ナイトクラブ1960
午後六時。ミツオとノゾミは自転車の練習を切り上げて、家から歩いて五分のところにある牛丼屋へ向かった。ノゾミは今日も自転車に乗れるようにはならなかった。耳が聞こえないのに自転車に乗らせてもいいのか、という疑問は残ったが、本人はやる気があるようだし乗れるに越したことはないので続けて練習していこうと思う。
「親子丼の大盛りとミニください」
ミツオはノゾミと並んで牛丼屋のカウンター席に座り、頭巾とエプロンをつけた小学生の女の子に食券を渡した。昨日はカレーだったので今日は親子丼にした。ノゾミに何が食べたいか尋ねても無表情で見つめてくるだけなので、いつも注文はミツオが勝手にしている。ノゾミは小食で、並盛でも食べきれないので注文はいつもミニ盛りだ。女の子は満面の笑みで食券を受け取り、厨房にオーダーを伝えた。
店は繁盛していて、全席の三分の二が埋まっている。繁盛といっても、現在、日本銀行券は失効状態なので商売にはならない。自治体から支給される食券で、朝八時から夜八時まで食事を摂る事ができる。自炊しないせいだろう、客層は男が多く、ミツオと同じように子連れの客も多い。
さっきの女の子がお冷やを持ってきた。女の子は笑顔を崩さぬまま、他の客にお冷やのおかわりはどうかと尋ねて回っていった。
女の子を見ていると、微笑ましくもどこか滑稽に見える。ままごとのようだ。自分のやっている事も警察官ごっこだとミツオは思っている。デイ・オブ・ザ・ソルト当日に、佐藤さんから大人が塩になったと聞いた時から始まった『世界中をぼんやりとした空気が覆っているような感覚』は今も続いている。
「へいお待ち!」
去年同じクラスだった飯塚君が、厨房から親子丼を持ってきてくれた。飯塚君はタオルを頭に巻き、ラーメン屋のような前掛けをかけている。お礼を言うと飯塚君はニンマリと笑い、Vサインをして厨房に戻っていった。現在、宝緋市には牛肉がなかなか入荷してこない状態なので、この食堂は親子丼と豚肉カレーをメインにやっている。
ミツオは箸箱から取った箸をノゾミに渡した。ミツオも箸を取り、親子丼を食べ始める。ミツオとノゾミは各々の親子丼に向き合い、黙々と箸を進めた。
ミツオが親子丼を食べ終わった時点で、ノゾミの親子丼はまだ半分くらい残っていた。食べる速度は遅いが、ノゾミはミニなら完食できる。
ノゾミがミニ親子丼を食べ終えると、ミツオはご馳走様と言って席を立ち、ノゾミと共に店を出た。ミツオは腹七分目で食べ足りなかったが、おかわりは止めておいた。
現在の日本は、当たり前だが輸出入が完全に停止している。将来的に物不足になるのではないか、という不安から、食料や物資を大切にしよう、という風潮が全国的に広まっている。今の日本の人口は約千五百万人らしい。佐藤さん曰く、余裕で自給自足できるレベル、との事だが、ミツオも日本の食糧は国外からの輸入に頼っているイメージがあるので、できるだけ食料や物を大切にしようと思う。
牛丼屋の外に出ると、日の暮れた空が紫色に染まっていた。ミツオは左右に田んぼが広がる農道を自宅へ向かって歩きだした。ミツオの半歩後ろ右側をノゾミがついて歩いてくる。八月と比べて小さくなっている虫の鳴き声が、夏の終わりを感じさせる。
家に着くと、ノゾミはランドセルから取り出した計算ドリルを居間のテーブルに広げた。ミツオの部屋をノゾミにあてがったので、そこに勉強机はあるのに、ノゾミは部屋で勉強しなかった。ノゾミは座布団に正座をしてドリルを解き始めた。ミツオは居間のソファに腰をかけてテレビを点けた。画面にスーツを着た綺麗な女子が映る。
『次は、北海道の函館自治体の様子です』
緊張した面持ちで女子が言うと、画面が切り替わって広大な畑の映像が映し出された。地平線まで続く畑の上を、トラクターのような機械がゆっくりと移動している。
なんのキャプションも付いていない映像に乗って、女子のナレーションが聞こえてきた。
『現在、函館市元町では、ポテトハーベスタという機械を使って、じゃがいもの収穫が行われています。土ごと畑を掘り起こし、そこからじゃがいもだけを選別する、ポテトハーベスタを使う事によって、効率良く収穫を行う事ができます。収穫されたじゃがいもは、トラックで、全国の自治体へと運ばれます』
女子の声は緊張のせいか所々震え、授業中に教科書を朗読させられているような読み方だった。
六日前から、毎晩午後七時にNHKでニュース番組が放送されるようになった。内容は、全国の都道府県代表が集まって結成された四十七人委員会による決定事項の発表や、全国各地の自治体の様子紹介等だ。番組は翌朝八時と昼十二時に再放送されている。
七時十五分になりニュースが終わると、ミツオはテーブルの端に置いていた手話の本を手に取った。しおりを挟んでいたページを開き、続きを読む。イラストで描かれた、大きい、小さい、太い、短い、等の意味する手話を、ミツオは声に出しながら実際にやっていった。
居間に、ミツオの声と、ノゾミがシャーペンでドリルに書き込む音が響く。遠くからは虫の鳴き声が聞こえてくる。
しばらくすると、ノゾミはシャーペンを筆箱に入れてドリルをランドセルにしまい、居間から出て行った。シャワーを浴びるのだろう。ノゾミは宿題やシャワーや歯磨き等、普通の子供なら嫌がったり面倒くさがるような事も自発的にやる、手間のかからない子供だった。
ミツオはボソボソと呟きながら、上に向けた両手の平を胸の前で前後に動かし、右拳で左肩をこするような動作をして、口の横にもっていった右拳を左右に動かした。
「勉強、風呂、歯磨き」
ノゾミが風呂場から出た後に、ミツオもシャワーを浴びた。水の節約のため、デイ・オブ・ザ・ソルト以降ミツオとノゾミは風呂に浸かっていない。
シャワーを浴び終えたミツオは作り置きしていた麦茶を冷蔵庫から取り出し、コップに入れて飲んだ。ノゾミは居間で小説を読んでいる。ミツオは歯を磨いてから、手話の本を持って音楽部屋へ向かった。
自室をノゾミに明け渡したので、ミツオは音楽部屋で寝起きしている。部屋の隅には自室から移した教科書やノート等が積まれている。もう使うことは無いだろう。
ミツオは床に敷いていた布団に寝転がった。手話の本をパラパラとめくって読んだが、すぐに閉じた。現在の時刻は午後八時三十分。
治安維持部隊の仕事は、曜日時刻に関わらず緊急の呼び出しがかかる代わりに、普段の仕事は雑用と戦闘訓練くらいしかない。
加えてミツオには、時間跳躍を理解して会得するための時間も設けられている。
ミツオのチャンネル能力である時間跳躍には、自分を中心とした半径二十メートル以内の物全てを時間跳躍させるやり方以外に、手で触れた物だけを時間跳躍させる方法や、自分自身のみを時間跳躍させる使い方がある。他にも色々と応用の利く余地がありそうなので熟知しなければならない。
自分の仕事は、寝る間も惜しんで働いているような人達と比べると、かなり楽な方だとミツオは思う。暴走車の取り締まりや愚連隊との戦闘に恐怖して除隊を申し出る人が何人かいたが、ミツオは恐怖を感じるような戦闘をまだした事が無い。
ミツオは弓ケースからチェロの弓を取り出し、弓毛に松脂を塗って椅子に座った。チェロを構えてアジャスターに余裕がある事を確認し、調弦を行う。
ミツオは、物心つく頃には既にチェロを弾いていた。デイ・オブ・ザ・ソルトが起きるまでは、母さんの友達がチェロの先生をしてくれていた。小学四年生の時、日曜朝にやっていた音楽番組の子供音楽家特集に出た事もある。
ミツオがチェロを弾くように決めたのは母さんらしい。何故チェロだったのかは聞かなかった。家族間で音楽に関する話をする事はほとんど無かったし、母さんはピアノを教えてくれなかった。
テレビに出た二ヶ月後の夜、ミツオはこの音楽部屋でチェロを弾いていた。曲は、当時ハマっていたアストル・ピアソラのナイトクラブ1960。練習を続け、なんとか形になる程度には弾けるようになっていた。一度通しで弾き終え、目を閉じて深呼吸をしてから、もう一度ナイトクラブ1960を弾き始める。
曲が始まってしばらくすると、ピアノの伴奏が聴こえてきた。顔を上げると、ピアノを弾いている母さんの姿が目に入った。お酒を飲んでいたようで、頬がピンク色に染まっている。
一瞬、ミツオの上半身が震えて音が乱れた。思考がふき飛び、何も考えられなくなる。体が勝手に動いて演奏を続けてくれている。発表会やテレビに出た時よりも緊張する。
曲が緩やかなパートに入り、ピアノの旋律が少しだけ前に出てきた。熟れきった果実のように柔らかで重いピアノの音が室内に溢れ、少しずつ緊張がほぐれてくる。全身が熱を帯びだす。ミツオのがむしゃらな演奏を見守るように、母さんの豊かなピアノが響く。いつの間にか緊張が消え去り、強烈な安心感に包まれていた。
曲が激しいパートに入り、アドレナリンが血中を駆け巡った。弾き飛ばされないように、しがみつくように弓を走らせる。
再度緩やかなパートを経て、ラストの激しい連符を母さんと競い合うように弾き鳴らした。
曲が終わり、弦から弓を離す。全身が火照り、マラソンを完走した後のような解放感でいっぱいになる。顔を上げると、頬を桜色に染めて微笑む母さんと目が合った。
母さんと一緒に演奏したのは、それが最初で最後だった。グランドピアノの屋根と鍵盤蓋が最後に開いたのはいつだったろう。もう二度と開く事は無いかもしれない。
ミツオはピアノから視線を外し、深呼吸をしてからナイトクラブ1960を弾き始めた。