〈 7 〉
翌日の午後。S百貨店の社員食堂で小澄孝之と稲森夏実が向かい合って座っていた。ランチの時間はとっくに過ぎている。午後遅くの短い休憩時間に二人は顔を合わせた。
「昨日のドラキュラのシャツの件、お父さんには何と言って頼んだの。」
「考えたんだけどね、思いつかなくてそのまんま。イタズラでシャツが捨てられてたんだけど、血が付いているような色をしている、変な噂が飛んでいて困ってるので調べて欲しいって。」
「直球勝負だね。」
「変に取り繕っても通用しないかなって。」
「ベテランの敏腕捜査官には見抜かれてしまいそうだもんね。でも引き受けてくれたんだ。」
「簡易の検査までだけどね。」
「それは良かった。検査の結果はいつ出るのかな。」
「もう出てるわ。さっき父からメールが来たの。早く小澄さんに報告したかったの。」
「それで、どうだったの。」
孝之は思わず身をのり出した。夏実は紙コップのコーヒーを一口飲んでから、
「結論から言うとね、血だった。」
「えっ。」
「正確に言うと、あのシャツには血液による汚れが間違いなく混じっていたということ。」
「それはちょっと以外かも。単なるイタズラでは無かったってことかな。」
「さらに言うと、あの血は人間のものでは無いらしいの。」
「人間のものでは無いって、じゃあ何の血なの。」
「簡易の検査ではそこまでしか解らないんだって。詳しい検査の仕方をすれば、何の血か特定できないことはないらしいけど。そこまでは無理言えなくて。」
「人間の゙ものでないとしたら・・」
「そう。」
夏実は声のトーンを不気味に落として、人差し指を孝之に突きつけた。
「あの血痕は本当に吸血鬼ドラキュラのものだったのかも。」
そう言ってから夏実は表情を崩して、指を顔の横で
クルクルまわした。
「なんてね。どう考えていいのか、わたしも何だか訳わからなくなっちゃった。」
「そもそも、ドラキュラって何者なの。」
2杯目のコーヒーをカップに注いで、孝之が席に戻ると夏実が聞いた。
「もともとホラー小説の主人公だって、この間話してくれたわね。」
「そういえば、この前は説明の途中だったね。実はあれからあらためてドラキュラについていろいろ調べたよ。簡単にその内容を話してみようか。」
「ええ、ぜひ。」
孝之はコーヒーに少しだけ口をつけてから話しを始めた。
「前に言ったとおり、ドラキュラはブラム・ストーカーが書いた怪奇小説の主人公だ。この物語はもちろんフィクションだけど、ドラキュラには実在のモデルがいる。15世紀、ルーマニアのブラド公という人物だ。別名を『串刺し公』という。戦争で捕らえた敵兵を串刺しにして、戦場の最前線に並べて晒したりしたらしい。敵の戦意をくじくためにね。」
「うわあ、残酷。」
「そう、戦争って残酷だよね。でも、そういう残酷さが国を救うということもある。ブラド公には残忍なイメージがある一方で、国民を守った英雄という評価もある。」
「ふーん。」
「実際にドラキュラとも呼ばれていた。彼の父がドラゴン騎士団の一員だったから、『ドラゴンの子』という意味だったらしい。『小竜公』ってところかな。」
「昔の香港のアクションスターみたいね。」
「それは『李小竜』、ブルース・リーだね。」
「父が良く観てたわ。」
「さて、ストーカーの小説『ドラキュラ』はベストセラーになり、それをもとにした戯曲が作られ、さらに映画などで映像化か繰り返される中で、ドラキュラの視覚的なイメージが形づくられていった。最初の舞台は室内劇で、たった2場での進行だった。ドラキュラはストーリーの都合上、上流階級の家に招かれるにふさわしい容姿や作法が求められ、ああいう貴公子のような風貌になった。また舞台の上の演出で、ドラキュラが消えるというイリュージョンがあり、そのために大きなマントと後頭部まで隠れるほどの立ち上がった襟が必要になった。」
「なるほど。最初からあんな格好良くはなかったんだ。」
「その後も舞台や映像で何度も取り上げられ、ドラキュラはますます世界的に有名なモンスターになっていった。」
「わたしも映画で観たことがある。」
「ドラキュラは夏実の潜在意識の奥にしっかり刻み込まれているんだと思う。だから夢の中にあんな風に登場したんだ。」
「そうかもね。」
「映画とかの作品によって、ドラキュラの描かれ方はさまざまだけれど、基本的な設定は、ほぼ共通している。」
「イケメンであるとか、その弱点とか。」
「そう、弱点は案外多いんだよね。それに結構みんなに知れ渡ってる。夏実はいくつ知ってるかな。」
「まず、十字架。一番ポピュラーでしょ。」
「そうだね。十字形のものをやたらに怖がるという設定もあるけど、その十字架に信仰心が伴っていないと効果がないってパターンもある。」
「聖水も同じね。わたしの観た映画では、聖水をかけられて火傷していた。」
「そう、『聖なるもの』には弱い。」
「それから、ニンニクが苦手。」
「ニンニクは古来から魔除けとされていたからね。」
「ニンニク料理は食べられないのね。」
「餃子もニンニク抜き以外はダメだってことだね。」
餃子は孝之の大好物だ。
「宇都宮や浜松には住めないわね。」
「宮崎も入れてあげないと怒られるよ。」
「アハハ。」
「心臓に木の杭を打ち込まれると死ぬ。寝ている時でないとやりにくい。」
「そんなの、ドラキュラじゃなくたって死んじゃうわよ。」
「銀の弾丸で撃たれると死ぬ。これはオオカミ男の場合の方が有名かな。」
「それもたいてい死ぬわ。」
「でも、銀の弾丸以外では死なないったことだよ。」
「そうか、それはすごいかも。」
「川を渡れないそうだ。なんだか、かわいそう。」
「水が苦手なのかな。ちょっと優越感を感じる。」
夏実はこどもの頃から、水泳は得意種目だ。
「許可無しでは、他人の家に入れない。」
「案外礼儀正しいのね。許可しなければいいのか。」
「でも1回でも許可してしまうと、あとは自由に入れてしまう。」
「そのためにあんなにハンサムなんだ。外見に騙されないようにしないと。」
「細かい粒を見たら、数えずにはいられないらしい。」
「神経質ね。追っかけられたら、米粒でもばら撒けばいいんだ。いい作戦でしょ。お米が勿体ないけど。」
「でも、何万粒でも一瞬で数えてしまうらしい。」
「それ、弱点じゃなくて特技じゃない。作戦あえなく失敗ね。」
「そして、鏡に映らない。おっと、これは弱点じゃないかな。」
「立派な弱点よ。毎日どうやって身づくろいするのよ。スタイリストがついてるのかな。」
「最後に太陽の光だ。」
「あのドラキュラのように。」
「あの子が本当にドラキュラだったとしたらね。これも原作小説では、昼間は少し動きが鈍くなる程度という設定だったけど、あとからいろいろと拡大解釈されていった。太陽の光を浴びると、たちまち炎に包まれて灰になってしまったり、一気に老いて干からびてしまったり。映画なんかではクライマックスの場面になったりするから、派手になっていったんだろうな。」
「なるほどね。」
「ちなみに太陽を浴びてピンチの時は、若い新鮮な血を吸うと回復するそうだ。」
「じゃあ、わたしはすごく危ないところだったのかもしれないわね。」
夏実は大げさに首をすくめた。
孝之はふと壁の時計を見て跳び上がった。休憩時間がとっくに終わっている。