第8話 帰宅困難
検査室の、全ての装置を確認したが、異常はなさそうだ。
お向かいさんの放射線科が心配で見に行くと、はっしーと技師長の山本さんが、私たちと同じように半額アイスを飲んでいた。 ふふ、ここも問題は無かったみたい。
検査室に戻ると、時計の針は既に22時を回っていた。
「後は俺がやっておくから、もう帰って良いよ」と技師長が言ってくれた。
「でも、交差適合試験がまだ大量に残っていますよ? 大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。それより、自転車で帰れるか?」
……自分の疲れよりも、部下の足元を心配してくれる。 そんな優しさが、今は何より身に染みた。
雨は小降りになったけれど、帰り道はあちこちが冠水していた。
所々で自転車を降り、泥水の中を歩いたせいで、靴の中もズボンの裾もビショビショだ。 でも、なんとか無事に、我が家の玄関にたどり着いた。
車通勤の兄貴は既に帰宅していたが、父は電車が止まって立ち往生しているという。
「お父さん……無事に帰って来られるかしら」
不安そうに窓の外を見る母。 その横顔を見て、私はふと、手術室の前で震えていた森さんの奥さんの姿を思い出していた。
今、この瞬間にも、命の灯が消えかけている人がいる。
その灯を消すまいと、文字通り死力を尽くして戦っている人がいる。
そして、その戦いを、地下の検査室から支えている技師がいる。
……けれど、いつかは誰もが『天命』に逆らえない日が来る。
今回のオペが成功したとしても、人はいつか必ず……
私は大きく頭を振って、冷え切った自分の頬を両手で叩いた。
今、それを考えるのは止めよう!
『人事を尽くして天命を待つ』って言葉を、昔、どこかで聞いた。
私たちは『人事を尽くし』た。 でも、ただ手をこまねいて『天命を待』っていたわけじゃない!
森さんの命の灯を、一分でも、一秒でも長く繋げたのなら、そこに私たちの存在意義がある。 今は、それで十分だ!
明日も、明後日も、この先も……私たちの『戦い』は終わらない。
だから今は、お風呂に入って身体を温め、ベッドで英気を養うんだ。 ――感傷に浸る暇があるなら、一分でも長く枕に頭を沈めなくちゃ。
窓を打つ激しい雨音。遠くで鳴り響くサイレン。 それらを子守唄に変えて、私は、いつの間にか、深い眠りに落ちていた。




