耳が聞こえない少女
「火が来る! 危ないぞ!」「階段あがって上に逃げろ!」
マンションに戻ると、三階まで燃え広がった炎が四階のフェンスを炙っていた。姉弟は五階西側奥から動いていない。煙を避けるように、かがんでフェンスを掴んでいる。バケツリレーをしていた少年達が上の階に避難するよう声をかけているが、姉弟は動かない。
ミツオは軽く地面を蹴った。ミツオの体はノミのように跳びあがり、少年達の頭上を軽々と飛び越えた。マンション前の道路に着地した時、足が義足になっているのではないかと思うほど衝撃を感じなかった。さっきまで焦がされるような熱さを感じていた場所に立っても、ほとんど熱さを感じない。ミツオは感覚を確かめるために片足をあげてブラブラ動かしてみた。足はビュンビュンと鞭のような音を出して揺れ動いた。
ミツオは強力なバネをイメージしてしゃがみ込み、解き放つように五階めがけて地面を蹴った。アスファルトの地面が軋み、視界が高速で流れて、気づくと目の前が真っ暗になっていた。何が起こったのか分からない。頭と右肩が何かに埋まっているようで動かしづらく、足は宙に浮いている。もがいて頭を抜け出すと、地上からミツオを見上げる少年達の姿が小さく見えた。五階と六階の間の壁にめり込んでいたようだ。
五階は、立ち昇る煙で少し息苦しかった。煙を吸わないように姿勢を低くして通路を走り、放心状態の姉弟を抱きかかえた。二人は風船のように軽かった。
あらためて五階から下界を見下ろすと、ミツオは目が回りそうになった。高所恐怖症ではないつもりだが、ここから飛び降りる事を考えると足がすくむ。
「南無三!」
ミツオは覚悟を決めて五階から飛び降りた。重力に身を任せ、加速度的に地面が近づいてくる。姉弟に衝撃が伝わらないよう、身体の各関節部で衝撃を分散させるようにして地面に降り立った。足の裏が痺れるような痛みを感じたが、姉弟共に無事だった。成り行きを見守っていた人々から歓声が上がった。
ミツオは一緒にバケツリレーをしていた少年に姉弟を預け、リサの姿を探した。目が合った瞬間、リサが怯んだように見えたが、すぐにミツオだと気づいたようで緊張を解いた。
「乗りかかった船だからこのまま行く。マチコちゃん達を頼む」
ミツオはそう言って優しく地面を蹴り、五階へ跳んだ。優しすぎて五階に届かなかったので、三階のフェンスを蹴って五階に上がった。三階で炎に炙られてズボンの裾を焦がした時、少しだけ熱さを感じた。
西側奥の部屋を調べたが誰もいなかった。続いて隣の部屋を調べようとすると鍵がかかっていた。ドアノブを破壊しようと思って全力で蹴ると、止め具の引き千切れたドアが室内へ弾け飛んでいった。この部屋も無人だった。
次の部屋に入ると、牙を剥いて吠えてくるマルチーズがいた。ミツオは嫌がる犬を強引に掴まえて地上に下ろした。
順繰りに部屋を回って行き、五階最後の部屋のドアをこじ開けようとした時、誰かの指が五階のフェンスにかかるのが見えた。その人物が体を引き上げ、五階の通路に下り立つ。紫色に発光する髪と緑色の瞳をした少女の姿にミツオは一瞬身構えたが、髪型と服装、何より顔のつくりはミツオのよく知る少女のものだった。
「ネットで見た。塩飲んだらこうなるんでしょ? ボクも行くよ」
「リッ」
「ボク六、八、十と偶数階調べていくから、ミツオは奇数階ね」
危ないから帰れ、と言う間も無く、足早にリサは階段へ向かって通路を進んだ。塩を飲んで身体能力が向上しているリサは、鹿が跳ねるように階段を上っていった。
ドアノブの横の部分を手刀で貫き、内側から鍵を開けて侵入。チェーンロックは軽く引っぱるだけで簡単に引き千切れる。子供か赤ちゃんがいたら、どんなに泣きじゃくって抵抗しても強引に抱きかかえて地上に下ろす。地上からマンションに戻る時、七階以上だと一度の跳躍では届かないので五階のフェンスを中継地点として蹴る。地上とマンションを行き来する間、リサと何度かすれ違った。
炎に追いつかれるまでに、どれだけ多くの部屋を調べられるかのスピード勝負だ。部屋を調べる度に調べるコツを掴んでいったミツオは、徐々に作業効率を上げていった。階段は、踊り場まで一跳び、そして次の階に一跳び、と計二歩で上っていった。
十三階まで調べ終わり、十五階に上がるとリサがいた。日が暮れてきて、西の空に夕陽が浮かんでいる。
「ミツオ、そろそろ潮時じゃない? ボクもう足が痛い」
七階から地上に飛び降りた時、足裏から膝にかけて痛みが走った。九階から飛び降りた時は、着地時にアスファルトの砕ける音が響いた。足裏から頭のてっぺんにかけて電気が走り抜けていくような衝撃を受け、少しの間動けなくなった。十一、十三階にいた赤ちゃんと子供を避難させる時は、九階まで階段で下りてから地上に飛び降りた。炎は八階まで燃え広がっている。これ以上の高さから飛び降りると、足を骨折してしまうかもしれない。
まだ上の階に赤ちゃんと子供が残っているだろう。なんとか救出する方法は無いか、と思考を巡らせた時、子供の声が微かに聞こえてきた、気がした。
「……リサは先に帰ってて」
ミツオは通路を駆け、1506号室へ向かった。ドアを開けて中に入ると、リビングルームに小学校高学年くらいの女の子がいた。電灯の点いていない室内は、レースのカーテンを透過して差し込んでくる西陽で、オレンジ色に染まっている。送電の止まったエアコンは口が開いたまま停止していて、皮膚感覚が鈍感になっているミツオでも少し暑く感じた。
小さなテーブルを挟んで女の子と目が合った。ショートヘア、Tシャツ短パン姿の女の子は、膝を曲げて足をハの字にして座っている。テーブルの上には、ペットボトルの鳥龍茶とクマのキャラクターがプリントされたコップが置かれている。女の子は無表情で、その落ち着いた佇まいは、静かな森の中にあるさざ波一つない湖を思わせた。
世界中の大人が全員塩になった事。マンションが火事で炎が迫っている事。達観した雰囲気を醸し出す女の子は、全てを理解した上で状況を受け入れているように見えた。
合わせ鏡のように底が見えない大きな瞳に見つめられ、ミツオは固まった。有無を言わさず抱きかかえて連れ出すべきところだが、ミツオは女の子に声をかけた。
「火事、逃げるよ!」
女の子はミツオの顔を見て、リスのキャラクターがプリントされたメモ帳に何かを書き始めた。
『私、耳が聞こえない』
女の子がミツオに提示したメモ帳には、大人びた綺麗な字でそう書かれていた。ミツオは女の子からメモ帳を受け取り、乱雑に書きなぐった。
『下の階が火事だから、逃げよう』
ミツオが書いたメモを見ても女の子は無反応で、ミツオの顔を見つめてくるだけだった。
ミツオは女の子の両脇を持って体を持ち上げ、肩に担いだ。女の子は一切抵抗せず、ミツオにされるがまま身を委ねていた。女の子は汗だくで、濡れたTシャツが体にピッタリと貼りついていた。
女の子を担いで通路に出ると、リサはもういなかった。地上へ降りたのだろう。
ミツオも地上に降りるために階段へ向かおうとした瞬間、下の方から大きな爆発音が響いてマンションが揺れた。
走って階段まで来たミツオは、踊り場まで一歩、次の一歩で十四階へ、忍者のように階段を下りた。同じように十四階と十三階の間にある踊り場へ跳ぶと、十三階から猛烈な勢いで噴き出てきた黒煙にミツオと女の子は包まれた。
ミツオ達は急いで十四階へ戻った。女の子が息苦しそうにむせたので、ミツオは女の子の背中をさすった。
「まずい」
空気の通りがいい場所まで来て女の子を下ろし、フェンスから身を乗り出して下の階を覗くと、十二階が炎に包まれているのが見えた。せいぜい九階、ひどくても燃えているのは十階までだろうと思っていた。さっきの爆発のせいで炎の勢いが強まったのかもしれない。
「ここから降りられるか?」
下界を見下ろすと、あまりの高さに足がすくんだ。人の姿がそら豆くらいに見える。七階、九階から飛び降りる時には感じなかった本能からの危険信号を、ミツオは感じた。ここから飛び降りれば恐らく死ぬ。もし自分が重症で済んだとしても、衝撃を緩和できずに担いだ女の子は無事では済まないだろう。
十四階に黒煙が流れ込んできた。大雨で増水した川のように、黒煙が勢いよく天井を流れる。ミツオは煙に巻かれないよう女の子を胸の前で抱き、腰を低くして十五階に上った。
十五階に来たミツオは、1501号室のドアをこじ開けて部屋の中を調べ始めた。
どうすればいいのか、いい考えが思いつかなかったので、とりあえず部屋に残されている子供を連れ出す事にした。最終的に皆、まとめて焼け死んでしまうのかもしれないが。
1502号室を調べ終わり、1503号室の前に来た時、ミツオはその部屋から出てきた人物と鉢合わせになった。もういないはずだと思っていた少女の姿を見て、ミツオは凍りついた。
「ロシアンブルーがいたんだニャー」
リサは書初めを披露するかのように、薄紫色のスタイルのいい猫を胸の前で掲げた。
ミツオとリサは先程のように奇数階、偶数階に分かれて部屋を調べていく事にした。
リサに十三階まで燃えている事を伝えると唖然とした表情になったが、パニックにはならずミツオの指示に従ってくれた。
「子供助けながら屋上まで行ったとして、それからどうすんの?」
これから考える、と言って、ミツオは抱いた女の子と一緒に十七階へ向かった。