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第九話 百味箪笥とラボラトリー

黒猫堂から出て、雛子と歩きだしてから数分が経った頃。

 道を照らすランプの淡い灯の間隔が先程歩いていた所よりも心なしか長くなり、その内一つのランプはもう事切れそうに、不規則に点滅していて今にも消えてしまいそうになっている。

 道路は、歩きやすく水捌けも良い石畳から、砂利っぽくなった道になったり、土の道になったりと様々変わっていく。

 今歩いている道は草が端々に生えている土の道である。バニラノームの中でも、そこそこ整備されている場所とそうでない場所があるようだ。

「なんだかこの辺りは建物が密集していないし、畑や田園もあって広々しているねぇ」

 手に抱えた紙袋を持ち直しながら、僕はそんな事を呟いた。ほんの数分歩いただけで、バニラノームの雰囲気が結構変わっている。

 統一性のないくねくねと蛇行する道、周りには無数の木々が聳え立っているし、仄かに光る草花もあちこちに生い茂っている。民家と思われる幾つかの建物からは蝋燭やランプの灯りが優しく揺れ、光と影が漏れている。

 田舎道の優しい雰囲気は、こうして歩いているだけで癒される。空も澄んでいて、水気を含んだ空気は何度吸っても美味しい。

「うん。バニラノームって結構広くて、人が多くて栄えているところもあれば、此処みたいに自然が多いとこもあるんです。私、バニラノームが本当に好き。こうして歩いているだけでなんだか、安心するの。やっぱり私ににとっては此処が故郷みたいなものだからかな?」

 隣を歩く雛子がなんだか照れくさそうに僕を見上げてくる。立っていると雛子のほうが身長が小さい為、雛子が僕を見る時どうしても上目になってしまうのだけれど、その仕草と宝石のように綺麗な瞳に目と心を奪われそうになる。

「あ、あそこあそこ。ほら、見えましたよ凪」

 雛子が指を差した先に視線を移す。他愛のない会話をしている内にどうやら、例のおつかいを頼んだ人が居る建物に到着したらしい。

 薬屋、と古めかしい字体で書かれた木製の看板が垂れるその建物は、どこか全体的に和の雰囲気がする。いや、というか完全に日本家屋がそこにはあった。

 洋風な町並み、それも北欧を思わせる田舎風だ。実際見た事の無いような建造物やランプが照らす町並みが続く中で、突然現われた妙に日本っぽい建物はどこか浮いてみえる。その光景は異質であり、異彩だ。

 まるでそこだけが特別、あるいは劣等。兎角その建物の辺りだけがなんだか、不思議な光景に感じた。

「あの、薬屋って看板の所がそうなの?」

「うん、あの薬屋って看板の店。この薬屋さんはバニラノーム随一の腕前でね、密かに有名な薬屋さんなんですよ?」

 薬屋の佇まいに、思わず辺りを見渡してしまう。どうしてもこの微妙な違和感が気になって仕方がない。

 いや、そこまで言う程ではないのかもしれない。なにせ、この違和感云々の感想が僕だけのものなのだから、この世界に住む人達にとって一般的に普通かも知れないのだし。僕の常識は常識として通用しない世界なのだ。

 突然道端に現れる、古くて苔も生えている石畳。それも、二人並んで立てる位のサイズの石で、大きさも形も統一感はない。

 土の地面に単体で埋め込まれていて、その石畳の間隔は、少し大きめな歩幅で設置されているようだ。

 その石畳を目で追っていくと、薬屋の方に向かって埋め込まれている。小さいながらも立派な門には、端に石柱が立っていて、雨風の中で晒される為かやはり汚れている。しかし、目を背けたくなる類の汚れではなく、石柱の風貌に華を添える味となっていた。

 その門の奥には、玄関までちょっとした道がある。砂利が敷かれていて、壁になるように植物や木が植えられている。ますます日本家屋っぽくて、薬屋の中へと誘い込むように道が続いている。

「なんだか、すごく馴染み深い建物と風貌だな……」

「そうなの? あ、そうか。この薬屋の雰囲気って、凪が住んでた世界の建物に似ているんだ」

「いや、似ているどころかこれはもう……日本建築そのものというか、なんか急に今までの出来事が全部夢だったんじゃないかって。ここは日本じゃないかって、そう思えてくる位この景色を見ていると自然と心が和むんだよ」

 周りの洋風な光景と比べてしまうと異様な程に浮いているその薬屋は、僕にとって異様に懐かしく感じる建物だった。僕ん中の錆びた懐古の情が思わず顔を出す。

「えと……これは夢じゃないですよ? だって、今、凪の隣にはちゃんと私がいますし、ね? 私にとっては全て現実の事です。なので……私と凪が出会ったことは夢なんかじゃありません。……っていうか薬屋さん店に居るかなぁ? おつかい頼んだんだし、流石に居ますよね」

 そう言いながら雛子は、苔の生えた古めかしい石畳を飛ぶように軽快な足取りで門へと向かい、薬屋へと入っていく。

 足の裏に砂利の感触が伝わってくる。その独特な踏み心地が最高に気持ちよく、門から玄関までの砂利道に沿うように植えられている植物や、高すぎない木々の緑と香りがますます日本っぽくて落ち着かせてくれる。

 砂利道がある庭を少し歩くと、すぐ薬屋の玄関へと辿り着いた。

 薬屋の玄関は、非常に素朴かつ優しい外観だった。木造で、その木の放つ匂いが玄関先に立つとよく香ってくる。

 玄関は木製の引き戸で、曇り硝子が埋め込まれている。なにからなにまで、僕にとって馴染み深い外観の、薬屋だ。

「薬屋さんこんにちはー。おつかい行ってきましたー」

 雛子が、カラカラカラっと玄関を横にスライドさせる。このカラカラという独特の音が、一瞬で過去の記憶を呼び覚ます。その音だけで、昔住んでいた家の玄関や内装を思い出した。いつだって音や匂いは、こちらになんの断りもなく、良かれ悪しかれ色々な記憶を勝手に引っ張り出してくる。

 少しノストラジックな気持ちで薬屋の中へと移動する。内装はやはり木造で、僕から見てもかなり古めの木壁。雨風や、気温変化の影響からか、所々変色している。しかしそれが逆に風情というか、日本建築特有の趣きがある。

 下は簡素ながらも板張りの床で、とてもではないけれど靴を脱ぎたくなる。一歩踏み出すたびに板張りの木が、ぎしりと小さく響いた。

 その内装の決して派手などではない、なんならむしろ、地味で落ち着いているといった静寂の空間は日本人特有の好みであり、日本文化的観念そのものだ。この店の主はきっと、日本出身か、もしくは親日家の人なのだろうと思った。

 黒猫堂を思わせる木製の棚。そこにずらりと並ぶ薬、もしくは薬に使う様々な調合剤は、綺麗な薬瓶に入っている。その薬瓶の形や大きさが不揃いなのは、やはり黒猫堂から購入しているからだろう。

 店の端っこには壷がいくつも置いてある。薬壷と呼ばれるその壷は、触ったら割れてしまいそうな程に古く、脆そうだ。しかし、今でも薬壷として役目を果たしている様なので、大事に手入れされているのが素人の僕でもわかる。

 奥には薬屋用に拵えた百味箪笥(ひゃくみたんす)が並んでいるのが見える。薬屋が薬種を保管する為に用いた薬屋専用の箪笥で、多種類の薬種を入れる引きだしがあるのが特徴だ。小さく区切られた引き出しがある百味箪笥は、此方から見える分だけでも九つもある。

 他にも百味箪笥が在るかもしれない。果たして中身を把握出来ているのか、正直怪しい程の引き出しの量だ。

「おお、雛ちゃん。なんだ、こっちから入ってきたの?」

 店の奥、床より一段高くなった先に、百味箪笥が並ぶ横に現れた男。その髪は、少し癖っ毛で長めの金髪。しかし手入れをしていないのか、あえてそうなのか解らないが、けっして綺麗に整ってはいない。むしろ、だらしなささえも感じる容姿。

 顎には、短く髭が生えている。この髭は整えているのか、伸びすぎている訳でもなく小奇麗にしてあって、金髪の髪によく合っている。

 服は黒と群青の中間みたいな深い色合いの、日本の浴衣を着ていた。浴衣の裾の部分には、緑色の曲線が何本か刺繍されていて、その線同士が交わったり曲ったりしているのが凄く綺麗だ。きっと高い浴衣なのだと思う。

 しかし、浴衣を着用しているというのに、その男からはなんというか、日本特有の侘びや寂びは感じられない。地味で落ち着いている様に対して正反対の容姿の男が、僕達の来店を機に浴衣着で出てきて、雛子に声を掛けてきたのだった。

 門や、玄関、庭や薬屋の内装がとても日本っぽかったから、男のその姿と雰囲気が聊か不思議で怪しく、その摑み所の無さが強烈に印象が残る。

「あれ、そっちの彼は? だいぶ初見だけど……あ、もしかして雛ちゃん彼氏でも出来たの?」

「なっっ……ちょ、何言っちゃってるんですか薬屋さん! ち、ちちち違いますよ!」

 雛子が、顔を赤らめながらの抗議。彼女の抗議は勿論正論なのだし、なにも間違ってないのだから問題ない。ないのだけれど何故だろう、なんだか少し胸がチクりとする。なにもそんなに必死に否定しなくてもいいじゃないですか……雛子さん。

「いや、雛ちゃん、そんなに否定したら其処の彼が可哀想だよ……なんだか不憫で仕方ないよ……ねぇ?」

「あ、あぁ、いや、まぁ……そう、ですかね」

 思わず苦笑いを浮かべながら首を傾げてしまう。でも、できることならば、僕の事を不憫には思わないで欲しい。なんだか、更に虚しくなるので。

「じゃあ、雛ちゃん。そこの彼も一緒でいいから、ちょっとラボラトリーの方に来てくれる? 店ん中で雑談ってのもなんだし、一応これでも俺は薬屋も営んでるからね。流石にその辺は気を使っちゃう訳なのよ」

 そう言うと、男は右手を浴衣の懐に突っ込んでふんわりと微笑む。それにしても、ラボラトリーだって? 薬を調合したり、何か実験したりする部屋の事を指しているとすれば、俄然興味があるので、正直早く行きたい。

 雛子にあやかって僕もそこにお邪魔できるらしいのだけれど、此処からどのくらい離れた場所にそのラボラトリーがあるのだろう。でももう少しこの薬屋の品揃えや、薬関係の道具、百味箪笥も欲を言えばまだ見ていたかった。

「わかりました。じゃあ今からラボラトリーの方にお邪魔しますね。凪、行こう」

 そう言うと、雛子は金髪で浴衣姿の男に微笑みかけて、小さくお辞儀した。

 そして雛子はなんの名残も見せずに、さっさと薬屋の外へと出て行ってしまったので慌てて付いて行く。僕は結構名残惜しいので、もう一度振り返って店内に視線を送ると、金髪で浴衣姿の男が緩みきった顔で小さく手を振っていた。

「さて、と」

 薬屋の玄関の扉を閉めながら雛子は小さく呟いた。やはり玄関先に立つと、木の優しい匂いがよく香ってくる。

「で、そのラボラトリーまでどの位なの?」

「あ、そうか。凪には言ってなかったですけれど、ラボラトリーは此処なんですよ」

 首を傾げずにはいられなかった。雛子の言っている意味も理解できなかったし、雛子が指を差す先が今出てきたばかりの薬屋だ、という事に混乱してしまう。

「え? いや、言ってることがよくわからないんだけれど、雛子。どういうこと?」

「そうですよね。すみません、変に混乱させて。でも直ぐわかりますからちょっと待っててください」

 そう呟きながら、申し訳なさそうに微笑む雛子は、門の方へとてとて走っていく。

 植物や木が植えられている庭の、真ん中らへんまで行ったところで雛子は立ち止った。そしてこちらに振り返ったと思えば、今度はゆっくりと歩いてくる。

 風が吹き抜ける。それは偶然なのか、雛子が引き起こしているのかは定かではないのだけれど、雛子がゆっくり歩いてくるのに倣って、木々や植物も微風に心地良さそうに揺れる。 

 雛子は無言で目を閉じて玄関前まで到着した。ゆっくりではあるけれど、玄関までの道は直線という訳では無い為、躓いたりぶつかったりしなかったことに対して、素直に驚いた。

 曇り硝子が埋め込まれている玄関は木製の引き戸。その引き戸に手をかけたところで雛子は瞼を上げ、僕にその綺麗な瞳を向ける。

「凪、ちょっとこの玄関をゆっくり開けてみてください。いいですか? ゆっくりです」

 玄関に手をかける雛子の、袖口からちらりと見える数々のブレスレット。ミサンガのように編み込まれたものや、数珠。その内の一つが鈍く光っているのが見える。

「僕が開けるの? わかった。ゆっくり、ゆっくりでいいんだよね……?」

 雛子が、数瞬前まで触れていたところに手を添える。ほのかに暖かいのが伝わってきたのは、さっきまで雛子が触っていた熱が残っていたのだろう。

 僕はその暖かさを感じたままゆっくりとスライドさせた。その瞬間、本当に瞬く間の出来事だった。

 有り体に言えば、重力が反転して無重力に近い感覚に酔ったというか。一秒で何百回という微振動を体に負担させられたような、なんとも言い難い苦しさ。そういう得体の知れない感覚に、眩暈を覚える。

 そして気付けば僕はいつのまにか何かを掴んでいた。

「あれ……なんで、僕はなんで……なんでドアの取手を……?」

 横にスライドさせていた筈の、木製で曇り硝子が埋め込まれた引き戸は既にその形を失っていた。というのは、その引き戸が、洋式のドアになっていたからだ。ドアの取手を掴んで、奥に押し込むことで扉が開くシステムの玄関へと変わっていた。僕の手の中で変わってしまっていた。

 どうして? 瞬きをしたほんの一秒にも満たない内に、一体なにがあった?

「凪、そのまま扉を開けて? そこが薬屋さんのラボラトリーなの。ラボラトリーの入室する為に必要な事だったから、こんな面倒なことしちゃったけれど、ラボラトリーはちょっと変だけれどおかしな場所じゃないし、私も一緒に行くし……だから安心して?」

 そっと僕の手に雛子の手の平が重なる。それどころか、もう僕と雛子の距離はゼロ距離だ。こうしてくっついていると、混乱した頭も何故か落ち着きを取り戻してくる。溢れんばかりの不安も、今では奇妙なほど安心感へと変わっている。

 そして僕は、こちらを優しく見つめて微笑んでくれている雛子と一緒に、その引き戸から変わってしまった洋式のドアを押し開けたのだった。






扉を開けたときに香る、あの独特かつ特殊な香り。薬品を取り扱う室内のあの薬臭い匂いが、僕の鼻腔を鋭く突き抜ける。

 その香りに、未だに混乱している頭が少しずつ冴えてきた。地に足が着いてない感覚は、時間と共に薄れていく。

 恐る恐る開けたドアの先には、科学実験室さながらの光景が広がっていた。それも、思っていたよりもずっと広い室内。幾つかのランプや間接照明が点々と灯っているが、室内はなんだか薄暗い。

 広いとは言っても、幾つか設置されているテーブルや台の上には、沢山の物で埋め尽くされている。その中でも、一際実験道具が散らかっている中央のテーブルが恐らくメインの実験場所なのだろう。様々な実験道具を今も使用しているのが、ここからでも見える。

 アルコールランプに熱されている複数の三角フラスコ。中身の液体は薄い黄色で、ぶくぶくと気泡が底から浮かんでいる。気泡と共に発生した真っ白い煙のようなものが表面からなだらかに流れて、テーブルを蛇のように這っている。

 そうして一定の気泡が表面に溜まると、まるでシャボン玉のようにゆっくりと膨らんでいって、針でも刺したかのようにあっさり割れる。その膨らんでいって割れてを繰り返す、そんな三角フラスコがざっと見ただけでも七箇所もある。

 更にそのテーブルには、フラスコや試験管などを固定して実験を安全に行う為のスタンド・ムッフや、支柱を自在に変えられるスタンドに、角度や固定方法が自由なムッフ。光学機器やヒーター等を必要な高さで使用するのに便利なジャッキも完備されている。

 実際に今、薄暗い中でフラスコと試験管が固定され、その中身である琥珀色の液体がなにやら怪しい光に照らされている。特に動かしたりしていないのに、中身の液体は静かに泡立ったり、波打っていたりしている。

 とても怪しすぎる場所なのだけれど、僕にとっては非常に興味深くて興奮を隠せないこの部屋の中で、先程薬屋で会った男が待っていた。

「や、待ってたよ」

 一瞬、目の前にいる男は誰なのかと思った。

 何故なら先程と、着ている服が全く違うからだ。薬屋で出会った時は、黒と群青の中間みたいな色合いの綺麗な浴衣だった。緑色の曲線が凄く印象的でとてもよく覚えている。

 しかし今は白衣姿だ。深緑色したTシャツの上に、白衣を羽織っている。なんだか浴衣の時に感じたあの絶妙なだらしなさが、白衣の清潔感で幾らか軽減されているように思う。

「散らかっている、という訳ではないのですが……相変わらず物が多いラボラトリーですね」

「そう、決して散らかっている訳ではないんだよ雛ちゃん。ただちょっとだけ物が多いだけ。さ、とりあえずよく来てくれたね。そこの彼も、適当に休んでよ」

 そう促された先には、L字のソファーと、二人掛けのソファーが対面しているスペースがあり、その間にはちょっとしたテーブルも設置されている。テーブルの上には灰皿とランプが設置されており、ランプには既に火が灯っていた。ランプの火の影がゆらゆらと揺れ、テーブルに光の陰影と模様を作り出している。

 そのソファの置かれたスペースには余計なものが無く、逆にその空間が部屋から切り離されているように感じる。いや、普通ならばなんの違和感も無いのだろうけれど、このラボラトリー全体の雰囲気の中だとどうしても、綺麗に片付いている部分がなんか少し気になる。変なところで几帳面なのだろうか。

 僕と雛子は促された通り、L字のソファにぞれぞれ腰掛けた。身体を包み込む優しい沈み方で、とても座り心地が良い。そして僕と対面するように、浴衣の男もとい白衣の男も腰を掛ける。

「初めまして。俺の名前はシャノン・エルファーアルベラムと言う。このラボラトリーで科学者として調合や研究をしているよ。名乗るのが少し遅くなってすまないね。まぁ俺のことは何とでも呼んでよ。エルファーとかエルって呼ばれる事が多いかな」

「シャノン・エルファーアルベラム……さんですか。なんだか科学者って感じの名前ですね。じゃあ……エルファーさんと呼ばせて頂きますね」

「実際科学者だしね。ま、慣れてきたら適当に呼び方変えてもいいからね。あと、俺は二十八のおっさんなんだけど、別に敬語じゃなくてもいいんだぞ? その、日本の敬語っていうの、少し苦手なんだわ」

「僕の故郷は目上の人にも、仲の良い人にも敬語を使うような文化でしたからね。いきなり敬語を止めるのは、なんだかやはり抵抗がありますね。でも努力します」

「うん、宜しくさん。なんっていうかなー……こう、距離がさ。いや物理的な距離じゃなくって、心の距離が一向に縮んでいかない気がするんだわ。まぁでも、もしかしたら君とは、今日これっきりの出会いなのかもしれないけどな」

 エルファーさんは顎鬚を触りながら、柔和に微笑んだ。二十八歳はおっさんの部類には入らないと思うし、エルファーさんはかなり話しやすい雰囲気の人だ。意識せずに人を惹きつけるのに長けている、というか。

 なんだか話してみて、更に不思議な人だなと思った。

「僕の名前は、御巫凪と申します。好きなように呼んでください」

「御巫凪だって? あはははははそうか、お前が御巫凪だったのか」

 突然箍が外れたように笑い出すエルファーさん。くつくつと、身体を揺らしながら俯いている。どうも笑いを堪えようとしているのだけれど、堪えきれないようで時折笑い声が漏れている。

 これには雛子も首を傾けて、不思議そうにエルファーさんを見つめている。

 意味もわからずに、名前を名乗っただけでここまで笑われると流石に、少し不快な気持ちになる。それでつい、語気が荒くなってしまいそうになるのを、なんとか心の中で押さえつけた。

「エルファーさん、一体どうしたんですか? 僕の名前、そんなに面白かったでしょうか」

「いやー、違う違う。いきなり笑っちゃってごめんごめん。ちょっと待ってて」

 そう言ってエルファーさんは、パタパタとこのラボラトリーの中を小走りしている。少し奥でごそごそした後、何かを見つけたのか笑顔でこちらへ戻ってきた。

「君が御巫凪、だったんだねぇ。ほら、これ見てみてよ」

 テーブルの上に一冊の本が置かれる。良くわかる植物図鑑と書かれた表紙の本だ。……え? よくわかる植物図鑑って、どこかで聞いた事あるような……。

「ねぇ、凪……これって、もしかして」

「ちょっとまって雛子、いや僕もそう同じこと考えていると思うんだけれど……いや。まだ信じたくないというか……」

「まぁ、中身はこんなんだよ」

「やっぱ図書館の本の悪戯はあんたかよ!」

 エルファーさんは僕に向かって良くわかる植物図鑑を開いて見せている。その内容は勿論ムーンガーデンに生える植物の詳しい生態や、写真が付いている訳ではない。

 水着なのか下着なのか、もはやよくわからない布を身につけたほぼ裸の女性の写真が、二ページ分印刷されていた。勿論扇情的なそのえっちな格好とポーズに、僕の目は数秒奪われる羽目になる。……非常に巧妙且つ狡猾な罠だ。

 あと、雛子がきゃーきゃーいいながら顔を覆っていたのだけれど、指の隙間からばっちり見ていた。先程図書館でもだったので、やはり年頃の乙女もこういう事は気になるらしい。

「エルファーさん……いや、もうエルでいいや。なんて事してくれたんですか、その時雛子が隣にいて大変だったんですから。……でも、なんで僕が借りたって知っているんですか?」

「君が借りたであろう本に細工してて、誰が借りたかって履歴が俺のところに来るようにしてたんだわ。いやー、でもうん、悪かったよ。でもこれにはね、俺なりの理由があってだね」

 笑いの余韻を少し残しながらそう呟くと、エルは白衣のポケットから煙草を取り出して咥えた。

 先程までの遠慮の欠片も無く笑い転げていた時と、今のエルが同じ人物と思えないくらい、神妙な空気になる。ころころと目まぐるしく雰囲気の変わる男だ。 

「さっきの店で見た通り、俺は薬屋を営んでいる。そして、科学者だ」 

 エルはテーブルに置かれているランプを持ち、咥えていた煙草をランプの火で点けた。すーっと深く吸い込むと、ゆっくりと紫煙を吐き出した。空中をゆらりふわり漂う煙は、どこか芸術めいている。

「御巫、お前は第一世界からきたんだよな? どうだ、この世界は」

 突然話を振られたのと、今までと雰囲気が違うエルの影響か、一瞬頭が真っ白になる。エルが醸し出す空気というか、彼の住む特殊な世界の中に引きずられていく錯覚を覚えてしまう。

「えっと、未だにわからない事や慣れない事が多すぎて……戸惑ったり不安に思う事ばかりだけれど、それと同じ位この世界の事を知りたい気持ちや、これから受ける沢山の授業に期待している自分がいます」

「そうか。まぁ俺も第一世界から来たんだけどな。俺は第一世界でも今みたいに科学者みたいな事やってたんだよ。だから、あの変な手紙で問答無用にムーンガーデンに連れて来られたとき、心の底から呆然としたんだ。そして壊れそうになった。こんな理解できない現象、こんな魔術なんて空想のもの、こんな異世界を信じる事が出来なかったんだよ」 

 とん、と灰皿に煙草の灰を落とす。

「御巫凪、お前は戸惑っていたり、不安に思うと言ったな?」

「は……はい、ムーンガーデンに来てまだ間もないってのも、あるかも知れないです」

「そう。そう感じることが、普通なんだよ。人間はとても弱い生き物なんだ。少し環境が変わっただけで、そんな些細な事で心を病んでしまうような、凄く脆くて繊細な生き物なんだよ。でも。意外に思うかも知んないけど、そういう事に無頓着な人も多い。御巫凪の同期も恐らく、既にこのムーンガーデンでの生活を、疑問も持たずに謳歌しちゃってる人も多いんじゃないかと思う。いやそれ自体は悪いわけじゃなくって、むしろ良いことなんだけど。俺達のような第一世界の人間は変化に弱いはずなのに、この世界に来ると、人間本来の危機管理本能が薄れてしまうのか、そういう事を疑問に思わなくなるみたいでな」 

 此処が一体何処で、魔術とはなんなのか。そんな空想上の産物が何で存在しているのか。この世界にはどんな歴史はあるのか。そもそも俺のそういう考え方が、この世界ではおかしいだけって可能性も、結構濃厚だったりするんだけどな。とエルは苦笑いしている。

「言われて見れば確かに、僕の同期の殆どは見た感じもう順応していたというか……ムーンガーデンでの生活も、違和感無く過ごしてるようにも見えました。むしろ先輩なのかと間違うくらい、もう立ち振る舞いが自然に見える人も居た位でした」

「まぁ、直ぐに状況の変化に合わせて、自分の気持ちを切り替えられる人達なのかもしれないしな」

 エルは物憂げに遠くに視線を向けている。先程の口ぶりから、エルがキスハート学園に入園した頃の事を思い出しているのかもしれない。良い思い出なのか、それともあまり思い出したくない類の記憶なのか。

「確かにそうかもしれないですね……でも、その話とさっきの本の表紙をすり替える話と、どんな関係があるんですか?」

 エルの語ったことは確かに僕も思っていた事だったから、頷ける内容だった。けれど、その話からどう頑張っても、僕の頭では表紙すり替えの話に繋がらない。

「まぁ、これは俺のちっぽけな推測と思ってくれていい。あの例の手紙によってこの世界に連れて来られてしまった事で、不安な気持ちや疑問を持った人間はまずどうするか。人にあれこれ聞くか、それが出来ない奴は図書館に行くんだよ。……まぁ俺がそうだったようにな。そういう奴が調べたい事は多分、この国の歴史か動植物等の生態系、情報誌に、世界地図だ。そのどれかに引っかかるように、トラップを俺は仕掛けた」

「トラップ……でも、何故ですか? わざわざそんなトラップを仕掛けてまで、エルの目的って……?」

「疑問を感じ、その疑問を解く事に少しでも意欲的な人材が、欲しかったからだよ。それこそ入園して間も無く図書館に行って、さっき挙げた本を借りるような、そういう人材が今欲しかったんだ」

 煙草の先が赤々と燃える。エルは、肺を満たした紫煙をゆっくり吐き出して、周りに燻らせると視線だけを此方に向けると、にやりと唇を歪ませながらこう宣言したのだった。

「御巫凪、お前には今日からこのラボラトリーの助手になってもらう」





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