第14話:父子の心 ~託される期待~
第14話:父子の心 ~託される期待~
李儒を追い返した後、呂布はすぐに丁原の元へ向かった。帝都の屋敷の一室で、丁原は静かに呂布を待っていた。陳宮も同席していた。部屋には、かすかに墨の匂いが漂っていた。静かで、落ち着いた空気。
呂布は、李儒が自身に近づいてきたこと、そして董卓からの甘い誘惑の内容、金銀財宝、高官の地位、赤兎馬、そして娘たちの安全を餌にされたこと、そして自身がそれを断固として拒絶したこと、その全てを包み隠さず丁原に報告した。彼の声は、少し震えていたが、それは恐怖や後悔からではなく、大きな試練を乗り越えたことによる興奮と、丁原への報告の重みからだった。その声には、並州の大地のように揺るぎない決意が宿っていた。
丁原は、呂布の話を、言葉なく静かに聞いていた。彼の顔には、驚きや動揺の色は浮かんでいなかった。まるで、呂布が誘惑を拒絶することを最初から知っていたかのように、穏やかな表情だった。彼の目は、呂布の顔を、その瞳の奥まで見つめていた。陳宮もまた、冷静な表情で聞いていたが、その瞳の奥には、かすかに驚きの色が宿っているのが見て取れた。李儒の誘惑を呂布が拒絶するとは、彼にとっても予想外だったのかもしれない。
呂布が全て話し終えた後、部屋には沈黙が訪れた。重い、しかし温かい沈黙だった。丁原は、ゆっくりと立ち上がり、呂布の傍らに歩み寄った。彼の顔には、深い安堵と、そして何よりも、計り知れないほどの愛情と誇りが満ち溢れていた。並州の陽光のように温かい光が、彼の顔を照らしているかのようだった。
丁原は、呂布の両肩に手を置いた。その手は、並州の寒風と戦場で鍛えられた、ごつごつとした、しかし温かい手だった。その手の温もりが、呂布の肩を通じて体中に伝わってきた。それは、並州で彼を拾い上げ、育ててくれた父の手の温もりだった。その温かさが、呂布の心の底まで染み込んでいくのを感じた。
「奉先よ……」丁原の声が、わずかに震えた。「よくぞ言ってくれた! 私の息子だ! お前は、私の『忠義』の教えを、真に理解しておったのだな!」彼の声には、涙が混じっていた。丁原は、呂布の誠実さと、李儒の誘惑を前にしても揺るがなかった彼の「忠義」に、深く感動していたのだ。特に、娘たちの安全を餌にされても、自身の「義」を貫いたことに、丁原は感銘を受けていた。彼は、自身が呂布という人間を、決して間違っていなかったことを確信した。
丁原は、呂布を強く抱きしめた。父の体の温かさ、その力強さ。呂布は、丁原の腕の中で、子供のように、しかしこれまでの旅や戦いの全ての重荷から解放されたかのような安堵を感じた。並州で飢えていた頃、丁原に拾われた時のことを思い出した。あの時差し伸べられた手の温かさ、与えられた食料の味、そして初めて着せてもらった温かい服の手触り。丁原が教えてくれた武芸、そして「義」の精神。その全てが、今の自分を形作っている。そして、それこそが、李儒が提示したどんな宝よりも価値のあるものだったのだ。父の体の匂いは、並州の土の匂いのように懐かしかった。
丁原は、呂布を離し、その顔を見つめた。彼の瞳には、希望の光が宿っていた。「お前は、私の誇りだ。並州の誇りだ。そして、漢の誇りとなるだろう」丁原の声には、呂布への揺るぎない信頼と、未来を託す期待が込められていた。「董卓のような悪党は、決して真に天下を治めることはできぬ。天下を救うのは、力だけでなく、『義』を持つ者だ。奉先、お前こそが、その『義』を天下に示すことができる男だ」
そして丁原は、呂布の娘たちについても言及した。「お前が、娘たちの安全を餌にされても、自身の『義』を貫いたこと。それは、娘たちに何よりも誇らしい父親の姿を示したということだ。彼女たちが、将来、お前のことを『裏切り者の父』ではなく、『義を貫いた英雄の父』として誇りに思える。それこそが、お前が娘たちに与えられる最高の贈り物であり、真の安泰な未来なのだ」
呂布は、丁原の言葉を聞き、胸が熱くなるのを感じた。父からの言葉は、李儒の甘い誘惑よりも、何倍も力強く、彼の心に響いた。それは、彼がこれから歩むべき道を示してくれる光だった。彼は、丁原に誓った。「父上、この奉先、父上の教えられた『義』を胸に、必ずや乱世を終わらせてみせます」彼の声は、並州の大地のように固い決意に満ちていた。
陳宮は、二人の様子を静かに見ていた。彼の顔に、わずかな笑みが浮かんだ。彼は、呂布の武勇だけでなく、その「忠義」と、丁原との深い絆、そして父としての情の深さを見て、この男ならば、乱世を乗り越えることができるかもしれない、と感じ始めていた。彼の冷静な瞳の奥で、新たな計算が始まったかのようだった。
丁原は、再び呂布の手を握った。「うむ、信じているぞ、奉先。お前ならばできる」父の手の温もりが、呂布に確かな力を与えてくれた。董卓からの誘惑は、呂布の「忠義」を試す試練であったが、特に娘たちの安全を餌にされたことは、かえって彼の「義」を固くさせたのだ。それを乗り越えたことで、呂布と丁原の父子の絆は、以前にも増して強固なものとなった。そして、丁原は、呂布に託す未来への期待を、確固たるものとしたのだ。