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第13話:恩顧への誓い ~我が主はただ一人~

第13話:恩顧への誓い ~我が主はただ一人~


李儒は、呂布が赤兎馬に強く惹かれ、娘たちの安全を案じていることを確信し、勝利を目前にしたかのような顔で呂布の返事を待った。彼の目は、すでに呂布が董卓の配下となったかのように、傲慢な光を宿していた。李儒の口元には、嘲りの笑みが浮かんでいた。「これで、丁原も終わりだ」そう思っていたに違いない。


しかし、呂布は李儒の予想を裏切った。彼は李儒の提示した金銀財宝、高官の地位、伝説の赤兎馬、そして娘たちの安全という、全ての誘惑に対し、真っ向から首を横に振った。彼の顔から、心の揺れの色は消え失せ、代わりに並州の寒風のように鋭く、そして並州の大地のように固い決意が宿っていた。彼の瞳には、並州の岩のような固さが宿っていた。


「申し出は、ありがたい」呂布は言った。彼の声は、朝議での丁原の声のように、低く、しかし揺るぎない力強さを持っていた。「董卓様の御武威、そして貴殿が用意された赤兎馬の素晴らしさ。この奉先、武人として感服いたしました」彼の言葉は、李儒の顔色を曇らせた。李儒の笑みが、一瞬にして消えた。


「では、お受けいただけるので?」李儒の声が、わずかに上ずった。焦りが滲んでいた。


呂布は、再びはっきりと首を横に振った。「いや」


その言葉に、李儒は目を見開いた。彼の顔から、勝利の笑みが消え失せ、驚愕の色が浮かんだ。彼は、呂布がこれほどの誘惑を拒絶するなど、想像もしていなかったのだ。彼は、目の前の男が理解できなかった。


「な、なぜです? 将軍ほどの御方ならば、董卓様の下でこそ、その力を存分に発揮できるというのに! お嬢様方の安全も、安泰な未来もお約束できるのですよ?!」李儒は、思わず声を荒げた。彼の声には、焦りと苛立ちが滲んでいた。


呂布は、李儒の顔を真っ直ぐに見た。彼の瞳には、権力や財宝、あるいは物理的な安全といった物質的な価値では決して測ることのできない、別の種類の光が宿っていた。それは、丁原という養父から受け継いだ、「義」の光だった。彼の心は、並州の大地のように揺るぎなかった。


「我には、父上への恩義がある」呂布は静かに言った。彼の心の中で、丁原と共に並州で過ごした日々、丁原が彼に温かい食事を与え、武芸を教え、そして人間としての生き方を教えてくれた思い出が鮮やかに蘇った。飢えていた自分に差し伸べられた、丁原の温かい手。並州の寒さの中、共に焚き火にあたった時の、薪の燃える音と匂い。丁原が自分に語り聞かせた、戦いの話、そして「義」の話。その声の響きが、呂布の心の中で響いていた。


「父上は、この奉先を拾い、育ててくださった。武芸を仕込み、并州の民を守る道を教えてくださった。父上あってこその今の奉先だ」呂布の声には、偽りも虚飾もなかった。それは、彼の心の底からの言葉だった。その声は、並州の寒風のように澄んで響いた。「その恩を、どうして忘れられようか」


そして呂布は、李儒の目をじっと見つめた。「貴殿は、私の娘たちの安全を口にした。確かに、父として娘たちの安全は何よりも大切だ。だが、父上を裏切り、董卓様のような、民を苦しめる悪党に仕えることが、娘たちにとって本当に『安泰な未来』と申せるのか?」呂布の声には、怒りが混じっていた。「私が『義』を捨て、悪党の部下となれば、娘たちは『悪党の娘』と呼ばれることになるだろう。そのような未来、娘たちに与えたいとは思わぬ」


李儒は、完全に打ちのめされたようだった。彼の持つ「人の心は欲望や肉親への情で動く」という信念が、根底から揺るがされたかのようだった。金銀財宝、地位、名馬、そして肉親の安全。世の全ての人間が欲するものを前にして、ただ「恩義」と「義」、そして娘たちの誇りを守るためにそれを拒絶する者がいるなど、彼は考えもしていなかったのだ。彼の甘い言葉は、呂布の「忠義」という岩盤に、何一つ傷をつけることができなかった。


「……恩義、そして娘たちの誇り、それだけのために、天下最高の地位と宝、そして安泰な未来を捨てるというのですか?」李儒の声は、嘲りではなく、困惑と、微かな畏怖に満ちていた。


呂布は、力強く頷いた。「うむ。我には、父上への恩義がある。そして、父上と共に、この並州の民を守るという『義』がある」彼の声には、揺るぎない決意が宿っていた。「董卓様は、帝都を乱し、民を苦しめていると聞く。そのような御方に仕えることは、私の『義』に反する。そして、私が貫く『義』こそが、娘たちに与えられる最高の宝であり、最も揺るぎない安泰な未来だと信じている」


李儒は、完全に敗北を認めた。彼の策略は、呂布という男の「忠義」と「義」という、彼が最も軽視していた感情、そして父としての情という、彼が最も理解していなかった愛情の前に、完敗したのだ。彼は、呂布の持つ武勇が、単なる力ではなく、「義」と父子の絆、そして父としての情という強固な精神に支えられていることを、初めて理解した。それは、彼のような策士にとって、最も理解しがたい種類の強さだった。李儒の顔から、血の気が引いていくのが見て取れた。彼の纏う甘い匂いも、どこか寂しげに感じられた。


李儒は、苛立ちと屈辱を押し殺し、絞り出すような声で言った。「……分かりました。飛将軍の御意思、董卓様に申し伝えましょう。しかし、後悔なされませぬよう」彼の声には、まだかすかに脅迫の色が滲んでいた。その声は、呂布の心には響かなかった。


呂布は、李儒を見送った。李儒が去った後の部屋には、彼の纏っていた甘い香の匂いが微かに残っていたが、それはもはや魅惑的な匂いではなく、敗北の匂い、腐敗の匂いのように感じられた。呂布は、誘惑を断ち切ったことに安堵しつつも、大きな試練を乗り越えたことによる疲労を感じていた。しかし、彼の心には、丁原への忠義を貫き通し、そして娘たちの誇りを守る選択ができたことによる、清々しい達成感があった。彼は、丁原に、この全てを報告することを決めた。父に、彼の忠義を証明できたことが、何よりも嬉しかった。赤兎馬への憧れは残っていたが、それ以上に、丁原への恩顧と「義」の誓い、そして娘たちの笑顔を守るという思いが、彼の心を占めていた。娘たちの安全を餌にされたことが、かえって彼の「忠義」と「義」を強くさせたのだ。

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