第7話 先輩
深田先輩が「こんなとこで突っ立ってるのもなんだから、先ずは出よう」……と言った。
……私は、目と口を書いた自分の親指から目を逸らしながら、『はい……』と言い、職員トイレから出た。
実は、私は登校拒否してた頃から、辛い事があると、親指に顔を書いて、それに話しかけて現実逃避をする『ひとり遊び』をしていた。
以前、技師長に叱られて落ち込んだ時に、サム君との会話を深田先輩に偶然見られ、大ウケされ私も照れ隠しして笑い合った事があった。
……外来はとっくに終わり、最低限の照明しか灯っていない廊下のベンチに、二人で並んで座った。
「遥」
「はい……」とうつむいたまま答える。
「さっきはゴメン。 お前の気持ち、判ってたのに……冷たい言い方しちゃって……」
「……。」
「医療人って、何かのきっかけがあって、この道を選んだ人が多いと思うんだ。……あたしは、父が癌で死んで、一人でも多く早期発見してあげたい……って思ったのがきっかけだった」深田先輩の目に、薄っすらと涙が滲んでいる。
「それが、急かされたり、仕事量が増えて来たりすると、早く結果を出す事だけが目的になって来る。……ゴールが違って来ちゃうんだ」
先輩は、私の目を真っ直ぐ見て「あたし、お前は凄いと思う。 いつも『仕事が遅い』って怒られてるけど、心電図の電極を患者に付ける前は、必ず手で温めたり、一言でも多く患者に声がけして不安を無くしてあげたり……。……それを見かける度に、忘れてた気持ちが蘇る」
……先輩……。
「あたしは、お前こそが検査技師の鏡だと思うよ」
先輩が、視線をそらした。
「ただ、その反面、お前が壊れちゃうんじゃ無いかって、いつも心配してるんだ。検査技師は、技術が進歩する度にやる事が増えて来てる。そうなると、さっきみたいに感傷に浸ってたら、業務が滞っちゃうだろ?」
私がうなづく。
「人には『自己防衛本能』がある。あたし……って言うより、普通の検査技師は、感傷や思いやりを排除して、自分を守ってる。 ……でも、お前は、それを出来る娘じゃ無い。 仕事と思いやりの間で押し潰されないか……それが心配なんだ」
先輩がこちらに向き直り、両肩を摑んで 「だから、約束してくれ! 何かあったら、あたしでも、都でも、どちらでも良いから、必ず相談する事。絶対に、一人で抱え込まないで!」
「もう、それ以上は言わないで下さい!」と、私は先輩の言葉を遮った。
そして、驚いている先輩の、お世辞にも立派とは言えない胸に頭を押し付けて「これ以上言ったら、好きになっちゃいますよ」……と、泣きながら甘えた。
先輩は、ちょっとだけ頭を撫でてくれた。
「もーしもーし、ベンチで囁くおーふたーりーさん」
遠くから、間延びした声の昭和歌謡が聴こえて来た。
深田先輩が、はっとして立ち上がり、私の手を摑んで「忘れてた! 集配の人が来る前に、あの子のお別れ会をしよう……って都と言ってたんだ!」と、検査室に向かった。 検査室の前で、都先輩は、いつもと同じ笑顔をこちらに向けている。
……3人で、あの子に合掌した。私は『今度は迷わないで、ちゃんと着床するんだよ』と心の中で語りかけた。先輩たちも、同じ事を思っているはずだ。
……ホルマリンの中の子が、少しだけ笑ったような気がした……。
拙作をご高覧頂き、心より感謝申し上げます。
前回と今回、少々子供じみた『指遊び』のシーンがあります。
これは、後の伏線となっておりますので、悪しからず宜しくお願い申し上げます。