第19話:暗殺の予感 ~迫る危機~
第19話:暗殺の予感 ~迫る危機~
丁原、董卓の対立は抜き差しならないものとなっていた。董卓は丁原を危険視し、その排除を心に決めていた。李儒の呂布懐柔策が失敗に終わった今、董卓に残された手段は、力ずくで丁原を排除することだけだった。彼の太い指が、血に染まった地図の上を滑る。それは、新たな犠牲者を選ぶ指だった。
董卓陣営では、丁原暗殺計画が密かに進められていた。李儒が計画を練り、刺客が選ばれ、周到な手はずが整えられた。彼らは丁原の行動範囲、屋敷の構造、護衛の数などを調べ上げ、侵入経路を探った。都の闇に紛れて、彼らは獲物を狙う蛇のように、静かに機会を窺っていた。彼らの纏う空気は、冷たく、殺意に満ちていた。それは、洛陽の夜の冷たい空気よりも、さらに深い冷たさだった。金属が隠し持たれる音、足音を消す気配。呼吸を最小限に抑える音。忍び足の微かな音。
しかし、呂布は並州仕込みの鋭い感覚を持っていた。戦場で幾度となく死線を潜り抜けてきた彼の直感は、都の華やかさの裏に潜む、不穏な気配を察知していた。屋敷の周囲を歩く、不自然な人物の影。夜中に聞こえる、獣の気配ではない、しかし異常な微かな物音。そして何よりも、丁原や自身の周囲に漂う、肌が粟立つような、冷たい殺意の匂い。それは、戦場の敵意とは異なる、陰湿で粘着質な匂いだった。腐った肉の匂いのように、不快だった。その匂いが、鼻腔を刺激する。
呂布は、自身の予感を丁原に報告した。「父上、どうも屋敷の周囲に不審な気配を感じます。見回りの兵士だけでなく、何者かが潜んでいるような…警戒を強化した方がよろしいかと」呂布の声は、普段の穏やかさとは異なり、緊張を含んでいた。彼の目は、屋敷の隅々まで見通そうとしているかのようだった。
丁原もまた、長年の経験から危険を察知していた。彼は呂布の予感を聞き、頷いた。「うむ、私もそう感じていた。董卓め、いよいよ我々を排除しようと動き出したか」丁原の顔に、漢臣としての悲壮な覚悟の色が浮かんだ。彼の声は重く、岩のように響いた。
陳宮は、冷静な分析を加えた。「董卓が正面から我々を攻めることはないでしょう。并州の兵力、そして呂将軍の武勇を恐れているはず。ならば、取る手段は限られています。暗殺か、あるいは我々を都から追い出すための罠か」陳宮の声は落ち着いているが、その言葉には緊張感が走っていた。彼の瞳の奥には、策略家の鋭い光が宿っていた。
呂布は、父を守るため、自身の身辺警護をさらに強化した。彼は、丁原が外出する際には必ず付き添い、夜は丁原の部屋の近くで、甲冑をつけたまま休んだ。鎧の金属の冷たさが、肌に触れる。その冷たさが、彼の決意を固くする。張遼や高順、厳続といった信頼できる部下たちも、屋敷の警備を厳重にした。彼らは主君を守るためならば、命を惜しまない覚悟を持っていた。彼らの手は、常に武器の柄に置かれていた。その手触りも、頼りになった。
呂布の心の中では、守るべき人々の顔が次々と浮かんだ。丁原という父。そして、並州から連れてきた三人の娘たち。暁の聡明な瞳、飛燕の活発な笑顔、華の無邪気な寝顔。彼女たちの小さな手の温もり。彼女たちの安らかな寝息。そして、庭園で再会した、あの悲しい瞳を持つ美しい女性、貂蝉の姿。彼女も、この都の闇の中で危険に晒されているのかもしれない。これらの顔が、呂布の心を強く締め付けた。彼が何としても守らなければならない、大切な人々。
娘たちも、大人たちの間に漂う緊張感を感じ取っていた。父や祖父がいつもより険しい顔をしていること、屋敷の中が張り詰めていること。夜中に聞こえる、かすかな物音や人の気配。彼女たちの小さな体が震えるのを肌で感じ、呂布の胸には、彼女たちを守るという決意が改めて固く刻まれた。華は夜中にうなされるようになり、呂布は彼女を抱きしめ、安心させることしかできなかった。華の小さな体の温もり。その温もりが、彼の「義」を強くした。
王允は、董卓が丁原を排除しようとしている動きを察知し、自身の計画の進展を期待していた。彼は、丁原が殺され、呂布が董卓に反旗を翻すことを望んでいた。彼の目には、冷たい計算の色が宿っていた。
しかし、董卓が差し向けた暗殺の刃は、呂布の「忠義」と、彼の並外れた警戒心、そして信頼できる仲間たちの力によって、阻まれることになる。迫り来る危機に対し、呂布は父を守る剣として、そして愛する人々を守る盾として、静かに牙を研いでいた。洛陽の夜は、暗く、そして殺意の匂いが充満していた。それは、血の匂いの予感だった。