冨田リサ
閑静な住宅街。その中でも一際大きな家のインターホンを鳴らす。現在時刻は午前十二時五十分。十分前にメールを送ったが、返信は無かった。まだ寝ているのかもしれない。
玄関のドアが開いて、タンクトップにデニムのショートパンツ姿のリサがゆっくりと顔を出した。
「……よっす」
眠いのか、太陽の光が眩しいのか、目を細めてはにかむリサが口を開いた。いつも通りのリサの姿を見て、ミツオはほっとした。パニックにはなっていないようだ。
「……とりあえず上がる?」
「うん、おじゃまします」
玄関を上がり、スリッパに履き替えてリサの後ろをついて歩く。リサはミツオより少しだけ背が高い。リサは薄茶色に染めた髪を左後頭部でくくり、パイナップルヘアにしていた。通されたリビングの大型テレビには、カラーバーの静止画が映っている。
「ミツオー! コーラ、アクエリ、麦茶、どれがいい?」
キッチンからリサの声が響く。大きな家だからリビングとキッチンとの距離が遠い。
「コーラ!」
リサが氷入りのコーラとアクエリアスを、曇りガラスのコップに入れて持ってきてくれた。ミツオはコーラを受け取り、話を切り出した。
「今、おかしな事になってるの知ってる?」
「まあ、大体は」
「どのくらい?」
「ネットにのってるのは一通り」
ミツオと並んでソファに腰掛けながら、リサはリモコンでテレビのチャンネルを変えた。どのチャンネルも映し出されるのはカラーバーか真っ黒な画面だった。
「超ウケる」
ふふ、と冷笑を漏らしながらリサはテレビを消した。笑ってはいるが、その笑顔の裏には戸惑いや不安が隠れているように見えた。
「リサ、バイク運転してくれない?」
「なんで?」
ミツオは筈久地区のマンションや団地を回って、子供を救出しなければならない旨をリサに伝えた。
「ん~、わかったけど、できるかなー今」
着替えるから待っとって、と言い、リサはドタドタと階段を上がっていった。コーラを飲みながら待っていると、ちょっと来てー、とリサの呼び声が聞こえた。
二階に上がってリサに通された部屋には、ツインベッドの上に横たわる二つの塩の塊があった。片方には青色、もう片方にはオレンジ色のパジャマが混入されている。
「これ、おじさんとおばさん?」
「らしいよ。超ウケるよね」
「うん……超ウケる」
佐藤さんが、マザコンは家に閉じこもって泣いている、と言っていたが、多分その人は感受性とか想像力が豊かなんだろう。心臓発作とかで死んでいる、とかなら泣いたりパニックになったりするかもしれないが、いきなり塩になられてもどう反応すればいいのか分からない。
ミツオはリサと共にコンビニへ行き、停まっていた紫色のバイクに目をつけた。リサはTシャツとハーフパンツ姿に着替えている。
「マジェスティじゃん! イイね!」
リサはニヤニヤしながらバイクに跨り、エンジンを噴かせた。二十メートルくらいの距離を行ったり来たりして運転感覚を確かめた後、リサはミツオに向かって後ろの座席をポンポンと叩いた。
「よっしゃ、行くよ!」
「安全運転で頼むよ。バイク乗るの初めてなんだ」
「ボクも二人乗り初めてだったりして~」
デヘ、とおどけた顔で舌を出すリサを見て、ミツオは能面のような表情になった。
ミツオは後ろの座席に跨り、リサの腰に手を添えた。
「手はボクのお腹にまわして組んでて。ヒザはボクの腰を挟んでて」
少し汗ばんだリサの背中。Tシャツにブラジャーのベルトが浮いている。
「そんじゃー行くよー!」
リサはブブン、とエンジンを鳴らし、猛スピードでバイクを発進させた。予想外の速度で体がふき飛ばされそうになり、ミツオは咄嗟にリサの体にしがみついた。
「リサ! 速い! 速い!」
リサが何か叫んでいるが、エンジンと風の音に紛れて何を言っているのか分からない。悪ノリしているようだ。今思えば、二人ともヘルメットを着けていない。恐くなったミツオは、ストーップ! と叫びながら無我夢中でリサの体にしがみついた。
突如、バイクの速度が緩んだ。
「リ、リサ?」
「ミ、ミツオ君……あのですね……お手々がですね……」
恐怖で頭が真っ白になっていたミツオは、自分の両手に意識をまわした。右手はリサの左脇腹を掴み、左手はリサの右胸を掴んでいた。
「ごっ! ごめんっ!」
「どっ! どういたしましてっ!」
微妙に噛み合わない会話を交わし、なんとなく気まずい空気が流れる。速度を安定させたバイクは住宅街を抜け、田園の中の農道に入って行った。
右を見ても左を見ても視界の下半分には青々とした田園が広がり、上半分は真っ青な空で埋め尽くされている。実をつけ始めた稲の田に風が吹き、クレーターのように田園の表面がへこむ。風とエンジンの音に混じってリサの鼻歌が聴こえてくる。雲ひとつ無い、抜けるような青空を見上げ、もしも地球の重力が反転して空へ落ちていく事になったら、という空想が頭に浮かんだ。
農道を走り抜けて山道に入ると、暑さが和らぎ山林から大音量のセミの合唱が聞こえてきた。セミの鳴き声にエンジンの音をかき消されながら、バイクは山の坂道を登っていく。自転車で来ていたら、滝のような汗を流してヒーヒー言いながら登っていただろう。二人の人間を乗せてスイスイ坂道を登っていくバイクの力強さに、ミツオは感動した。山を登っていると、気圧の変化で耳がキーンとしてきた。
山を登りきると、足元に筈久地区の全景が見えた。乃良霧地区と比べ、映画館やショッピングモール等があって繁華街として充実しているが治安は悪い、というのがミツオの持つ筈久地区のイメージだ。
「ヘイヘイ、ミッちゃんミッちゃん、ヘイ!」
お腹が減ったミツオとリサは、筈久地区内の国道沿いにある牛丼屋に来ていた。店内のカウンター席に二つ、厨房内に一つ、元人間だった塩の塊が鎮座している。カウンター席に座っているリサが、厨房内にいるミツオにうっとうしい口調で話しかけてくる。
「もうすぐ温まるよ」
ミツオはリサの呼びかけを無視し、火にかけて温めているカレーの寸胴鍋を巨大なシャモジでかき混ぜた。鍋からは少しずつ湯気が出始めている。
「ねえねえミッちゃん、デート? これデート?」
テーブルに頬杖をついたリサがニヤニヤしながら、からかうようにミツオへ声をかけてくる。
「うるさいなあ、もお」
「デートで牛丼屋って、どぉ~かと思うよぉ~」
おどけるように話しかけてくるリサを無視して、ミツオは二枚のカレー皿にご飯をよそった。グツグツと煮立ってきたカレーをおたまで掬い、ご飯にかける。
「はい、どうぞ」
「いただきまっす~」
リサは大量の福神漬けを自分のカレー皿に投入し、ミツオのカレー皿にも福神漬けを少量入れてくれた。ミツオはカウンターを挟んで従業員側からリサと向き合い、立ちながらカレーを食べ始めた。本当は牛丼を食べたかったがリサがカレーを食べたがったので、二つの鍋を温めなおすのが面倒だったミツオは自分もカレーにした。
リサは食べ始める前に、大量の福神漬け入りカレーをスプーンでグチャグチャにかき混ぜた。そうやって食べるのが一番美味しいらしい。
ビビンバのようにカレーをかき混ぜるリサの姿を見て、ミツオは三年前のあの日を思い出した。