現実
オレンジ色に染まった空の方へ進んでいくと、一階と二階が燃えているマンションが見えてきた。一階層八部屋くらい、階数はざっと見上げただけで二十階くらいありそうな高層マンションだ。マンションに近づくにつれ、徐々に気温が上がっていくのをミツオは感じた。
マンションでは、集まっていた小、中学生達によるバケツリレーでの消火活動が行われていた。マンション内から逃げてきたのであろう、裸足で座り込んでいる数名の小、中学生を、筈久中学校の制服を着た女子が介抱している。一階、二階部分の窓が割れ、中から炎が踊るように飛び出し、灰色の煙がモクモクとあがっている。リサは火災現場を見たショックからか、同年代の人間がたくさん集まっているからか、立ち竦んで固まっている。怯えるマチコちゃんはリサの足にしがみついていた。ミツオは、消防車を呼ぶ、という考えが一瞬頭をよぎったが、すぐに大人がいない事を思い出した。三階部分のまだ燃えていない部屋のドアを見る。赤いガムテープの印はついていない。
「手伝うよ。何をすればいい?」
ミツオは、炎にバケツの水をぶっかけた少年に声をかけた。
「来て」
少年はミツオを見る事無く呟いて、マンションとコンビニの間にある路地を走っていった。ミツオも走ってついて行くと、バケツを持った五、六人の男子とすれ違った。少年は近くの民家に入って行き、庭の水道脇に置かれていたバケツを手に取るとすぐに走り出した。庭では、小学校高学年くらいの女の子がバケツに水を溜めていた。水道まわりには水の溜まったバケツが五個置かれている。ミツオも一つバケツを持って、マンションへ走り戻った。
ミツオは窓から噴き出る炎に向かって水をぶっかけた。炎は湧き出る汗がすぐに乾燥するほど熱く、近づくと体の表面が炙り焼きにされるようだった。
バケツリレーを続けていると突如、炎の勢いが猛烈に強くなった。ガス管に引火でもしたのか、トコロテンが押し出されるように窓いっぱいから火焔が溢れ出てくる。一人の少年が肥大した炎に水をぶっかけたが、水は炎に当たる前に蒸発して消えているように見えた。
バケツリレーをしていた少年達と共に、ミツオは空のバケツを持ったまま茫然と炎を眺めた。重いバケツを運んでいた疲れが、どっと押し寄せてきた。
恐らくマンション内にまだ人が残っているだろうが、どうしようもなかった。炎が二階から三階へ燃え広がっていくのを、ミツオは放心状態で眺めた。
「おい! あれ見ろ!」
誰かの叫び声が聞こえ、皆の視線がマンションの五階に集まった。五階西側奥、フェンスから下界を見下ろす二人の子供の姿が見えた。姉弟だろうか、男の子が女の子の服を掴み、フェンスの隙間から顔を出している。
現実が姿を現した。このままだと、炎に巻かれてマンションに取り残された子供達が焼け死ぬ、という現実。
ミツオの脳裏に、爆弾でふき飛ばされたコンサート会場の光景が甦った。血と排泄物の臭い。真っ暗な空間に、誘導灯の灯りだけが浮き上がっている。絶叫と呻き声が渦巻く中、暗闇に慣れた目で辺りを見まわす。排泄物と内臓のミンチが混ざった血だまりの中に、首が折れて頬が背中に貼りついた白人男性のねじ切れた上半身が転がっている。誰のどこの部分なのか分からない肉片が飛び散り、潰れた眼球や髪の毛の付いた頭皮などがグチャグチャに潰れた座席に貼りついている。
「ハシゴ探してくる」
ミツオは誰に言うともなく呟いて、近くの住宅街へ走り出した。大きな家の物置に入り、五階まで届くようなハシゴがないか探す。そんな長いハシゴが世の中に存在するのかどうかも知らないし、あったとしても炎の勢いが強すぎて近づけないかもしれない、と思ったがミツオは探し続けた。
物置には脚立しかなかった。他に物置がある家が無いか探しながら住宅街を走っていると、作業着が混入された塩の塊を道端で見つけた。それが視界に入った瞬間、ミツオの脳裏に佐藤さんの姿がよぎった。塩を飲み、髪の毛がオレンジ色に染まった佐藤さんの姿。
ミツオは塩の塊を一掴み掬い取り、口に流し込んだ。塩はマイルドな辛さで、美味しいとすら思える味だった。しばらくすると心臓の音が大きくなってきた。全身の細胞一つ一つが熱を帯びていく感覚に囚われる。風の音が何層にも折り重なって聞こえてくる。目を閉じると、血液が体内を流れる音まで聞こえてくるような気がした。
風呂上りの髪に扇風機をあてた時のように、頭がスウッと清々しくなった。バチバチと電線がショートするような音が頭から聞こえてくる。目をこらすと、眼球についた細かなホコリが、顕微鏡で微生物を見る時のように鮮明に見えた。