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恋愛小説のはずでした

「俺よりいい男がいるものか」と笑った元婚約者へ。ええ、隣にいます。

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/09/06

「ほら、こんな顔をするんだ。口をへの字に曲げて、鼻まで真っ赤にして」


 婚約者のエーミールが顔をくしゃりと歪めると、向かいの青年が吹き出した。隣の令嬢は扇で口元を隠したけれど、その目も笑っている。私は手袋の中で爪を立て、今しがた涙を拭いたハンカチを握りしめた。

 慈善公演が終わったばかりの劇場の社交室は、客たちの話し声で賑わっていた。頭上の魔石灯は明るく、こんな時に限って、私の顔を隠せそうな陰はどこにもない。


「エーミール、もうやめて」

「おや、本物のほうがよかったか?」


 やめてほしいと頼んだ言葉まで冗談にされて、私はもう一度周囲を見た。誰も彼を止めようとはしていない。


「そうじゃなくて。嫌なの」


 声を落として頼んだのに、彼はわざわざ私に顔を近づけ、周りにも聞こえる大きさで言った。


「泣けば皆がかまってくれると思っているんだろう。隣に座る俺の身にもなってくれよ。たかが芝居で、あそこまで泣くか?」


 戦地から戻った息子に、母親が食事を出す場面だった。遅くなったわね、と叱る声が震えていて、私はそれだけでも堪えきれなかった。息子がいない時から食卓に並んでいた二人分の皿を、あの母親は何年、洗っては出していたのだろう。

 終わったらその話をしたかった。エーミールも、少しは同じところを見てくれていると思っていた。


「ダール様。そのあたりでおやめになっては」


 隣の輪から声がして、黒髪の男性がこちらを向いた。テアの屋敷で何度か顔を合わせた、ハルトヴィヒ子爵家の次男だった。守備騎士団の制服を着た彼は、笑っていなかった。


「フェルナー嬢が嫌がっていらっしゃいます」

「婚約者同士の冗談ですよ。彼女も本気で怒ってはいません」


 このまま黙っていたら、助けに入ってくれた人まで、私たちの冗談を真に受けたことにされてしまう。


「私は嫌だと言いました」


 思ったより大きな声が出た。扇の向こうの目が私に戻ってくる。エーミールは驚いたように瞬きをしてから、困った子供にするような笑い方をした。


「そんなにむきになるな。君の泣き虫に四年も付き合ってやれるんだぞ。俺よりいい男がいるものか」


 周りの誰かが小さく笑い、付き合ってやったと言われた悔しさで、私は顔を上げられなくなった。その四年間、私は彼に会うために服を選び、好きだと言われた髪飾りを何度もつけた。話が長いと言われてからは、会う前に何を話すか考え、半分くらいに減らした。

 それでも今日は、一緒に芝居を観られるのが嬉しかった。どうしてこんなひどい人を、まだ好きでいようとしているのだろう。


「付き合ってくださらなくて結構です。婚約を解消してください」


 エーミールの笑顔が止まり、先ほど吹き出した青年が私たちから目を逸らした。胸が痛くて、言ってしまったことを取り消したくなる。彼が一言謝ってくれれば、私はまた、今までどおりに笑おうとしてしまうかもしれない。


「芝居の話でそこまで言うのか」

「やめてほしいと頼んだことまで笑われて、あなたと結婚するのが怖くなりました。これから先も、悲しい時に、泣いている顔を真似されるのは嫌です」


 怖くなったとまで話したのに、彼は私の背後へ目を向けた。周りに聞かれるほうが気になるらしい。


「ノーラ、落ち着け」

「落ち着いたら、我慢できると思うの?」


 彼が口を開きかけて閉じるのを見ながら、私は涙を拭いた。今泣けばまた何か言われると思うと悔しくて、余計に目から溢れてきた。


「父と母には私から話します」

「好きにするといい。後で困っても知らないぞ」


 私は頷いて、離れた窓際にいる母のところへ歩いた。振り向かなかったけれど、背中に謝罪の声がかかるのを、最後まで待っていた。


* * *


 三日後、婚約は正式に解消された。事情を聞いた母は怒り、父は、なぜ早く話さなかったのかと言いかけてから、私の顔を見て口をつぐんだ。結婚したくないなら、それでいい。父がそう言ってくれた時、私はようやく息をつけた。

 エーミールも解消に同意したそうだ。ただ、父同士の話し合いの席で、私はすぐ考えを変えるだろうと言ったという。


 それを聞いた時は腹が立ったのに、彼から贈られた品を箱に詰めていると、涙が落ちてしまう。

 初めての夜会で緊張して何も食べられなかった私に、彼は小さな焼き菓子を持ってきてくれた。人の少ない窓辺で、二人で食べた。指についた砂糖を見せ合って笑ったことまで、はっきり覚えている。

 あの頃の彼は優しくて、私はちゃんと好きだった。それを思い出すたび、捨てるのを惜しんでいるようで、泣いている自分にも腹が立った。


 箱を閉じた日の午後、テアから昼食の誘いが来た。夫の友人のハルトヴィヒ様も来るけれど、気まずければ別の日にしましょう、と添えてあった。

 恥ずかしいところを見られたとは思うけれど、あの時、彼が口を挟んでくれて嬉しかった。まだ言えていないお礼も伝えたくて、私は便箋を取り出し、ぜひ伺いたいと返事を書いた。


* * *


 テアの家を訪ねたのは、公演から十日ほど経った昼だった。食事が済み、テアが茶を注いでいる間に、私は向かいに座るハルトヴィヒ様に礼を言った。彼はカップを置き、少し眉を寄せた。


「礼を言われるほどのことはしていません。私も腹が立ちましたから。ああいう時に、冗談だと言われると困りますね。こちらまで黙っていなければならないようで」

「私も、よく分からなくなっていたんです。本当に気にしすぎなのかしらって」


 強く言い返せなかった自分を責められるかと思っていたので、私はほっとした。あの時に困っていたのだと、彼にはそのまま話せそうだった。


「あの場でおっしゃってくださってよかった。お嫌なのは分かりましたが、私のほうが余計な口を出したかとも思ったので」

「いいえ。とても嬉しかったです」


 彼はそこでようやく表情を緩めた。私も茶を飲むことができた。


「そういえば、あの芝居なんですが」


 彼の言葉に、カップを持つ指が一瞬止まった。


「母親は、なぜあんなに怒っていたんでしょう。息子が帰ってきたのに。あそこは私には、少し難しくて」

「怒っていたんじゃありませんわ。泣くのを我慢していたんです」


 あの場面を怒っていると受け取る方もいるのかと、少し驚いた。どこで我慢していると分かったのかと聞かれ、私は母親の台詞より先に、舞台に置かれた食卓を思い浮かべた。


「ずっと二人分の皿があったでしょう。帰ってくるか分からないのに、毎日出していたんです。やっと帰ってきた息子の顔を見たら、何から言っていいか分からなくて、それで、お腹が空いているでしょうって」


 身を乗り出して話してから、私は背筋を戻した。母親役が椅子を引く時の手まで説明しようとしていた。そこまでは聞かれていないのに。


「ごめんなさい。私ばかり喋って」

「その皿は、最初から二枚あったんですか?」


 続きを待つ顔を見て、私は口を開いたまま彼を見返した。


「ええ。息子がまだ帰ってこない、最初の場面から」

「そこを見落としたのか。もう一度観たいな。僕なら玄関で母に抱きついてしまうから、あの二人が食卓につくまで話せないでいるのが、もどかしくて」


 大柄な彼が母親に抱きつくところを想像して、私は笑ってしまった。


「ハルトヴィヒ様がお母様に?」

「今でも帰省すると子供扱いですよ。背が伸びたねと言われます」


 私よりずっと背の高い方なのに、母親にはまだ育ち盛りの息子に見えるのだろうか。


「まだ伸びていらっしゃるの?」

「二十五ですし、さすがに止まったと思います。ただ、母が毎回感心してくれるので、僕もそうかなあと」


 とうとうテアもカップを置いて笑い出した。私が笑うと、彼はいっそう真面目な顔で、来年は測ってから帰ろうかと言う。

 もっと話していたかった。この人が何を面白がり、どんなことを言うのか、まだ聞きたかった。


「来週、新しい喜劇が始まるんです。もしお好きでしたら、ご一緒しませんか」

「ぜひ。いつですか?」


 返事が早くて、誘った私のほうが驚いた。八日後と答えると、彼はその日は非番だと言い、テアも一緒に行くと頷いてくれた。


「楽しみだな。フェルナー嬢、よかったらベンノと呼んでください。僕もノーラ嬢とお呼びしていいでしょうか」

「ええ、ベンノ様」


 名前を口にしただけで妙に照れてしまい、私は冷めかけのお茶を飲んだ。


* * *


 約束の日は、朝から晴れていた。私は窓辺で青い服と薄紅の服を交互に当て、最後に、自分の顔色がよく見える薄紅のほうを選んだ。

 劇場の入口でベンノ様がよく似合うと言ってくれて、選んだ甲斐があったと嬉しくなる。お礼を言いながら、彼がもう一度こちらを見てくれないかと考えてしまい、そんな自分に照れた。


 喜劇は、とんでもなく臆病な青年が恋文を従僕に託すところから始まった。届け先を間違えた従僕のせいで、青年は恋人の父親に愛を告白しかけ、最後には自分で恋人のもとへ走っていく。

 ベンノ様は、その青年が窓の下で告白の練習をするたびに笑った。次に失敗しそうになると、私まで彼の横顔を確かめてしまう。役者を観に来たのに、今日は隣も気になって忙しかった。


「でも、あの従僕を許すのはいいとして、次の手紙くらい自分で届けてほしいわ」


 帰りに入った菓子店で言うと、ベンノ様は果実のタルトを切りながら首を傾げた。


「従僕が間違えなかったら、あの主人は一生告白できなかったんじゃありませんか。僕なら、失敗してくれてありがとうと言うかもしれない」


 お父様に抱きつきかけたのに、と私が笑うと、ベンノ様も可笑しそうに言った。


「あそこを乗り越えれば、本人への告白は怖くないでしょう」

「私は練習の声が大きすぎるのが気になったわ。あれ、家の中に全部聞こえているでしょう」


 テアの言葉に、私は例の台詞を思い出した。


「そうよね。窓に向かって、『これは内密の話だ!』ですもの」


 ベンノ様が吹き出して、フォークを皿に戻した。堪えようとしてまた笑うので、つられて私も笑ってしまう。

 この顔が好きだと思った。もう一度笑ってほしくて、次に話すことを探していた。会話が途切れるのが怖いから話題を考えていた頃とは、まるで違う気分だった。


「次は、僕からお誘いしてもいいですか」


 笑いが収まった後に尋ねられ、私は慌てて頷いた。もちろんだと返事をしながら、今度はどんな芝居を一緒に観られるだろうと考えていた。


「テアに手紙を預けると、送り先を間違えたふりをされそうなので、直接」

「私なら本人を連れていくわ。そのほうが早いもの」


 彼はテアに笑い返してから、私に目を戻した。


「だから自分で伺います。ノーラ嬢といると、観終わった後まで楽しい。今日も、まだ帰るのが惜しくて」


 嬉しくて、頬が緩むのを止められなかった。ここで黙っていれば、後からきっと、言えばよかったと悔やむ。


「私もです。まだ一緒にいたいです」


 ベンノ様は嬉しそうに頷き、店員を呼んでお茶のお代わりを頼んだ。帰る時刻が延びたと思うと、それだけでまた顔が緩んでしまった。


* * *


 その四日後、あの母親と息子の芝居の再演に誘う手紙が届いた。見落とした皿を確かめたいので、ぜひ一緒に、とある。私は嬉しくて一度読み、日付を確かめるためにもう一度読み、夕食の後にも開いてしまった。返事はその日のうちに出した。


* * *


 それから一週間後、伯爵家の庭園会で彼を見つけた私は、公演の日より早く会えたのが嬉しくて、自分から足を速めていた。


「ベンノ様。あの喜劇も、もう一度観たくなってしまいました」

「僕もです。ただ、次は笑うところが分かっているので、その手前から笑ってしまいそうだ」


 窓が出てきただけで危ないですわね、と言うと彼が笑い、私もつられた。そのすぐ後ろから、聞き慣れた声がした。


「もう十分だろう、ノーラ」


 振り返ると、エーミールが立っていた。整えた明るい髪も、口元の笑い方も、一か月前と変わらない。


「君たちが劇場にいたと友人から聞いたよ。随分楽しそうだったらしいじゃないか」


 楽しかったと答えても、エーミールはベンノ様に挨拶をしようともせず、私に話しかけ続けた。


「分かったから、もう意地を張るな。俺を嫉妬させたかったんだろう」


 胸の奥がかっと熱くなった。この人に会うために服を選んだのではない。今だって、ベンノ様と再演の話をしたかった。


「あなたのために出かけたんじゃありません」

「では、本気でその男を選ぶつもりか? 子爵家の次男だぞ。俺と結婚するほうが、何に困ることもないだろうに」


 ベンノ様が一歩、私の近くに来た。


「ダール様。ノーラ嬢のお話を聞いてください。戻りたいとはおっしゃっていません」


 私は彼に頷いてから、エーミールに向き直った。


「戻るつもりはありません。婚約はもう解消しました」

「分かっているさ。だから、改めて話せばいいと言っているんだ。君だって、俺が嫌いになったわけじゃないだろう」


 婚約を解消しても、私の気持ちだけはまだ自分に向いていると信じているらしい。私は首を横に振った。


「もう、結婚したいと思わなくなったの」


 庭園のあちこちから聞こえていた会話が、近くでは止まっていた。エーミールは笑いながらこちらへ顔を寄せ、他の人に聞かれたくない話をする声になった。


「そんなことを言って、昔は俺の後をついて回っていたじゃないか。ほかの女と話せば、ずっと待っていたくせに」


 彼の言うとおりだったから、恥ずかしかった。帰り際に少しでも話したくて、何でもない顔をしながら待っていた。好きだった時の私を、今になって皆の前へ引きずり出されるのがつらかった。


「待っていたわ。あなたが好きだったから」


 それならと話を進めようとする彼を、私は遮った。最後まで聞いてほしかった。


「好きだから、嫌われたくなかったの。つまらない女だと思われたくなくて、あなたが私をからかう時にも笑っていたわ」


 喉に力が入って声が細くなり、私は一度息を継いだ。エーミールは、ほら見ろ、という顔で続きを待っている。


「家に帰ってから泣いたこともあるのよ。次に会ったら言おうと思っても、会うと優しくしてくれるから、今度こそ大丈夫だと思った。何度もそう思ったわ」

「だから、あれは冗談で」


 またその言葉で済ませられるのかと思うと、私はもう声を抑えていられなかった。


「嫌だと頼んだでしょう! 私、あの日ちゃんと頼んだわ。それでもあなたは、私が泣く顔を、知らない方たちの前で真似したのよ」


 エーミールが黙った。近くのご婦人が眉をひそめるのが見え、頬がますます熱くなる。大声を出すつもりはなかった。でも、ここでまた私が謝ってしまうのは嫌だった。


「笑われて悲しかった。あなたにも一緒に泣いてほしかったわけじゃないの。私の顔を真似して、皆を笑わせないでほしかった。それだけだったのに」


 彼は何かを言おうとして、私の斜め後ろへ目をやった。


「そいつは、君の話を何でも聞いて褒めるんだろう。今は君の気を引きたいんだから、それくらいするさ」

「何でも褒めてくださるわけじゃありません」


 あの喜劇の従僕に、ベンノ様は礼を言いたいと笑った。次は自分で届ければいいと考えていた私には、思いもしない感想だった。どうしてそう思うのか聞くのが楽しくて、私は彼の話の続きを待っていた。


「私が思いもしなかったことをおっしゃるから、もっと聞きたくなるの。一緒に観た芝居を思い出して、帰ってからも笑ってしまうのよ」


 話しながら彼の顔を見た。心配そうにしていたベンノ様と目が合い、さっきまで腹立たしかった胸が、急に落ち着かなくなった。


「今日は、あなたにお会いしたくて来ました。再演も楽しみですけれど、それまで待つのが長くて」


 彼の頬に、はっきりと赤みが差した。それを見て、私まで照れた。


「……本当にいるというのか。俺よりいい男が」


 エーミールに向き直る時、私は半歩下がり、ベンノ様の隣に並んだ。


「ええ、隣にいます」


 自分で答えると、胸がどきどきした。エーミールへの返事だけでは済まなくなる。それでも、この人に聞いていてほしかった。


「私はベンノ様が好きです。これからも一緒に出かけたいし、嬉しいことがあったら、一番にお話ししたいと思っています」


 エーミールが短く笑った。私が笑い返さないと唇の端が下がり、彼は私とベンノ様を見比べた。もう一度口を開いて出てきたのは、さっきまでとは違う、途方に暮れた声だった。


「俺には、最近そんなふうに笑わなかったじゃないか」


 その声に、少しだけ胸が痛んだ。私にも、彼と楽しく笑い合いたかった頃がある。今日の服も髪も気づいてほしくて、つまらない話でもいいから聞いてほしかった。


「あなたが笑うと、次は何を言われるんだろうと思うようになっていたから」

「ノーラ」


 彼の声が弱くなった。周りを見回し、こちらへ伸ばしかけた手を下ろす。


「もうしない。ああいうことは言わないから。芝居の話も、ちゃんと聞く。俺だって、君が喜ぶほうがいいに決まっているだろう」


 私は返事ができなかった。あの夜に、それを言ってくれたら。もっと前に、私が小声でやめてと頼んだ時に、聞いてくれていたら。


「だから、戻ってきてくれ。今度はちゃんとする」


 昔好きだった人が、皆に見られながら私の返事を待っていた。可哀想だと思った。その気持ちに押されて頷いてしまいそうで、私は自分の口で、はっきり答えた。


「ごめんなさい。もうあなたとは結婚しません」


 彼は私の名を呼んだ。けれどその時、テアに伴われた主催の伯爵夫人が間に入った。


「ダール様。お返事はお済みのようですから、こちらへ」

「夫人、これは私たちの」


 夫人は彼の言葉が終わるのを待たず、こちらへ、と静かに繰り返した。彼は口を閉じ、最後に私を見たけれど、私は頷かなかった。

 夫人とともに遠ざかる背中を見送り、肩から力が抜けた。どう言えば信じてもらえるのか、傷つけずに納得させられるのか、もう考えなくてよかった。


「ノーラ嬢」


 ベンノ様に呼ばれ、私は今しがた口にしたことを一度に思い出した。エーミールにはあんなに言えたのに、彼と目を合わせるのが急に難しい。

 テアが少し歩いてきたらと言ってくれて、私たちは花壇沿いの小径へ移った。振り返れば彼女たちが見える距離で立ち止まると、ベンノ様が深く息を吐いた。


「すみません。何から言えばいいのか」


 大声を出してしまったことを謝りかけると、彼は慌てて首を横に振った。私を見ては笑いかけ、一度口元を押さえてから、嬉しくて何から話せばいいか分からないのだと言った。


「今日は僕から、交際を申し込むつもりで来たんです。ちゃんと考えてきたのに、先にあんなことを言っていただいて、何も出てこなくなりました」

「私も、あそこで言うつもりではなかったんです。でも、ベンノ様を好きなのは本当です」


 彼の目を見ると、また恥ずかしくなる。それでも、聞いていてくれるうちに全部言いたかった。


「観劇のお誘いも、お礼だけではありませんでした。もっとお話ししたかったんです。今日はお会いするのが楽しみで、家を出る前に、髪を三度も結い直してもらいました」


 私のまとめ髪に彼の目が行った。そんなところまで明かさなくてもよかったと思ったけれど、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。


「よくお似合いです。最初に言えばよかったな。会えたのが嬉しくて、芝居の話を始めてしまって」

「次の時にも、言ってくださいますか」


 次に会う日も楽しみにしているのだと伝わってほしくて、私は彼の顔を見上げた。ベンノ様は姿勢を正し、私の目を見て答えた。


「次も、その次も。気づいたことは、ちゃんと言います。ノーラ嬢。あなたが好きです。結婚を考えて、僕と付き合っていただけませんか」


 嬉しくて頷いたのに、涙まで出てきた。私がハンカチを取り出すより先に、ベンノ様がそっと手を広げた。


「抱きしめても?」

「はい。お願いします」


 近づくと、背中に腕が回った。私も彼の上着を掴んで、もう少しだけくっついた。胸がいっぱいで、せっかく返してもらった言葉をうまく返せない。それでも、頷くだけでは足りないと思った。


「私も、あなたと結婚したいです。ベンノ」


 腕の力が少し強くなり、頭の上で彼が息を吐いた。顔を上げると、困ったように笑っていた。


「今、それを言うんですね。せっかく落ち着いたのに」


 私まで照れくさくなって笑った。まだ涙が残っていて、きっとひどい顔になっている。それでも離れるのが惜しくて、彼の袖を掴んだまま尋ねた。


「近いうちに、お父様とお母様に会っていただけますか」

「ぜひ。僕からご挨拶に伺わせてください」


 次の観劇の日まで待たなくていい。父も母も、明日の午後なら家にいるはずだった。


「では、明日の午後は?」


 ベンノは目を丸くし、それから声を立てて笑った。


「行きます。非番でよかった。ノーラ、明日も会えるんですね」


 私は嬉しくなって、まだ彼の腕の中にいるのに、明日着る服を考え始めた。


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― 新着の感想 ―
エーミールの行動、子供ならひんしゅくは買うだろうけど許されるかもしれませんが、いい大人がやったらドン引きレベルですよね。
エーミールは健気に合わせてくれる婚約者がいたから無駄に自己肯定感高くなったんだろうな。 今後は婚約者に対する小学生男子な行いが周りにヒソヒソされてプライドもぺちゃんこになるだろうけど。
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