シスター・マリアが俺に嘘をつくわけがない
「芥くん……この後、ちょっといいかな」
「あっはい」
声をかけてきたシスター・マリアこと静ヶ谷真里亜は俺の同級生だ。シスターと言ってもいわゆる実家の手伝いなのでマジもんの修道女ではない。周りが勝手にそう呼んでいるだけだ。
彼女が微笑んだ拍子に艶のある黒髪が揺れ、中学時代の小豆色のジャージに一房落ちていくのを見つめる。毎度のことながら俺の心はときめく。この瞬間のために生きていると言っても過言ではない。
バレンタインデーを週末に控えた木曜日の夕方。
俺は彼女の実家であるこの教会で、恵まれない子のための学習塾のボランティアを終えた所だ。
俺は小学生時代から真里亜からの好印象を勝ち取るために教会のありとあらゆる行事に参加している。
毎週日曜の礼拝から、季節のイベント、合唱隊、果ては庭の掃除、雨漏りの修繕。塾のボランティアも、同じ高校に行きたくて必死に勉強した副産物というわけだ。
それはもちろん、彼女からの感謝……つまりはお金で買えないご褒美があるからやっているのであるが。
「いつもありがとう……塾の手伝いもしてもらって。芥くんにはいつも、甘えてばかりで本当に助かっているの」
真里亜のご両親はいい人なのだが、それ故にお金にルーズなところがあり、しかし季節のイベントは絶対にやる。そのためこの教会はガチのマジで貧乏だ。
「いやいや。俺は自分のためにやっているんだから、全然気にすることないよ。ところで一体全体、どうしたの?」
緊張したためか、少し早口になってしまう。いかんいかん、もっとスマートに振る舞わないといけない。
「ちょっと見てもらいたいものがあって」
「……ほう?」
これはまさか。何かをくれるのでは? と期待にいろんな所が膨らむ。
ダメだ俺、慌てるな。チョコレートなら毎年もらっているだろう……教会の配布イベントだけれどな! つまり俺の本番は週末なので今日ではないし明日でもない。
急いては事を仕損じる。変にがっついた所を見せるな。クールに、クレバーに、誠実に、善良に……。
「俺にできることならなんでも手伝うよ」
必死に真面目な顔を作って返事をすると、真里亜はもじもじとし始めた。可愛い。よく見ると手にはエコバッグを持っている。買い出しに付き合って欲しいのだろうか。それはそれで新婚さんっぽくて望むところではあるが……。
「こ、この中にね」
「この中に……?」
エコバッグにはすでに何かが入っている。興味を引かれて一歩前に踏み出すと、真里亜はまっすぐこちらを見た。大きな瞳は少し潤んでいて、さらにもう一歩踏み出せば自分の顔が映っているんじゃないか、とそんなことまで考えてしまう。
彼女はすうっと大きく息を吸い込み、ステンドグラスと聖母の像を背に、とんでもない事を言い出した。
「実は! この中に呪いのチョコレートが混ざっておりまして! それを一緒に調べていただきたいなと!」
「……呪いのチョコレート?」
「そう。心臓がバクバクなって……死んじゃうの」
なんとも言えない沈黙が訪れた。真里亜は心なしかぷるぷるとしている。
「あ、いえ、呪いと言うのは言葉のあやなんだけど。ええと、その……とにかくね、事情があって、このチョコを……」
真里亜は結構トンチンカンな所があって、それがまた可愛いのだが、呪いのチョコレートと言うのはいささか無理やりすぎる。いや、彼女が神を信じるならば悪魔の存在もまた信じなくてはいけないのかもしれない。
とにかく彼女が……シスター・マリアが俺に嘘をつくわけがない。呪いのチョコレートと彼女が言えば、それは実在するのだ。
「わかった。俺でよければ」
神妙に頷くと、真里亜の顔はぱあっと明るくなった。別に天使も悪魔も信じてはいないが、真里亜の人生が平穏である限り俺の信仰心もまた潰えることはない。
「ありがとう!」
真里亜は何やら感極まった様子で俺の手を握ってきた。理屈はさっぱりわからないが、とにかく俺は頼られているらしい。エクソシスト属性はないが、なんとかなるだろう。
「じゃあ……二階までついてきてくれる?」
これで彼女の正体が淫魔だったりしたらその時点でエクソシスト・芥の活躍はおしまいだな。
そんな事を考えながら真里亜の後ろをついて礼拝堂から二階に上がると俺が『用務員室』と呼ぶ小部屋にたどり着く。
風呂なしアパートみたいな和室の六畳間だ。小さなキッチンと冷蔵庫、夏は扇風機、冬は電気ヒーターで過ごす小さな部屋だ。
部屋はヒーターが強になっていたのか、冷え冷えとしていた礼拝堂に比べるとずいぶんな暑さだった。
「あ、暑いね。エヘヘ」
真里亜は小豆色のジャージを脱いだ。白いあったかインナーに包まれた胸元がこれでもかと芸術的なラインを見せつけてきたので、毛玉の数を確認できそうなほど凝視してしまう。
そのまま舐めるように目線を上げていくと、真里亜がこちらを見ていた。つまり俺が凝視しているのがバレていたのである。
「うわあああーッ」
俺はなんてことを。テーブルに突っ伏し、己の罪を懺悔する。
「え、な、何、どうしたの!?」
「何でもないよ」
俺は体勢を立て直し『真面目で変なことはしない芥くん』のキャラを取り戻すことに成功した。
「コーヒー入れるから待っててね」
俺が新年に商店街の福引で当てた電気ケトルがポコポコと音を立てる。真里亜が手に持っているのは今年の福袋に入っていたドリップコーヒーだ。それも俺が買ってここに持ってきた。
俺は何くれと理由をつけてこの用務員室に色々なものを持ち込んでいる。それはこの教会が貧乏なのをわかっているからでもあるし、単純に真里亜の生活に食い込みたいからと言うのもある。
「はああ……」
いかん何かめちゃくちゃ緊張してきた。
「大丈夫?」
いつの間にか真里亜がコーヒーを持って俺の隣まで接近していた。上目遣いに覗き込まれると、そのうち頭がどうにかなってしまうかもしれないと思う。これが思春期か……。
「うん、大丈夫。えーと、そう、呪いのチョコレート。うん。それを一体どうすれば?」
「それはね……」
真里亜はエコバッグから箱をどんどんと取り出し、テーブルの上に乗せた。
「食べてください」
「呪いがかかってるのに!?」
思わず鋭いツッコミを返してしまう。
「あ、え、ええと……その、芥くんは善良な人なので、呪いの効果がないの」
もう展開がめちゃくちゃだが、くれるものはもらう。俺はどんな状況でも受け入れてみせる……!
「一つ目は、これね」
食べる順番は決まっているらしい。ビニールのラッピングに包まれたチョコ。お弁当のカップに入って、チョコスプレーをかけた小学生女児が作るやつだ。
星型のホイルを剥がし、ぽいと口に入れる。
「かった……」
「それはね、生クリームを入れていないから固いの」
次はトリュフ。これも手作りだ。前回の溶かして固めるだけからレベルアップってやつか? 綺麗な丸になっていないあたり、試行錯誤した雰囲気がある。
「うん、これは良くなった」
真里亜はにっこりと笑い、次のチョコを出してきた。
「既製品では?」
「そうだね」
わかるわかる。スーパーに売ってるお小遣いで買えそうなやつ。俺は長年チョコレートを貰う妄想をしているから詳しいんだ。おそらく、手作りを渡すのが気恥ずかしい小学校高学年ぐらいの心理状態だろうか?
『わざわざあんたのために手作りなんてするわけないじゃん! ま、スーパーで見つけたから義理チョコ買っといてあげたけど〜?』もしくは『お母さんにからかわれるの嫌だからこっそり買って渡そう……!』のどちらかだ。
「もしくは、ちょっと惰性でめんどくさくなってきた、とか」
「もしくは?」
やべ、心の声が表に出てしまった。
「この子は……そうだね、面倒くさいんじゃなくて、手作りのチョコはちょっと重いかな? って考えて、お店で買ったけど、やっぱり特別だって気がついて欲しくて次の年から手作りに戻すんだと思う」
なるほどそういう設定があるのか。四角や丸のチョコをぼりぼりと食う。次に出てきたのは手作り復刻。生チョコだ。
一年間の間にさらに上達したな、と呟くと真里亜はにっこり微笑んだ。
生チョコを小さなフォークでちまちま食べている間に、だんだん胃に負担がかかり始めたのを感じる。
しかし真里亜の攻撃の手はとどまるところを知らないし、俺もまたこの時間が長く続けばいいのにと考えると、より一層食べるのがゆっくりになるのだった。
「ふう。ごちそうさま」
あと呪いのチョコレートは何個あるのだろう。そう考えて視線を向けると、指で3つ、と指し示してきた。
次の箱は大きめのガトーショコラ 。粉砂糖でハートがかかっている。もうここまでくると既製品レベルだ。
「いただきます」
もそもそと口に運ぶ。うん。うまいんだけど……うまいんだけれども……。
「私も手伝おうか」
ちゃぶ台を挟んで向かい合わせに座っている真里亜は妙に意志の強さを感じさせる発言をした。それきり微動だにせず、皿もフォークも持ってくる様子がない。
俺だって馬鹿ではない。もしかしなくてもこれは『あーん』の展開だ。俺が食べさせる側と言うのは妄想のバリエーションの中にはなかったけどな。
しかし、いいのだろうか。フォークは一本しかない。自分が自意識過剰なだけで、向こうは何も考えていないのかもしれないな。
「ど、どうぞ……」
おそるおそるガトーショコラ を真里亜の口元に運ぶと、彼女は身を乗り出してきた。
たわわな胸元の張り出しが、テーブルのふちにどんと乗っているのを見つけてしまう。
「……ひゅっ」
何だか、とんでもないプレイが始まってしまった気がする。いやこれは俺の中の悪魔が暴走しているだけで、清純派まっしぐらのシスター・マリアがそんな俺を誘惑してくるはずもないのだ。
「うん、結構うまくできてるかな」
ぺろ、といやに赤い舌が歯の隙間からちろりと見え、俺は聖書に出てくるイヴに知恵の実を渡した蛇のことを思い出してしまった。
いかんいかん。ここで変なことをしたら俺はこの楽園を追放されてしまうんだぞ。
「飲み物おかわり、いる?」
「うん、もらおうかな」
一杯二十円程度のインスタントコーヒーでも、真里亜の淹れてくれたコーヒーなら千円以上の価値がある。
真里亜は古ぼけた冷蔵庫から、コーヒーショップのタンブラーを取り出した。
おっ、これって去年のホワイトデーに俺が渡したやつじゃないか? まだ使ってくれていたのか。学校では見かけないからてっきり真里亜のカーチャンあたりが使っているのかと。
「ちょっと待ってね……」
こちら側からでは中身が見えず、桜のイラストのみが確認できるのみ。しかし、次に冷蔵庫から取り出されたのは小さなボウルだった。固く泡立てた生クリームが入っている。嫌な予感がする。
真里亜はクリームをこんもりのせて、そこにピンク色の小さなハートのチョコレートを埋め込んでいく。
どうして女子は爪がぴかぴかしているのだろう。永遠の謎だ。そんなことを考えているうちに、俺の前にタンブラーがどんと差し出された。
「はい。チョコレート・ドリンク」
「わあありがとう」
無駄に高いテンションでタンブラーを受け取る。全然趣味ではないが、真剣にデコっていたのは伝わる。
「……うん、甘いけど……するする飲めるよ」
嘘だ。かなり胃がやばくなってきた。どうせならこれは、去年の受験シーズン真っ盛りの時に飲みたかった。
真里亜の目的がさっぱりわからない。しかし彼女が意味もなくこんなことをするはずもない。その飲んでいるコーヒーを俺にもくれ。
真里亜がじっと俺を見つめてきた。瞳が潤んでいるように見える。体中が熱くなり、胃のなかのチョコレートがドロドロに溶けて体に染み込んでいくような気がする。
多分顔が真っ赤になっているだろう。呪いのチョコレート……確かに、そのうち血管が爆発して俺は死ぬかもしれない。
彼女が最後に取り出したのは、今までで一番デカい箱だった。
「あのね……さっき言った、呪いのチョコレートって言うのは……嘘、なの」
うん知ってた。しかし、女の嘘は許せとどっかの誰かが言っていたので俺もそれに倣うつもりだ。
「……これは……今年の分」
「今年の?」
まさか。異常な状況すぎて脳が冷静に考えるのを拒否していたが、俺にチョコレートをくれると言うのか? このシスター・マリアが? 俺に? この本命っぽいチョコレートを? 密室で?
「さっきのは……今までの、数年分の渡せなかった分を一度に……」
先程までは闇に葬られた数年分の本命チョコを、順を追って再現してくれたもので、全部俺宛てでこれは今年の分。
あまりの出来事に俺は言葉を失ってしまった。沈黙を、真里亜は俺がドン引きしていると思ったようだった。
「重い……よね。ごめんなさい。ずっと、何年も渡そうと思っていたのに、もし渡して気まずくなったらどうしようと思ってずっと渡せなくて、でも明日になったら他の人がチョコを渡しちゃうかもって……それで、もう嫌になるぐらいに、明日になったら、もうチョコが見たくないって思うぐらい、全部、私のでいっぱいにしちゃえって」
「ふぐっ……」
「私……今まで芥くんに甘えていて。でもずっと、それでもいいよね、わかってくれるよねって思ってたの。だって、もしわたしの勘違いで、妄想で、わたしはただの近所の同級生ってだけだったら、もう立ち直れないと思って怖かったの」
「ひょえっ」
俺にとって都合がよすぎる展開に、幻覚の類ではないかと太ももをつねる。脳内麻薬がドバドバ出ているのか、痛みを感じないので結局何もわからない。
「でも、この前沢凪さんから、あんた迷惑かけてるのわかってる?って言われて」
「沢凪ってあの新興宗教の開祖の娘とか言われてる?」
ここでいきなり関係なさそうなやつが出てきたので、俺はちょっと冷静さを取り戻した。学校ではストーキングしたい衝動を抑えて、あえて真里亜と距離をとっているので関連性がわからない。
沢凪とは同じクラスなので確かによく会話をする。この前は成績が伸び悩んでいて家庭教師をつけるかどうか迷ってると言っていたような……。
「迷惑だなんてそんな、俺が好きでやってることなのに」
「しゅき!?」
「え!?」
「あ、ごめん、親切心でやってくれてるって意味だよね。変なこと考えちゃった」
「変と言うか、そのまんまの意味で。なぜ俺がボランティアに精を出しているのかと言うと、別に隣人愛に目覚めているわけでもなくて、それには明確な理由があって」
これは俺から言わなくてはいけないことだと思うのに、口から飛び出してきたのは長々とした導入文だった。ここぞとばかりにインパクトのあるセリフを捻り出したいのに……。
俺の話の途中、真里亜は何を思ったのか、箱のリボンをほどき、赤いラッピングを自分で開けてしまった。あっ待って心の準備が、家に帰って三日ぐらい保管してから開けようと思ったのに……。
「誰にも芥くんを取られたくないの。これを受け取って、わたしだけの芥くんのままでいてください」
あとはもう蓋を開けるだけ、の状態になった箱が俺の目の前に差し出された。
最後のチョコレートの箱を開けると白いチョコで『大好き』と書いてあったので、俺はなすすべもなく昇天した。
読んでいただき、ありがとうございました。たまにはこういうのはどうかなーと。