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母親の「あっちでコソコソ、こっちでコソコソ」エピソードがある。
母親は、長女に気を遣っていた。
正確に言うと、怖がっていた。(夫を怖がるように。)
それは、長女が夫と同じように、わがままで、自己顕示欲が強く、自己愛の激しい、凶暴な性格であったことと、幼少期に父親の長女に対する暴力を目の当たりにしていたからだと考えられる。
長女に対して、負い目もあったのである。
私が小学生のことである。
長女が家にいない、ある日、テレビを見ていると、俳優のTが出演していた。
母親は、Tが嫌いだというようなことを言いながらテレビを見ていた。
容姿やしゃべりかた、全てが嫌いだ、というような主旨のことを言っている様子を私は、隣で黙って聞いていた。
それから時が経ったある日、長女と母親、私で食卓を囲っていた時のことである。
母親の「嫌いな」Tがテレビに出ていた。
長女は、「Tだ! かっこいい! T! T!」とはしゃいでいた。
どうやら、長女はTのファンだったらしい。
私は、母親がTのことを嫌いなことを知っていた(少なくとも先日まで、そのようなことを言っていた)ので、長女に
「お母さんは、T嫌いらしいよ」
と言ったのである。
すると、長女は「ムっ」とした表情になった。そして、母親を「キラっ」と見た。
母親は、バツの悪そうな顔をしながら、
「このドラマのTはいいね!普段のTは嫌いだけど、このドラマのTはいいね。」
というような主旨のことを苦笑しながら言ったのである。
「えっ!この前は、嫌いって言ってたじゃんー」
純粋な小学生の私は、素直に母親に問いかけた。
「ははは……」
と母親は、欺瞞に満ちた微笑を浮かべた。
ああ、なんて弁明しよう。
そんな、なんとも言えない微笑だった。
私は、あの、なんとも言えない「微笑」を忘れられない。
「矛盾の微笑」を忘れられない。
私の周りの卑怯な人間達は、同じような「微笑」をする。
その「微笑」を見る度に、私は、あの頃の矛盾を追体験する。
卑怯な人間に囲まれていた、あの過去を。