不協和音
二月十九日
「チャンネル!」
ミツオは3.42秒間、時間跳躍した。視界が一瞬真っ白に塗り潰され、ベニヤ板で区切られた教室が目の前に現れた。薄暗い室内。排泄物と汗と垢の激臭が脳天に響く。二回目だが、まだ臭いに慣れない。
ミツオは室内にいる囚人を手当たり次第に7.97秒間、時間跳躍させていった。五人時間跳躍させると、ミツオはベニヤ板を叩き破った。ベニヤ板の向こうにいた四人も時間跳躍させ、五人目と共にミツオも時間跳躍した。
民家の広い仏間が視界に映る。ミツオは一緒に跳んだ囚人を優しく抱きかかえた。痩せこけた囚人は無表情で、目の焦点が合っていない。
「僕の電車が行ってしまう!」
一人の囚人が叫びながら襖を開けて、外へ飛び出そうとした。表情は恐怖で引き攣っている。救出チームのメンバーが二人がかりで、暴れる囚人を取り押さえた。
コトワリ能力を発現させているノゾミが囚人に近づき、視線を合わせてインプリンティングをかける。数秒間見つめ合うと、囚人は崩れ落ちて寝息を立て始めた。
民家の前にある駐車場に、四台のワゴン車と緑色の軽自動車が停まっている。ミツオは抱きかかえていた囚人をワゴン車の助手席に乗せて、シートベルトを締めた。歩ける囚人は肩を担がれ、歩けない囚人は担架でワゴン車に運ばれる。
「五十嵐君、次が最後。よろしくね」
軽自動車の運転席に座っている西村さんに、ミツオは車に乗るよう促された。
ミツオはノゾミに向かい、右手のひらを自分の胸に向けて山なりに外側へ動かし、左手のひらに開いた右手の先を突き立てた。次で終わり、という意味の手話だ。ノゾミは頷き、民家の仏間に戻っていった。
五條アヤネ、賀矢根中学校三年生。
友人が『立ち止まり』の末に自殺した事をきっかけに、死ぬよりマシ、という考えで、立ち止まり者に対して洗脳を施すようになった。親兄弟がいなくなった心の穴を、自分を崇拝させる事で埋めさせる。端正な顔立ちと魅力的な声を持ち、賛同者の協力もあって信者は増えていった。次第に、洗脳されていない者もそのカリスマ性に魅かれてアヤネの下に集まってきて、五條共同体が設立される。勢力は日増しに拡大していき、賀矢根自治体が五條共同体の完全な傀儡になった頃、一部信者の暴走が始まった。敵対組織の者に非人道的な洗脳を施し、発狂する人間が増えている。
ミツオは新井君が投獄されているという情報を得て、五條共同体から離反した西村さんの囚人救出作戦を手伝う事になった。時間跳躍を応用した空間移動で牢獄へ跳び、収監されている囚人を空間移動させて避難させる。五條共同体と対立したくない宝緋自治体からは、できるだけミツオが関わった痕跡を残さないように言われている。ノゾミは一時避難先の民家で待機し、錯乱している囚人にインプリンティングをかけて落ち着かせる役だ。インプリンティング効果切れの更新業務があるので、ノゾミは連れて来られないと思ったが、佐藤さんからむしろ連れていくように勧められた。
牢獄は三つあり、次で終わりだ。午前十時に救出作戦を開始し、現在時刻は午前十時四十二分。十時から十一時までは看守がいなくなる時間帯らしい。このままいけば、気づかれる前に全て終わらせる事ができるだろう。
ミツオは牢獄へ時間跳躍するために、西村さんの車で西へ移動している。五條共同体の支配区域なので、ミツオは後部座席に寝転んで毛布を被り、顔が見えない様にしている。
宝緋市と比べ、いくぶん都会的な賀矢根市街を走る。道中、西村さんが一般的な洗脳の仕方を教えてくれた。
「まず、時計が無く、昼夜もわからない地下室に閉じ込める。与える食事はお粥だけ。低栄養の状態で何の刺激もない部屋にいると、一日が一週間にも感じられ、次第に頭が空っぽになるわ。そこで尋問を始めるの。答えのない質問を延々と続ける。私達は『何故、大人達は塩になったのか』という質問をしたわ。神が与えた罰とか宇宙人の侵略作戦とか色々な事を言ってくるけど、全て無視して『何故、大人達は塩になったのか』という質問を繰り返し続ける。睡眠も与えず、終わりなく続く答えの無い質問で頭がパンクする寸前に、アヤネちゃんに従う事だけが唯一の救いだと教えてあげると、神経が逃げ場を求めてアヤネちゃんを崇拝するようになるの」
あまり興味が無かったのでミツオは軽く聞き流した。ノゾミのインプリンティングが無かったら、うちの自治体も同じような事をやっていただろうか。
「暴走した信者は、より過酷な環境で暴力と薬と残虐映像を使うわ。衰弱しきった状態で覚醒剤を打たれて見る宗教戦争の映像は、この世の地獄よ。発狂者の顔を見た事があるけど、ほんと凄まじい顔をしていたわ。今は敵対組織の人間にだけ行っているけど、きっと対象者は広がっていく。阻止しなきゃ」
新井君は次の牢獄にいるだろうか。または信者になったか発狂したか。
「ただ、五條共同体の全てが間違っているとは思って欲しくないの。アヤネちゃんは、純粋に皆を救いたいと思っているだけなの。私は五條共同体からは離反するけど、アヤネちゃんを敵にまわす気はないわ。組織が正常な状態に戻ったら、またアヤネちゃんの下で働きたいと思う。本当にアヤネちゃんは凄いの。最初は私達と同じやり方で洗脳をしてたんだけど、今はもうそんな必要ないわ。人から崇められる事で生まれるオーラっていうのがあるのかしら。同じ空間にいるだけで、とても幸せな気持ちになれるの」
後部座席から西村さんの横顔が見える。ミツオの中で、早く新井君を救出して宝緋市に帰りたい、という気持ちが強くなった。
「座標確認。チャンネル解放」
牢獄になっている中学校の西にある老人ホームの駐車場に立ち、頭の中のテレビに意識を集中させる。西村さんはミツオを降ろしてすぐに、一時避難場所である民家へ引き返していった。アンテナからテレビにエネルギーを流し込み、時間を跳躍する。
悪臭が充満する牢獄に着地し、先程と同じように囚人達を時間跳躍させていく。
三人目の囚人を時間跳躍させた時、ミツオは何故か違和感を覚えた。違和感の正体を考えながら四人目の囚人を時間跳躍させる。五人目を時間跳躍させ、ベニヤ板を突き破り、六人、七人と続けて時間跳躍させていく。二人目に時間跳躍させた男の髪の汚れ方が、他の囚人と比べて不自然だった気がする。八人、九人と時間跳躍させ、十人目と共にミツオも時間跳躍した。
民家の仏間に着くと、白い煙が視界を覆った。呼吸をすると手足と唇が痺れ、咄嗟にミツオは息を止めた。視界の端で影が動いた。身構えようと顎を引いた瞬間、右肩から右頬の辺りに衝撃が走り、ミツオはふき飛ばされた。襖に突っ込み、右半分がぼやけた視界の中に、緑色の髪の囚人が飛び込んできた。二人目に時間跳躍させた奴だ。コトワリ能力を発現させている。緑髪は右足を振り上げ、ミツオの腹に打ち込んできた。腹筋に力を込めて受け止め、痺れる両手でなんとか足首を掴む。全神経を集中し、緑髪を時間跳躍させる。
仏間の畳の上でミツオは蹲り、歯を食いしばって腹から込み上げてくる激痛に耐えた。食いしばった歯の隙間から白い煙が肺に流れ、全身の痺れが強くなる。辺りを見まわすと、救出チームメンバーも囚人も、全員が痺れて倒れていた。ミツオに戦慄が走る。ノゾミがいない。
ミツオは痺れる手足で這いつくばりながら庭に出て、牢獄になっている中学校へ向かって進みだした。匍匐前進しながら携帯電話を取り出し、佐藤さんに電話をかける。
「ノロミあはらわれは。あほうはん、ありっはへおへんよふをあふえへうへ」
舌が痺れて呂律が回らない。
『ん? どうしたどうした。ゆっくり話してくれ』
「ノロミ はらわれは。ごひょう ひょうひょうはい つぶふ」
脳と内臓が怒りで熱く燃える。ノゾミに傷一つでもつけてみろ。全員、太平洋の真ん中に時間跳躍させて海の藻屑にしてやる。
『ノゾミ現れた? あ、さらわれた? 五條共同体潰す、か? 落ち着けよ五十嵐、落ち着け。一人で突っ込むなよ。戦争は無理だぞ。お互い潰し合ったところでショウタロウ・ファミリーに漁夫の利を与えるだけだ。救出方法を考えよう』
「ひゃあひい。ひほひへはふ」
宝緋自治体が保有しているプラスチック爆弾は、五條共同体の本拠地を軽く百回はふき飛ばせる量がある。ノゾミを返さなければ爆弾を空間移動させて本拠地を爆破する、と脅してみよう。もしノゾミに何かあったら実際にやってやる。
『だから落ち着けって……お前も、大丈夫か?』
「はには?」
突如、ミツオの頭の中のテレビの電源が点いた。ミツオの意思とは無関係にアンテナが伸びていき、ブラウン管に映像が映る。
母さんがピアノを弾いている。父さんはバイオリンを弾き、洋子さんはフルートを吹いている。三人に囲まれる形で椅子に座っている少女。ノゾミだと思うが、後ろ姿なので確信はできない。三人はそれぞれ別の曲を演奏している。各々の演奏はプロレベルだが、テンポがバラバラなので騒音にしかなっていない。洋子さんと目が合った。洋子さんは演奏を止め、ミツオを指差して笑いだした。好意的な笑みではない、嘲笑の笑いだ。続いて母さん、父さんも演奏を止め、ミツオに指をさして笑いだした。弾き真似だったのか、演奏を止めてもピアノとバイオリンとフルートの不協和音は続く。鍵盤を打楽器のように叩かれるピアノの音、鋸でガラスを引っ掻くようなバイオリンの音、警報のように生理的な不快感を覚えるフルートの音。発狂していくように、不協和音のテンポが速く、強くなっていく。不協和音と競い合うように三人の嘲笑も激しくなる。目と歯を剥き出しにして、肩をたたき合いながら指をさして笑ってくる。ノゾミと思われる少女が振り返り、顔が見えた。顔の部分には、ブラックホールのような真っ黒な空間が広がっていた。




