私はこの世に忘れ去られ
夜の池袋の繁華街。真新しい暗黒のドレス身を包み、ハイヒールの痛みを感じながら私は自分でもいくらかの戸惑いを覚えた。足元からひんやりと立ち上る冬の残りかすのような冷たい風にぞっとするような感覚を覚えた。私は視線を終始雑踏から逸らせて気躓きそうになるのをこらえながらせかせかと脚を前へ進める。
「姉さん、一杯いかがですか?」
「よかったらちょっと僕らとお茶しませんか?」
数回ほどそんな声が聞こえた気がした。私は平静を装い、宵の狂騒を横切ってゆく。この街にいるどんな能天気な人間に用はない。彼らに対しひがみとも冷笑ともつかないまなざしを差し向けていた。
歓楽街の出口にまで来た。大通りと狭い路地の交差点には私とひとりの女学生以外は誰も立っていない。
青信号になるまでにはかなりの時間がかかるようだ。すると不意に女学生が大通りの横断歩道へと踏み出してゆく。右側から大型ダンプが!私はとっさに彼女の腕を背後からわしづかみにし、引き戻した。次の瞬間、ダンプがクラクションを苛立たし気に立てながら通過していった。間一髪。
「・・・痛い・・・・・・。」
少女はか細い声だった。
「ごめんね、でもあのままだったらもっと痛いことになっていたんだから。」
私の低い声に彼女は呆然と地面に座り込んだままであった。私の腕力はたとえそれが火事場の馬鹿力だとしてもなお異常に強いものだっただろう。
「・・・お兄さん?」
彼女は少しにっこりとしていた。
私はごまかす余地もなく、控えめにうなずいた。
「すごい力。」
彼女は安堵の表情に変わったかと思うと腕を思いっきりひっかきはじめた。
彼女のひっかきはますます激しくなる。
「ひっかくのはおやめ。」
そこで私の左手首にこの間のリストカットの傷が疼くのを感じた。
「アトピーだもん。心配ないよ。」
ゆうなというその少女はすましていった。
「だけど、ひっかいたら腕じゅう真っ赤になってお肌によくないよ。」
また傷が疼く。
ゆうなはどさっと細い脚を投げ出した。
「・・・おなかすいた。」
「おうちに帰って食べればいいじゃない。」
するとゆうなはいじらしい目つきで言った。
「・・・今家に帰ったらお母さんに怒られちゃう。ゆうなの家ね、お父さんが外国行っていてなかなか帰ってこなくてね、お母さんと二人なんだけど、お母さんいっつも怒ってばっかりなの。それなのに私の心配なんかしてないもん。かわいいとなんか思ってないもん。家に帰るとゆうなは食事の用意もさせられるし、まずいと食器ごとごはん投げつけられる。」
ゆうなは長い黒髪で顔を隠してうつむいてしまった。私はいたたまれなくなった。
「それじゃあ、今夜はうちでご飯食べていきな。」
その晩は私の家にゆうなを泊めることにした。これが本当はリスクを孕んでいることは承知の上であった。
ゆうなは高校二年生で、学校もあまりいけてないし、テストも赤点続きだという。今日は、この時間までふらふらとひとりで出歩いていたが、疲れ果ててすっかり意識がなくなっていたそうだ。夕飯のレトルトシチューを食べながら彼女は身の上を教えてくれた。
「お兄さんって普段何してるの?」
私は二週間前にわけあって勤めていたアパレル店をやめたところだった。今月までは会社が給料を支払ってくれるが、時間はあまりない。もとより私は就職活動と名の付くものをしたことがなかったため、次にどう職にありつくかも考えていなかった。それよりなにより、今はとてもそんなことすら考えられる状態ではないのだ。
翌日の朝にはゆうなは学校へ登校していった。連絡先を教えてもらったので、彼女とは毎日夜にやりとりをした。
「昨日はお母さんすっごく怒ってた。どこへ行ってたってきかれたからネカフェで徹夜したっていったらほっぺたひっぱたかれたよ。」
彼女のメッセージに私は胸が張り裂けそうになった。急ぎ求人サイトを開き、何か今の私にできないことがないか、画面をスクロールした。
私は両親の連絡先を知らない。持っていたこともない。高校を出るのと同時に家出したからだ。私の性自認について、あの人達はなにひとつわかってくれなかったのだ。今までは高校の一つ上の女の先輩の計らいにより何とか食いつないできたが、その恩を仇で返す結果となってしまった。先輩に連絡すべきだろうか。私はふうとため息をついて、意を決して先輩のアカウントを開いた。
お昼過ぎに先輩から連絡がきた。
「がんばったじゃん。悪いけどカオルならもっと続かないと思ってた。」
相変わらずのそっけない返事だ。でも、うれしい。先輩は私と違って社交的なギャル気質で、気も強い。去年まではアパレルにいたけど、芸能事務所にスカウトされて芸能界の荒波へと漕ぎ出していった。
「じゃあさ、今度会わない?」
先輩がお疲れ様会を開いてくれるという。最近先輩が忙しくて連絡するのもためらっていたと説明すると、
「何言ってるの。あんたそれでもあたしの後輩?」
と一蹴された。
久しぶりに会った先輩はすっかり風貌がアイドルらしくなった。前はその辺に転がっている石があれば蹴り飛ばしていそうな仏頂面をしていたけど、今はすこし表情がやわらかだ。
「あんたもだいぶメイク上手くなったじゃない。シャドーは相変わらずだけど、目元とか見違えたよ。」
先輩は私に一番最初にスカートやブラウスにショートパンツをくださった人だ。家出してジャージ姿だったみすぼらしい私に何も言わずに一式服を貸してくれた。
「っていうかさ、」
先輩はあらたまった表情で言った。
「あなた、前よりフェイスラインすっきりしたし姿勢もよくなったんじゃない?」
実際そうだった。顔周りは毎日ローラーをしていたし、カロリー摂取は控えめにしていたし、毎日腹筋運動もやっていたのでちょっと自信が出てきていたところだ。
「お待たせいたしました。」
先輩におごってもらったオムライスが届いた。ふわりとボリューミーなオムライスだ。真っ赤なケチャップもたっぷりとかかっている。
「ほらっ、冷めないうちに。」
先輩のオーダーした料理はまだ届いていなかった。
「いただきます。」
私がオムライスをほおばっていると先輩が、
「もう少しゆっくり食べればいいのに。」
と若干あきれるように言う。いつも一人だから、ごちそうを目の前にするとついがつがつ食べてしまうのだ。やがて、先輩の料理も運ばれてきて、私たちはセットのジュースでささやかに乾杯をした。
「お疲れ様。あなたが頑張ってたの、インスタで見てたんだから。」
先輩はにっこり笑った。
「あたしの仲間に見せたらかわいいって言ってたよ。」
私の勤めていたアパレルはインスタの発信がさかんだった。時に私もそのなかに店員紹介の一環で姿を見せることがあった。私自身はそんなにインスタも得意でなく、目立つのも好きではなかったので在職中に自分の本当の性別について表に出すのは控えてきた。顔立ちが細目で体型も華奢でもともと男にしては声が高かったこともあり、接客では何とかばれずにやり過ごすことができた。私は完全に「女」になりきっていた。しかし、働き始めて四年ほどして、私が鬱の症状に見舞われたため休職と復帰を繰り返したのち最後は退職の道を選んだのだ。医者からは当面の休養をすすめられているが、生活のことを考えるとそう長くはゆっくりしていられない。
この先輩はこれほどほめ上手だっただろうか。前はメイクやらコーディネートにかなりだめだしをされることも多かった。
「最近私もあんまり仕事が来なくて。」
先輩はそこでぼんやりと視線を窓の方に向けた。私にとっては輝いて見える世界も、けっしてユートピアではないのかもしれない。
「あなたも無理に仕事やめることなかったのに。」
先輩はそう言ってくれた。私がやめた本当の理由をなかなか話すことができていなかった。それはまるで触れてはいけない、私の中の禁忌のような部分であった。
「そのことなんですけど、今だから言えるんですが・・・・・・。」
実はこの春に入って来た副店長が私と折り合いが悪かったのだ。少し仕事でミスをするたびにかなぎり声をあげられた。とくに根っからドジな私はしょっちゅうその餌食になった。私が突然お店に行けなくなったのも、その人のことが頭から離れなかったせいではないか。仕事は休みたいが、復帰すればまたストレスになる。仲間にも店長にも申し訳ないし何より仕事をあっせんしてくれた先輩にも申し訳なかったがこんな人と一緒に仕事はできないと思い、お店をやめさせてもらうことにした。店長に相談したが、まああの人はああいう人だからとお茶を濁されるだけであの人がいなくなることは考えにくかった。
事情を打ち明けると先輩はものすごく怒ってくれた。
「今の店長誰?すぐに電話かけるから。」
「え、でも私が仕事でミスしたせいもあるので・・・・・・。」
「何言ってるの、すぐ自分のせいにしてちゃ長続きしないっての。」
先輩は正義感の強い人だった。普段は結構辛口だが、いざとなると私を守ってくれる。同じお店に勤めている頃もそうだった。まだ私が入りたての頃に、私とシフトが同じときには、接客の仕方について教育係を買って出てくれたものだ。私が辛口の先輩を信用できたのも、そういう経緯だった。
「最低よね、ほんと、面倒も見ないで部下に文句言うなって。」
私はそれだけで心が救われた気分になった。今までこらえていたものが堰切ってしまった。
「ほら。せっかくの美人が台無しよ。」
先輩は私の肩を撫でてくれた。
私が落ち着いた頃合いを見て先輩は言った。「会いたくなったらまたいつでも言ってね。私もカオルが進化したところ見たいからさ。」
帰り際に先輩に、この間の少女のことについて話した。先輩はこれまた驚いて、
「えっ、カオルもやっぱ男勝りね、よかったらその子と今度会わせて?」
私はただの一度も「かっこいい」だの「たくましい」と言われたためしがなかったので、先輩の「男勝り」という言葉が心の奥に染み渡るようにじわっと効いていた。
このように私の先輩は、人を奮い立たせたり場を盛り上げるすべを持っている。それは私の憧れであった。
夕方になってゆうなから連絡があった。聞けば今夜は母親が泊りの用事があって帰らないのだという。私はそれを見てははあ、と思ったが、
「今夜はゆっくり休んでな。」
とだけ返信しておいた。ゆうなは時々家出を繰り返しているらしいが、母親も家を空ける日が多いらしく、その日はゆうなも邪魔されず落ち着いて過ごせるだろう。
数日後、ゆうながまた私に会いたいというので、近所のファミレスで一緒に食事をした。
「今夜またひとりなんだ。」
ゆうなは悲し気な笑顔を浮かべた。私は一緒に食事ができてうれしかったが、正直こういう場に慣れていないので、ゆうなの気持ちを満たすことができるか自信がない。
「ゆうなはお母さんのことってどう思ってるの?」
「育ててくれてありがとうって思ってる。」
その言葉に私はしばらく何も言えなかった。ゆうなにとっては結局あんなお母さんであろうが、これまで一つ屋根の下で一緒に暮らしてきた人なのである。
「ほかに何か思うことはあるの?」
「ううん。それだけ。」
ゆうなはゆっくりと小さな頭を横に振った。彼女のサラサラの髪がしなり、長い黒髪は艶を放つ。それに私はどきっと胸が高鳴るのを感じた。
「お待たせいたしました。ミラノ風ドリアでございます。」
ちょうどゆうなの料理が届いた。
「あったかいうちにおあがり。」
ゆうなはきょとんとして、
「え、でもカオルの料理来てからにしよ。」
といった。
「いいんだよ。ゆうなの好きにして。」
私がすすめたのでゆうなはやっと手を付け始めた。ゆうなにはなんでも好きなものを頼むよう言っていたが、彼女は結構な大食いだった。ゆうなが料理をほおばるたびに彼女は笑顔を増している様子だった。わっはっはという豪快な笑い声や家族団欒の和気藹々とした笑い声の谷間で私たちは私たちなりにひとときを過ごす。
最近の様子をきくと、ゆうなは以前より学校に行ける日が増えたという。学校であったよもやま話を意外に活発に話してくれた。
「あのねー、今度ゆうな、京都に修学旅行行くんだけどおみやげなんかほしいものある?」
私は気を遣うなと断った。
「気遣ってなんかいないもん。」
ゆうなは少し顔をふくれさせていた。まだ子どものあどけなさを残した表情だった。そしてデザートのプリンをほおばりながらなでるように腕を掻いた。
「今度さ、ゆうなに会いたいっていう人がいるんだけど、」
私は先輩の話をした。ゆうなは二つ返事で承諾した。そして先輩が芸能界にスカウトされた話をするとこう教えてくれた。
「ゆうな、昔フィギュアスケーター目指してたことあるよ。」
小学生の頃はスケートをやっていたが、あまりに練習が厳しかったのでやめてしまったという。私は小学生の頃と言えば、殆ど学校にも行けず習い事も特にしていなかったので心底尊敬した。私の感心している様子にゆうなはさりげなく言った。
「カオルもかっこいいと思うよ。」
私はさっき以上に胸が高鳴るのを感じていた。
その晩はそれなりに話も盛り上がり、私とすれば満足いくものだった。ゆうなもだいぶ心を開いてくれたようだ。
先輩にゆうなのことを連絡したところ早速、来週にでも会おうと返事が返って来た。
「ああ、もう、しにたーい」
先輩がそんなことを言うのは珍しかった。聞くと、事務所の同僚とトラブルがあったという。
「どこに行ったってそりが合わない人っているものねえ。」
先輩はかなり悩んでいるようだった。
「でもっ、カオルとゆうなちゃんに会えるの楽しみに頑張るからね1。」
それから一週間後に三人で池袋の駅前で待ち合わせしていた。先輩がいちばん最初に待ち合わせ場所に来ていて、私は二番目だった。
「ほら、これでゆうなちゃんにごちそうしてあげるんだよ。」
先輩はこっそり一万円札を私に渡した。そんなのは私が自分のポケットマネーから出すというと、
「何いってんの、あなたには先輩としてのプライドがないね。」
と一蹴された。先輩の表情がいつになくさえないので大丈夫かきくと、
「疲れているから会いたいんだよ。」
やがてゆうなが姿を見せた。今日のゆうなは地雷系の黒いワンピースに身を包んでいたので正直面食らった。先輩はゆうなに会えてご満悦の様子だった。先輩の力はすごくて、私ではひとことふたことしか話さないゆうなが立て板に水のごとく、生き生きと話をするものだから驚いた。
先輩が連れて行ってくれたのはフランス料理のカジュアルなレストランだった。クロックムッシュがおいしいという。私たちの会話は大いに弾んだ。先輩もゆうなも今までになく生き生きしていた。それと同時に私はこの前ふたりきりで食事に行ったときの自分の非力さを思い知らされた。あの晩は私とすれば大満足だったが、今のゆうなの表情を目の当たりにして、自分がもっとしてあげることがあったのではないかと悔しくもなった。
ゆうなが席を外している時に先輩はこう私に耳打ちした。
「ゆうなちゃんをあなたが大事にしなけりゃ駄目よ。」
私は途端に怖くなった。
「え、やめてください。」
「いや、ほんと、ゆうなちゃんはあなたにかかっているんだからね。」
この先輩、時々本気で怖いことを言う。
「今のゆうなちゃんにはあなたにしかできないことがあるんだから。」
その場ではその言葉の意味が分からなかった。
三人で話をしていると、私の事情も優菜の事情も先輩の事情も、みな三位一体のものとして分かち合える話題となっていた。私にとってはキラキラして見える先輩も、先輩なりの悩みがあったのだ。ふたりの時と違って、「もうひとり」の存在が、先輩と話している時もゆうなと話している時もいるのは大きかった。ふたりっきりだと、相手役の自分がなんとかして場を盛り上げねばという余計なプレッシャーを感じて態度がぎこちなくなるのだ。その点、三人だと、自分ひとりでは盛り上げきれないところを他のひとりがうまく調整してくれる。もちろん、それは先輩の力も大きかったし眠っていたゆうなの力が呼び覚まされたことも大きかっただろう。かくしてその日のランチは私もいつ以来だったかと思うほど楽しかったし生きていた甲斐があったと思わされた。
お勘定の時になって先輩が、
「今日はカオルがどうしてもご馳走してくれるっていってきかないから。」
と私にお膳立てをしてくれたので私は内心とても照れくさい気持ちになった。さっきもらった一万円札を会計に持って行っている間に先輩とゆうなはもう外に出て楽しそうに話をしている。その姿をガラス越しにみると、私はさっきまでとは打って変わってすこし悲しくなった。ゆうなは私と一緒にいたときよりずっと楽しそうだ。今までのこの時間は、先輩が全部楽しませてくれたのだ。そして、先輩がいなくなれば、魔法が解ける。
先輩は「向こう側」の人間だ。それは私が一生かかっても、どれほど努力してもたどり着けない世界にいるのだ。同じ空間にいれども、私は決して向こうの世界の住人にはなれない。そして幸か不幸かゆうなもまたおそらく私と同じ世界に閉じ込められた人間だ。先輩もそのことはわかっていて、あえて私たちの世界に片足を突っ込んで私たちを「向こう」の世界の力で喜ばせてくれたのだ。
「お客様。」
店員に呼びかけられて私は我に返り、ほのかにぬくもりのある一万円札を財布から出した。
外に出るとゆうなと先輩が、
「ごちそうさま。」
とにこやかに言った。私はすっかり悲しくなったが、
「いえいえ。」
と何もなかったかのような表情を繕った。そのことが私にはかえってつらかった。自分は何もできないくずだ。それなのに、先輩はゆうなの目の前で私を嘘で塗り固めたのだ。そして私を苦しませたのだ。けれども、そのことを口外すれば不幸せな人が増えるだけだ。私はその思いを心にしまうことにした。
その晩、先輩から連絡があった。
「今日は楽しかった。ゆうなちゃんによろしくね。」
私は社交辞令程度にお礼はしたものの、先輩とまた会おうという気力を失ってしまった。ゆうなと私をこちら側の世界からいっときでも救い出してくれるのは先輩しかいないのに、彼女に対して今は憤りすら覚えている。先輩に悪気がないからこそ私はかえって腹立たしくなった。悲しくて布団の中で嗚咽した。
ゆうなとももう会いたいと思う気力がなかったし連絡もしなかった。自分を呪うと同時に先輩も呪ったしゆうなのことも呪った。まず自分の右の手首を思い切りリストカットした。真っ赤な血が流れ出るのをみて私は鬱屈した満足感を得、包帯で患部をぐるぐる巻きにした。次に藁人形を用意した。二体用意した。私はそれらに憎悪のまなざしを向け、ありったけの復讐心で思い切りくぎを打った。そして、それぞれにくぎが貫通するのを確認して心が落ち着くのを覚えた。そのまま二体は玄関の上着かけにさらした。きっとその時の私の笑みは自分の生涯の中でいちばんに残忍なものだったに違いない。かつて自分を虐げた両親や自分を退職に追いやった副店長に対してすら感じたことのない嫌悪感をも覚えていた。
翌日の夜になって来客のチャイムが鳴った。通販や配達でしか鳴らないものだから、てっきりしばらく前に頼んでいてすっかり頭から離れていたネット商品が届いたものかと思ってドアを開けると、そこには制服姿のゆうながいたのだ。
「どうしたんだ、もう夜中じゃないか。」
するとゆうなは私の胸に無言で縋り付いてきたのだ。私はすっかり何の気もなく、
「わかった。おあがり。」
と言った。その日は次の日のための夕食のストックがたまたま残っていたのでそれをゆうなに食べさせてあげた。
「味付けあんまりよくないかもしれないけど。」
するとゆうなはむさぼるようにそれらをがつがつと完食してしまった。よほどおなかが空いていたんだろう。
「ご馳走様。」
ゆうなはそれっきりその場に横になってしまった。
「おい、歯磨かないと虫歯になるよ。」
呼びかけても返事がない。ゆうなはすやすや寝入ってしまったようだ。
私は押し入れから毛布を取り出し、そっと彼女にかけてあげた。
「おやすみ。」
その声は、自分でもびっくりするくらいのやさしい声だった。ふと私は玄関につるしっぱなしにしていた二体の藁人形のことを思い出した。私は急いでそれらを外してくぎを抜いてゴミ袋の奥深くへと埋めた。そして眠っているゆうなに、
「ごめんね。」
とささやきかけ、投げキッスをした。
あくる朝、起きるとゆうなはすっかり疲れも取れた表情で朝ご飯を作っていた。
「ああ、悪いね、ゆっくりしてていいのに。」
私はかねてから朝寝坊であった(シフトが遅い時間に集中するアパレルを選んだのもそのためである)が、仕事をやめてからはいっそうその傾向を深めていた。
「もう九時だよ。ゴミは出しといたからね。」
ゆうなは慌てて起き上がる私をたしなめるように言う。
「ゆうな、学校は大丈夫なのか?」
「いいのいいの、期末レポート頑張れば単位はもらえるから!」
ゆうなはいつになく明るい。
「朝五時くらいに目覚めちゃって、お風呂も洗濯機も借りたからこれくらいしなきゃ。」
私が寝ている間に・・・・・・。おまけにゆうなの家事はとてもてきぱきとしていた。
「そういえばさ。」
ゆうなは朝ごはんの食卓で切り出した。
「夕べ玄関にくぎが貫通した藁人形あったけど、あれは何だったの?」
私はぎくっとして恥ずかしくなった。と同時にゆうなに土下座して謝りたい気分になった。
「あ、あれ?」
言い訳が浮かばず、しばし考えてから私はこういった。
「あれは、親と元職場の上司だよ。」
一昨日リスカした箇所がひりっと痛むが、もうどうでもよかった。
「へえ、けさはもうなくなっていたけどどうしてなの?」
また私は返答に窮す。
「・・・もういいやって思って。」
するとゆうなはすっかり安心したように笑った。
「あはははは、カオルって結構怖いひとなんだね。でも・・・優しいんだね。」
私の本当の姿を彼女は知っているのだろうか。だがゆうなの屈託のない顔を見て私は吹っ切れた。思わず彼女を抱きしめた。
「・・・どうしたの?」
「いや・・・・・・ありがとな、ゆうな。」
その言葉は、私が初めてゆうなに口にできた台詞だった。外は雲一つない青空だった。
「行こうかな、学校。修学旅行の事前学習あるし。」
ゆうながつぶやいた瞬間、ほのかに夏の香りが漂って来た。
ふと私のスマホの通知音が鳴った。先輩からだった。
「大きな仕事が一本入ったの!」
私はごめんなさい、とかすかに口ずさんで返信を打つ。