一章 ハローTHOR(ソール) 1
遥か真っ直ぐに伸びる、正門からの路。香り立つ桜並木を新入学生たちが、それぞれの思いを胸に歩いている。
昨今はそうでもないらしいが、四月と言えば入学の時期で、ここ大和高校でも新入生を迎えていた。生徒の自主性を尊重する校風で、それぞれの正装をしていた。
――変わった高校だな。入学式の縦看板もない。
上都由は、延々と続く本講堂への道のりで、二年前を思い返していた。
中学三年の夏が終わり、秋が高い空に引きずられてやって来た頃、本格的な受験対策に迫られる中、進学先の事で悩みとは言えない悩みを由は抱いていた。
行ける高校がないと言うわけではない。もちろんどこでも選り取り緑と言うほど立派な成績ではなかったものの、それでも選択肢は人並みにはあった。
取り寄せた幾つもの願書に目を通したが、何か今一つ〈ここに行きたい!〉と強く惹かれる高校がなかったからだ。
進路指導の教師に薦められて、二校程入学説明会に行ってみたが、余り魅力は感じられなかった。
学校行事やカリキュラムを色々揃えてあるが、ただ揃えただけと言う印象で、今さらインターネット関連完備と誇られても、今さらと言う感じだ。有料ソフトや裏ツールがダウンロードし放題と言うなら話は別だが。
由にはこれと言って将来やりたいと思うものはなかった。両親は留守がちだったが経済的に逼迫した事はない。特に優秀でもないが、卑下するほど成績が悪いわけでもない。
今のまま進学して、そこそこの企業に就職して、過不足ない人生を送る。それを嫌と思った事もない。
ただ。
――それでいいのだろうか?
本当に自分はそれを望んでいるのだろうか?
漠然と、だが強い焦燥感の様なものを由は抱えていた。
だがそれが何であるかわからず、またわかってもどうにもならないものだと思って、成績とも相談しつつ、一応受験する高校を決めていた。
仕事で忙しい父に使いを頼まれたのは、その頃だった。
都内の大学で考古学を教えている由の父は、よくあちこちの古書店に本を注文する。専門分野のせいか、古文書や古い研究資料をよく読むからだ。
新刊本なら総合書店や専門書店で注文すれば大概手に入るが、総合古書店とかマニア向け古書店、〈あなたにだけこっそり教えます〉古書店なんてものが、そうはあるはずもないので、あちこち問い合わせて注文する事になる。(実は渋谷にブルース・リー専門店とか、執念と運さえあればかなり〈来て〉いる専門店に辿り着けるかも知れないのだが、由は知らない)
その古書店に行くには、由の実家のある神奈川県から隣の山梨県まで出かけなくてはならないので、時間が取れない父に代わって受け取りに行く事になった。
その道の途中、たまたま通りかかった所に大和高校はあった。
やたら滅多ら敷地が広く、飾り気があるのかないのかよくわからない校舎の数々。よくよく見ると、デザインが校舎ごとに違っている。一応柵はあるものの校庭は丸見えで、一六〇センチ弱と小柄な由の身長ほども高さがない。
どこからでも出入りできそうだな、と考えていると、外に脱出していた生徒の二人組みが柵を越えて戻り、そこを女性の体育教師に見付かって追い駆けっこを始めたのを目撃た。
女の子っぽいと言われる顔立ちの、くりっとした丸い目をさらにまん丸くして、その元気な生徒と教師の姿が校舎の向こうに消えるまで見続けた由は、何か楽しくなって笑い出してしまった。
更に歩くと校門があった。入り口と出口を分けるように石碑が置かれ、校訓が刻まれている。
そこにはただ一文だけ。
【持ち入るべくは夢と意思。置き去るはそれ以外】
と書かれていた。
志望する学生は、夢とそれを実現させようとする意思だけを持って、我が校に来なさいと言う事だ。
なんて思い切った学校なんだろう。
ぐちゃぐちゃのらくら、自分たちの都合の良いようにわけのわからない理屈こねたがるこの時代に、これだけ明快な教育目標を掲げた学校も珍しい。
気持ちよかった。そして受験する事を決めた。
入学はあっさり決まってしまった。何の事はない、試しに応募した推薦入学で合格してしまったのだ。持ち前の律義な性格のため、オーバーワーク気味に受験勉強をしていた苦労がスカッと無意味になってしまい、「日本の受験制度って何なんだー!」と、未だに結論の出ない問題に内心で抗議した由だったが、嬉しい事は嬉しい。微妙に引っかかる嬉しさではあったが。
正門前から始まる赤レンガを敷き詰めた路、その両側に続く桜並木を抜け、やっと掘り下げ式の中央広場へ出た。
今、由が歩いている、敷地の中を一直線に伸びる路は〈日根通り〉と呼ばれる校内のメインストリートで、入学式が行われる本講堂まで続いている。
大和高校の敷地は円と台形とをくっ付けた、大昔の鍵穴のような形をしている。
正門、正式には〈御中門〉と言う名称が付けられている門は国道前の台形地域の底、中間点にあり、日根通りはそこから円形地域の中心へ一直線に伸びている。
中央広場こと〈中邦広場〉は台形地域のほぼ真ん中にあって、御中門からここまで一〇分近く歩いていた。が、まだまだ本講堂はその姿を見せようとはしない。
道のりは遥か遠く、険しい。
無駄に広い、とは在校生がよく口にする評価だった。敷地と路は使い放題とも言っている。
が、都心の狭い、屋上にプールどころか運動場の一部があるような学校からすれば、夢のような話だろう。
中邦広場は敷地を掘り下げて、一段低く造られている。底まで石段が続いていて、その上を橋を渡すように日根通りが伸びている。
路の下側にはステージ状の石台が造られているので、屋外コンサート場として使える。文化祭の時などにぎやかになりそうだ。
由は受験を決めた時から、「どこまで敷地が続いてるかわからないくらい、広い学校だな」と不思議に思っていたが、その理由が入寮時にわかった。
大学部である大和大学が、山一つ挟んだ所に新設されたキャンパスに移転する事を期に、空いた敷地を利用して創設されたと言う事だった。どうりで広いはずだ。
補足に、高校と大学は一部施設を共用出来るように徒歩十五分ほどの専用路で結ばれている。
大学、高校共に広過ぎる敷地内の移動を考慮されてか、一二五CC以下のバイク、スクーターの利用が認められているのが珍しい。
ただし校内の交通規則は外より厳しく、違反五回で停学プラス補習、一〇回で退学だ。ま、年度ごとにリセットされるが。
なお、違反のたびに切られる黄色の違反証は別名、〈自由へのキップ〉と呼ばれている。自由には責任が伴うものである。
「そこな路行く別嬪さん、ショートが似合う美人さん、小柄で可憐な佳人さん。ちと場所をたずねたいのじゃが」
随分芝居がかった物言いで、由に声をかける生徒が現れた。童顔で、本格的に女顔の由に気付いていた近くの女生徒が、ケラケラと笑い出す。
由は眉間にしわを寄せて、極最近知った声の主に振り返った。
「……小館、念入りに比喩しなくても聞こえてるよ」
女顔の自覚は思いっきりある。取り立ててコンプレックスと言うほど気にはしていないが、時々冷やかされる事があった。
目いっぱい顔をしかめても、可愛らしい女の子が困ったような表情をしている、位にしか思われないのも含めて煩わしいと言えば煩わしい。
中学二年時の文化祭、クラスの催し物は演劇だった。題名は〈革新解釈版ロミオとジュリエット〉。
配役についてはプライベートに抵触する事なので、差し控えさせて頂きたい。
小館言とは、一昨日に寮の部屋で顔合わせした。身長や体重は平均くらい。物腰は柔らかく、愛想もある。
唯一つ特徴的なのが、フレームレス眼鏡の奥、切れ長の目は笑っているように弧を描いている。俗に言う〈ニコ顔〉と言うヤツだ。
お互い丁寧な挨拶と握手をすると、たっぷり十二畳はある部屋に、手分けして荷物を運び込んだ。
第一印象はかなり良かった。癖のある感じではないし、礼儀も身に付いている。だが、由が荷物の整理を終えてほっとした頃、小館が目の前に歩み寄って来た。
突然半身に構え、ガバッと腰を落とすと行き成り口上を始めた。
「お引けえなすって、てめえ生国とはっしますは東京の八王子――」
素人とは思えないドスの利いた話し方。突然の事にびっくりして目を白黒させる由に、お構いなしにまくし立てる。由が我に返った時、小館は何事もなかったように立っていた。いや、ニコ顔をニヤニヤさせている。まったく同じ表情なのに、何故か由にはわかった。
「き、君は……」
やっと由が口を開こうとすると、「なーんちゃって」と舌を出した。
からかわれたと気付いて憤慨する由に、小館はしれっとして言うのだった。
「ジョークはコミュニケーションの潤滑油と、偉い哲学者が言ったとか言わなかったとかどっちかだとか」
今一つ、二つ三つ性格をつかみかねる由だった。
そんな小館は入学式の今日、寮の自室で由が目を覚ました時すでに居なかった。一足速く本講堂へ向かったと思っていたが、今ここに居ると言う事は、どこかに寄って来たのだろう。
「どこに?」
「ちょっと入学式に」
「違う、朝食堂にも来なかったでしょ?」
「寮の食事は、でえりけいとなぼくの口に合わなくてね」
「どこのお坊ちゃんなの君は……」
「実を言うと、フィリピンはミンダナオ島の大地主が実家でね。
思い起こせば八九年前、折しも大戦真っ只中、我が曾祖父――」
「で、本当のところは?」
小館は、七星と印刷されたビニール袋を、愛用の3WAYバックから取り出した。
短期間の中に、付き合い方だけは長足の進歩を遂げている由だった。何か嫌だ。
「入学式にコンビニ袋持参……」
「ま、風変わりで良かろう」
「君が言うの?」
「最近そこはかとなく、ルームメイトからの偏見を感じる」
「昨日、知り合ったばかりじゃないのっ」
日根通りをまたぐように建てられた本部棟を抜け、更に新入生の行進は続く。本講堂と言う名の天竺への道を、由は改めて志そうとし、すぐに躊躇する。
「この路って、一体どこまで続くんだろう」
「人生ある限り果てしなく、〈みち〉とはそう言うものらしい」
「あのね……」
「本部棟の所でちょうど半分だよ」
「まだ半分!? って、敷地内の地図全部覚えてるの?」
「選択授業の取り方で、あっちこっち行く破目になりそうなんでね」
大和高校は、かなり自由度の高い授業選択制を採用している。御中門近くの一般授業棟と、最も奥にある理化学実験棟までは、校内専用自転車でも一〇分は掛かってしまう。
「小館は免許取ったの?」
「とーぜんデアル」
意味なく偉そうに胸を張る小館。
大和高校は、山奥を切り開いた所に立てられているので、最も近い市街地へ出るのにも足が必要になる。在学生は大半が中型二輪免許を取得する事になるのだ。そうしないと自転車を使う事となる。片道一〇キロ、ダイエットには最高だ。
そのせいか何なのか、自転車部は全国大会に毎回出場する強豪だ。あと、その他の部活に触れておくと、科学部にはソーラーカーや電気バイクを作っている半があり、二五CC以下専門とは言え二輪部なんて言うのもある。
多彩を極める部活動も大和高校の特色の一つで、大学部との交流も盛ん。と言うか、高等部の連中がそのまま進学して行くので、ほとんど身内状態だ。凄く羨ましい一面のある学校なのだ。自分も通いたかった。
「ミヤコは?」
「考えてる。校内は自転車でもいいとして、外出の時を考えるとね、買出しの時とか不便だし。でもね」
「経済的な理由かい?」
「じゃなくて、事故の事を考えるとね」
「まあ、取れない責任に限定されるのも、一つの生き方ではあるね」
何かポロっと哲学的な事を言われて、由はキョトンとしてしまった。
「あ、本講堂が見えて来たよ、マンセーっ!」
立ち止まった小館の指差す先に、縦に潰した円筒形の巨大建造物が姿を現していた。
〇〇〇同志を称えつつ、一人万歳をしだした小館を引っ張るようにして、由は本講堂へ急ぐ事にした。
「良かったよ、巨大な像はなさそうで」
神殿に辿り着いた巡礼者のように、新入生が入場して行くのが見えた。
やっとこ本講堂に辿り着くと、由と小館は息を整えた。御中門から実に一時間の道程を走破した事になる。
道理で前日寮長が、「寮からだと安心してぎりぎりに登校しない方がいいぞ。今頭の中で考えている時間があるな? それの五倍はたっぷりかかると思え。大和高校は自由だが、甘い所ではないからな、常識は通用しないぞ」と入寮挨拶で警告していたわけだ。
上級生に促されながら、「フウッ」とか「ハアッ」とか「ちくしょうっ!」「バカヤロー!!」「北の士官学校かここはっ!?」と口々に吐き捨てて新入生がドアを潜って行く。
由と小館も続こうとドア前の階段に足をかけた時、突然一台のオフロードバイクが新入生の列に乱入して来た。
〈カワサキKDX125〉。今は珍しくなった2ストロークエンジンのマシンだ。
KDXの走る先々で、新入生の悲鳴やら歓声やらが上がる。マフラーを始め、あちこち手を加えられているらしく、ノーマルではあり得ないダッシュ力と旋回力を発揮して列の隙間を縫って行った。
更にKDXは、びっくりして立ち止まった、車道を歩いていた女生徒たちの前ギリギリを横滑りしながら避けて行く。そのリヤシートには一本の幟が。
【二輪部に入って、君もXゲームを極めよう!】
「うわっ、ドリフトしてるよ。目の前で見るの初めてだ」
「っていいの、校内だよここ!?」
由が驚いていると、早速校内放送が入った。
『風紀委員より通達。校内では五〇キロ以上での運転は禁止されています。校則総会で決まっています。
こら加瀬くんっ。二輪部の部長でしょ、あなたはっ!!』
「……だって」
「若さ故の暴走、ライブ版だね」
KDXは、アッと言う間に最後尾の彼方へ消えて行った。あんな猛スピードで走り抜けたら、宣伝にならないような気がするが。と、KDXが消えた先から、一台のクラシカルなスクーターが現れた。
乗っているのは少女らしい。洒落たイタリア製のヘルメットから零れる艶やかな黒髪が、風に棚引いている。シールド越しに見える顔立ちも、大きな瞳の猫目が印象的で、中々に麗しい。
「べスパのビンテージ50Sだね」
特徴的な丸っこいデザインのスクーターを見て、暢気に小館が言う。
遅刻しそうになってスクーターで来たようだが、ちょっと様子が変だった。
「何だろ、後ろ気にしてるようだけど」
突然脇道から物凄いスピードで、さっきのKDXが曲がって来た。その後ろに数台の白い〈スズキRG125Γ〉が迫っている。風紀委員で組織された交通隊だ。
仕方なくべスパの少女は、脇に寄った。
KDXは一瞬でべスパをパスして、最後尾を歩いていた新入生をローリングしながら避けて行く。
少女のベスパが新入生の最後尾に辿り着いた時、交通隊が殺到して来た。KDXを停めようとクラクションを鳴らして、それが逆効果になっている事にも気が付いていない。まずい、全員頭に血が上っている。
べスパの少女は、まだ新入生が何人も路上を歩いているのを見ると、今度は中央に進んだ。クラクションを鳴らしつつ左手を振って、交通隊を停めようとする。
だが、頭に血が上った交通隊は、スピードを落とさない。
「まずいっ!」
由は、後先考えずに駆け出していた。
べスパの少女が、なおも必死になって停めようと声を上げた時、前に出た一台が新入生を避けようとして、ライディングを誤った。少女のベスパと進路が交差する。少女が投げ出された――。
そこへ、猛然とダッシュする小柄な人影、由だ。自分に向かって宙を舞う少女を受け止めようと、無我夢中で腕を差し出す。
が、慣性質量に敵に回られ、道脇に茂る芝の上を少女を抱えたまま一〇メートルもぶっ飛ばされた。
芝の切れ目で止まった時、先に気付いた少女が身を起こして、由から飛び離れる。
「ミヤコっ!」
珍しく、青くなった小館が駆け寄って来た。
胸を押さえて咳き込みながらも、起き上がろうとする由を、少女が制した。ヘルメットを投げ捨て、由の胸や東部を触診すると、ほっと息をついた。
「良かった……」
心なしか、声が震えている。
抱きとめた時に少し胸を打ったが、どこにも強い痛みは感じられなかった。由は横になったまま、慣れた手つきで自分を診た少女に興味を覚えて眺めた。やや上背はあるが、大きな瞳の猫目と黒く艶やかなストレートヘアが似合っていて印象的だった。
「君は、大丈夫なの?」
宙を舞ったと言うのに、すぐさま起き上がって由を診た少女に、やや驚きつつ小館がたずねる。
「ええ、完全に庇ってもらったから、打ち身一つないわ」
「よ、良かった」
落ち着いた由が、体を起こしながらつぶやく。
「本当にありが……」
とう。と言いかけて、初めて由を正面から見た少女が、言葉を飲み込んだ。
「どうしたんだろう?」と首を傾げたまま、由はゆっくりと立ち上がった。
受け止めた胸と、吹っ飛んだ時打った腰は少し痛むものの、人一人、それも投げ出された少女を受け止めて打ち身くらいで済んだのは、ワールドカップのチケットが手に入ったのと同じくらい運がいい。下手をしていたら、見ず知らずの女の子と天国へ初デート、と言う事になっていたかも知れない。
その間、少女はずっと由を見つめていた。
「怪我がなくて良かったね」
背の高い少女を見上げながら言うと、思わず見つめ合う形になる。
うろたえ視線を外す由。はっきり言って経験がない。
少女の方も下を向いてしまっていた。
「そ、外街幸です。ありがとう……」
それでもやっと、か細い声で礼を言う。
そのほほが、立ち並ぶ桜の花弁と同じ色に染まっていた。
本編開始です。願わくは、楽しんでいただけますように。