第12話:赤兎の誘惑 ~名馬、飛将を待つ~
第12話:赤兎の誘惑 ~名馬、飛将を待つ~
李儒は、呂布の心が娘たちの安全と赤兎馬によって強く揺らいでいることを確信し、彼をある場所へ案内した。それは、董卓が所有する豪華な馬舎であった。そこには、各地から集められた名馬が多数繋がれていたが、中でもひときわ異彩を放つ一頭がいた。
馬舎の奥に、その馬は繋がれていた。全身、燃えるような真紅の毛並み。太陽の光を浴びて、まるで炎が揺らめいているかのように見える。筋骨隆々とした体躯は、並外れた力強さを感じさせ、その瞳には、並州の荒野を駆け抜ける狼のような、野生の光が宿っていた。鬣は風になびき、その存在感は他の全ての馬を圧倒していた。それは、まさに伝説の馬、「赤兎」であった。馬舎に漂う、藁と馬の匂いの中でも、赤兎馬の持つ気迫は際立っていた。その毛並みの鮮やかな赤色は、呂布の鎧の赤色と呼応しているかのようだった。
呂布は、赤兎馬の姿を見た瞬間、息を呑んだ。彼の武人の血が沸き立つような感覚。馬を愛する彼の心は、完全に奪われた。これまで数多の名馬を乗りこなしてきた呂布であったが、これほどまでの馬に出会ったのは初めてだった。赤兎馬の肌の温かさ、その筋肉の躍動感、蹄の硬さ。想像するだけで、彼の体が熱くなるのを感じた。まるで、自分と一体になるために生まれてきた馬だ、と感じさせるほどの、驚くべき一体感と親和性を感じた。
「これは……」呂布の声が、わずかに震えた。彼の目は、赤兎馬から離すことができなかった。その瞳には、赤兎馬への強い憧れが宿っていた。
李儒は、呂布の様子を見て、してやったりという表情を浮かべた。「如何ですかな、飛将軍。これが、董卓様が将軍のために用意された、伝説の赤兎馬でございます」李儒の声は、勝利を確信したように響いた。彼の言葉には、赤兎馬という餌の絶大な効果に対する、揺るぎない自信があった。
「聞くところによれば、この赤兎馬は、一日に千里を駆け、山を越え、川を渡ると言われます。これまで、この馬に真に乗るべき男はいませんでした。しかし、董卓様は、将軍こそがこの馬に乗るに相応しい、天下に並ぶ者なき英雄であると仰っておられます」李儒は、甘い言葉を畳みかけるように呂布に投げかけた。
そして、彼は再び具体的に誘惑の内容を提示した。「もし将軍が董卓様に仕えられれば、並州牧の地位はもちろん、さらに高い位階をお約束いたしましょう。将軍の望むままに、兵を与え、権力を委ねる。そして、この赤兎馬も、将軍の愛馬としてお与えいたします」
さらに李儒は、呂布の耳元で囁くように言った。「将軍が董卓様の元へ来られれば、将軍の全ては安泰です。並州に残してきた者たちのことも、心配する必要はございません。そして、ここにいらっしゃるお嬢様方も……。この帝都で最も安全な場所に暮らし、最も良い教育を受け、何不自由なく育つことができます。誰からも脅かされることなく、安泰な未来を」
李儒の言葉は、まるで幻影のように呂布の心に囁きかけた。最高の地位、最高の権力、天下最高の馬、そして娘たちの絶対的な安全。乱世の英雄として、そして父として、これほど魅力的な誘惑があろうか。呂布の心は、激しく揺れた。丁原への忠義という揺るぎない岩盤に、地位と権力という波が打ち寄せ、赤兎馬という激流が襲いかかり、そして娘たちの安全という嵐が吹き荒れるかのようだった。並州の貧しさ、辺境の守りの厳しさ、そして父・丁原と共に天下を救うことの困難さ。そして、帝都の危険に娘たちを置いておく不安。それらの現実が、李儒の提示する輝かしい未来と対比され、呂布の心をざわつかせた。娘たちの無邪気な笑顔、彼女たちの小さな手の感触、華の甘える声。それらが、呂布の心の中で李儒の言葉と重なり合い、彼の心を締め付けた。
赤兎馬が、呂布を見つめている。その瞳には、乗り手を選ぶ高貴な光と、彼を試すかのような挑戦的な輝きがあった。呂布は赤兎馬に近づき、その首筋に触れた。筋肉の隆起、温かい体温。その手触りは、何物にも代えがたい魅力を放っていた。赤兎馬も、呂布の手の温かさに応えるかのように、わずかに頭を擦り寄せた。人と馬の間に、言葉にならない、深い繋がりが生まれたかのようだった。赤兎馬の息遣いが、呂布の顔にかかる。熱く、力強い息遣いだった。
李儒は、呂布と赤兎馬の様子を見て、笑みを隠せなかった。彼は、赤兎馬という餌が、呂布の心を確実に捉え、そして娘たちの安全という言葉が、彼の最も弱い部分を突いたと確信したのだ。彼は、呂布が丁原への「忠義」など、目の前の栄華と伝説の馬、そして愛娘たちの安全を前に、簡単に捨てるだろうと考えた。人間の欲望や、肉親への情こそが、どんな誓いよりも強い、と李儒は信じていた。
呂布は、赤兎馬から手を離し、李儒と向き合った。彼の顔には、まだ心の揺れが見て取れた。赤兎馬の誘惑は、彼にとってこれまでにないほど強力なものだった。そして、娘たちの安全という言葉が、彼の心を締め付けていた。李儒の言葉、赤兎馬の存在。甘い誘惑の匂いが、呂布の周りをぐるぐると回る。呂布の「忠義」が、今、まさに試されようとしていた。この試練を乗り越えられるか、その行方はまだ誰にも分からなかった。彼の額からは、冷たい汗が流れていた。