天之御中主神1
「神様になってよ」
そう言われたのは夕飯の買い出しの帰りだった。突然、目の前に現れた半袖半ズボンの子どもはニコニコしながら返事を待っている。
夕方。住宅街のド真ん中で緑も少ないのに、アブラゼミがうるさい。
「は?」
野口春香は聞き間違えたのかと思った。ポカンとしている春香を子どもは真っすぐに目を見る。
「君にはぜひ神様になってほしい」
「あの…」
面倒なのに絡まれた。春香はそう思った。春香は子どもが苦手だった。こういう場合、適当に話を合わせれば済む話なのに春香にはそれができない。
(ああ、無視したい)
春香はため息の代わりに鼻から大きく息を吸って吐く。けれど小学校低学年くらいのガキンチョが一人でうろついているのを見かけてしまったら、中学生の春香は一緒に親を探すとか、なんらかのアクションをとらなくてはいけない。
子どもを守るのは地域の人の義務だということは、子ども嫌いの春香にもわかる。わかってはいるが今日に限って大量に買い込んでしまった。今日の夕飯の分だけではなく、買い溜め用の食料もあった。
重いマイバッグ二つが両手の指の血流を圧迫して痛い。しかも今年の夏は猛暑であるから、夕方とはいえジリジリとした蒸し暑さが大量の発汗を促す。
(冷凍食品が解けちゃう)
春香は両方の袋にたんまり詰め込んだ要冷凍の食べ物たちをふくらはぎの体温から避難させるために脇をほんの少し広げる。
早急に帰りたい。しかし背に腹は代えられない。放っておくことはできない。となると、どうにかしなければ。
お母さんには内緒で買ったアイスのためにも、早く事を収めなければならない。春香はテンプレートから試してみることにする。微笑で。
「どうしたの? 迷子になっちゃったの?」
「違うよ」
「お母さんとお父さんは?」
「いや、そういうのいいから」
この男の子だか女の子だかどっちだかわからない、目がクリッとした子どもは淡々と答えた。その態度に春香がイラッとしたのは言うまでもない。
「僕には母も父もいない。大体人間じゃない。僕は天之御中主神」
「アメノミナカヌシノカミ?」
「よろしく」
そう言ってアメノミナカヌシノカミとかいうのは右手を差し出す。
「よろしくって言われても…」
春香は差し出された右手は無視をするが、必死に微笑をキープする。そして誰か通りかかってくれないものかと一分の望みを持ってあたりを見まわすが悲しいかな、誰もいない。
春香は心の中でアメノミナカヌシノカミを睨みつける。帰って夕飯の支度をしなくてはならないのに。そしてなにより、この一丁前を気取った子どもから解放されたい。
「とりあえず交番に行こうか」
春香がそう提案すると半袖半ズボンの自称神様は「むー」と唸りながら腕を組み、握った右手を顎に当て、絵に描いたような悩み方をした。
「僕が神様だっていうこと、どうしたら信じてもらえるかなあ」
春香はそういうことならと、
「じゃあ私のお願い叶えてよ」
大人気なく子どもを煽る。
「そういうのはちょっと…。どうしようかな」
子どもは少し考えると「そうだ! あの手があった!」と閃いた様子で言った。
「近くに神社はある? 見てほしいものがあるんだ。百聞は一見に如かず。そうしたら僕が神様だってことがわかってもらえると思うよ」
春香は仕方なく、その場から近くにある神社に案内した。神社と言っても住宅街の中に造営されており、こじんまりとした場所。三畳分ほどしかない土地に、屈まなければ通れないほど小さい鳥居、人の身長よりも小さい社で、ベニヤ板でサクッと建てたような誰も見向きもしないのっぺりした神社だった。塗装もされておらず劣化した木の色がむき出しになっている。
「これ、神社というより祠…」
子どもは不服そうに春香を見上げる。
「どれも同じでしょ。神様なら文句言わないでよ」
春香は垂れる汗を拭う。そして冷食の具合を確かめる。まだ大丈夫そう。アイスのほうは…。
「まあ、いいや。見てほしいというものはこれなんだ」
そう言うと子どもは社の前のところを指さした。
「なにもないけど」
「今はね」
すると指の先に白く光る円が現れた。手のひらよりも少し大きいその穴は徐々に大きくなりながら楕円に変化し、人が通れるほどのおおきさになった。
「なに…これ」
この大きな白い光は異様な雰囲気を放ちながらも不思議と恐怖は感じない。よく見るとうっすら向こう側になにかが見える。人?
「これは神の世界、高天原に繋がっているんだ。さあ一緒に行こう。高天原に行ったら僕が神様だっていうことも分かってもらえると思うし、君も神様になりたくなるかもしれない」
そう子どもはキラキラした目で勧誘してくる。
ふと春香は中学生が小学校低学年に誘拐されるようだと思った。急に不安になる。春香がしり込みしていると小さい手が遠慮なしに春香の腕を引っ張った。
「早く行こうよ」
「ちょっと待って。行かないよ。行かない」
春香は反射的に拒否した。
「どうして?」
子どもはキョトンとして春香を見上げる。
「これから夕飯作らなきゃいけないし」
「別に帰れなくなったりはしないよ。いつでも出入りできる。ね? ちょっと見るだけでだから」
子どもは非力な腕力で春香のことを健気に引っ張る。
けれど「ちょっと見るだけ」という誘い方が春香のこの子どもに対する不信感を強くさせる。
「行かないって言ってるでしょ!」
早く解放されたくて、つい怒鳴るような言い方になる。そんな春香に子どもはしょんぼりした。
「まあ仕方ないか。じっくり考えてみて。悪いことじゃない」
子どもは残念そうにしたが了解して笑った。そして春香が持っていたマイバッグに手でそっと触れた。
「ちょっと、触らないでよ」
「君のお願いを叶えたんだよ。さっき言ってたから。叶えてほしいって。溶けた冷凍食品を元に戻しておいた」
「?」
「さっきから冷凍食品が解けちゃうって気にしてた」
「まあ、うん…」
「それからアイスのこと、きちんとお母さんに報告しなきゃダメだよ。余計なものを買いましたって」
「なっ!?」
子どもは春香の目が点になっているのを気にせずに光の中に足を踏み入れた。
「またね!」
子どもが光の中に消えていくと楕円は徐々に小さくなり、そして消滅した。