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ミツオ・チャンネル  作者: 森茂
Chapter 4 仔猫
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青山ノゾミⅡ



 その夜、ノゾミは夢を見た。



 雨が降り出した。土砂降りとまでは言わないが、強い雨だ。

 ノゾミは読んでいた本に栞を挟み、バルコニーに出て、雨に煙る街並みを十四階から眺めた。傘を持っている人は傘を差し、持っていない人は鞄や腕を頭上にかざして走っていく。

 ノゾミが三歳の時、家族四人でディズニーシーへ行った帰り、交通事故でお父さんとお姉ちゃんが死んだ。ノゾミは事故の後遺症で耳が聴こえなくなり、お母さんは左腕が動かなくなった。

 眼下を行き交う人々の腕や足と比べ、ノゾミの身体は病的な程真っ白だ。ノゾミは五歳で退院し、その後二年間お婆ちゃんの家にいて、七歳の時にこのマンションに戻ってきた。戻ってから二年半の間、ノゾミはマンションの部屋から外へ出た事がない。退院後しばらくは、お婆ちゃんがよく来てお母さんと何か言い争いをしていたが、やがて来なくなった。

 マンションのゴミ置き場に置かれていた段ボール箱に、OLが自分の傘を立て掛けた。傘のなくなったOLは、駅の方へ走っていった。

 OLの赤い傘に遮られてダンボールの中は見えない。時折、通行人がダンボールの中を覗き込んで一瞬足を止め、後ろ髪を引かれるように通り過ぎていく。

 ノゾミは衝動的に、玄関へ向かって駆け出した。靴箱から自分の靴を取り出し、履く。二年半ぶりに履く靴は、身体が成長した分サイズが合わず、つま先しか入らなくてスリッパのような履き方になった。傘を持ち、玄関の鍵を開けて外へ出る。以前はお母さんが外側からも鍵をかけていたが、最近はノゾミに外へ出る意思が無いと思ったからか、外からの鍵をかけなくなった。

 エアコンで温度調節された室内と違い、外界は蒸し風呂のように暑かった。雨のせいか、べっとりとした生ぬるい空気が、溶けたキャラメルのように肌に纏わりつく。ノゾミは廊下を走り抜け、エレベーターの下矢印ボタンを押した。

 鼓動が高鳴る。何故こんな事をしているのかわからない。体の奥深く、お腹の辺りにある核のようなものが熱くなり、ノゾミを突き動かしている。

 一階でエレベーターを降り、傘を差して横断歩道を渡る。重い雨粒が傘に当たって弾ける。

 ゴミ置き場のダンボールの中を覗くと、そこには仔猫がいた。タオルケットが敷かれていて、一緒に哺乳瓶が入れられている。仔猫は小さく、痩せていた。眠っているのか弱っているのか、目を閉じて小刻みに体を震わせている。脇腹を触ると、生々しい温かさが手のひらに伝わってきた。

 ノゾミは傘を放り出し、両手でダンボールを抱えた。ベシャベシャした生温い雨が纏わりつく。ノゾミは仔猫が濡れないよう、体を前屈みにして雨から仔猫を守った。

 横断歩道の信号が青になるのを待ち、マンションへ戻る。ダンボールで足下が見えず、入口の小さな段差で躓きそうになった。ノゾミはエレベーターで十四階の自宅に戻り、玄関の上がり框にダンボールを下ろして鍵をかけた。

 上がり框に腰かけ、呼吸を整える。全力で走ったのはいつ以来だろう。毛先から雨粒が滴り、玄関の絨毯に落ちる。仔猫の横腹を撫でると、目が開いて口を動かし始めた。鳴いているのだろう。恐る恐る哺乳瓶を口元へ持っていくと、仔猫は勢いよく哺乳瓶に吸いついてきた。哺乳瓶を遠ざけようとしても口が離れない。こんな小さな体のどこにこんな力が、と思うような強い力で哺乳瓶に吸いついてくる。

 ノゾミの呼吸が整い、早鐘を打っていた鼓動が鎮まっていく。仔猫は喉を上下させてミルクを飲んでいる。

 本当に外の世界へ出たのだろうか。

 どうやって仔猫を運んできたのか、記憶が曖昧だ。エレベーターの床の端で死んでいた蜘蛛の死骸。ダンボールに立て掛けられていた赤い傘。信号待ちの間に目の前を走っていった、カエルのイラストがプリントされたトラック。場面毎に切り取った、静止画のような断片的な記憶しか残っていない。

 断片的な記憶に混じって、お母さんの顔が浮かんできた。お母さんは猫が嫌いだろうか。捨ててこい、と言われるかもしれない。その前に、猫を見たらノゾミが外へ出た事がばれるだろう。

 外の世界には危険がたくさん潜んでいる。交通事故で死ぬかもしれない。誘拐されて死ぬかもしれない。犬に襲われて死ぬかもしれない。川に落ちて溺れ死ぬかもしれない。落雷で死ぬかもしれない。地震で建物が崩れてきて死ぬかもしれない。隕石が落ちてきて死ぬかもしれない。ウィルスに感染して死ぬかもしれない。道に迷って帰れなくなって死ぬかもしれない。転んで頭を打って死ぬかもしれない。


 何故、外へ出たのか。


 お母さんが怒り狂ってノゾミに問い詰める情景が、ノゾミの脳裏に展開された。小刻みに右腕を振り回し、地団太を踏むお母さん。乱れた髪が額に貼りついている、般若のような形相のお母さん。

 ノゾミは咄嗟に仔猫の入ったダンボールを抱え、玄関のドアを開けようとしたが鍵がかかっていたので一度ダンボールを地面に置き、鍵を開け、再度ダンボールを抱えて玄関を飛び出した。無我夢中で廊下を走り、エレベーターで一階へ下りる。さっきより雨が強くなっている。マンションのゴミ置き場へ行き、最初に置かれていた場所と同じところにダンボールを置いた。近くの植垣に引っかかっていたOLの傘をダンボールに立て掛ける。ノゾミの傘は、少し離れた自動販売機の近くに裏返った状態で飛ばされていた。ノゾミは自分の傘を拾い、マンションへ走った。

 自宅に戻り玄関の鍵をかけると、ノゾミはその場に崩れ落ちた。息切れで呼吸が辛い。手足がガクガク震えて、ほとんど感覚が無い。心臓が激しく波打つ。体の表面は焼けるように熱いが、奥の核は凍ったように冷えきっている。

 何事も無かったようにしなければならない。ノゾミは傘についた雨粒をタオルで丁寧に拭き取り、靴と玄関の濡れた部分も拭き、シャワーを浴びた。浴び終わってから、上がり框のダンボールを置いていた部分のにおいを嗅ぐ。猫のにおいはしない。

 ノゾミは自室へ行き、ベッドに横たわった。枕を抱きしめてダンゴ虫のように蹲る。

 リビングにはいたくなかった。リビングからバルコニーに出ると、マンションのゴミ置き場が見えてしまう。

 眠って何もかも忘れたかった。目を瞑っても仔猫とお母さんの顔が脳裏に浮かんできて、ノゾミは枕に顔を強く押し沈めた。



 ノゾミは今でも考える事がある。あの時の猫はどうなったのだろうか。



 バチン、と音が出そうなくらい勢いよくノゾミの瞼が開いた。目が潤み、涙が溢れ、あうあー、と呻き声を上げながら、涙が目尻からこめかみへ流れる。

 ミツオが涙をぬぐうと、ノゾミの手がミツオに伸びてきた。手を握ると弱々しく握り返してくる。手がカイロのように熱い。ノゾミの眉間にシワが寄り、荒い呼吸の合間から呻き声が漏れる。おでこを触ると、貼っていた冷えピタが熱くなっていた。

 小旅行二日目の昼、ミツオはノゾミの冷えピタを貼り替えながら窓の外を眺めた。大きな湖にボートが浮かんでいる。遠くて何をしているのか分からないが、恐らく釣りをしているのだろう。

 嫌な夢でも見たのだろうか、ノゾミは呻き声を上げながら涙を流し続けている。ミツオの手を握ったまま離さない。ミツオはノゾミの手を両手で握った。

 ミツオは自分の小さかった頃を思い出した。体が弱っている時は嫌な夢を見る。高熱でうなされていた時に手を握ってくれた母さん。あの時に感じた安心感を、自分はノゾミに与えられているだろうか。

 作業着を着た牧場の人が、ノゾミにミルク粥を作ってきてくれた。濃厚な牛乳の甘い匂いが漂うが、ノゾミは食べられそうにない。

「今晩のステーキだけど、女の子ちゃん食べられそうにないよね?」

「ですね。あの、ノゾミすごくステーキを楽しみにしてて、元気になってから食べさせてあげたいんで、冷凍してもらっていいですか?」

「え? うーん、冷凍かー……俺が手塩にかけて育てた牛の、今日この日のために二十八日間熟成させてきた最高の状態のフィレ肉を、プロのシェフ、あ、俺の事ね、が炭火で完璧な焼きにしたものを食べてもらうんだよね。高いユニ払って来てくれてるんだから、最高のものを食べて欲しいんだけど……まあ、しょうがないね。上手い解凍方法と焼き方教えてあげるよ。ただ、それがウチの牛の味だと思わないでね。冷凍するとどうしても風味が落ちるし、言っちゃあ悪いけど素人の五十嵐君の焼き方じゃあ本物の味は出ないから。まあ、元気になったらまた来てよ。あ、女の子ちゃんは仕方ないとして、五十嵐君はどうする? 食べてく?」

「ノゾミと同じで、冷凍にしてください」

 自分だけ美味しいステーキを食べるのは気が引けた。あれほどステーキを楽しみにしていたノゾミに、最高のステーキを食べさせてあげられないのが悔しかった。

「いや、まてよ……」

 ふと、ミツオの脳裏にある考えが閃く。

「あれ、やってみるか」

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