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森の少女さん

作者: まりこ
掲載日:2026/01/28

ある日、森の中、熊さんに出会った。

この森を突き抜けて行く道は確かに傾斜がきつくて舗装もされていないけれど、ぐるりと森を迂回して行く道を行くよりも早くおばあさんの家に着くから、いつも使っている道だった。季節は春の入り口、名前は知らないけれど白と黄色の小さな花が群生している道を、いつもの様に歩いていた時だった。 熊さんは全身が黒で、胸元に三日月のマークが入っていた。ちょっと機嫌が悪そうな、寝起きのような感じで、春の暖かさに叩き起こされたような具合だ。私は、おばあさんに誕生日のプレゼントを渡したくて急いでいたから、こちらの様子を伺いながら、着実に近づいてくる熊さんとは、関わらなくて済むなら関わりたくなかった。

でも、一本道の向こうから近づいて来た熊さんは、その太い腕を伸ばせば私に届くのではないかと思う距離で直立したので、私の望みは叶わないのだろうと思った。 直立した熊さんは思ったよりも大きくて、音も立てずに私を観察していた。そうされると私は私の小ささに不安が積もって、一歩あとずさる間に尻もちをついた。そうなっても熊さんは微動だにせず私の様子を観察していた。 私はもう終わりなんだと思った。お母さんもおばあさんも、森の中ではなるべく出会わないように気をつけるんだよ、と言われていたのに、こんな不意に出会ってしまうなんて。お母さんもおばあさんも、どう気をつけるのかを教えてほしかった。あんなに笑顔で「おばあさんの所にいくんでしょ。いってらっしゃい」って送り出したお母さんは、「今日はやめておきなさい」って止めてくれれば良かったのに。危機を前にして私は私の不注意を誰かのせいにしないと気持ちが保てなかった。道沿いの小さなお花も、さっきまでは可愛らしく見えたのに、今は私をせせら笑っているように見えた。風に揺れる木の葉もカサカサと音を立てて私を囃した。ヒバリはこれから始まる狩りを盛り立てるかのようにピーチクパーチクとヤジを飛ばした。

でも、熊さんはヒバリを優しい目で見上げた。そして、顎を細かく上下に振って「お嬢さん、お逃げなさい」と言っているようだった。私は驚いた。けれども、さっき捨てたはずの命が私の手元に戻って来た。これは何をしてでも手放してはいけないと思った。

迷いを振り切って立ち上がり、今きた道をスタコラサッサッサーのサーと走った。 さっき私をせせら笑っていたお花をいくつかまとめて踏んづけたけれど、ざまあ見ろとも、ごめんねとも思わなかった。ただ動ける限り手足を動かした。熊さんが、「お逃げなさい」と首を動かしたのは私が勝手にそう思っただけかもしれないから。でも、私には熊さんが「こんな所に来たらダメだよ」って伝えてくれたようにしか見えなかった。

もう、どれくらい走ったのか分からないけれど、たぶん実は全然走っていなかったと思う。上がった息を治めようと、道を少し逸れて木の下に座った。風が木の葉をまたカサカサと鳴らした。安心できる音だった。

でも、そうじゃなかった。 さっきの熊さんが大きな声で叫びながら私の後をついてきていた。私はがっかりした。何で自分は呑気なことを思っていたんだろうと、自分にがっかりした。熊さんの叫び声は、そこに少しの優しさが混じっていて、それが余計に怖かった。風がまたカサカサと木を揺らした。やっぱり囃されていたんだ。 私はまた走り出そうとしたけれど、もう走りたくなくなってしまった。愚かな私を、熊さんに捧げたっていいんじゃないかと思ってしまった。それに、やはり熊さんの叫び声に混じる優しさのようなものに、私はこの状況になっても安堵している自分に気づいた。なんて甘いんだろうと、私は私を叱りたい。でも、体が反応しない。熊さんのご飯になる命で良いじゃないかと諦めて、私は道の真ん中に戻って座った。

もう、熊さんの大きな体がはっきり見えるくらい距離は近くなっていた。 視野の中を熊さんが少しずつ支配していくにつれて、最後におばあさんに会いたかった、という思いがふと沸いた。あんなに一生懸命に考えたプレゼントは、これから私の血に染まっていくのかと思うと苦しかった。ところが、視野を支配した熊さんの手におばあさんにあげる筈だったプレゼントがひっかけてあることに気付いて、頭がパニックになった。熊さんはまだ叫んでいた。それがやはり優しくて、「ちょっと!落とし物だよ!」と言っている気がした。 それは、なぜか確信に近かった。熊さんは座り込んだ私を少し警戒して、でもすぐに私のもとへ静かに手をついて歩み寄った。

拍動の速さで死んでしまいそうな私の前にちょこんと座ると、私のお腹に、白い貝殻の小さな飾りを落とした。そうして走ってきて疲れたのであろう熊さんは、細かく速い呼吸を落ち着けようとしてくしゃみが出た。 私はその熊さんが、あんなに恐ろしかったのに突然愛おしくなった。息の上がる熊さんに静かに近づき、感謝を伝えた。伝わったのかは分からないが、伝えたことだけは間違いない。でも伝えるだけでは物足りなさがあった。だから私は熊さんの手を取った。熊さんもその手を支えに立ち上がった。私たちは、そこで不格好ながらにダンスをした。伝わらない言葉より、今はこの時間を楽しんでもらいたいという気持ちが強かった。そして私はそれを受け入れてくれた熊さんに歌を歌った。熊さんは下手くそな私の歌でも愛でリズムをとってくれていた。私は熊さんの取るリズムが少しずれているので歌いにくかった。春の始まりの暖かい森の中、私の下手くそな歌に耐えかねて鳥も歌い、風に揺れる木の葉はやはり私たちを囃していた。私は優しさに包まれながらこれからもっと暖かくなる季節を想った。そして、これからおばあさんにこのプレゼントを渡すとき、熊さんのお話をしてあげたい。きっとおばあさんは、最初は叱るだろう。でもすぐに私の今日の喜びを、良かったって言ってくれるはず。私はそれが急に楽しみになって、そろそろ熊さんとお別れしようと思った。

パンという季節外れの花火の音が鳴って、その音にびっくりしたけど、その花火が祝ってくれているみたいだった。胸がキュッとした。その花火を合図に、私は熊さんの手を静かにを離した。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ある日、森の中、少女に出会った。

花咲く森の道で、少女に出会った。 少女はまだ小さかったが、陽気な足取りとあちこちに目線が動く好奇心が垣間見られて、この先きっと大きくなるのだろうと思った。少女はあんなに楽しそうだったのに、私を見るなり明らかに怯えていた。私が怖いのであろう。私の胸元の月が揺れるたびに少女はしずかに後ずさった。半歩ふみこむと、少女は尻もちをついた。 本来であれば、まだ小さいとはいっても私たちの獲物には違いないから、このペタンとしりもちをついた少女は格好の的になるはずだった。

しかし躊躇してしまった。あまりに小さかった。 見上げればそこにヒバリがピーピーと鳴いていた。風を受けた木の葉もカサカサと鳴っている。そのすべてが、今回はどうか見逃してあげてくださいよ、と私に懇願しているように聞こえた。道端の春の植物も、やっと咲いた自らの花を大きく開いて私をなだめている。少女はなぜか静かだった。しかし明らかに今日この瞬間を引き寄せてしまった自分自身を呪っているような悲しげな眼をしていた。この少女にも待っている母がいるのだろうな、とよぎった。そうなってしまっては私にはもうさらにもう一歩、少女を絶望に追いやるその一歩を踏み出すことなどできなくなった。 私は少女からわざと視線を外した。ヒバリたちにもう分かったよ、と合図した。少女は驚いた様子だったが私は首をふって少女に、お逃げなさい、と無言で伝えた。足に力が入らないのか、少女はしばし呆然と座っていたが、はっとなって手足をバタバタさせながら駆けた。数メートルいった所で肩越しに少女は振り返ったが、その後はもうただがむしゃらにスタコラサッサと逃げて行った。

やがてその姿は木々の間にも見えなくなった。 少女の背中を送った後で、本能のようなものが私の頭をぎゅっと締め付けたのが分かった。今日この獲物を取り損ねた結果、バタフライエフェクトともいえない距離感で私は死ぬことだってあり得る。私じゃなくて家族だったらどうしよう。そういう悪の妄想のようなものが広がって、さっきまで少女が腰を落としていた場所に手をついた。 さっきまであんなに私をなだめていたヒバリは、本当に逃すやつがいるかよ、と嘲笑っているようだった。春の花も呆れてそっぽを向いて揺れている。帰って仲間に話せば叱責されるか、もう信用おけぬと仲間でなくなるのではないかと思えてきて、これからの孤独を想像するまでになった。

でも、それも良いのだ。私は少女を救うことを選んだのだ。少女の後ろにいる家族や、少女の将来の恋人を救いあげたのだ。それを恥じることなんてないじゃないか。そう私は誇っていい。誇りを持ったまま孤独となり、誇りが塵になって孤独に消えていくのだ。私自身、自暴自棄になっていると自覚しているが、そう考えた方が気持ちの落ち着きが良かった。 落ち着いて初めて手のひらの感触が戻った。そこには土の弾力の中に異質な硬い棘があることに気づいた。白い巻き貝だった。しかし自然の巻き貝にはない光沢と、貝の先端に明らかな細工があってイヤリングのようになっていた。手作りと言っていいそれは歪ではあったが、その粗い曲面に温かさを感じられた。

唐突な温もりに私はこれが少女の物であると直感した。それも、少女にとって替えがたいものに違いないと思いが至った。根拠はないが貝の曲面の温かさが雄弁に語っているのだ。そう思えば、思考より先に体が動いた。白い貝に触れないよう、周囲の土ごと掬いあげてそのまま森の道を走った。 走る過程で掬った土は結局のところ、ほとんど手から落ちていったので、指の先にひっかけて落ちないようにした。自暴自棄になっていたあの時間が思っていたよりも長かったのか、なかなか少女に追いつけない。それでもこの先にあの少女がいると信じて走った。いてもらわなければ困る。この貝殻を私はどう扱えばいいのか想像できなかった。

山道はいかに走るのに向いていないかを実感したころ、視界の先にさっきの少女が座っているのが見えた。思わず叫んだ。なんと呼べばいいのかも分からず、お嬢さ~ん!という言葉をとっさに選んだ。選んで叫んだとて、少女が意味を理解するはずはないが、それに構いはしなかった。少女は気づいたが明らかに恐怖の顔をしていた。立ち上がろうとしているのが見えたが、どうか待っていてくれと気持ちを込めてまた叫んだ。少女はその場にまた座り込んだ。でも受け入れているのではなく相変わらずに顔は絶望をまとっていた。 腕の届かない距離を開けて一度立ち止まった。少女は恐怖しているが何かを受け入れているように見えた。なるべく音のしないように私は少女に近づいた。少女はもう腰を落とした場所から下がるでもなく、私を観察していた。切れた息はなかなか整ってくれないが、一つ唾をのんで大きく息を吐けば、やるべきことがはっきり分かった。

私はその少女のお腹に白い巻き貝をそっと返した。 それで私はやっと解放された気がした。気が抜けて花粉に反応してくしゃみが出た。くしゃみが私の中にいる不快なものや孤独への不安も追い出した気がした。もう私は少女を獲物としてみる必要が一切なくなった。そうすると少女が愛おしかった。

少女の顔からさっきまでの恐怖が消えていった。そして、ゆっくりと立ち上がるとあろうことか私の手を取った。鳥の声が大きくなった。それは軽やかなリズムになって、少女は私の顔を真っすぐに見ながらステップを踏んだ。5秒ほどステップをして立ち止まると、少女は小さく頷いた。私もそれにこたえて小さく頷いた。木の葉が擦れる音が加わって、私と少女は不格好なダンスをした。私はこの先も不格好なのだろうけれど、少女は春を越えて季節を重ねれば、きっと優雅なステップを踏むことになるのだろうと思った。

森に響いたバン!という大きな音が私の鼓膜を揺らした。その音を合図に少女は私の手を離した。 そしてそのまま少女は崩れていった。 少女はまだ楽しげな顔をしているように見えた。しかしそのまま固まっている。胸の模様がじわじわと赤黒くなっていった。

「熊吉!大丈夫だったか!?」

「怪我してないか!?熊吉!!」

私の目の前では、少女のごとき子熊が胸に出かかっている月のマークから血を流して動かない。

「おめ、まだマタギやり始めたばっかでねえか!ひとりで森さ動いてると、あぶねぇって言ったべ」

「そうでしたね、善臣さん。ごめんなさい。」

「熊っこがちいせぇから何とかなったけんど、大人だったらおめぇ死んでたぞ」

「ええ、わかってます。次から気を付けます」

「たのむぞ、そうでねぇとおっかなくって森に入れてやれねぇくなるべ」

「はい。どうもすいませんでした」

少女だった熊はそのまま善臣さんが運び出した。私は少女が崩れたあとの、少し赤くなった土の上に落ちていた白い貝殻を爪の先で拾い上げた。それをポケットにしまうと、木の葉が揺れて音がした。厭味なほど春の陽気の山は、今の惨状を見なかったことにしている。ヒバリが鳴いているが、もう何を言っているのかわからなかった。花粉が鼻の奥をまた襲ってくしゃみが出た。しかし、今度は何か鼻腔にもやもやしたものが残っている気がした。


◆◆◆完◆◆◆


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