ミツオのチャンネル能力
「うわっ!」
頭の中が真っ白になった瞬間、激烈な金属音に包まれた。足元が小刻みに揺れ、ミツオは目を開いた。
「佐藤さん! それからどうすればいい?」
「五十嵐!」
顔を上げて声がする方を向くと、電話で話していたはずの佐藤さんが屋上の入り口前に立っていた。佐藤さんの髪はオレンジ色に逆立っている。
「わっ!」
リサの小さな悲鳴が聞こえると同時に、ミツオはエレベーターで下の階に降りていく時のような落下感に襲われた。巨大なやすりを擦り合わせるような不快な音が聞こえ、視界が下方にずれていく。マンションの部屋の断面が見えたところで、ミツオは状況を理解した。足場が崩れ、地滑りを起こしている。
「リサ! 跳ぶぞ!」
ミツオは携帯電話を放り投げ、耳が聞こえない女の子を強引に抱えて、二十階の部屋の断面へ跳び移った。リサが一呼吸遅れて二十階に跳び移るのを確認し、ミツオは両腕に抱いた子供を床に下ろして、地滑りを続ける足場へ跳び戻った。
「赤ちゃん落とさないで!」
足場は速度を上げながら滑り落ちていく。ミツオは十九階の断面を横目で見ながら、赤ちゃんを抱いた二人の中学生を両脇に抱えて、マンションに向かって跳んだ。十八階断面の部屋の縁ギリギリに着地できたミツオが二人の中学生を床に下ろした時、思わず体がビクつく程の轟音が鳴り響いて、マンションが揺れた。ミツオは十八階の縁から下界を見下ろしたが、地上に激突した足場の撒き散らす粉塵が霧のように広がり、何も見えなかった。落下地点には消火活動をしていた人達がいたはずだ。
「五十嵐!」
ミツオが地上へ下りるために階段へ向かおうとした時、屋上にいる佐藤さんから声がかかった。
「どこへ行く?」
「地上で消火活動してた人達に怪我人が、死人がでたかもしれない! 助けないと!」
「大丈夫だ! 下には誰もい……」
言いかけて佐藤さんは一瞬固まり、深刻そうな顔で背負ったバッグから素早くスマートフォンを取り出して電話をかけた。数秒後、電話が繋がったようで佐藤さんはホッとした顔になり、電話を切った。
「一人いたけど大丈夫! 怪我してないぞ!」
「一人じゃない! 十人はいたはず!」
「五十嵐! まずは何故、今マンションが燃えてないのか考えろ!」
「……あ!」
周囲を見まわすと、真っ黒に焼け焦げてはいるが、燃え盛っているはずの十八階に炎は見当たらず、熱さも感じなかった。無我夢中で足場の地滑り対応をしていて気づかなかったが、考えてみると佐藤さんが屋上にいるのもおかしい。
ミツオは佐藤さんの話を聞くため、子供達と、赤ちゃんを抱いた二人の中学生と共に屋上へ移動した。二人の中学生は憔悴しきっていて、罰を受ける囚人のようだった。
屋上には、二十階に着地していたリサと子供達も来ていた。
「さて問題。今日は何月何日でしょう?」
佐藤さんの質問に、ミツオは携帯電話を開いて日付を確認しようとしたが、さっき放り投げたのを思い出した。
「八月八日だっけ」
「ブー」
佐藤さんは自分のスマートフォンの画面をミツオに見せた。8月10日と表示されている。
「五十嵐達はこの二日間、消息不明だったんだ。恐らく五十嵐のチャンネル能力は時間跳躍だな。人類初の時間旅行かもよ、おめでとう」
自分は時間移動をしたらしい、とミツオは他人事のように思った。ぼんやりとした空気が世界中を覆っている感覚は今も続いていて、コトワリ能力発現中は特に強く感じる。
「佐藤さん、この二日間で何か変わった事はあった?」
ミツオは屋上から二十階へと続く階段を下りながら、佐藤さんに尋ねた。
「んー、宇宙人はまだ攻めてきてないな。世界中じゃ飛行機の墜落とか紛争とか、山ほど事件が起こってるみたいなんだが、情報が錯綜していて何が何だか……五十嵐?」
階段の途中で立ち止まっているミツオに、佐藤さんが訝しげな声をかけた。
ミツオは自分で発した、二日間、という単語に引っ掛かりを感じた。何か大切な事を忘れている気がする。体感的には今日、現実的には二日前の出来事をミツオは振り返った。
「……あ!」
「どうした?」
「佐藤さん! あのオレンジ色のマンションって全部調べ終わってる?」
「ああ、アタシが頼んだやつか? 五十嵐達でやってくれたんじゃないのか?」
「まずい」
ミツオは背中におぶっていた赤ちゃんを佐藤さんに預け、全速力で階段を駆け下りた。
「ちょっと行くところあるから後よろしく! リサも佐藤さんと一緒に行ってて。体育館で会おう!」
あたふたするリサを尻目に、ミツオは跳ねるように階段を下りていった。六階まで来て、地上へ飛び降りるためにフェンスを跳び越えようとした瞬間、ストン、と憑き物が落ちるようにコトワリ能力状態が解かれた。
コトワリ能力状態の時と比べ、通常状態の体は、細胞が鉛でできているかのように重く感じた。加えて、肉体変化の反動からか体の節々が痛んだ。筋肉痛というのを体験した事は無いが、これがそうなのかもしれない。
一階まで階段で下りてマンションから出る時、金髪の女子とすれ違った。表には赤いバイクが停まっている。
節々の痛みを我慢しながら走り続け、オレンジ色のマンションに着いた時には日が暮れていた。
ミツオは403号室のチャイムを鳴らし、膝に手をついて息を整えた。程なくしてドアが開き、男の子が顔を出した。さっき会った時より頬がこけ、衰弱しているように見える。今回はチェーンロックをつけていなかった。
「……でんわかけたけど、つながらなかった」
男の子の頬には涙の跡がビッシリ残り、瞳はゼリーの膜を張ったように潤んでいる。
「ごめん!」
ミツオは玄関に入り、男の子を抱きしめた。小さい頃、雷が鳴り響く夜や怖いテレビ番組を見て怯えていた時、母さんがミツオを抱きしめてくれた。抱きしめられて背中をさすられると大きなやすらぎを感じた事を思い出し、ミツオはぎこちない手つきで男の子の背中を撫でた。男の子は抵抗する事無く、ミツオの腕に抱かれていた。
「……おなかすいた」
そう呟き、男の子はミツオに体重を預けて寄りかかってきた。
男の子の体から乳臭さと汗臭さの混じった臭いがしたが、ミツオは嫌な臭いだと思わなかった。