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薄雪草を抱く  作者: 紀野光
綿津見神

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綿津見神6

 オレンジジュースをちびちび飲んでいた春香は女言葉を使う男店主を見る。会話の内容から店主と酔っ払いの二人が神様であることは予想できたが名前はやっと出てきたと思った。店主は綿津見神(わたつみのかみ)という神様だそうだ。


「前まで頑なに神が神を辞めることを許さなかったやつらは一体なにを考えているのやら。下っ端の俺には全く皆目見当つかねえ。ああ、お前もその一人だったな」


 男は天照大御神を見ながら瓶を丸ごと飲み込む勢いでラッパ飲みをした。綿津見神は呆れながらも厨房にお酒を取りに行った。ついでにオレンジジュースが飲み終わりそうな春香にもコーラを持ってきてくれた。


「だから、さっきからそいつは誰なんだ」


 泥酔男は春香を指さした。その男の人差し指を天照大御神が折り曲げて答えた。


「はーちん。もうすぐ現人神になるの」


「いや、まだ「なる」って決めたわけじゃなくて」


「あら、そうだったの。てっきり天照がお気に入りの巫女を連れまわしているのだとばかり思ってたわ」


「さっき高天原での人間の使役はもう許されてないって言ったし。ていうか今は巫女どころか、下男下女もいないんだから。はーちんはあたしの友だちなの」


 天照大御神はオレンジジュースが少し残っていた春香のコップにコーラを注いだ。


「ハッ。高飛車の天照大御神様はどこに行ったんだか。世界を見て回るとかほざいてたが、そのまま迷子になっちまったのか?」


「だから色々反省して、勉強したの」


 天照大御神はお酒をかっくらった。頬は紅潮している。


「天之御中主神と一緒に伝統だの、前例だの、しきたりだのに縛られていたくせにな。伊邪那美命を追い詰める前に気づかなかったもんか? あ?」


 男は天照大御神を睨みつける。天照大御神はグーの音も出ないようだった。


 春香は記憶との食い違いに困惑する。春香が関わってきた天之御中主神も天照大御神も伝統という概念とはかけ離れている。和が主の高天原にいても洋服を着て、現世の道具を使っている。そしてなにより祥子さんはピンピンしている。


 だがその前に、春香は春香のことを友だちだと言ってくれている天照大御神が責められていることに耐えられなかった。


「でも伝統を守ることは大切なことだと思います。だって歴史が積み重ねられことはそれ自体が奇跡で、それが文化になって生活が豊かに…」


「いいかガキ」


 男は春香の言葉を遮って意見を述べる。


「伝統っていうのはなぁ、あるからいいってもんじゃねぇし、長ければいいってもんじゃねぇ。変化を拒絶して弾力性を失えばそれは呪縛になる。わかるか? 伝統は呪いになる。その被害者が初代伊邪那美命だ。高天原なんていうのはな、呪いの塊だ。お前もあんな糞の吹き溜まりには関わらないほうがいい」


 男は唾が飛ぶほど激しく論じる。それに天照大御神が反論する。


「そんなことない。あれから五百年も経ってる。あーちゃんも高天原を変えようと努力したし、実際変わってきてる。少名毘古那神(すくなびこのかみ)もいつまで黄泉の国にビビってるの? いいかげん高天原に帰ってきたらどうなのよ」


「ビビッてるだぁ? テメェ、あんまりナメたこと言ってんじゃねぇぞ。おい、表出ろ」


「おうおう、やってやるよ」


 二人は立ち上がる。千鳥足で店を出ようとしたところで綿津見神が二人に拳骨をかました。


「イタイッ」「ッテーな」


「お前ら、酒すら楽しく飲めないってならさっさと出ていきな!」


 本気で怒鳴られて大人しくなった酔っ払いたちのコップには水道水が乱雑に注がれた。


「あんたたち、水道水だってタダじゃないんだから有難く頂きな」


 天照大御神は素直に返事をしたが少名毘古那神は貧乏ゆすりをしている。それをよそに綿津見神は春香の手を優しく握る。


「はーちん、だったかしら。あなたも大人になったら飲みすぎちゃ駄目。「酒は飲んでも吞まれるな」よ」


 親戚の集まりでもドラマの中でも聞いたことがある助言をする綿津見神は清酒を取り出した。


「少名毘古那神はああ言ってたけど、高天原はそんなに悪いところじゃないのよ」


「綿津見神さんは高天原には帰らないんですか?」


 春香の疑問に綿津見神はサムズアップする。


「ええ、当分帰るつもりはないわ。こっちには高天原に無いものがたくさんあるんだもの」


 綿津見神の黒くたくましい腕はアームレスリングの選手のようだった。


「無いもの? あの、そういうことならなおさらどうして海岸でお店を出してるんですか? 店を経営していたらどこにも出かけられないと思うんですけど」


 春香の疑問に綿津見神は不気味な笑顔を浮かべながらモジモジし始めた。


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