運動会
宝緋中学校に着き、警察署へ向かうライトバンを見送ってから、ミツオは校門をくぐった。中学校の敷地に入ると、グラウンドから子供達の喚声が聞こえてきた。
自治体の司令部となっている宝緋中学校には、常温保存できる食料やトイレットペーパー等の物資が集まるようになっている。不審者の監視役として小学校高学年の子供達を校門やグラウンドに配置しているが、遊びたい盛りの小学生がじっとしていられるわけがなく、中庭やグラウンドは鬼ごっこやドッジボールや携帯ゲームをして遊ぶ子供達で賑わっていた。
ミツオは下駄箱で靴を履き替え、パソコン室へ向かった。
ミツオは久しぶりに履く上靴の感触を懐かしみながら、一年生の教室前廊下を歩いた。西館の教室は全て倉庫になっているらしい。日光を遮断するために厚いカーテンで窓が覆われているので、中を窺うことはできない。試しにドアを開けようとしたら鍵がかかっていた。
自治体の職員はパソコン室や視聴覚室で仕事をしているようで、西館一階の廊下に人の姿は見当たらなかった。電気がついていない廊下。ミツオの足音と、遠くから微かに届く子供達の声だけが響いている。灰色の壁や柱が無機質なものに感じる。
外界と遮断されているような気がしてきたミツオは、アレが始まりそうな気がして、額に脂汗を滲ませつつ早足で廊下を駆けた。
階段に差しかかった時、雷が落ちた時のような破裂音と共に、地響きが上の階から伝わってきた。
ミツオは反射的にコトワリ塩を飲み、階段を駆け上がった。音の出所を推測し、発生源であろう生徒会室へと走り、ドアを開けて中に飛び込んだ。
室内では、大机の席に佐藤さんが座っていて、その右隣に黒服を着た二人の男、左隣に治安維持部隊員の少年が立っていた。
黒服の一人はコトワリ能力を発現させていて、髪が青くたなびいている。粘土細工のようにへしゃげた机に、青髪の腕がめり込んでいる。
佐藤さんは冷たい視線を黒服の男に向け、部隊員の少年はコトワリ能力を発現させているが、怯えた様子で立ちすくんでいる。
「やめろ、五十嵐ミツオだ」
黒髪の黒服がミツオを見ながら青髪黒服の肩に手を置き、部屋を出るよう出入口に向かって肩を押した。
「机の弁償代です」
黒髪がスーツの内ポケットから輪ゴムでくくられた札束を取り出し、佐藤さんを見下ろしながら机の上に放り投げた。
緊迫した空気の中、青髪はミツオを威嚇しながら、黒髪は何事も無かったかのように部屋を出て行った。
「佐藤さん大丈夫?」
黒服達が部屋から出て行くのを確認し、ミツオはドアを閉めた。
「ああ、大丈夫だ」
佐藤さんが部隊員の少年に目を向けた。少年は肩を震わせ、犬のように短い呼吸を繰り返している。
「もう大丈夫、大丈夫だよ」
ミツオは少年にかけより、背中をさすりながら声をかけた。
「五十嵐君……ごめん、僕……佐藤さん守らなきゃって思ったのに…………体が動かなくて……」
ミツオは、目に涙を浮かべる少年の肩を抱いて部屋を出た。
少年を保健室へ連れて行き、ベッドに寝かせてから生徒会室に戻った。生徒会室では、佐藤さんが汚れた札束をパラパラとめくっていた。
「百万くらいあるな。初めて見た、百万の札束」
佐藤さんの顔つきは三ヶ月前と違っている。疲労と寝不足のせいか、薄っすらと頬がこけ、目の下に少しクマができているように見える。自治体の上層部で働きながら身についたのであろう自信と責任が眼光に宿っていて、オーラを放つ佐藤さんの姿にミツオは頼もしさを感じた。
「佐藤さん、さっきの何?」
「これから流通する予定の新通貨、知ってるか?」
「知らない」
「英語で『団結』って意味のユニオンから取った、ユニって通貨。造幣はできないから電子マネーって形になるけど、それが流通しだしたら暫定的に今までの紙幣は無価値になるんだよ。ショウタロウ・ファミリーの奴等、銀行やATMとかから金を集めまくってたから、それが無駄になるって怒って来たんだ」
「無駄になるの? うちにもお金あるんだけど」
「ちゃんとそいつの親族の金だと確認できれば無駄にならない、と思う。そういうのは世の中が安定して、調査確認する余裕ができてからの話だろうから数年、数十年先の話になるだろうな。ムカつくだろ? アタシ達が色々やってた間、金集めまくってた奴等が得する世界なんて」
佐藤さんが札束を机に放り投げた。
「で、壊した机の弁償代って言って置いてった百万。これ、ショウ・ファミからの宣戦布告だと思うんだけど、どう思う?」
「そう思うよ」
「だよな。そのうち戦争になるかもしれないけど、その時は頼むよ。自治体に取り込めたらいいんだが、無理なら潰すっきゃないよな」
ミツオの核で燻る炎が、戦争、という単語に反応した。無慈悲な暴力に蹂躙される恐怖と、怒りのままに暴力を行使できる期待で炎が震える。
「お前とか冨田とか、今頑張ってる奴等にはそれなりのユニと地位を用意する。今遊びまくったりバカやってる奴等には金も地位も何一つ与えない。見てろよ。正当に差別し、区別してやる」
虎のような目つきで札束を睨む佐藤さんから、残酷な雰囲気が伝わってきた。
「ところで、渡したい物があるってメールくれたよね?」
「ああ、そうだった」
佐藤さんが席を離れ、ロッカーの中から煤で汚れた紙袋を取り出した。
「これ、マンションに焼け残ってた青山ノゾミの遺留品。焦げてるけど、保険証やアルバムの一部が燃えずに残っていたそうだ」
ミツオは礼を言って紙袋を受け取った。
マンションに住んでいた人が、自分の家の遺留品を探すついでにノゾミの家のも探してくれたらしい。火事の時、ミツオに助けられたお礼だそうだ。ミツオは火事の時に助けた何人かの中学生の顔を思い出そうとしたが、誰一人思い出す事ができなかった。
ミツオは煤で汚れたオレンジ色のアルバムを紙袋から取り出し、ページをめくった。
「お姉ちゃんがいたのか」
一ページ目に『マキ七歳の思い出』と書かれたアルバムには、ノゾミのお姉ちゃんであろう女の子の写真がたくさん入っていた。七五三の着物を着て千歳飴を持っている写真、バレエの黒いレオタードを着て友達とポーズをとっている写真、水着を着て海辺で海草を掲げている写真。
両親と一緒に写っている写真もある。母親が抱いている赤ちゃんがノゾミだろう。お姉ちゃんとノゾミはあまり似ていない。両親の顔と見比べると、お姉ちゃんは母親似でノゾミは父親似だ。
運動会の昼食時だろう。体操服を着て赤白帽を被り、シートの上でフライドチキンを持ってピースサインをしているお姉ちゃんの写真がある。それを見た時、ミツオの脳裏に自分の運動会の記憶が甦った。
小学六年生の時の運動会。父さんは仕事で来られなかったので、お手伝いの洋子さんが代わりに来てくれた。お弁当は、前日の夜に洋子さんと父さんが作ってくれていた。ほとんど洋子さんが作ってくれていたが、だし巻き卵とから揚げは父さんが作っていた。だし巻き卵は少し焦げていて、から揚げは醤油が利きすぎていて少し辛かった。
ミツオの目から涙が溢れて頬を伝い、顎から垂れ落ちた。
手足の先が痺れだし、全身の力が抜けていったミツオは、倒れるように机に寄りかかった。
嗚咽が漏れ、脂汗が噴き出る。
もう二度と父さんに会えない、という概念が、グチャグチャになった頭の中を駆けまわり、凍えるような孤独感がミツオに覆い被さってきた。
「五十嵐?」
佐藤さんの戸惑うような声がミツオのくぐもった耳に届き、ミツオは気を紛らわせるために胸を強く叩いた。コトワリ能力が発現しているので、ドンドンと太鼓を叩くような音が室内に響く。
『なってしまった』と誰かに思われたくなかった。
思われた時、その人の中に生まれる『なってしまった自分』と『自分』が一体化して、戻れなくなるような気がした。
「いがら」
「佐藤さん! お願いがあるんだけど」
ミツオは佐藤さんの言葉を遮るように声をあげた。
「今、週に一日休みを貰ってるけど、そんなのいらないから、もっと仕事させて欲しい。お金も地位もいらないし、キツい仕事でも汚い仕事でも何でもやるから」
涙で潤む瞳を見られたくないから、ミツオは机に顔を伏せたまま喋った。佐藤さんが何か言おうとしたが、ミツオはそれを遮って話を続けた。
「たまに、発作的にこうなっちゃうけど、何かに集中したり体を動かしたりしてる時はこうならないんだ。どんなところでも行くし、どんな危ない事でもするから、とにかく何か」
「駄目だ」
佐藤さんの突き放すような重い声がミツオを貫いた。
「既に休日も働いてるんだろ? 先週の休みの日は老朽化した橋の修復作業を手伝ったって聞いてるし、昨日は夕方に訓練が終わってから障害者施設で介護の手伝いをしてたらしいな」
「もっと大変な、忙しすぎて何もかも忘れられるような仕事が欲しいんだ」
「ちょっと休め」
ミツオの左隣に来た佐藤さんが、ミツオの右肩に腕を回してきた。ミツオの左肩に胸が当たり、頬に吐息がかかりそうなところまで佐藤さんの顔が迫る。
「五十嵐、お前のためであり、アタシ達のためでもあるんだ。ただでさえコトワリ能力は体に負担をかけるのに、毎日体を酷使させてたら、いずれガタが来て倒れてしまうだろう。自覚してないと思うが、ウチの自治体で一番替えの利かないのは青山ノゾミで、次に替えの利かないのがお前なんだぞ。実用的なチャンネル能力持ちの屋上能力者であるお前は、五條共同体やショウタロウ・ファミリーの武力に対する抑止力になってるんだ。お前が動けないと分かれば、敵対勢力が攻撃を仕掛けてくるかもしれない」
佐藤さんは腕に力を入れてミツオを引き寄せた。
「体を動かして誤魔化しても問題の解決にはならないんじゃないか? もうすぐ免許も取れるんだろ? 何日か休み取って、冨田や青山ノゾミと一緒にドライブとか旅行でもして気分転換したらどうだ?」
佐藤さんの話を聞き流すミツオの頭の中では、運動会の日の夜に父さん、洋子さんと一緒にファミレスへ行った時の情景が広がっていた。
自宅に戻ったミツオは、ノゾミのアルバム等が入った紙袋を玄関の脇に置いて台所へ向かった。時刻は午後六時を少し回ったところ。居間ではノゾミがテーブルに向かって本を読んでいる。ノゾミはミツオの帰宅に気づいていない。ミツオは、ゼリー飲料とチョコバーとポテトチップスと柿の種と紙パックに入ったジュース二本を持って音楽部屋へ向かった。
音楽部屋でミツオはチョコバーとゼリー飲料を胃に流し込み、椅子に座った。
無心でチェロを弾く。金属の脳に鋼の骨、水銀の血液に樹脂の臓器。サイボーグになったつもりで機械的にチェロを弾く。
不意に涙が溢れる。嗚咽を噛み潰し、鼻息が荒くなる。指先が痺れて音が滲む。
意思に反して次々と浮かびあがる両親の思い出を振り払いながら、ミツオはチェロを弾き続けた。