は全然大丈夫じゃった。なんだか不思議な風が吹いたと思ったら硝子の破片も木屑も降ってこんかった。周りの子らも、大きな怪我はないようじゃよ」

 突然の出来事に驚いたが、皆無事なようでよかったとふんわり微笑む水無月。焦燥していた僕の心も落ち着きを取り戻し、水無月の優しい微笑みに少し和むことができた。

 一度、ゆっくりと深く呼吸をする。海に潜っていくようなイメージと、潮の流れにたゆたうような気持ちで、深く呼吸をする。

 意識を、思考をハッキリさせるために脳に酸素を無理矢理送り込み、自分の意思を確認する。

 僕は今どうするべきだ? 一体僕はこれからどうしたい? いや、答えはメイドさんと話しているときにもう、既に出ていた。

「僕は、ちょっと行かなきゃならない用事ができた」

 自問自答するまでもなかった。ここで動かないのなら、僕は何も変われていない事と同義だ。この世界にきて初めて出来た知り合い、今では大切な友達なのだ。

「行くって……どこにじゃ」

「わからない。わからないけど、とにかく僕は行く」

 進もうとする僕の制服の裾を、水無月にくいっと引っ張られる。心なしか険しい表情をしながら僕の事を見つめてくる。

「先程あのメイドさんにもお主、はっきりと言われていたじゃろうが。この件に関われば、御巫氏からは笑顔が消えてしまう。そして深い悲しみに苦しむことになるじゃろう、と」 

 なのに、何故? と、柔らかくも厳しい視線が突き刺さる。

 なんの遠慮なく正当な言葉を突き刺してくる。それが、その行為が僕には、なんだか少し嬉しかった。

「ありがとう、水無月」

「何がありがとうなんじゃ、そんな顔をしたって儂はこの手を離したりせんぞ」

 僕の裾を掴みっぱなしである水無月の手にそっと触れる。暖かくて、柔らかく、優しい手だ。

「僕がこの世界に来た意味を、ずっと考えていたんだ。その答えはまだわからない。今だって、ほんの一欠片もわからないんだ。でも、ここで何も動かないでこのまま黙って過ごす時間の為では、決してないと思うんだよ」

 水無月の手を静かに離す。今、水無月はどんな表情をしているのだろうか。呆れているに決まっているだろうな。

 そして足を前に踏み出そうとしたその時、ロイ先生の呟いた声が耳の中に響いた。まるで濁流のように僕の脳を這いずり回り、そのほんの小さな声が、踏み出そうとした足を脳が半ば無理やり止めた。

「あれ……嘘、クイナ・シャルトライムさんがいつの間にか居ない……」

 僕は頭が熱で沸騰するくらいの熱を感じながら、先生や水無月の止める声を振り切って走りだしたのだった。




 薄暗い廊下。あれ程の轟音と振動があったのに、学校内は通常通りな上に不気味な位静かで、微かな違和感を覚える。

 満月の淡い月灯りが窓から差し込み、僕を無遠慮に照らしつける。ランプが等間隔に照らす無駄に長い廊下は、今はただただ不気味であり、恐怖に感じた。

「雛子……一体何があったんだ。しかも、クイナまで一体どこ行っちゃったんだよ。……どこに、消えちゃったんだ」

 途方もなく歩く僕の頭の中には、メイドさんの言った言葉が気持ち悪くなってしまう位ぐるぐると駆け巡っていた。

「知らないほうがいい真実もあるのです。知ることで得られるものが常に良い知識や情報だという保証なんて、ない。この件に関わればきっと、僕からは笑顔が消えてしまう。そして深い悲しみに苦しむことになる……か。それが雛子に関する問題から目を逸らして逃げる言い訳になんて、なっていい訳ないじゃないか」

 現状もよくわかっていないくせに、早足でどこかへ当てもなく歩く僕の眉間の間には、深く皺が寄っているだろう。自分でもわかる程、僕は苛々している。

 何も力になれない、このどうしようもない無力感。

 傷ついたメイドさんを気遣うどころか、逆に気遣われる情弱感。

 雛子のことを知った風でいて、何も知らなかった無能感。

 今はとても平和で、何も問題なんて起こることなく楽しい日々が送れると思っていた。そんな間違った安堵感。 

 この状況で、ここぞとばかりに漂いはじめた敗北感。

 更に僕の側で、クイナが居なくなってしまった。それを見もせず、気付きも出来なかった僕は、一体何をしていたんだろう。

 心配してくれた水無月の手を払ったのは誰だ? 紛れも無い僕だ。間違えるはずもない、この僕の手だ。

 ここで動かないのなら、僕は何も変われていない事と同義だって? 僕がここで動いて一体、何が変わって、そこからどうなるというのだ。

 そんな僕が、ろくに魔術も、いや異能も使えない僕ごときに一体何が出来るんだ。

 あまりの悔しさに、とうとう足が止まった。もう一歩も前に踏み出せなくなってしまった。

 窓から差し込む月の灯りが、なんだか眩しすぎて無性に虚しく感じる。外で揺れる木々は素知らぬ顔。この空間の中で僕はまるで、サーカスの道化師のようだ。

 そんな時だった。 

 僕が歩く廊下の遠く奥の方。そこに見覚えのある男が立っていた。その男は煙草を咥えながら、白衣を羽織ってポケットに手を突っ込んでいるのが見える。

 なんて人なのだろう。こんなタイミングで現われるなんて、卑怯すぎる。この男から醸し出される謎の安心感には、最早涙さえ浮かんでくる。

「よう。なんだ、随分顔色が悪いじゃないか、御巫助手」



  

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