第十話 白衣と煙草とランプの灯
「俺のラボラトリーの一員として助手となる事には、御巫にとって非常に大きなメリットがある。むしろメリットだらけで、逆に懇願されるんじゃないかって程のメリットだと思う」
エルはそう言いながら、吸い込んだ紫煙をゆっくり吐き出して煙草を灰皿へと押し付けた。その小さな衝撃で、煙草の火種から舞った火の粉がまるで月夜に舞う蛍のようで、なんだか少し綺麗だった。
僕はと言えば、エルが言った突拍子も無い提案に唖然としてしまって、何も喋ることが出来ずにいた。
上手く思考が働かなくて、苦し紛れに雛子の方に視線を向ける。
雛子は、先程の話題が話題だけに、少し気まずそうにしながらも微笑んでくれた。安心して、と言わんばかりの、可愛くて落ち着きを取り戻すような、そんな優しい笑顔だった。
「薬屋さん、なんだか随分強引な勧誘の仕方です。見てください、凪が困ってます。凪が困ると私も困ります」
「ん? んー……まぁ、そう言われてみれば確かに唐突過ぎたか。でもさ、俺の仕掛けた罠に引っかかった上に、この俺の薬屋とラボラトリーにまで辿り着いた男だぜ? それに雛ちゃんとも知り合いときたらさ」
そんなのもう誘わないのが嘘でしょ、とエルはソファーの背もたれに身体を沈めながら、雛子から僕へとゆっくり視線を移した。エルの真っ直ぐな視線が、僕に遠慮なく突き刺さる。
「エル、いきなりだったから結構焦ったけれど……でも、なんで僕なんです?」
「おおまかな理由はさっき話したよな?」
「この世界の、様々な事に対して疑問に思い、その疑問を解くために図書館に行った。そして歴史や生き物の本を借りたから、ですか。そして僕は、エルの仕掛けた罠にかかった。そしてエルはその罠に引っかかる人を待っていた。……でしたよね」
「まぁ、簡単に言っちゃえばそういうこと。確かに、御巫からしたら突拍子のない話だよな。お前にはまだ、名前を名乗った位しか俺の素性も話してないしな」
確かに事を急ぎすぎたな、すまん。と、エルは素直に謝った。なんとなく頭が高いイメージがあったのだけれど、意外にもそういう礼儀とかはしっかりしているらしい。
「もう少し、俺の事とかムーンガーデンの事を話そうか。あと、このラボラトリーがどういう場所で、そこで俺の助手をすることのメリットも教えないとな」
そう、言われるまでもなく僕はまだ、エルの事を全然知らない。
趣があって、限りなく日本っぽい建物で薬屋を営んでいる。魔術か何かで細工された薬屋の玄関を通った先では、科学者として何かの研究をしている。その程度しか知らない。
しかし不思議に思うのが、既にこうして普通に話せるくらい、何故かエルに対する警戒心はなくなってることだ。若干人見知りぎみな性格である僕なのに。
なんだかこの世界にきて少しずつ、僕も変われているのかもしれない。もしくはエルの、不思議且つ親しみやすい人柄の魅力のせいなのかもしれないけれど。
「はい。良かったらお願いします」
わかった、と呟きながら新たに煙草を箱から取り出す。
しかし、その煙草には火を点けないまま左の人差し指と中指で挟んだまま、エルはゆっくりと一回深く呼吸をする。
「俺が、前の世界でも科学者をしていた事はさっき言ったな? そんな俺だから、ムーンガーデンにきてからはずっと、科学者として魔術の存在とこの世界を否定し続けた。だってそうだろ? 俺達にとって魔術とか魔法ってのはフィクションで、科学とは相対するものなんだから。そして半強制的にキスハート学園に通うことになって、ちゃんと授業に出て少しずつ学ぶことにした。科学で魔術やムーンガーデンのあらゆる事を分析しようと思ったんだ」
「その為にはもっとよく学び、もっと深く理解しなければならない、と」
「そう。そうして日々学んでいく内に、魔術関係の様々な事やこの世界の薬学など、専門的な知識がどんどん増えていった。そして、ずっと抑え込んでいた知識欲の箍が外れて、ダムが決壊したように溢れ出したよ。否定する為の材料だったはずの知識が、ムーンガーデンを認め、ここで生きていくために必要なものへと変わっていった」
「成程……それで、エルはその学んだことで、ムーンガーデンの何を知ったんですか?」
「この世界の魔術を筆頭に、あらゆる事柄が科学では解明、証明しきれない事を思い知ったよな。まぁそれでも俺は一応科学者だからな、今でも思考の根源はやっぱり科学な訳よ。でも、いくら否定しようにも、説明の出来ない奇跡のような力や現象が、確かにこの世界にはあったんだわ」
淡々と喋りながらエルは、火の点いていない煙草を左手で弄んでいる。その当時の事を思い出しているのか、時々遠い目をしている。
「俺も科学の全てを理解した訳じゃないから、まだ証明できる可能性のあるにはある。だけど、そういう物理的法則を無視するような得体の知れない現象も、いつからか受け入れるようになってた。ああ、いや勘違いするなよ? 別に魔術とか、オカルト現象が嫌いだから科学で分析しようとしたんじゃないんだよ、俺は。ただ、そういう神秘をもっと知りたかっただけだったんだ。だってそうだろう? 人智を超えた文明、想像を遥かに超えた世界が目の前にあったら、科学者として……いや、人として知的欲求が抑えられないに決まっている」
エルという今日出会った男の、リアルな吐露を目の当たりにして、手にじんわりと汗が滲んでくる。今自分が異世界に居る事を、どうしようもなく再認識させられたような気持ちに心臓が強く反応する。
そして、エルも僕と同じように様々な事に悩み、その中で芯のある答えをだして、力強く生きている事に僕はほんのすこしほっとしていた。
「今ではムーンガーデンの人間として魔術薬学の研究、そして薬の調合も平行して研究している。それでも、俺の科学的な考えの組み立て方は変わっていないからこうして今でも、科学的視点から研究もしているんだけどな。そして得た知識で薬屋を営んでいる訳だ。それと一緒に、今はキスハート学園で魔術薬学の講師も頼まれて講義したりしてるんだわ」
「魔術薬学の、講師ですか……凄いです、本当に。それに、エルの言っている事にとても共感できます。この世界のあらゆる事を信じられないというよりも、憧れに近い科学と相反する存在である魔術が目の前で日常になっているんですから、深く知りたくなる気持ちはもの凄くわかります」
僕達が過ごしてきた日常とは、全く別世界の非日常。でもムーンガーデンから見れば、僕が感じている非日常こそが、この世界の日常なのだ。
僕が知りたいと思っている事や、エルが知りたいと思って学んだり研究した事は、この世界の事を否定する為に学んだり勉強するのではなく、きっともっとこの世界を知りたいという知的好奇心の結果だ。その結果がこうしていい方向に働いている。
「そして、御巫のメリットってのは、俺が今まで培ってきたムーンガーデンに関しての様々な知識。それと、助手をしてくれるのなら少しだけど、バイト代みたいに給料も用意するよ。キスハート学園の魔術財布システムの定期振込みだけだと、遊んだり買い物したり飲みに行ったりしただけで、次の補金まで飯が食えないとかよくある話だからな」
「本当ですか? そ、それは……かなり魅力的なメリットだ……」
今日の午前中。ルイ先生の説明会で身体に宿した、この世界の財布。使い方がよくわからずに、食堂で焦ったのも記憶に新しい。いや、実際未だに仕組みや使い方とかよく理解してはいないのだけれど。
「ねぇ凪、別に無理して薬屋さんの助手引き受けなくてもいいんだからね? 凪が嫌なら断ってもいいんだよ」
「おーいおいちょっと雛ちゃん嘘だろう、確かにその通りだけど、このタイミングで言うのはちょっとずるいなー」
だってそうですもん、としたり顔で、雛子はエルの方に体を向けて楽しそうに笑っている。雛子のおかげで、緊張しっぱなしだった僕の身体も、ようやくほぐれたような気がした。
エルには申し訳ないけれど、正直今でも少し胡散臭いっていう印象が抜けきっていない。でも出会ってまだ時間も経っていないのだから、まぁそれも仕方ないような気もしないでもない。
でも今聞かせてもらった話は、すごく面白かった。興味深い内容だったのは確かに事実で、それと同時にエルの考え方には共感できた。
僕には、ムーンガーデンについて知らない事があまりにも多すぎる。それは知らない土地に無知で、丸裸で突っ立ているような位、危険で、無防備な事だ。
エルのその豊富な知識の恩恵に与れる上に、助手する事で給料も用意してくれるなんて、至れり尽くせりではないか。
この話を蹴る理由が見当たらない。あるとすれば、逆に条件が良過ぎて怪しい事くらいだ。でも、正直自分の居場所が出来る点でもここは是非乗っておきたい。
「エルさん、こんな僕ですが、このラボラトリーの役に立てる様に頑張ってみたいです。助手の件、受けますので宜しくお願いします」
「おお、決めてくれたか! 良かった。今日から晴れてお前はこのラボラトリーの助手だな。……改めて宜しくな御巫」
エルは、火の点いていない煙草を灰皿にそっと置いた。そして柔らかい笑みで僕の頭にふわり手を置いた。もし仮にだけれど僕に兄がいたならば、もしかしたらこんな感じなのかなぁ……なんて思わず和んでしまった。
「おかしいな……なんだか大して時間も経たない内に、薬屋さんと凪が急速に仲良くなって……むー、なんか納得できない」
「ふはははいいだろう、雛ちゃん。とうとうこのラボラトリーで助手を雇ってやったぞ」
そう嬉しそうに言いながら、僕の頭を一度わしゃっとしてから手を離す。なんだか少し、名残惜しい。
「助手の仕事はそんなに難しくもないから、心配しなくていいよ。次来た時にでも助手してもらうから、今日は軽く説明だけさせてくれるか?」
灰皿に置いていた煙草咥え、エルは火を点ける。テーブルに設置してあるランプの火を使って煙草に火を点ける動作が、なんだか様になっていて格好いい。
エルの肺を満たし、吐き出される紫煙をぼんやり眺めながら、僕は静かに頷く。
「まず、これがこのラボラトリーの鍵ね。これはなるべく無くさないようにしてくれ。こんな見た目でも、作るの結構面倒くさいから」
渡されたのは、麻のような素材の糸で編まれたミサンガ。大きさが違う綺麗な石もそれぞれ所々に編み込まれていて、とても上等な一品だ。
しかしエルの言う鍵と、この渡されたミサンガがどうも結びつかない。鍵といえば棒状で金属の、錠前を閉めたり開けたりする為に使うあの鍵を思い浮かべてしまう。
それになんとなく、そのミサンガをどこかで見たことがあるようなような気がする。すっきりしないままうまく声を出せないでいると、雛子は少し僕に寄り添う形でソファの上を移動していた。
「凪、見て見て。これがその鍵なんだよ」
雛子が左手の袖を捲くると、露わになる華奢で綺麗な手首。編み込まれた色とりどりの綺麗なミサンガが何本も巻いてあって、更に綺麗な数珠も数本しているのが見える。いつだったか見たときより、なんとなくブレスレットが増えたような気がするのは気のせいだろうか。
そして雛子の手首をよく見てみると、その数あるブレスレットの中にエルが鍵と言っていたミサンガが結ばれていた。
「このラボラトリーに入る為に必要な条件の一つが、このミサンガなの。ミサンガに編み込まれた薬屋さんの調合した魔術薬が扉に反応して、ラボラトリーに繋がる仕組みなんです」
「へぇー成程、そのミサンガが鍵の代わりになるのか。手首に巻いてるだけで、いいの?」
「そうそう。でも、このラボラトリーに入室する為には、決まった扉でしかこのミサンガが反応しないの。まず、今日入室した薬屋の玄関。それと、キスハート学園の各図書館の中の用務室の扉なんかは、ミサンガさえあればラボラトリーに入室できますね。ラボラトリーを思い浮かべてミサンガに宿る微量な魔力に意識を向けると、あとは勝手にこの場所へと繋がりますから」
そう優しく教えてくれた上に、雛子は僕の左手首にミサンガを巻いてくれた。とても嬉しいのだけれど、こういうのは慣れていなくてなんだか少し気恥ずかしい。
「それがあれば、学園からでもこのラボラトリーに来れるから色々と大丈夫だな。あとは、これか。これはまぁ、好きにしたら良い。着たかったら着てもいいし、別に着なくてもいい。助手やるからには、こういう雰囲気も大事かなって俺は思うんだけど」
エルが差し出したのは、一着の白衣だった。滅多なことが無ければ着る機会のない白衣。不覚にも僕は、受け取った白衣を眺めて少し感動していた。実は一度でいいから、白衣を羽織ってみたかったのだ。
「わっ、本当に、いいんですか? うわー……まさか僕が白衣を羽織る日が来るとは。凄く嬉しいです」
「ははは、そんなに白衣着たかったのか。ま、気に入ったならラボラトリーではそれを羽織るといいよ」
嬉しさを噛み締めるように、早速エルから貰った白衣を羽織ってみる。
袖を通した時の肌触りや、仄かに香る煙草の香り。前開きの状態の白衣はやはり、こんな僕でもどこか科学者めいて見える気がして、ほんの少し興奮する。
羽織った白衣のポケットに手を突っ込んでみると、なんだか小さな願いが一つ叶ったような気がした。
「あ、あの、凪の白衣姿……凄く似合ってます」
「そ、そう? なんだか恥ずかしいけれどね。ってか白衣って想像してたより凄く着心地いいんだね。あと、なんだか無条件に身が引き締まるような気がするよ」
部屋着から、制服に着替えた時のあの身体が引き締まる感じに似ている。背筋が伸びるような気持ち良さを堪能していると、エルはテーブルの下に置いていたおつかいの紙袋をがさごそしていた。
「おおっ……やった、竜の鱗粉と虚ろな瞳だ。これが凄く希少でなかなか手に入らないんだよ、流石黒猫堂だな。あとは、デルフィニウムの花弁に……時計皿と、空の小瓶、硝子管。うん、確かにあるね。ありがとう雛ちゃん、御巫」
竜の鱗粉が入っている貴重で綺麗な硝子細工を、大切そうに手にとって眺める。エルのその横顔はどこか黒猫堂の店主に似た何かを感じさせる。誰かを想う人特有の、優しくて、哀愁の漂う表情だった。
「あ、そうだ。ずっと聞こうと思ってたんだけど、エルって元々キスハート学園の生徒だったんだよね?」
「ん? んーそうだな。今は魔術薬学の講師もしてるけど、まぁ厳密に言えばまだ微妙に生徒みたいなとこもあるんだけどな。聞きたい講義があるなら、その講義には俺も普通に参加するし」
エルはそう堪えながら、空の小瓶と硝子管を一つずつ丁寧にテーブルに並べている。テーブルの上のランプの灯りが微かに揺れ、テーブルに伸びた小瓶と硝子管の影も一緒に揺れていて、絶妙な陰影がとても美しい。
「生徒としても、か。そういう風に講師もしながら生徒でもある人って、結構多いんですか?」
「いやー、あんまりいないんじゃないか? まぁいるにはいるんだろうけど、実際は少ないと思う。講師になった奴とかそのままキスハート学園教諭になった人は、その分野の事を専門にしなきゃなんないからね。他にかまける余裕とかも、ぶっちゃけ無くなってくると思うよ」
そう考えると、講師をしながら気になる講義があったら参加するエルって、実は凄いのではないだろうか。僕はもしかしたら、とても賢明な人の助手になってしまったのかもしれない。でもまぁエロ本の表紙にすり替えたりする変人なのだけれど。
「あ、そうだ、これも聞こうと思ってたんですが、エルも入園式を経て月の涙を身体に宿してますよね? あの……エルはどんな能力が宿りました?」
「俺はー……うん。そのまんまで悪いんだけど、薬師って能力。まぁ異能士だ。魔術士という括りでは説明のつかない能力でな、異能士として薬師と名乗っているよ」
「おおっ、エルも異能士なんだ。そっか、なんかちょっと安心した……あの、これ聞いていいのかわからないけれど、エルの薬師の能力ってどんなでした?」
僕の他にもちゃんと異能士がいる。沢山いるのかも知れないけれど、僕以外の異能士に出会ったのはこれが初めてだった。果て無い旅の途中で、ようやく仲間を見つけたような気持ちになる。
「能力か……能力はそうだな、あんまり気軽に他人にべらべらと手の内を見せないものだけど、御巫は俺の助手だからな。俺の異能もちゃんと伝えとかなきゃ、駄目だな」
神妙な顔つきで、エルは少し視線を落とした。おもむろにまた煙草を取り出して、火をつけずにまた左手で玩んでいる。
「薬師。薬師は、薬剤の性質を意図的に変えてしまう能力。もしくは、調合した結果を変えてしまう能力。その対象を特徴づける形態、機能、意味。そして本質を変えられる。勿論薬剤に限定される能力だ。因みにどう頑張っても、魔術士や魔術師に俺と同じことは出来ない。まぁこれは、異能と言われる所以だな」
「あ、やっぱりそうなんだ。魔術士に異能士と同じことは出来ないんですね。エルの異能、なんだかエルに似合ってるというか、エルの為にあるような能力ですね」
「やっぱりそう思うか? 異能士に限らず魔術士もなんだけど、月の涙を宿した人の持っている特性というか、その人に合った能力が身につくって話は確かに多いんだよ。もしかしたら月の涙はさ、潜在的に眠っていると言われる脳の使われていない部分を、刺激してんのかもしんないな。それでその対象の人に合う能力を半強制的に覚醒させる、とかね」
「人間の脳は、実は数パーセント位しか使われていないっていう、あの有名な話ですか」
昔読んだ本に書いてあった「我々は潜在能力の数パーセントしか引き出せていない」という言葉が世界的に有名な説だ。僕はこの説が好きで、よく図書館やネットで調べたりしていた。まさかこんな所で役に立つなんて、生きていると何が起こるかわからない。
「おお、こんなマニアックなのよく知ってたな。まぁ脳って知的活動以外にも、運動能力や体温調節、視覚や聴覚、嗅覚などの感覚情報の処理など、脳は身体のほとんどの機能を担ってんだけどね。んで、とある細胞。その名をグリア細胞っていってな、そういう細胞が多種多様な神経伝達物質の受容体となって、神経伝達時間の制御を担っているっていう研究結果もあるらしい。だから、脳の残りの使われていない部分は、ほぼグリア細胞によって使用されているのかも知れない」
だからその数パーセントしか使われていないっていうのも、今ではその真偽は怪しいんだよな。と少し残念そうに呟きながら、エルは煙草に火を点ける。勿論、テーブルに設置されたランプの灯を使ってだ。
たった今聞いた初めて知る情報に、心臓の鼓動はどんどん高まって早くなる。
やはりエルは凄い。知識の底が知れないというか、彼はこの世のなんでも知っているのではないか、などとありえない錯覚までしてしまいそうになる。
「ああ、すまん話がだいぶそれちまったな。俺もよく考えることだったし、御巫も思ってた以上に知識あるみたいだからついつい。この話はまた別の日に語ろう。で、薬師の事なんだけどな」
火種が赤々と燃える煙草を深く吸い込み、紫煙を吐き出す。エルが煙草の煙を吐き出すたび、雛子の顔がしかめっ面になるのが少し面白かった。でも、副流煙もあるし、匂いもきついから雛子の反応が世間的には正しいのだ。
少し雛子の体調も心配になりながらも、僕は煙草の独特の香りが好きなのでつい、鼻を利かせてしまっていた。
「俺もまだ薬師について把握していない部分がある、というか、わからない事まだまだ多いよ。薬師の異能が発動するのも条件とかあるみたいだし。んー……例えば水。水は場合によっては薬になるし、薬剤だ。だけど、水単体に対してはその性質を変える能力を使う事が出来ない。けど、微量の水を調合して使用する、または分解した場合等は、その結果を変えるという異能が特定の調合で発動する。と言う風に、同じ媒体でも出来ることと出来ないことがあるんだ」
なかなか把握が難しいし、結果を変えるにしてもそのコントロールと種類の把握がなかなか難しくてな、と困ったように微笑む。
今日あったばかりの、こんな見ず知らず……いや、今はもう一応助手なのか。信用、信頼されているみたいで、なんだか胸が熱くなった。
「そっか……まだまだわからないこと、エルにもあるんだ」
「そりゃあ勿論あるさ。むしろ知らない事のほうが断然多いんだって。だからもっと学びたいし、もっと知りたいだろ? ああ、ところでさ、御巫も月の涙もう宿したんだったよな。どうだった?」
側にいる雛子の視線も、僕の方へと緩やかに向けられる。先程から、無理に話に入ろうとしたりせず、僕に向けられた視線は、子供を見守るような暖かい眼差しにどこか似ているような気がした。
年不相応というか、幼い容姿に反してどこか大人っぽくて、落ち着いた少女の振る舞いに気付いた時。僕は少しだけ、見蕩れてしまった。
「今日受けた授業の基礎魔術訓練で、僕は多分異能士だろうという話を先生としたよ。でも自分の異能がどんなものなのか、流石に今日はわからなかったです。今後の授業で、何かきっかけやコツを掴めるといいんだけれど……」
「おお、御巫も異能士か。うん、なんかまぁ……御巫はそんな感じするかもしんない。どう思ってるかはわかんないけど、自分に特化した能力、オリジナルマジックの模索は焦ることないよ。多分これからずっと続くと思うしね。さっき言った通り俺も、まだまだわからないことが沢山あるのが現状だしな」
「疎外感や焦燥みたいなのは最初こそあったけれど、今はもう全然大丈夫。エル、良かったらなにかアドバイスとかあると、すごく嬉しいんだけれど……なにかある?」
「アドバイスかー。魔術士の生徒にはまぁまぁアドバイスできるけれど、正直異能士はアドバイスしてなんとかなるもんじゃないんだよな」
同じ異能士のエルならば、なにか有益なアドバイスをくれると思っていた。そう強く思っていたからか、煮え切らないエルの返答にはほんの少し落胆した。
でもどこかで、そんな気がしてたのもある。なぜなら異能士は魔術士の枠外で異常に特化した魔術、または特殊な魔術に秀でているのだから、異能士は自分自身でなんとかする他ないのだと思う。
そんな事をぼんやり思っていて、それがうっかり表情に出ていたのか、雛子は辺りに漂う煙草の紫煙を嫌がりながらも僕に何か言いたげにしていた。
「いや、何も無いわけじゃないんだけどな。んー……そうだな、俺が薬師なった時というか、異能が発動した時の話でもするか? もしかしたらなんか参考になるかもな」
昔の記憶を思い出すように、エルはランプの揺れる光を静かに見つめている。そして、まるで御伽噺でも紡ぐかのように、ゆっくりと語りだした。
「俺も例外なく通過儀礼で、月の涙を身体に宿してさ。で、同じように最初の授業で異能と知らされた。こう言ってしまえば科学者としてどうかと思うけど、ファンタジー映画みたいに炎とか雷とか、出したかった気持ちもその時は少しあったんだけどな。まぁそこからはもう今の御巫と同じで、ずっと自分の特価した能力がわからなかった。異能先行の授業を何度授業を受けても、全然わからなかった。それこそ色々試したもんだよ」
「何度授業を受けても、ですか……」
「いや、まぁそんな顔すんなよ……わからなかったのも、仕方ない部分もあるんだと今なら思う。俺の異能士としての特化の結果は薬士。極めて限定的な能力だから、そう簡単に気付けるもんじゃないよな」
エルが吸い込む度に赤く燃える火種は、緩やかに煙草を灰に変えていく。灰が重力に耐え切れなくなったのか、はらり、と煙草の先から舞い落ちていった。
「で、どうやって自分の異能士の特化能力に気付いたのか。それはな、なんとなーくいつもの習慣で自室で実験してた時に、唐突に起こったんだよ。ムーンガーデンの神秘と言えるような現象を研究していた時なんだけど、いつもやるような馴染みのある調合の結果が微妙に違っていたんだ。最初は俺の調合ミスかと思ったんだけど、身体に宿った月の涙の魔力が反応しているのが自分でもわかったから、それでようやく薬師とわかったんだよ。異能や魔術は、その本人に合う特化である事が多いから、俺の場合はそれが薬や調合の類だったという訳だ」
エルは、こんな事しか言えなくて悪いな、と苦笑いしながら煙草を吸う。そして気付けば僕の手の平には、じっとりと汗が滲んでいた。
今では少し緊張もほぐれてきたけれど、このラボラトリーに来てから、目まぐるしい展開と出来事に高揚しっぱなし。エルから聞かされた今の話も、本当に参考になった。
「そっか、焦らず自分のあるがままに過ごせば、もしかしたら早く見つかるかもしれない可能性があるって事だよね」
「まぁそういうこと、かな。このラボラトリーの助手である御巫が頼むなら、時間がある時とか俺も手伝ってやるよ。とりあえず自分で出来るとこからやってったらいい。あと授業は身のためになるから、ちゃんと受けたほうがいいぞ」
「本当? それは嬉しい、ありがとう。授業もまだまだ凄く興味あるから、サボったりしないでちゃんと参加するよ」
「それがいい。まぁ今日はゆっくりしてけよ。雛ちゃんに買ってきてもらったビールもあるし」
紙袋から嬉しそうに、黒猫堂で購入した瓶ビールを取り出して微笑む。ビールの王冠を指先で軽く弾くと、まるで瓶牛乳の紙蓋のように簡単に外れてしまった。
「でも凪、どうする? 今時間的にもいい時間だから、そろそろ学園に戻ったほうがいいかもですよ」
少し眠そうな表情の雛子が、口を開く。
壁際に設置されている重厚な振り子時計を見ると、もう既に時間は九時ちょっと過ぎ。そう認知した瞬間、晩御飯を食べていない事を思い出して急に空腹になるのだから面白い。
「そうだね、折角だから三人でゆっくりしたい気持ちもあるけれど、深夜徘徊とか言われて先生に怒られるのも勘弁だしね。エル、今日は一旦部屋に戻る事にするよ」
「俺としちゃあ、まだ雛ちゃんと御巫と雑談したいところだけど、まぁそういうことなら仕方ないよな。ってかすまんな、ろくに飲み物とか食べ物出せなくって」
これをお前らに飲ませるわけにはいかないもんなぁ、と右手を白衣のポケットに突っ込んで瓶ビールをぐいっと飲むエル。
「凪、このタイミングで言うのもなんだけれど、私も一応このラボラトリーのメンバーって事になってるみたいなの。だから、その……よろしくね」
なんだか少し恥ずかしそうに、頬を赤く染める雛子。これはなんとなく気が付いていた事だ。おつかいを頼まれる間柄なんだから、ここでお手伝いをしていてもなんら不思議ではない。
思い返せば今日は、運良く第十六図書館で雛子に出会って、その流れで初めてキスハート学園の外に出た。
そして黒猫堂という雑貨屋さんに連れて行ってもらって、店主の黒猫さんに出会って。そしておつかいの物を届けに薬屋に来て。不思議なドアを通ってこのラボラトリーに着て、エルに出会って。
そしてラボラトリーの助手に誘ってもらえて。本当に怒涛の数時間だったけれど、とても楽しく刺激的で驚きの出来事ばかりだった。
そしてなにより、キスハート学園の外の空気を目一杯吸って、バニラノームの町をこの目で見て感じて、この世界をちゃんとしっかり肌で感じれたのは、やはり嬉しかった。
「えっと……四つある扉の内の、そのキスハートって書いてある扉から学園に帰れるから。もう手首に鍵は巻いたよな?」
今エルが言ったように、この部屋には扉が四つある。
一つは最初にこのラボラトリーに入ってきた、薬屋からの扉。雛子に開けてもらわなければ、普通に薬屋への扉だった扉がまず一つ。
二つ目は今エルが言った、学園に繋がる扉。その扉には、アルファベットでキスハートと表記されている。
三つ目が、何かが書かれていた痕が残っているのはなんとなくわかるのだけれど、その部分が乱暴に黒く塗りつぶされた看板が、ぷらぷらとだらしなくぶら下がる扉。
その扉がなんとも異質で異様な雰囲気だったので、気になってさりげなくエルに聞いたら、絶対に近づくなとの事だった。
開ける事は万が一にもないと思うけど、この扉には近づかないと約束して欲しい、とエルに言われたら、それは勿論約束するに決まっている。なぜなら、エルの顔色が少し悪くなったのに気付いてしまったから。
そして、四つ目がエルの個人的に色々と使う個人部屋らしい。
「それじゃあ、今日は色々とありがとうエル」
「や、礼を言うならこっちの方だ。これから助手として、頼んだよ御巫。よろしくな」
エルは、こうなる事をずっと希っていたとばかりに微笑む。最後までころころと雰囲気を変えて、つかみ所が無かった。けれどエルは、きっと良い人なのだろうと思う。
そうして軽い挨拶を済ませ、僕と雛子はキスハートと書かれた扉へと向かう。
「薬屋さん、研究もいいですけれど、ビールとかばっかりじゃなくってちゃんとご飯も、食べて下さいね?」
雛子が、学園に通じる扉に手をかけたところで、振り向きながらそう言うと、エルは少し気恥ずかしそうにしていた。
「わかってるよ雛ちゃん。後でちゃんと食べるからさ」
「あ、そうだエル。エルに大事なこと伝えるの忘れてたよ」
煙草に火をつけているエルが、首を微かに傾げながらこちらに視線を向ける。
すっかり忘れていた大事な事を、今さっき思い出した。もし伝えずにそのまま帰っていたら、もしかしたら僕が危ない目に合うところだった程に大切な内容だ。
「えーっと確か……あんまり雛子様をこき使ってると、貴様を解体してうちの商品として加工してやる、だったかな。あと、なんだったら出張サービスしてやってもいい、との事でしたよ」
言葉にならないような表情になったエルは、自分で燻らせた紫煙の中で溜息まじりに苦笑いしたのだった。