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私の父親には、無意識の怒り・憎しみと共に、「見捨てられ不安」がある。
母親に聞いたエピソードである。
長女の出産を控え、母親は、母親の実家に帰省していたらしい。
長女出産後、1か月程度で夫(私の父親)と同居していた家に長女を連れて帰る予定だったが、体調を壊したために、「しばらく実家にいたい」と申し出たらしい。
その申し出からすぐに、母親の実家宛になんと父親のサイン入り「離婚届」が送り付けられたのだ。
その「尋常ではない行為」にびっくりした、母親の母親、つまり、私の祖母が、「すぐに帰った方が良い」と母親に言い、すぐに夫(私の父親)と同居する家に帰るように促した。
母親は、即日、まだ生まれたばかりの長女を連れて、翌日には、夫の同居する家に帰らざるを得なくなったのである。
このエピソードには、父親のわがままな「自己愛」が読み取れる。
「相手(妻や子供)がどういう状況か」
とか、
「出産って大変だよなー」
ということに考えが及ばないのである。
なぜなら彼が、「自分に関心をよせてくれー」という「子供」だからである。
「夫を放っておいといて、実家に居座るのはけしからん!」
という、自分のわがままを聞いてほしいのである。
そんな「子供」の子供に生まれた、長女や私は、たまらない。
甘えの欲求が満たされていない親は、当然の子供の欲求である「甘え」を満たすことができないからである。
普通の子供は、相手のことは考えない。「自分!自分!」である。
その欲求に対して、親は、「自分のやりたいこと」「自分の甘えたいこと」を我慢して、子供のわがままに付き合う必要がある。
しかし、私の父親は、それができないのである。
では、彼は、どうやって子供のわがままに付き合うのか。
恐怖と暴力、そして劣等感を植え付ける行為を通して、子供をいじめ抜くことで、子供のわがままを制圧するのである。
父親がなぜそのようになってしまったのか?
それは、父親の両親がまた、そのような「甘え」を許さなかった(または、許す物理的・心理的余裕がなかった)からである。
父親のパーソナリティは、元をたどれば、父親の両親、つまり、私の祖父母の養育の問題に突き当たる。
つまり、父親が「子供」のままであるのは、本人だけの責任ではない、ということである。
しかし、自分が精神的虐待を受けたから、ということで、自らの子供に精神的虐待を加えて良いということにはならない。
自分が苦しくても、なお、自分が受けた苦しみを意識化し、それを弱者に与えてはならない、と強く決心しなければならないのである。
しかし、彼は、その無意識の「苦しみ」「寂しさ」「劣等感」に気づいていないのである。