第8話:朝議の火花 ~丁原と董卓~
第8話:朝議の火花 ~丁原と董卓~
洛陽に到着して数日後、丁原は帝都での最初の朝議に出席した。呂布は武官として、丁原の傍らに随行した。朝議が行われる大殿は、壮麗な装飾が施されており、その広大さと豪華さに、並州から来た呂布は圧倒された。金色の装飾が輝き、赤い柱が林立している。天井には緻密な彫刻が施され、壁には色彩豊かな絵が描かれていた。香炉からは、伽羅や沈香といった高価な香の匂いが漂ってくる。並州では嗅ぐことのない、都の匂いだった。その匂いは、重厚で、権威を象徴しているかのようだったが、同時にどこか淀んだ、息苦しさを感じさせた。
大殿には、百官がそれぞれの位階に従って並んでいた。彼らの絹の衣装が擦れる微かな音が響く。彼らの顔は、皆一様に硬く、感情を表に出さないようにしているのが見て取れた。皇帝は玉座に座っているが、その顔には精彩がなく、完全に萎縮しているのが見て取れる。彼の体からは、無力感と恐怖の匂いが漂っているかのようだった。そして、その傍らには、肥満した巨漢がふんぞり返っていた。董卓である。彼の顔には、傲慢と不遜の色が貼り付いている。その目は小さく、悪意に満ちていた。彼の存在そのものが、大殿の空気を重く、淀んだものにしていた。彼の息遣い、彼の纏う皮の匂い、全てが不快だった。重い、脂ぎった空気。
朝議が始まった。董卓は、帝を差し置いて、自らが全てを取り仕切るかのように振る舞った。大声で命令を下し、反対意見を述べようとする官僚を威圧する。彼の言葉には、論理も道理もなく、ただ自身の欲望と力が感じられるだけだった。彼の言葉の響きは、雷鳴のように響き渡るが、それは正義の雷鳴ではなく、ただの暴力的な響きだった。彼の声は、大殿全体を震わせた。多くの官僚たちは、顔色を失い、声を発することさえできなかった。彼らの顔には、恐怖と諦めの色が浮かんでいた。彼らの間からは、不安に満ちたため息が漏れる。ある者は、震える手を隠そうとしていた。
丁原は、董卓の傍若無人な態度を静かに見ていた。彼の顔に、怒りの色が宿っていく。並州で民を守ってきた者として、帝都の腐敗と権力者の専横を目の当たりにし、彼の正義感が黙っていることを許さなかった。彼の握りしめた拳が、微かに震える。並州の寒風に耐え、民を守ってきた彼の「義」が、この腐敗した都の空気に反発しているかのようだった。
ついに、丁原が口を開いた。その声は、董卓の大声とは異なり、低く、しかし大殿に響き渡る力強さを持っていた。並州の寒風にも負けない、毅然とした響きだった。その声には、辺境で鍛えられた武人の魂が宿っていた。
「董卓殿」丁原は言った。「貴殿の振る舞いは、漢臣としてあるまじき行いと存じます。帝を軽んじ、百官を威圧するとは、何事でしょうか!」
丁原の言葉に、大殿全体が静まり返った。百官たちは、驚きと恐怖に目を見開いた。董卓に面と向かって批判する者など、今の都にはいなかったからだ。彼らの目が見開かれる。静寂は、張り詰めた糸のようにピンと張っていた。董卓は、一瞬、何が起きたのか分からないといった顔をしたが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴った。彼の顔の脂肪が、怒りで震えた。
「何だと! 丁原! この老いぼれが! 貴様に何が分かるというのだ!」董卓の声は、怒りに震え、獣の咆哮のようだった。その声は、大殿の壁に反響し、耳を聾するかのようだった。その声に、大殿の床が微かに震える。
丁原は、一歩も引かなかった。「私は辺境にあって、異民族の脅威から漢の民を守ってまいりました。力こそ正義ではございません。真に国を治めるには、仁と義が必要と存じます。貴殿の行いは、民を苦しめ、漢王朝を滅亡へと導くだけです!」丁原の言葉は、正論であり、帝都の闇を射抜く光のようだった。彼の声の響きには、並州で培われた質実剛健さと、漢臣としての誇りが宿っていた。その声は、大殿に並ぶ百官の心を揺るがした。彼らの瞳に、かすかな希望の光が灯る。
呂布は、丁原の傍らで、その言葉を聞いていた。父の正義感、そして董卓という巨悪に臆することなく立ち向かう姿。その覚悟を肌で感じ、呂布は改めて丁原への尊敬の念を強くした。彼の胸には、熱いものが込み上げてくるのを感じた。それは、並州の陽光のように温かい、誇りの感情だった。彼の傍らには、いつでも彼を守る剣として立っていようと、心に誓った。呂布の目は、董卓と、その周囲にいる李儒や華雄といった董卓派の者たちを見ていた。彼らの顔には、怒り、侮蔑、そして警戒の色が浮かんでいた。彼らの視線が、呂布に突き刺さる。肌が粟立つような、冷たい視線だった。その視線は、戦場の敵意とは異なる、粘着質なものだった。彼らは、丁原の背後に控える呂布の存在を危険視しているのだ。
朝議は混乱に陥った。丁原と董卓の間に決定的な亀裂が入った瞬間だった。百官たちは、息を呑んでその光景を見ていた。董卓は怒り狂い、丁原を排除することを心に決めた。彼の吐く息は荒く、怒りの匂いがした。そして、その傍らに立つ呂布という、とてつもない武勇を持つ男の存在を、どうにか利用できないか、あるいは排除できないか、密かに画策を始めた。この朝議での火花は、やがて帝都を巻き込む大きな炎となることを、この時の呂布はまだ知る由もなかった。彼の心には、不穏な予感が静かに広がり始めていた。洛陽という都の空気は、もはや張り詰めた剣のように鋭くなっていた。