其ノ漆
部屋の中は静まり返っていた。
右手には二人がけのソファと丸テーブル、左手には繊細な装飾が施されたドレッサーが置かれている。
そして、奥——窓際には天蓋つきのベッド。
白い帳の向こうに、椿が眠っているようだ。
「真矢様、あそこに……」
天蓋の布の隙間から、小さな影が見えた。
六、七歳ほどの少女だった。
肩にかかった黒髪。真っ白な寝間着を身にまとい、楕円形をした淡い桃色のブローチを左胸につけている。
しかし、その身体は透き通っている。
「ねむのこと、見えるの?」
少女の霊・箱崎ねむは、ベッドの天蓋から顔を覗かながら問いかけた。
「見えるさ。君が、椿さんに取り憑いているのかい?」
真矢が一歩、彼女に近づく。
「来ないで!」
ねむの声が部屋中に響いた。彼女の肩が震わせ、こちらを警戒している。
「僕らは君を傷つけたいわけじゃない。椿さんと、君をを助けてあげたいんだ」
優しく話しかける真矢だったが、ねむの心には届かない。
「来ないで、来ないで、来ないで……!」
その言葉と同時に、空間の空気が激しく歪んだ。
ねむの周囲に渦巻いていた邪気が一気に凝縮し、彼女の身体にまとわりついた。
やがてそれは、無数の触手と裂けた口を持つ異形の化け物へと変貌した。
「ねむがじゃまだから、いらないから、お兄ちゃんたちが殺しに来たんでしょ!」
「……!」
真矢は即座に刀を引き抜いた。
腰に差していたのは妖刀。妖怪を祓うための特別な刀である。
通常の妖刀であれば霊には効かないが、真矢の妖刀は違った。
真矢の妖刀は霊力も通すことができる。
人と妖の血を引く真矢のために作られたその妖刀は、彼の妖力に加えて霊力を通すのだ。
しかし、それは身体に大きな負担をかけてしまうのである。
白俐は薙刀を前に突き出し、構えを取る。
彼女の役割は結界の展開。
白俐の刀は霊に対して直接攻撃できないため、結界を展開することで自身と真矢への攻撃を防ぎ、真矢の動きを援護する。
「真矢様、霊核は中央です!結界を展開します!」
「任せるよ……!」
化け物の腕が振り下ろされる。
白俐は光を帯びた六角形の結界を無数に作り出し、黒い触手を次々に弾き返していく。
真矢は空いた隙に踏み込み、刀を逆手に構える。
そして、霊力を込めると刀身に青白い光が宿った。
「……っ!」
喉の奥に焼けつくような感覚が走る。
霊力の流入によって、内臓が悲鳴を上げる。
真矢は何度か霊核に目がけて刀を振り下ろすが、触手に阻まれて外してしまう。
「こわい顔……!いなくなってほしいんでしょ!」
化け物の身体が分裂し、複数の触手が真矢に迫る。
白俐は六角形の結界をさらに増やし、自身と真矢への攻撃を防ぐ。
しかし、真矢は刀の力に耐えきれず、手の肉が裂けてしまう。
「……っ!」
刀の柄が真っ赤に染まり、床に血がしたたる。
真矢は暴走するねむから目を逸らさず、最後の霊力を振り絞る。刀がきしみ、全身の血管が浮き上がるほど力を注ぎ込む。
刀が限界を超えて、刀身から青白い炎が吹き上がった。
「がっ……!」
真矢の身体に負荷がかかりすぎ、吐血してしまう。
「真矢様…!これ以上は危険です…!」
白俐は結界を張りながら、真矢に忠告する。
攻撃できるのは次が最後だろう。
真矢は最後の力を振り絞り、刀を構える。
白俐は結界を限界まで増やし、触手の攻撃を防いでいく。
そして、真矢は霊核を目がけて刀を振り下ろす。
『燐光』
真矢の最後の一閃が霊核を貫き、化け物とかした黒い邪気がネムの身体から剥がれ落ちていく。
そして、ねむがゆっくりと床に降り立った。
もう化け物の影はない。
真矢は限界まで力を使ったため、よろけて膝をついた。
「真矢様……!」
白俐がすぐさま真矢の身体を支える。
彼は弱々しく笑いながら、ねむを見つめた。
「ねむ……もう、大丈夫だから……」
ねむは、ぽつりと口を開いた。
「ねむね……ほんとは、ずっと……さみしかったの……」
その小さな瞳には、涙が浮かんでいた。
「ねむはね……ねむはね……」
かすれるような声で、途切れ途切れに語り始めた。
まるで冬の冷たい川の水をすくい上げるように、過去の記憶をぽつりぽつりと。




