第10話:深まる亀裂 ~父を守る剣~
第10話:深まる亀裂 ~父を守る剣~
丁原と董卓の間の対立は、日増しに深まっていった。丁原は漢の臣として、董卓の専横を許すことができなかった。朝議であろうと、私的な場であろうと、機会あるごとに董卓の非道を批判し続けた。彼の正義感は、並州の厳しい環境で培われた、曲がることのない信念から来ていた。彼の声は、並州の寒風にも負けない、確固たる響きを持っていた。
董卓は、丁原の頑なな態度に激怒した。多くの官僚が自身に媚びへつらう中で、丁原のように公然と批判する者は許せなかった。彼の顔は常に怒りに歪んでいた。彼の太い血管が、首筋に浮き上がっていた。しかし、丁原が持つ并州の兵力、そして何よりも呂布という比類なき武勇を持つ男の存在が、董卓に即座の強硬手段を取ることを躊躇させた。董卓は、丁原を力ずくで排除するよりも、まずは呂布を自身の配下に引き抜くことを画策した。呂布の武勇を手に入れれば、天下に敵なしとなるだろう。そして、呂布さえ引き抜ければ、丁原など取るに足らぬ存在となる。彼の太い指が、呂布という獲物を掴むように動く。
董卓の腹心である李儒が、その役目を担うことになった。李儒は、言葉巧みな男であった。人の欲望や弱みを見抜くことに長けていた。彼の目は、相手の心の隙間を探るように鋭く光っていた。細く吊り上がった目だった。彼は、呂布の武勇に目をつけ、彼を懐柔するための周到な計画を練り始めた。金銀財宝、高官の地位、そして何よりも、武将にとって何物にも代えがたい宝、伝説の名馬「赤兎」を用意するという、甘い誘惑の罠。
李儒は、並州から来た呂布が、都の華やかさや権力に憧れを抱いているかもしれない、あるいは、丁原という老いぼれの配下に甘んじていることに不満を感じているかもしれない、と考えた。彼の知略は、人の心の隙間に入り込むことを得意としていた。彼の言葉は、まるで甘い毒のように響く。滑らかで、耳に心地よい響きだった。彼は呂布に近づく機会を窺い、その性格や好みを調べ上げた。彼が纏う香は、並州にはない、甘く、そしてどこか不気味な匂いがした。それは、誘惑の匂いだった。
一方、丁原は董卓の危険な企みに気づいていた。彼は呂布に対し、董卓やその配下からの誘惑には決して乗らぬよう、厳しく言い聞かせた。「奉先よ、董卓は狡猾な男だ。甘い言葉で近づいてくるかもしれぬが、奴は真に人を信じぬ。奴に従えば、お前自身の『義』を失うことになるぞ」丁原の声には、呂布を案じる深い情が込められていた。その声には、経験に裏打ちされた重みがあった。彼の温かい手が、呂布の肩に置かれる。
呂布は、丁原の言葉を真摯に聞いた。彼は李儒のような策士の狡猾さや、董卓のような権力者の腹黒さを、まだ完全には理解していなかった。都の闇は、彼が戦場で見てきたものとは性質が異なった。血や鉄の匂いではなく、もっと粘着質で、見えない闇だった。しかし、丁原という父の言葉だけは、彼の心に深く響いた。丁原は、呂布がこの乱世で最も信頼し、尊敬する人物だ。丁原が言うならば、それは間違いないことだと、呂布は信じて疑わなかった。丁原の言葉は、並州の大地のように揺るぎなかった。
呂布は丁原に改めて誓った。「父上、ご安心ください。奉先は決して父上をお裏切りいたしません。父上のお傍にあって、父上をお守りするのが、奉先の『義』でございます」彼の声は力強く、揺るぎなかった。それは、並州の大地で、父から受け継いだ「忠義」の精神が、帝都洛陽の闇の中でも決して揺るがないことを示す誓いだった。彼の声の響きは、固い決意を示していた。
三姉妹は、大人たちの間に漂う緊張感を感じ取っていた。特に暁や飛燕は、父や祖父の顔色を窺い、何か不穏なことが起きていることを察していた。屋敷の中に流れる空気は、並州にいた時よりも張り詰めていた。李儒という人物が父に近づいているという噂も、彼女たちの耳に入っていたかもしれない。彼の甘い言葉に含まれる「危ない匂い」を、子供が敏感に察知していた。彼女たちの、大人には理解できないような、しかし子供ならではの鋭い直感が、危険を察知していた。彼女たちは、父の傍を離れず、父の鎧に触れることで、安心感を得ようとしていた。冷たい金属の手触り。しかし、その下にある父の体温は温かい。それは、彼女たちにとって揺るぎない安心の象徴だった。
李儒は、いよいよ呂布への懐柔策を実行に移そうとしていた。伝説の名馬、赤兎を餌に、呂布の「忠義」を金銭と地位、そして天下最高の宝物で買い取ろうとする。彼の口元には、獲物を手に入れる寸前の、狡猾な笑みが浮かんでいた。彼は呂布という獲物を手に入れることに、確信を抱いていた。しかし、呂布の心には、丁原という父への揺るぎない恩義と、「忠義」という言葉にならない誓いが、岩のように固く根差していた。李儒の甘い誘惑が、呂布の「忠義」という名の壁にぶつかる時が迫っていた。洛陽の闇の中で、呂布の運命を左右する、最初の大きな試練が始まろうとしていた。彼の心は静かだった。嵐の前の静けさのように。