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無意識の「苦しみ」「寂しさ」「劣等感」に気づかない親は、自分の子供にやはり無意識に「怒り」と「憎しみ」をぶつける。
それは、自分の子供が、自由に行動し、自由に泣きわめき、自由にわがままを言う姿に「ずるい」と感じてしまうからである。
自分は、わがままを言えない。(大人なんだから当然だが。)
自分は、こんなにわがままを言わずに耐えてきたんだ。(今もずっと耐えている。)
ずるい。ずるい。
自分も耐えたんだからお前も耐えろ。
その想いを無意識に心に積み重ねながら、自分の子供に怒りをぶつけるのである。
その心理はよく理解できる。
しかし、子供の甘えの欲求は、当然の欲求ではないか。
どれだけ、子供が甘えたいかは、それを抑圧してきた、自分にはよくわかるはずである。
それを「許す」ことが、「やさしさ」であり、「大人の第一歩」なのである。
新渡戸稲造と友人の欧米の要人とのエピソードがある。
新渡戸の子供が旅先でおもちゃを欲しがった。
子供はどうしてもおもちゃが欲しくて、駄々をこねて、泣きじゃくった。
手をつけられない。
そこで、新渡戸は、「お父さんも子供の頃、よく欲しかったおもちゃを我慢したものだ。だから、お前も我慢しなさい。」
と言った。
すると、隣にいた要人は、こう言った。
「新渡戸、それは違う。子供のころ、おもちゃをよく我慢した、お前は、その子がおもちゃをどれだけ欲しいか、わかっているではないか。その欲しい気持ちを一番よくわかっているお前は、その子の気持ちに一番寄り添えるではないか。」
その言葉に「はっ」とした新渡戸は、子供におもちゃを買ってあげた。
「愛情」というのは、そういうことである。
自分の「苦しみ」を弱者に体験させることではない。