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そぼ降る雨夜(あまよ)に、幽と咲く

作者: 冬生 恵
掲載日:2026/06/21

「──きつね様」


 古びた邸の門をくぐって現れたその男性を、少女は笑顔で出迎えた。青年の金色の髪は(うなじ)のあたりで(くく)られていて、彼の足取りに合わせて右に左にとゆるくはねる。

 その様は少女の呼称通り、狐の尾によく似ていた。







「今日は、どんなお話を聞かせてくださいますの?」


 大きな瞳を爛々(らんらん)と輝かせ、少女は眼前の青年を見上げる。他に類を見ない黄金の髪、琥珀の瞳、雪のように白い肌を持つ青年は、涼やかな目元をゆったりと細めた。


「そうだな。今宵は、名前にまつわる話にしよう」


 低く穏やかな声は、しとしとと降り注ぐ雨音に混じって、少女の耳を心地よく叩く。少女は目を輝かせて、彼の話に聞き入った。



 それは、海の向こうの少数民族の物語だった。

 顔も体もそっくりな九人の兄弟には、それぞれの特技にちなんだ名前が付けられていた。長男のちからもちをはじめ、くいしんぼう、あつがりや、きってくれ、ぶってくれなど。

 ある日、王が宮殿の大柱を直した者に褒美を与えると宣言し、長男が見事にそれを成し遂げた。王は喜んだものの、褒美を渋り始める。そして王は、次々に無理難題を言いつけ、長男を含めた兄弟を殺めようと企んだ。



「……まあ」


 少女は眉根を寄せ、青年を見上げる。「それで、どうなりましたの?」と先をせがむ彼女に、青年はゆったりと笑って話を続けた。



 王は数々の罠を仕掛けるものの、兄弟たちは各々の特技を活かして、難なく回避していく。あつがりは火の中に入れられても平気であるし、きってくれは首を落とされても平然としている。残酷な王も、九兄弟の能力にとうとう白旗を上げた。兄弟たちは約束の褒美を受け取り、彼らは仲睦まじく、平和に暮らした。



 王の横暴に顔を(ひそ)めていた少女だが、九兄弟の活躍に、途端に目を輝かせ始める。大円団を迎えた最後には、彼女は紅葉のような手のひらを幾度も叩き合わせ、喝采(かっさい)の声を上げていた。


「良かった! やはり、人は誠実であるべきですね」

「……そうだな。人の真心を裏切るのは、良くない」


 しんみりと応じた青年に、少女は朗らかに笑って頷く。すると、少女のあどけない笑顔を隠すように、年嵩(としかさ)の女性が二人の間に割り込んできた。彼女はやや乱暴な手つきで、青年に欠けた湯呑みを押し付ける。青年は苦笑し、冷めた白湯を口に含んだ。

 肩を怒らせる女性──かつての乳母であり、侍女である女性を「こら、多緒(たお)」と叱って下がらせ、少女は上目に青年を見上げた。


「……きつね様。やっぱり、きつね様のお名前は秘密?」


 どこかおどけたような彼女の物言いに、青年はただ無言で微笑む。「きつね」とは、世にも珍しい彼の外見にちなんだ呼び名で、彼がどこの誰なのか、少女は一切知らされていない。

 このやり取りも、二人の間でもはやお定まりになりつつあるが、彼が何も言わないであろうことを、少女も分かっていた。

 その代わりに、少女は遠い目で障子の向こうを見やる。薄い雲に覆われ、雫のような雨を(こぼ)す夜空に指を伸ばし、彼女は呟いた。


「名前……、良いなぁ」


 青年は、ぴくりと眉を動かした。


 少女には、名がない。「ねね」という幼名はあるものの、父の存在を知らず、五歳で母と死に別れた彼女に、名を授ける者はいなかった。共に暮らす老翁や侍女も、彼女をただ「ひい様」と呼んでいる。

 青年はしばし少女の横顔を見つめていたが、不意に目元を(ほころ)ばせて口を開いた。


「……『みや』は、どうだ」


 振り向いた少女が目を瞬かせる。無垢(むく)な少女に、青年は小さく微笑んで続けた。


「美しい夜と書いて、美夜(みや)。……呼び名がないのは、俺も不便だ」


 少女は呆然と固まっていたが、やがて頬を朱に染め、(ささや)くように返した。


「みや。……猫の鳴き声のようですね」

「嫌か?」

「まさか!」


 少女は慌てて両手を振り、次にはその両拳を握り締めた。桜桃(おうとう)のようなふっくらとした口元に、小さな拳を押し当てる。


「美夜。……ふふ。(わたくし)は、美夜なのですね」


 まるで天上の甘露(かんろ)を含んだかのように、少女──美夜はうっとりと笑み崩れる。青年は脇息(きょうそく)に半身を預け、微笑と共にその様を見守っていた。




 美夜はその後も次々に話をねだったものの、十五の少女には少々遅い時間になったのか、やがてうとうとと船を()ぎ始めた。

 無邪気なその寝顔を見せまいと威嚇(いかく)する侍女に()され、きつねと呼ばれる青年はおもむろに腰を上げた。ゆっくりと遠ざかる金色の髪を、美夜が眠たげに追う。


「きつねさま。かえって、しまわれるの……?」


 舌足らずな少女の言葉に振り返り、青年は雨音に溶ける声で応じた。


「また、雨の日の夜に。──お休み、美夜。良い夢を」


 その声に誘われるように、美夜はゆっくりと目を閉じた。








 壁のあちこちがひび割れた小さな部屋を抜け出て、青年が(きし)む廊下を渡っていると、ふと柔らかな老人の声が彼を呼んだ。


「──御方(おかた)様」


 金色(こんじき)の青年は、ゆっくりと足を止めて振り返る。その拍子に、懐からまだ新しい檜扇(ひおうぎ)が零れ落ちた。成人の証たる装身具を拾い上げたのは、(しわ)に埋もれた目を細める一人の老翁(ろうおう)だ。


「……()(がと)う」


 青年は廊下の先、眠りに落ちた少女を気遣うように、小さな声で礼を述べた。

 老翁は、この家の家司(けいし)だ。長年、雑務や肉体労働などを一手に引き受けてきた。白髪混じりの容貌に似合わず、機敏に川魚を捕らえて帰ってくるのだと、いつか少女が誇らしげに語っていた。

 青年は老人に目礼(もくれい)し、そのまま(きびす)を返す。その背中に深く(こうべ)を垂れていた老翁も、青年が完全に姿を消すと、矍鑠(かくしゃく)とした足取りで主室に向かった。


「ひい様、そんなところで眠ってはなりませぬ。じいはもう、おんぶ出来ませんぞ──」










 その日も、雲一つない晴天だった。

 雨月(うづき)にも関わらず、汗ばむような陽気が続いて久しい。

 寂れた邸には、今日も耳慣れた生活音が響いていた。じいやが畑を耕す力強い音。侍女の多緒(たお)が瑞々しく育った野菜を()り、美夜(みや)がそこに着いた泥や汚れを払う音。またある時には、じいやが捕らえてきた川魚が跳ねる、ピチピチと威勢のいい音もする。他にも、多緒と美夜が頼まれた(つくろ)い物をこなす際の、糸を切る(はさみ)の音もあった。


 五つで母と死別した美夜は、母が(のこ)した祖父の財産を守りながら、じいやたちと慎ましく生きてきた。


 けれど、細々(ほそぼそ)とした生活にも、やがて限界は訪れる。収穫に恵まれない年、ついに空腹に倒れそうになった頃、祖父の友人だという匿名の人物から、僅かながらの支援を受けるようになった。多緒はずいぶんと警戒していたが、背に腹はかえられぬという状況に、やがて折れた。


 ただし、それ以降も、日々懸命に働かなければ、生活はおのずと立ち行かなくなる。今も美夜は家人たちと共に汗を流し、労働に(いそ)しんでいた。


 野菜の収穫には、晴れた日はもってこいだ。

 けれど、雨が降らなければ、きつね様は美夜に会いに来てくれない。

 彼女は恨めしい思いで、晴れ渡った青天を見上げていた。







 三日後、ついに待ち焦がれた雨が降り始めた。

 美夜(みや)は昼間からそわそわと落ち着かず、何度も空を見上げては、庭先に出て門の外を伺っていた。侍女の多緒(たお)が、顔を(しか)めてその後を追う。

 やがて都全体が夜の(とばり)に包まれた頃、雨音に混じって、牛車の車輪の音が聞こえてきた。廊下に出て耳を澄ませていた美夜は飛び上がり、そそくさと表に向かう。

 けぶるような霧雨の中、傘を差してゆっくりと門をくぐった青年を見付け、美夜は弾んだ声を上げた。


「きつね様!」


 夜目にも鮮やかな琥珀色の瞳を瞬かせ、青年は美夜の元に小走りで駆け寄ってくる。彼は急いで美夜に傘を差し掛け、身を(かが)めた。


「傘も差さずに、雨の中に出てはならない。風邪をひくぞ」

「だって、早く会いたかったのですもの」


 背後で目を()く多緒には気付かず、美夜は一心にきつね様を見上げている。そんな彼女の小作りな鼻先を、苦笑した青年がキュッと(つま)んだ。


「……今宵は、とっておきの怪異譚(かいいたん)を聞かせよう。さあ、中へ」


 彼の言葉に、美夜はぱっと目を輝かせた。








 彼の語る妖話(あやかしばなし)は、美夜を何度も驚かせ、興奮させた。

 翼ある虎のような姿の怪異。耳目や鼻があっても見聞きできず、丸い体に手足はあっても内臓のない妖。人の顔に虎の手足の生えた妖物。羊の角と虎の牙を持つ、牛のような姿の怪物。

 それらの働いた悪行に(おのの)き、彼らを退治せんと奮闘する退魔師の活躍に目を輝かせ、美夜はきつね様の語りに耳を傾けていた。


 やがて夜も()け、雨音が少しずつ強くなってきた。欠伸を噛み殺した多緒が、「おひい様、その辺になさいませ」と忠告したのを機に、きつねと渾名される青年は立ち上がった。


 その日、昼寝をして青年の来訪に備えていた美夜は、咄嗟(とっさ)に立ち上がって青年の袖を引いた。驚く青年を、美夜は上目に見上げる。


「……じいやが、明日も雨だと言っていました。明日の夜も、お越しくださるのでしょう? それならいっそ、泊まっていかれませんか?」

「おひい様!」


 悲鳴を上げる多緒に目配せし、青年は膝を曲げて、美夜を正面から覗き込んだ。金色の髪が、さらりと肩から流れ落ちる。


 青年は背が高い。恐ろしいまでに整った顔立ちと、落ち着いた雰囲気も相まって、ひどく大人びて見える。


 そういえば、この方はおいくつなのだろう──。

美夜は輝く琥珀の瞳に見入りながら、ぼんやりと考えた。

 そんな彼女の鼻を再び(つま)み、青年は(たしな)めるように苦笑した。


「そなたももう十五。そして、そなたは()い。──そうしたことを、軽々に言ってはならない」


 良いな、と念を押す青年に、美夜は頬を膨らませた。


 だって、きつね様が泊まってくれれば、彼の来訪を今か今かと待ち焦がれなくて良い。きつね様だって、雨に濡れながら移動する必要もなくなるのだ。一緒に食事をして、眠って、……そうだ、楽器を演奏するのはどうだろう。それはきっと、とても楽しい。

 けれども、青年にも自分の家がある。家人がいる。あるいは、もしかしたら──。


 美夜は想像を巡らせ、しょんぼりと項垂(うなだ)れた。


「……分かり、ました」

「良い子だ」


 微笑んだ青年が、美夜のぬばたまの黒髪を()でてくれる。慎ましい暮らしの中でも、多緒が丁寧に手入れをしてくれた宝物のような髪にしばらく指先を()わせ、青年は小さく笑った。


「また明日、美夜」

「……ぜったい、ぜったいですのよ」


 必死に言い募る美夜に一つ頷いてみせて、やがて青年は(きびす)を返した。









 翌日、約束をしたのにも関わらず、日が暮れても、寂れた郊外の町が宵闇に沈んでも、青年は姿を見せなかった。

 昨晩とはうって変わって激しさを増した雨を、美夜(みや)は暗い表情で見上げている。その隣に立ちながら、多緒(たお)は盛大に青年をこき下ろしていた。


「まったく、これだから殿方というものは!」


 美夜──ねねの母と同年代だという多緒は、ねねが生まれる直前にこの家にやって来た。ねねの祖父の代から仕えてくれているじいやの遠縁の娘で、その頃亡くなったじいやの妻の代わりにと、彼が呼んだのだ。

 多緒は、縁談が直前で破談となったことを機に、一人で生きることを決意した、自立心に(あふ)れる女性だ。母を実の姉妹のように支え、母亡き後は、自らが母代わりになってねねを育ててくれた。


 多緒がきつね様を信用していないことは、さすがにねねにも分かる。それは多分、彼女がこの家に来ることになった経緯に加えて、ねねの出生のせいでもあるのだろう。


 祖父が亡くなって以降、母はこの郊外の邸で、じいやたちと暮らしていた。そこに通りがかったのが、ねねの父だという。彼は四、五日ほど母のもとに通い詰めたあと、ぱったりと姿を消した。

 その数日で美夜を身篭(みごも)った母は、十八で子を産んだ。

 五つの頃に死に別れた母の記憶は曖昧だ。でも多緒は、母を、ねねを家族のように愛してくれている。母の苦境の源となった「気まぐれに訪れる男」に、多緒は良い感情を抱いていない。


 ねねは、──美夜は、多緒が大好きだ。けれど、多緒とじいやの三人きりの小さな世界に風穴を開けてくれる、きつね様のことも好きだ。本音では、多緒も彼の話を楽しんでくれたら嬉しい。


 美夜が悲しげに多緒を見つめていると、やがて矛を収めた多緒が、気まずそうに目を逸らした。


「……この雨です。道がぬかるみ、牛車が思うように進まないのかも知れません。夏とはいえ、ここは冷えます。中に戻りましょう」


 そう言って、美夜の手を引いてくれる多緒の手は、いつも通り柔らかくてあたたかい。美夜は笑顔になり、多緒の後ろをトコトコと足音を立てて歩いた。







 夜更け近くになってようやく、きつね様は姿を見せた。顔を(ほころ)ばせた美夜(みや)だったが、彼の様子に気付き、雨の中を慌てて駆け寄る。青年の差す傘の中に飛び込み、間近で彼を見上げた。


「きつね様! どうされたのですか、そのように濡れて……」

「遅くなってすまない。──途中で牛車の調子が悪くなり、徒歩(かち)で来たのだ。思いがけず、時間がかかってしまった」


 雨はますますひどくなり、傘はまるで役に立たなかったのか、青年の全身はぐっしょりと湿っていた。金の髪が一筋、雪色の頬に張り付いている。美夜はオロオロとしながら、青年の青ざめた顔を見上げた。


「すぐにお召し換えを……」


 言いかけて、美夜は口ごもる。この邸に暮らすのは美夜と、多緒と、じいやだけ。青年に貸せるような衣はない。

 美夜は恐る恐る、青年に提案した。


「……あの、多緒(たお)の衣で良いですか?」


 美夜としては、年齢の近そうな多緒の衣が良いかと考えただけだった。だが、軒先で思わずといったように頬を引き()らせた多緒に、青年が小さく噴き出す。彼はひとしきり笑ったあと、美夜の髪をそっと()でた。


「……出来れば、(おきな)の衣だと助かるかな」

「分かりました!」


 雨の中を駆け出す美夜の背を、青年は黙って見送った。






 老翁の手を借りて衣装を変えた青年が、疲れたように美夜の前に腰を下ろした。美夜はその様子を見つめながら、もじもじと指先をこねていたか、やがて意を決したように顔を上げる。


「……あの、きつね様。とてもお疲れのご様子です。今日はお話は良いので、お休みになってください」


 青年は濡れた髪からいくも(したた)り落ちる雫に難儀していたが、それらを(ぬぐ)う手を止め、驚いたように美夜を見る。美夜はどこか必死な様子で言い募った。


「昨日、きつね様が仰ったことは分かっています。美夜は、多緒の部屋におります。ですから……」


 じっと黙ったままの青年に、美夜の言葉は尻すぼみになる。美夜がそのまま(うつむ)くと、ふと衣擦れの音がして、鼻先をどこか懐かしい香りが(かす)めた。

 顔を上げると、きつね様の琥珀の瞳が思いがけず近くにあり、美夜の頬が薄紅に染まる。


(そうだわ。これは、墨の香り……)


 雨に濡れたきつね様の身体からは、ゆかしい墨の香りがする。今までもきっと、青年はそんな香りを漂わせていたのだろう。けれど、こんなにも近付いたのは初めてで、これまでその香りに気付かなかったのだ。


 ──そなたは()い。


 不意に青年の言葉を思い出し、赤面する美夜に、きつね様はほのかに笑う。


「……頃合いを見て、牛車が迎えに来る。それまでは、美夜が話をしてくれないか?」

「え?」


 思わず聞き返した美夜の髪を()で、青年は目を細めた。


「美夜の知るお伽話、想像の話、何でも良い。聞かせてくれないか。……そなたの声は、耳に(こころよ)い」


 美夜は驚いたように瞬きを繰り返すが、やがて小さく頷いた。





 彼女が語ったのは、月の姫の物語。数多の貴公子の求婚を退け、生まれ故郷に帰った絶世の美姫の古典話だった。

 旧知であろうその逸話に、青年は楽しげに耳を傾けている。美夜(みや)が話を締めると、彼は緩く手を打ち鳴らした。


「……良い語りであった」

「からかわないでくださいませ」


 そっぽを向いて唇を尖らせるものの、美夜も悪い気はしない。彼女はふと目を細め、視界に入った部屋の隅の柱を振り仰いだ。


「母がよく、眠る前に、この話を聞かせてくれました。母の顔も声も、もう思い出せませんが……。お話はよく覚えています」


 柱には、横向きに走るいくつかの傷がある。それは幼い頃、美夜の成長の跡を残すためと、母が折々に、背の高さを測って付けた傷だ。

 言葉を覚えた頃の美夜は、「かあたまも!」とねだって譲らず、母の背も一緒に測らせていたらしい。「ねね、五つ」、「星名(ほしな)、二十三」。母は背の高い人だったようで、十五になった今も、美夜はその高さに届かない。

 美夜は小さな笑みを浮かべ、青年を振り返った。


「きつね様は、姫を月で待つ許嫁(いいなずけ)の王子に、よく似ていらっしゃいます」


 月光で染めたような黄金の髪、星明かりを宿したような琥珀の瞳。透き通る肌は、月の姫が持つとされたものと酷似(こくじ)した色。青年を形作る何もかもが、美しい。

 微笑む美夜に、青年は息を呑む。彼はしばし俯いたあと、やがて再び美夜に笑いかけた。


「それならそなたは、地上に降りた月の姫かな」

「まあ、お上手」


 コロコロと笑い、美夜は青年に向き直る。「さあ、次は──」と、彼女は弾む声で物語を続けた。








 丑三(うしみ)つと呼ばれる刻の頃、ようやく雨も収まって来た。美夜(みや)はくうくうと寝息を立て、青年の膝に頭を預けている。主に不埒(ふらち)な真似はさせまいと目を光らせていた多緒(たお)も、部屋の隅で壁にもたれて目を閉じていた。

 部屋の障子が(きし)みながら開き、じいやと呼び慕われる老翁(ろうおう)が顔を(のぞ)かせた。


御方(おかた)様、牛車が──おや」

「じい、手を貸してくれ。動けなくなってしまった」


 眉尻を下げて笑う青年に、老翁は大袈裟に肩を(すく)めた。


「やれやれ、ひい様だけなら百歩譲って、老骨(ろうこつ)に鞭打っておぶいましょうが……。多緒までとは」

「なら、多緒は俺が背負おう」

「……くれぐれも目覚めさせぬよう、お願い申し上げます。起きたら暴れますぞ」


 容易に想像できるその光景に、二人は揃って小さく噴き出した。ひとしきりくつくつと笑声(しょうせい)をもらし、老翁は美夜を、青年は多緒を背負い、ゆっくりと歩き出す。

 すっかり寝入ってしまった美夜と多緒を、各々の(しとね)に下ろしたあと、表に向かいながら、老翁はこれみよがしに腰を叩いた。


「ふう。疲れた疲れた」

「……それほど老け込む年でもあるまい」

「五十はとうの昔に越えました。もうそろそろ、縁側で茶を(すす)って過ごしたいものですな」


 呵々(かか)と笑い、老翁は隣を歩く青年をちらりと見上げる。


「……御方様は、おいくつになられましたかな? 元服は、昨年でしたか」

「十八だ。……遅い元服だった。無理もないが」


 彼の奇異なる外見を(いと)う者は多く、青年は生まれた時から、その存在を隠されてきた。成人となった今もそれは変わらず、書簡の整理の監督という、()にもつかない職を割り振られている。


 彼が美夜のもとを訪ねるようになったのは、昨年の末からだ。だが、老翁とは以前から面識があった。


 初対面の時、この老人は「おや、月が降りて来ましたかな」などと(うそぶ)き、彼の外見をいとも簡単に受け流してしまった。父以外の人間からは後ろ指を差されるか、目を背けられるかのどちらかしか経験してこなかった彼にとって、老人の対応はずいぶんと新鮮だった。そして、美夜や多緒もまた、似たような反応を示した。


 青年にとって、この家は唯一、深く呼吸が出来る場所だ。


 老人は湿った空気を吹き飛ばすように、「十八! 見えませぬなぁ」と驚いた顔を作ってみせる。青年は仏頂面で応じた。


「この外見は、老けて見えるらしい。……というか、そなたには言われたくない」

「ほっほ!」


 老翁は楽しげな笑い声を上げ、廊下を進んで行った。









 小雨の降りそぼる中見送ってくれた老翁(ろうおう)と別れ、青年は傾きかけた門をくぐる。しばらく道なりに歩いていると、通りの向こうから、漆黒の衣に身を包んだ男が声を掛けてきた。


「──朔斗(さくと)(おう)


 青年──朔斗は黙って彼に歩み寄り、手に持っていた衣を預けた。彼の服装が出がけと異なっていることに気付き、その男は目を(またた)かせる。朔斗は、「雨に濡れたため、借りたのだ。これは洗って返さねば」と目を細め、そのまま牛車の(きざはし)に足を掛けた。


 雨の夜は人目が少ない。ゆえに、朔斗も何とか、外に出られる。


 彼が腰を落ち着けると、やがて牛車はゆっくりと進み始めた。朔斗はそっと、頭を壁にもたせ掛ける。

 しばらくすると、外を歩く男──彼の従者が、抑えた声音で朔斗に声を掛けてきた。


「ずいぶん遅くなられましたね」

「ああ。……楽しい夜だった」


 間近で見下ろした少女の、きらきらと輝く瞳。時にしっとりと、時に生き生きと、物語を紡ぐ柔らかな声。

 少女を愛する侍女が朔斗に向ける、険しい目線。老翁のとぼけた笑い声。

 大切な宝物を取り出すようにそれらを思い出し、青年はそっと(まぶた)を伏せる。



 王。


 その呼称通り、朔斗は皇族の一員だ。

 ただし、帝の弟である父とは違い、朔斗は親王(しんのう)に封じられなかった。異端の見た目から、母の不義の子と疑われたためだ。その噂を恥じた母は間もなく自害し、朔斗には父と、従者以外に、言葉を交わす者もいなかった。


 そんな彼が、美夜(みや)──ねねの存在を知ったのは、十七の時だった。


「そなたには、存在を知られていない従妹(いとこ)姫がいる」


 元服の儀を終えて酒を飲み交わした際、父から聞かされた言葉に、彼は瞠目(どうもく)した。


 父や帝の異母兄である伯父(おじ)は、若い頃から奔放(ほんぽう)で、たまたま気に()めた美夜の母も簡単に切り捨てた。彼は、娘が生まれたことも知らない。

 朔斗の父が美夜を見付けたのは、偶然だ。

 父は、遠い昔に宮中を追われた自身の教育係を探し続けていた。ようやく見付けたかつての恩人は、都の郊外で自分の義姪(ぎめい)に仕えていた。

 義姪の窮状(きゅうじょう)を憂いた父は、周囲には何も言わぬまま、密かに彼女の生活を支援した。そして、朔斗(さくと)が成人を迎えた頃、その役目を彼に引き継いだのだ。


美夜(みや)に父親のことを、出生のことを話すべきか、ずっと迷っていたが──)


 彼女は侍女と老翁の愛情に包まれ、健やかに、美しく育っている。真実を知れば、彼女は(つま)しい生活から脱することが出来る。だが同時に、愛する彼らから引き離されるだろう。

 何が彼女にとっての幸せなのか──朔斗には判断が付かない。


 何より、朔斗自身が、軽やかで自由な美夜に、どうしようもなく()き付けられていた。あの望月のように(まばゆ)い笑顔を、宮中という泥土(でいど)に沈ませることなく、そのままの形で留めておきたい。


 自分はさながら、物語の中で月の姫を地上に引き止めようと足掻(あが)く、憐れな求婚者たちのようだった。美夜が例えてくれた月の王子とは、似ても似つかない。


(それでも、俺は──)


 愚かにも、彼だけの月であって欲しいと。ただひたすらに()い願うのを、止められずにいる。



九兄弟の物語は中国の民話を、怪物の話は同じく中国の四凶を。月の姫の物語は、竹取物語をモチーフにしています。

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