自転車の練習
ノゾミが残りの二人にインプリンティングをかけるのを見届け、ミツオはノゾミと共に体育館を後にした。今日の患者には、ノゾミの噂を聞きつけた市外からの患者が二人いた。一週間前は一日五人くらいだった患者数が増えてきている。高橋さん曰く、これから更に患者数は増えるだろう、との事だ。
ミツオはノゾミと共に自宅へ向かって歩きだした。最初は、オレンジ色のマンションにいた男の子、マサルも一緒に住んでいたが、一緒に暮らし始めて五日目に里親となる女子中学生に引き取られていった。ノゾミも一時預かりという形なので、いずれは里親に引き取られる予定だ。
ランドセルを背負ったノゾミは、黒地にピンクの水玉模様が入ったワンピースを着ている。一緒に住む事になった時、火災で着る服が無くなったノゾミの服を補充するためにショッピングモールへ行った。何でも好きなのを選んでいい、と服屋でノゾミに伝えたが、ノゾミは無表情で佇むだけで服に手を伸ばそうとしなかった。
仕方ないのでミツオが選ぼうと思ったがどういう服がいいのか分からなかったので、マチコちゃんと一緒に来ていたリサにノゾミの服と下着を見繕ってもらった。リサが選んだ服はどれもギャルっぽかった。リサは今、マチコちゃんの里親となり一緒に暮らしている。
インプリンティングをして疲れていないだろうか、とノゾミの顔を覗いたが、ノゾミの表情からは何の感情も窺えなかった。二ヶ月間一緒に暮らしてきたが、ミツオはノゾミの表情の変化を見た事が無かった。デイ・オブ・ザ・ソルトで心を閉ざしてしまったのかもしれない、とも思ったが、この子は元々こういう子な気がする。
携帯電話を取り出して時刻を確認すると、午後四時半を少し回ったところだった。
『晩御飯まで自転車の練習しようか?』
ミツオは携帯電話のメモ機能を使って文字を打ち込み、ノゾミに見せた。ノゾミは無表情で携帯電話の液晶画面を見て、コクリと首を縦に振った。
ミツオは自宅の駐車場に停めていた子供用の自転車を家の前に運び出した。一週間前に自治体の許可を得て自転車屋から頂戴した新品の自転車は、今も光沢を放っている。ミツオはノゾミの肘と膝にプロテクターをつけた。小枝のように華奢なノゾミの手足を見ていると、転んだら折れてしまうのではないか、と心配になる。
ノゾミはヘルメットを被って自転車に跨り、ミツオは自転車の後部座席を後ろから持った。自宅から歩いて数分のところにあるお寺まで、自転車を支えながら小走りで走る。
お寺の石段前に来たところで、ミツオはノゾミの背中をポンポンと叩いた。手を離すぞ、という合図だ。手を離した瞬間、自転車の前輪がグラグラと左右に揺れた。ノゾミの自転車はバランスを失い、蛇行しながら危なっかしく進んだ。三メートルほど進んだところで、ミツオは倒れそうになった自転車の後部座席を掴んだ。転びそうになったノゾミは、何事も無かったかのように再度ペダルをこぎだした。三日前に補助輪を外してからも、ミツオのサポートによりノゾミは一度も転んでいないが、転んで怪我をしてもノゾミはきっと表情を変えないだろう。
サポートしながら石段前の道を往復していると紫色のバイクが近づいてきたので、ミツオはノゾミの肩に手を置いて停止の合図を出した。バイクは石段の前で停まり、乗っていた女子がヘルメットを外した。
「よっす」
リサの顔がヘルメットの下から現れた。背負ったリュックからネギが飛び出ている。リサと会うのは一週間ぶりだった。久々に会うリサの姿にミツオは照れくささを感じ、リサも少し照れくさそうだった。ミツオはリサに手を振り、自転車を押して練習を再開させた。
リサの薄茶色の髪は一週間前より色が抑えられていて、ミツオは落ち着いた印象を受けた。リサは石段に腰を下ろしてノゾミの運転練習を眺めている。
「その子って何年生だっけ?」
「五年生」
「自転車って一年の時、乗れるようにならない?」
ミツオも小学五年生で自転車に乗れないノゾミに違和感を持っていたが、そういう人間もいるだろう、と深く考えなかった。だが改めてリサに言われると、耳が聞こえなくて危ないから親が乗せなかったのかもしれない、という考えが頭をよぎった。ノゾミを自転車に乗れるようにしてもいいのだろうか、と少し不安になる。
リサと他愛の無い会話をしながら運転サポートをしていると別の自転車が近づいてきたので、ミツオはノゾミに停止の合図を出した。リサは近づいてくる自転車に気づいた瞬間、開いていた足を閉じて姿勢を正した。
「あ、教官。明日、教習所行くからよろしく~」
自転車に乗った女子が通り過ぎて行く時、リサに声をかけた。リサは照れと緊張が入り混じった表情で背筋をピンと伸ばし、小動物のように胸前で手を振った。
リサは今、バイクの運転を教える仕事をしている。雑に教えるヤンキーっぽい教官が多い中、物静かで丁寧に教えるリサは人気があるらしい。
「きょうか~ん」
自転車が見えなくなってから、ミツオはおどけた口調でリサに声をかけた。リサは耳を赤くして立ち上がり、ミツオの頭をはたいてからバイクに跨った。
「アホタレー!」
リサは捨て台詞を残し、エンジンを噴かせて走り去っていった。
デイ・オブ・ザ・ソルトがきっかけでリサの引きこもりが治ったのは良かったと思う。もともと対人恐怖症とかでは無く、学校やクラスメイトといった社会的な関係性に恐怖していただけのリサは、佐藤さんの手助けもあってすんなり自治体に溶け込む事ができた。
デイ・オブ・ザ・ソルトを境に、今まで元気だった人が精神衰弱者になるのとは逆で、引きこもりだった人が自治体の仕事に励むようになる例が日本各地で確認されているらしい。以前観た映画に、戦争が起こると悩む暇が無くなって精神病の患者が減る、といった台詞があったが同じような事だろう。リサの引きこもり脱却は良い事だと思うが、ミツオは自分の手からリサが離れて行ってしまったような気がした。